車体のゆれが伝わってくる。窓の外には代わり映えのしない郊外の風景。四人がけのシートを占領して深く座席に沈み、心進まぬ様子で相沢祐一は北の町を目指している。車内に他の客はいない。わずかにみじろぎする。足もとから来る暖房が熱すぎるようだ。感じているのは、かすかな不安と正体の分からない焦り。眠気と退屈さ。そんなものだろうか。
 向こうに着けば、駅前のベンチで待ちぼうけを喰わされて、やっぱり来るんじゃなかったと自分の決断を悔いながら、だからといって立ち去る気にもなれず、中途半端な気持ちで迎えを待つことになる。
 やがて、いとこと再会し、覚えがあったり忘れていたりする様々な行動を繰り返し、叔母に迎えられ、街をぶらつき、学校に編入し、誰かと知り合い、懐かしい出会いをする。冬の日常にとけ込んで、遅刻しそうな通学路を通い、女の子と仲良くなったりならなかったりふざけたり笑ったりけんかしたりしてあの雪の季節を過ごすのだ。
 そうして俺は、肉体を持たないただよう意識となって、自分自身を眺めている。一人きりの映画館で、上映される過去の自分を見ている。
 スクリーンの向こうの俺は、羽の生えた女の子にぶつかられ、なし崩しに食い逃げに巻き込まれたあげく、一緒にたい焼きを食べたりしていた。
 こうやって、自分の姿を他人の視線で見せられるというのは身もだえのしたくなるような経験だった。誰が好きとか嫌いとかなんて、外から見るもんじゃないなと思う。特に自分の関わっているものは。
 見入ったり、居たたまれなくなって目をそらしたり、懐かしくなって頬笑んだりするうち、物語はいよいよ佳境に入る。
 夢が現実にむしばまれ、ついに破局を迎えてしまう。
 うちに泊まりに来たあいつは、自分が存在してはいけない存在だと気づいてしまうのだ。伸ばした手は届かず、あいつはリュックを残してどこかに消える。
 そして、
 最後まで見終わった。
 残念ながら、俺は幸せな未来にたどり着けなかったようだ。重要なところでしくじってしまったらしい。他人のことながらじんわりと来るものがある。自分のことのように感じていたのだろう。
 終わり?
 そうだ。終わってしまった。物語は終わってしまい、それから先を見ることは出来ない。
 暗転すると、また最初に戻っている。
 行く先に焦りと不安を感じながら、再びこの街に向かう列車に乗っていた。雪のベンチで待ちぼうけし、いとこと会い、叔母と会い、彼女と再会する。たい焼きを食べ、落とし物を探し、雪の街を歩き、夕日の中に消えてゆく。
 もう一度。
 もう一度。
 何度でも巻き戻り、最初の日へと戻ってしまう。
 繰り返すごと、物語は少しだけ違った展開を見せる。だけど、俺の望む終わりは来ない。いつも結末は同じで、いつの間にか街へと向かう電車に乗っているのだ。
 湿った木のベンチで俺は雪を被っている。
 また、いとこを待っている。
 ふがいない自分の姿に腹が立つ。
 のんきな自分の様子に呆れかえる。
 今度こそ、幸せな終わりを掴むんだ。
 声なき応援にも熱がはいる。
 そうやって、最初は他人事として眺めるだけだったが、そのうち、自分の行動に干渉できるらしいと気づいた。例えば、右に行くか、左に行くかという分かれ道の時、向こうに行けばいいのにとかそれは選ぶなという内心の思いに俺が従っているように見えるのだ。
 気づいてからは意識してやってみた。
 例えば、引っ越し荷物の整理を手伝ってもらった俺が、あいつに役に立ったかどうかと聞かれるシーンである。
 足手まといだった、と強く念ずる。
 俺はその通りに発言して、彼女を落ち込ませてしまう。
 たしかに行動を縛っているようだ。
 ひょっとしたら、いままでも無意識のうちでそうしていたのかもしれない。だけど、もっと意識的に介入すればきっと思い通りの展開に出来るだろう。ふがいない俺から行動の自由を奪い、望ましい終わりへと向かわせる。
 屋台のおやじから逃げ、一緒にたい焼きを味わい、引っ越しの手伝いをしてもらう。毎日の探し物につきあい、手料理を食べる約束をし、日曜日には映画を見にゆく。時期を見計らい、家に泊まりに来ないかと誘ってみる。
 ところがダメなのだ。
 やっぱり、失敗して彼女は消えてしまう。何度やってもそうだった。
