いいことばかりがある訳じゃない、悲しい思い出がない訳じゃない、楽しい時間ばかりが続く訳じゃないし、大好きだった記憶も毎日の中に紛れて消える。いま確かだと思っているものも、たとえばみんな思いこみだったりもする。すべては薄れてゆく。人は変わってゆく。あれだけ大切だったものが遠くなってしまう。
だけど、様々な思いがあり、それは簡単に壊していいものじゃない。
そうやって、人はあきらめを知るのだろう。
「あれ、祐一君?」
今はもう懐かしい声が聞こえる。ずいぶん聞いていなかったような気もする。
あの雪の季節の少女ではない。
七年の眠りから覚め、同じ家に暮らし、そして、俺が置き去りにしてきた彼女だった。
サンダル履きの軽装で、近所にお使いにでもでたような恰好だ。
思いがけない出会いだったのか、きょとんという表情でこっちを見ている。
「こんなとこで何やってんだ?」
「祐一君こそどこいってたの?」
「どこって、まあ、いろいろだ」
我ながら要領を得ない答えに、もう、しかたないなあという顔をしたあゆが、何を思いついたのかころっと表情を変え、
「そうだ。祐一君、今日は帰ってくる? ご飯、何にしようか? 食べたいものある?」
「半チャーハン大盛り」
「うん、じゃ、そうするね」
でもそれじゃ足りなくないかなとか大盛りだからいいかとか、ぶつぶついいながら、あゆはくるっと背中を向けた。
「じゃ、行こ」
「ん?」
「買い物しなきゃね」
涼しげな木蔭。歩道のタイルに落ちる影。見上げれば、落ち込んでゆくような底なしの空。少し汗ばむ、まぶしい日差し。均質で透明な圧力をかけてくる。
ひと通りの買い物を終わり、並んでベンチに座る。
買い物袋を脇に置き、足をぶらぶらとさせて、あゆは空に視線をやっていた。その先には、まるで特撮映画のような光景が広がっている。
「うわー、すごいねあれ」
街並みの向こうに見える怪物を指していう。
気づいてないわけじゃなかったのか。
あんまり普通だったから、あゆには見えないんだと思っていた。
「ね、あれって祐一君がやってるの?」
確かめるようにあゆがいった。
人形は何のためらいもなく町を破壊していく。人々は潰されるまで逃げようとしないし、そもそも見えてもいないらしい。知らないまま、妄想の世界に取って代わられる。
そこで行われる人間の営みなど知らぬげに、怪物はたんたんと己が任務を果たしてゆく。背中からひもをぶらさげてるのが何だかおかしかった。
「あっちは雪なんだね」
「そうらしいな」
怪物の破壊した跡は、妄想の世界に侵されて白く覆われた雪の世界となっている。境い目のあたりに盛んにもやがでている。向こうとこっちでは空気の温度も違うんだろう。
「あの先が祐一君のいきたい場所なんだよね」
「たぶんな」
行き場を失った俺の願いが凝縮してあの化け物が生まれた。だから、あいつは俺のために暴れてるんだろう。
だけど、こうして他人の視線で自分の妄想を見せられると分かってしまうこともある。
本当の願いとは利己的で無秩序で自己愛的で、他人の存在を許すことを知らず、気に入らないものを手当たり次第に叩き壊し、当初の目的さえもはや半ば以上失って、だだっ子のように暴れ回る。ひょっとすると、もう誰かを踏み潰すことの方が楽しみになっているのかもしれない。
自分のほんとうの気持ちが街を破壊する。
理想を求めて。
心地よい夢を実体化させるため。
じゃまな他人を排除する。
行き着く先はそこらしい。
妥協することなく、完全な世界を求めていった、あれが俺のなれの果てだった。
「祐一君は向こうに行くのかな」
繰り広げられる破壊の風景を、どこかいとおしげにあゆは眺めている。
人形の目的が俺の妄想の具現化なら、いずれここにやってくるだろう。隣にいる少女を踏み潰し、あのあゆに置き換えようとして。行きたかったらここで待っていればいい。
「おまえはどうする?」
逃げなくていいのか。行きたい場所はないのか。
考えてみれば、俺とあいつの娘のようなものだ。
助けられるものなら助けたい。
いまさらながら、そんな気がわいてきた。
「行くとこなんてないもん」
「そんなことないだろ」
「ううん、ここにいなきゃ意味はないんだよ」
「あいつが来たらおまえは消えちまうぞ」
「いいよ。それでもいいよ」
こっちを見ないまま、あゆは頬笑んだ。
「それに祐一君のご飯を作らないといけないからね」
祐一君はよく食べるから、と笑う。
その横顔は、あの季節によく見せていたような自分の行く先を見通した穏やかな笑顔だった。
「……夕飯な。やっぱり他のにしていいか?」
「もう材料買っちゃったよ」
「また買えばいいだろ」
「うーん、じゃ何にする?」
「そうだな」
空は青かった。そして、まぶしかった。
今日もいい一日だと思った。
天使の人形は順調に作業を進め、向こう側の領土はずいぶんと増えているようだ。学校を壊し、住宅街を踏みつぶし、商店街を取り込んで、街中があいつの世界に置き換わってしまうのもそう遠いことではないだろう。
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