花びらが風に舞っている。
 桜色の花びらがくるくると回りながら落ちてゆく。
 穏やかな日差し。
 緩やかな涼風。
 匂うような春の奔流。
 ひばり野に舞い、かたつむりは枝を這う。
 心地のよい日溜まりの中、ゆっくりと自分を失って、たゆたうような気持ちに蕩けてしまう。
 ああ。やっぱり春はいい。

「……いま、夏だよ」
 危なく精神が旅立ちそうになった頃、やっといとこが現れた。
 相変わらず、急いだ様子などかけらもない。
「暑い、遅い」
「これでも急いできたんだけど」
 悪びれたふうもなく言い、うんしょっと座る。
「これ、おみやげ」
 ぴと。
 夏の日差しが照りつける、日向のベンチである。
 苛烈な太陽が通りを炙る。
 しろいくらいのまぶしい光。
 いやになるほどいい天気だ。
 冷たい缶コーヒーが頬に気持ちいい。
 入院しているあゆを見舞うため、いとこと待ち合わせていた。
 子どもの頃に事故に遭い、何年も眠り続ける彼女を、日を決めて定期的に見舞うのが習慣となっている――らしい。
 気がついたとき、俺はこの世界にいた。
 完全な幸せを求めた俺は、結局、雪の世界には行けず、かといってもとの場所にも戻れず、どうにも中途半端なこの場所にいる。
 ここが確かな場所なのか、それとも、まだ妄想の中にいるのかも分からない。もう一度、何かのきっかけで別の世界に取って代わられるんじゃないかという疑いもぬぐえない。
「なあ、名雪」
「ん?」
 街並みの向こうにも世界は続いているんだろうか。見えない場所にもちゃんと人がいて日々を送っているだろうか。ふとそんな子どもっぽい思いにとらわれる。
「難しいこと考えるね」
「病的だよな」
 あるいは、これも誰かの箱庭で、俺の後ろにも俺がいて、気づかないうちに俺の行動を眺めているのかもしれない。どこかであいつを待ちながら、望ましい未来を求めて、繰り返し夢を見ているのかもしれない。
 だったら、と俺は思うのだ。
 諦めないでくれ。
 いつか巡ってくるだろう、幸いの日々を忘れないでくれ。
 その願いを捨てないでくれ。
 希望を失わないでくれ。
 俺の望みは行き詰まり、制御を失った化け物は人を踏み潰しながらどこかへ行ってしまった。残ったのは取りようもない責任と、よく知った見知らぬ人たち。そして、ベッドで眠る少女だけだ。
 それでも、祈りはなくならないのだ。
 彼女の眠りが覚めたとき、このあやふやな世界が確定するだろう。
 現れるのはどんなあゆだろうか。
 俺はどんな決断をするだろうか。
 いまはそれを楽しみにしている。
「あゆちゃん、目が覚めるかな」
「覚めるだろ」
 おまえじゃないんだから。
 わ、ひどいよ、祐一。
 もう行くか。
 うん。


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