 記憶の通りじゃダメなのかと思い、違う選択もさせてみたが、余計におかしなことになってしまう。より幸せな未来をつかむどころか、置いてきた生活にすら届かないのだ。
 一度は通ったはずの道筋もたどれず、彼女はいつも寂しそうな笑みを残して夕日の中に消えてしまう。俺はただ馬鹿のようにぽかんとして立ち去る彼女を見送っている。
 もしかすると、ひょっとして。
 不安に思い始める。
 置き去りにしてきたあゆとの生活だけが、偶然に偶然を重ねて達成できた唯一の奇跡だったのかもしれない。もう一度繰り返しても届かないくらいの偶然の。いや。何か見逃してるはずだ。そんなことあるはずがないじゃないか。
 いろいろ試してみた。
 出会ってすぐに告白してみる。
 いきなり学校に連れて行く。
 入院しているはずの病院を探してみる。
 わざとひどい展開になるように振る舞ってみたり、何の行動もせずただ毎日遊び暮らしたりする。
 だけど、うまく行かない。
 気まぐれに他の女の子と親しくなってみる。
 ほんのわずかすれ違っただけの彼女たちとの物語。たどってみれば、どれもびっくりするような展開だった。あのときもこんな事情があったのかと後悔する。もう少しなんとかしてやれたんじゃないだろうか。やはり、いろいろと事件がある。感動も。悲しみをくぐり抜け、やっと平安を掴んだ俺に、思わずそれでいいんだ、と言葉をかけそうになる。
 だけど、それじゃダメなんだ。
 ベンチに戻るのは、もう何度目だろう。
 また街へと向かう電車に乗っている。この先には様々な分岐があり、その派生がある。それを知っている俺は、予定調和のような選択を続けるだろう。
 すり切れるほど奇跡を起こし、だけど、あいつのうえに奇跡は頬笑まない。冬の日の彼女はどこかに消えてしまい、病院で目覚めたあいつにも会えず、すべては虚しくなる。
 いつの間にか気がそれて、行動の自由を自分に渡していた。そして気づけば、俺のときよりもシナリオが進んでいる。惜しいところで手が届かなかったが。
 どこがどう違って、あそこまでいけたんだろう。
 思いつく展開はあらかた試したはずだった。
 もう一度、ベンチに戻った俺を見守る。
 余計な手を出さず、自分の思うとおりに行動させてみる。
 だが、別段、目新しいことをしているわけでもない。見飽きたようないつもの展開だ。だけど、俺の手の届かなかったところまで話は進んでいく。姿を消したあいつを追いかけ、切り株で待ち、ついにはもう一度呼び戻すことに成功する。二人の会話。最後の願いを言い残し、消えてしまうあいつ。
 森にさ迷い、駆け回り、夕日に向かって立ちつくす。いったい俺は何を思っているのだろう。何を感じていただろう。
 それは相沢祐一の憤りだ。俺のものではない。
 どこまでいっても、あいつは俺であって俺でなく、この場にいる限り俺は相沢祐一になれないのだ。
 この夢は俺のものでない。
 あいつの世界だ。
 眺めているだけの俺は、ただの傍観者だった。

   /

 水たまりの脇で、ふしくれだった小鬼が言う。
 あんたが落としたのは金の斧かい銀の斧かい。
 実は落としたつもりになってるだけで、ほんとは落としてなんかいないんだ。最初から斧なんてないんだ。
 なんて正直な若者だ。
 憎々しげに睨みつけてくる。
 褒美に喰ってやろう。

 暗い森を歩いていた。足もとのやわら葉の感触。音。匂い。そういうもので、森だと分かる。一段と黒い葉むらのかげ。まとわりつく刺草。蒸し暑いほどの笹のやぶ。がさがさと足でわけ、ふみわけの道をたどる。胸の痛くなるような焦り。探しているものすら分からない。ただ、わずかに先に通じた途を潜り続けている。
 何度も止まっていいだろうと思った。
 すべてを忘れて、もとの世界で暮らそうと思った。
 他人の世界だっていいじゃないかと思った。
 だけど、ほんものを作りたかった。
 色あせないものがほしかった。
 だから、前に進むしかない。足を止めたら、もう二度と進めなくなりそうだ。弱った脚に鞭をいれ、残った力を振り絞る。のどが苦しくなって咳き込んだ。端の方から体がだるくなっていく。疲労が押さえられなくなって、頭のしんだけがさえている。
 灌木と蔓が網のように絡みあった場所を苦労して通り抜けると、ようやく明るい場所が見つかった。
 こぶりな白い花が一面に咲いている。
 森の中の小さな広場だった。
 どこかで見た場所だと思った。だが、違っているようだ。
 中心には何かの構造物があり、差し込んだ木漏れ日に照らされて、明るく浮かびあがっている。幾何学的な外見だ。直方体の長辺を縦にして、外柵に四角く囲まれた場所につき立っていた。
 正面に文字が彫ってある。
 それは墓だった。
 裏にまわって、墓誌を調べる。知った名前を探し、年月日を確かめる。俺が小学生の頃だ。子どもの俺があの街にいた最後の年である。そうか。と思った。どうやら、これがあゆとの未来に進めなかった理由らしい。
 気にはなっていたのだ。
 何故、誰もあゆが生きていると教えてくれなかったのか。
 あのとき、俺はあいつが死んだと思って打ちのめされていた。自ら記憶を閉ざしてしまうほどに。
 たとえ、目は覚めなくても、あゆが生きているということは、当時の俺にとって救いだったはずだ。七年も眠り続けるとは知りようがないし、その後、目覚めることなく亡くなったとしても、あのときの思い込み以上の衝撃にはならなかっただろう。
 教えたくても教えられなかったのだ。俺の思い込みは真実だったから。
 もう一度、あのあゆに会いたいとかいう問題どころじゃなかった。会いたかった相手は夢の存在だった。現実のあゆは子どもの頃の彼女、それだけだ。
 ひょっとすると、あの街自体が夢なのかもしれない。彼女を死なせた後悔が見せた夢なのだ。七年かけて俺はあの街を作り、あゆを作り、そして癒されようとした。出会いと別れをもう一度繰り返し、その後に続く幸せの日々で現実を上書きしようとして。
 だけど、失敗した。失敗して、こんな場所をさ迷っている。
 やっと掴んだ穏やかな生活に別れを告げ、結局、俺はあの再会の日々に逃げ込んだ。望み通りの未来を探すふりをして、でも、本当はあの季節を繰り返したかっただけだ。
 それは行き詰まりの道だった。だけど終わりのない道だった。終わることのない時間を俺は求めていた。未来のない時間でも、切り取って循環させれば永遠なんだと思っていた。
 気づかないこと、知らないでいること、考えないでいること。そんなことの上にある嘘は、美しくて、とても脆かった。繰り返すうち、力を失いやがて他人事になりはてる。
 結局、それに飽き足らず、自分から世界を出た。
 俺の作った夢はずっと続くほど強いものじゃなかったのだ。
 けど、夢がもっと強固だったらどうしたろう。
 違和感も覚えず、幸せの中にまどろめたろうか。それともあの冬から出られなくなり、永遠の夢の中にいただろうか。繰り返しにもすり切れない夢の中で。むなしさを感じることもなく。
 あいつは可能性だった。あの事故がなく、お別れのプレゼントを渡し、しばらくぶりで再会した。そんな可能性の存在だった。にこやかに頬笑む彼女は、あぶくのごとくはかなくて、つんと触れればはじけて消える。
 現実に浸されてしまったのは、俺の思いが弱かったからだ。
 墓に手をあわせる。こんなとき、どんなことを思えばいいのか俺は知らない。だから、何も祈らず、ただ手をあわせただけだ。
 森の中にあったのは、受け入れられない現実だった。
 だから背を向けて、もっと奥へと向かうのだ。
 木々は多少疎になったが、その代わりやぶがひどい。荒れ果て茂った葉むらにじゃまされて、一段と足取りは遅くなる。忘れていた疲れがぶり返してきた。急かされるような焦りは行く先を失い、広場から離れようという思いだけがあった。
 滲んだ汗がじんわり肌を覆っている。いつの間にか露でぐっしょりとぬれ、顔が蜘蛛の巣だらけになってしまう。枝葉が皮膚を傷つける。呼吸だけがやけにせわしい。からだの表面が冷たくて、奥には悪い熱が溜まっている。
 朽ちた倒木を乗り越え、再び伸び放題のやぶに分け入った。地面が柔らかく、一歩ごとに足首まで埋まりそうになる。引き抜くようにして先を進める。
 少しでも通りやすい場所をたどって、右に曲がり左に曲がりする。足もとは泥だか水たまりだか分からないような状態だ。ついには道を見失い、枝をくぐり、木々をかき分けてやっと進むようになる。
 出口の当てはなく行き先もなく、自分がどこにあるのかも分からなくなり、自我はどこまでも希釈され、抜け出す途が見つからないまま、世界とのつながりを失って、どこかになくなってしまいそうだ。
 気づいたときには足を踏み外していた。
 ずるずると滑り落ちてゆく。
 ずいぶん長い落下だった。
 上も下も分からない、底のない落とし穴だ。
 手がかりはなく、光も通らず、ついには何も触れない音も色も空気の流れもない、何もない場所でもがいているだけになる。浮いているのか落ちているのかも感じられない。
 もう体の感覚もなくなって、自分のことすら怪しくて、何も分からなくなりそうな中、ただあの冬の日の出会いを思っている。泣いている女の子にぶつけられた出会いを思っている。
 母親を失って泣いていた。
 ひとりぼっちの女の子。
 商店街で遊びまわり。
 毎日たい焼きを食べて。
 木に登り。
 クレーンゲームの景品を欲しがって。
 そうだ。
 ポケットを探る。
 やわらかな手触りがある。
 世界にいろがついている。
 もう暗くはなかった。

   /

 目の痛くなるような空だった。どこを見ても球面状の空が広がっている。陸地のない地球儀を内側から覗いているようだ。
 あんまり広すぎて、遮るものもなくて、あーと声を出し、反響する様子で世界を感じ取ろうとする。声はどこかに吸収され、響きは返ってこない。ただ目を見張り、沸きたつ雲を眺めるばかり。
 反射する光の具合から太陽の方向を測ってみる。見た感じ後ろだなと思って振り返る。そちらを見ても、やっぱり背後から光が来ているように思える。また振り返る。どこを眺めても太陽は見つからない。ひょっとすると背中の側には別の景色があり、太陽もあるのかも知れない。振り返ると逃げ出して、視界からいなくなる。
 わずかに空気が流れている。どこから来るのかは分からない。だけど、確かにやってくるのだ。
 森のにおいとともに。
 真ん中に浮かぶベンチの上で、それを感じている。
 人形を取り出して、隣に座らせた。
 願いは使い切っていて、もう人形に叶えてもらうことは出来ない。
 だから、自分で望みを叶えよう。
 何もないところから始めて、もう一度思いこむことにより街を作るのだ。俺は忘れることからスタートし、七年の時間をかけて、再びあいつをよみがえらせた。
 ここなら何でも自由になる。他人のじゃまは入らない。
 心地よいことばを組み上げて街を作りだそう。
 まずはあいつの墓を思う。
 そして、切り株に変換する。
 伐られる前の大木に戻す。ちょっと迷って学校にする。学校に肉付けする。少し現実味をつけようとして、結局、自分の通ってる学校そっくりになってしまう。約束の学校とは大違いだが、事故の件をなくすことは出来たわけだからよしとする。
 ふたりで駆け回る、商店街の石畳を再現する。街路灯を作り、街路樹を生やし、マンホールのふたを作る。
 店を作る。
 駅を作る。
 線路を作る。
 端と端をつなげ、出て行った電車が戻ってくるようにする。
 そこで語られる物語を想像する。それを語るたくさんの俺を想像する。語られるだろう幾多の俺たちを思う。
 そして、雪を降らそう。
 これがすべて俺の街である。
 俺の夢の卵である。
 温められた卵はやがて、殻を破るのだ。
 ベンチに座ったまま、とりとめのない妄想を人形と話す。
 話題の中心は子どもの頃のあの事故がなかったらどうなっていたかということである。
 おそらく俺は長期休暇のたびにあの街を訪れ、そしてあゆと会うだろう。互いに少しずつ成長し、だけど、あいつは変わらないままで。それでも、ある時ふと気づくのだ。ずっと子どものままじゃいられず、ふたりは新しい関係を築くべきだということに。
 その過程で、すれ違いや喧嘩があるかもしれない。いらだちを相手にぶつけたりもする。自己嫌悪に落ち込むこともあるだろう。いつかふたりのあいだには隙間が出来る。
 だけど、周囲の助けもあり、うまくいかなくなる寸前で自分の行うべきことに気づいた俺は、あいつのもとに走っていくのだ。きっとあいつは待っててくれる。
 少し肉付けしてみる。
 仲の良さをからかわれた俺は、照れくさくなってそっけない態度をとってしまう。あいつは嫌われたと勘違いして、自分から身を引こうとする。それに気づかない俺は周囲に叱咤される。そして、ひとりさびしくベンチに坐るあいつを迎えにいくのだ。
 あるいは、友人にあゆが好きだと打ち明けられ、心ならずも俺は応援する約束をしてしまう。告白されたとあゆに相談された俺はしたいようにしろと答える。あいつは悲しみの顔を見せ、じゃ、つきあうことにするよという。その後、ふたり並んでいる姿を目撃した俺は、やっと本心に気づく。いろいろあり、感情をぶつけ合い、だけど、結局、収まるところに収まる。
 あるいは。
 あるいは。
 あるいは。
 いくらでも浮かんでくる。
 飽きることなく繰り返す。
 輝くばかりの日常を。
 まぶしい君との生活を。
 あわだつほどの幸せを。
 だけど、気づいてしまうこともある。
 ここには俺以外誰もおらず、言ってくれる人はいないから、仕方なしに自分で声に出すのだ。
「だけどそれ、君の会いたい彼女にはならないよね」
 そうなのだ。
 あの事故が起こらず、穏やかな生活を送ったあゆはどこか別人になってしまう。
 友だちは多いし、もっと外向的だ。自分に自信を持てるし、落ち込むことも少ない。笑いにはもっと陰がないし、意味深な口ぶりをすることもない。発育だってかなり違う。
 幸せな暮らしは幸せな彼女を作る。
 ひょっとすると、置き去りにしてきたあゆの方がまだ俺の求める彼女に似ているくらいかもしれない。
 過去を忘れては、ひとはその人たり得ない。記憶と経験が個性というものをつくるなら、やっぱりあの事故は必要なのだ。
 だから、再びあゆを木から落下させるしかない。
 結局、俺の望みはごまかしなしには存在できないものらしい。たとえ、万能の力があったとしても、俺の願いは叶わない。
 世界に葛藤が生まれる。
 押さえていたものが一気に吹き出してくる。
 ねえ、あの子は死んでるんだよ。ねえ、あの子は別人なんだよ。この先は袋小路で、ありもしない未来を望んでも労力の無駄さ。前に進んでるふりをして、ほんとは足踏みをしたいだけだ。いまあるものだって失うよ。あの子の求めてるのは家族だけさ。秋子さんと名雪がいればいいじゃないか。相手の精神年齢は小学生。そんなのを相手に恋を語るなんてただの変質者だろう。保護者と被保護者の関係じゃいつか疲れてだめになる。同情で人を好きになっていいのかい。おまえは夢を見てるんだ。切り株で人を待ちながら。ベンチで人を待ちながら。みんな夢なんだ。逃避の産物なんだ。――そんなことはわかっている。
 妄想による内圧と現実による外圧の釣り合いが破れる。
 せめぎ合いながら世界の卵が収縮していく。
 小さくなるに従って妄想の密度が増して、圧縮される速度は落ち始める。だけど、一度始まった崩壊は止まらない。
 それでも俺は抵抗する。楽しい日々の夢をつむいで抵抗する。薄っぺらなうわべの言葉を継ぎ合わせ、あいつと一緒の幸せな時間を物語ろうとする。進入してくる現実を片端から潰してゆく。理論武装で殻を守る。思考を止めて逃げようとする。弱みを見つけて逆撃する。なりふり構わずあらがおう。自分にだって嘘をつく。つじつまなんて考えない。
 広大だった世界が息苦しいほど縮まっている。もう手足も伸ばせなかった。雲だったものもただのもやでしかない。このままどこまでも圧縮され、凝縮された妄想はひとつの卵になる。
 望みに実体がないと知ったとき、望みの中にある矛盾がどうしても解けないと知ったとき、醜悪な化け物が卵の殻を割る。
 家を押しつぶし、人を踏み、現実の世界の上に夢の世界を定置しようとする。他人の夢がじゃまをする。念入りに踏みつぶしてゆく。ついには望んでいたはずの相手さえ押しつぶす。
 何もじゃますることのなくなった空間で、夢の街が実体化する。
 そして、俺はもとの街に戻り、人混みの中で立ちつくし、屋並みの向こうを見あげるのだ。
 天使の人形が町を破壊する。屋根の上にからだを出すほど巨大化した天使の人形が、俺の望みを叶えようと能天気な笑顔で他人を押しつぶしている。現実が消えれば、他者が触れると崩壊してしまう、もろい夢の街がやっと存在できる。
 破壊のあとには、ぼんやりと光を放つ、雪の季節が現れるだろう。
 そして、あそこには俺だけのあゆがいるはずなのだ。


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