「しかし、ひさしぶりだな」
「なにが?」
「ゆっくりおまえと歩くのが」
「そういえば、そうだね」
 買い物に来たといういとことばったり出くわし、つきあって街を歩いている。急ぐ用でもないらしく、自作の歌など口ずさんで、あっちに寄ったりこっちを覗いたり、ずいぶんとのんきなものだ。行きつけの店の親父と世間話したり、少しおまけしてもらったりしながら、のんびりと買い物している。……まあ、いつも急がないやつではあるが。
「今日の晩ご飯はあゆちゃんだよ」
「あんまりうまそうじゃないぞ」
「でも、あゆちゃん、がんばってたよ?」
「いくら頑張っても、あれじゃ食いでがないだろう」
 もっとも、冷静に考えれば、いくら小柄もいいとことはいえ、人ひとり食べきるのはまずむりだろうと思わなくもない。十日以上はそれだけで持つんじゃないだろうか。
「作るのがだってば」
 あきれた顔をされてしまった。
「ちょっとがんばり過ぎちゃって、材料が足りなくなりそうなんだって」
「もう作ってるのか。ずいぶん手間かけるな」
「気合いはいってたもん」
 いったい、どんな大作なんだ。
 不安に思うやら逃げ出したいやら。
「愛されてるよね」
「……気合い入れすぎだ」
 げんなりして答える。

 奇跡には羽が生えていて、捕まえた次の瞬間には飛び去ってしまう。置いていかれた俺たちは、抜け殻を抱いて笑うしかない。あるいは羽もないのに飛ぶしかない。

春になったら、またあのベンチで


 台所から危なっかしいまな板の音がする。
 がらんと何かを落とす音。
 ぱたぱたと慌てる足音。
 流しっぱなしの水の音。
 楽しげな声に混じって、ときおり悲鳴があがるのがどうにも不安だった。本人いわく、引き取られてからずいぶん修行をしたらしいが、まあ、お目付役もついてるから大丈夫だろう。と思いたい。
 それはともかく暇だった。
 料理が出来上がるのを待つのは、買い物の終わりを待つことの次くらいに退屈な時間だろう。まだ腹が減るような頃合いでもないので、手持ち無沙汰もよりいっそうだ。
 ソファに寝ころんで、テレビをつけたり消したりする。雑誌をめくる。のびをする。気合いを入れて起きあがり、もう一度脱力する。気が乗らない。どうしようもない。あきらめよう。
 外に出ることにして、奥に声をかけた。
「ちょっと出てくるぞ」
 料理の手が離せないらしく、
「できあがる前には帰ってきてね」
 少し遅れて、返事がやってきた。
 扉の向こうは、午後も遅い住宅街である。
 遠くに子どもの声が聞こえる。
 日は傾いているが、まだ十分に高い。いい天気だ。角を曲がって商店街に抜ける。通りは静かで人通りもまばらだった。朝夕はそれなりに賑わう場所だが、ピークを外れた今はこれで経営が成り立つのかと心配になるくらい人が通らない。駅前に着いた。数台のタクシーが暇そうに客待ちしている。ロータリーを広く感じる。
 ベンチに坐り、先客に挨拶する。
 もとより返事は期待していない。
 季節外れの暑苦しい恰好。
 手袋と長靴。茶色いコート。
 小柄なからだ。
 羽のついたリュックを胸に抱いている。
 どこかを見ているその表情は、悲しそうでもつまらなそうでもなく、どこかしら余裕と軽みがあった。誰かを待っているような、待ち合わせを楽しんでいるような、そんな顔にも見える。
 こうして隣にいても、彼女はこちらに目もくれない。見えていないのだ。こちらから彼女を見られるのも俺だけらしい。誰も彼女に目をとめない。
 話しかけても返事をしない。触れることも出来ない。誰にも気づかれないまま、彼女はそこにいる。ベンチに坐り、じっと何かを待っている。
 彼女を見るようになったのはいつからだったろう。ちょうど、あいつが退院するとか引き取るとかで騒いでいた頃のような気がする。
 ある日、ふと気がつくと駅前のベンチに座っていたのだ。
 それ以来、日々の何かに疲れると、ここで時間を潰すようになっていた。
 沈黙が心地よかった。
 思わず声が出る。
「平和だよなあ」
 返事はない。
 彼女は変わらず待っている。

 賑やかだった夕食も終わり、食後の団らんを残してひとり部屋に戻った。ベッドの上にからだを投げだし、満腹した胃を休める。一時はどうなることかと危ぶまれたが、夕食はまずまずの出来だった。時間が早かったのと量の多すぎるのには困ったけれど、期待に満ちた目で見つめられれば断るわけにもいかず、次々と勧められるまま食べ過ぎて、どうにもからだがだるくて仕方がない。
 しかし、あいつもいろいろ出来るようになるな、としみじみ思った。
 いいことだ。過保護な手を離れて、いろんなことが出来るようになる。
 体力的なものを措いても、当初は日常生活さえ怪しいくらいの世間知らずっぷりだったが、いつの間にかうまくやっているようだった。すっかり家族としてなじんでいる。
 考えてみれば、あいつをからかう機会もずいぶん減っているような気がした。
 あの冬の後、あれよあれよという間に事態は進展し、どこか取りこぼされたような釈然としなさを感じながら、こうやってなんとなく時間は過ぎていくんだろうと思っていた。
 階下から笑い声が届く。テレビか何かを見ているらしい。近頃はいつも笑いが絶えない。
 布団に触れている背中に熱がこもってくる。少し汗ばんだ。思い切って起き上がり、楽しげな家族の時間をじゃましないよう足を忍ばせて外に出る。
 もう夕方も終わりの時間だった。
 街にはすっかり蒼みがかかり、藍色の空を背にして影絵のように沈んでいる。屋並みの向こう、山ぎわと雲の接するあたりに西日のなごりがあった。夜ともいえない昼ともつかない、あいまいな時間である。
 腹ごなしには出てみたものの、別に行き先が決まっているわけでもない。ご近所の夕餉の支度をかぎながら、目的も定めず、ぶらりぶらりと気楽な散策だった。
 育ちすぎた庭木の茂みに圧迫されながら、住宅のあいだを縫って歩いた。蒸れた葉っぱ。柔らかな蔭。四本五本とたたずむ電柱を数えて歩く。道脇の畑から甘ったるいネギのにおいがする。路地の奥を覗いてみた。わだかまるとばりの向こうには、どこか秘密の場所への抜け道でもありそうだ。
 帰宅を急ぐ子どもが傍らをすり抜けてゆく。転ぶ。思わず手をさしのべる。子どもは泣きそうな顔をあげ、自力で立ちあがって行ってしまう。遠ざかる背中を見送ると、さびしいような頬笑ましいような気分になる。
 どこかに答えがあるかもしれない。
 この緩やかな倦怠の。
 充分すぎるほど満ち足りた毎日の。
 いったい不足は何なのか。
 たったひとつだけ足りないもの。
 角を曲がれば商店街だった。
 人通りはあまりなく、買い物客も途絶えがちのようだ。もうシャッターを閉めている店もある。それでもまだ開けている店もあり、店内は煌々と照らされて、来るかもしれない客を待っている。こんなに寂しい場所だったかな、と一瞬思う。もう少し混雑した場所だったようなと思いながら通り抜ける。
 総菜屋の油の匂い。飲み屋から焼き鳥の香り。
 酔っぱらいが歩道にうずくまる。
 薄暗い看板の灯り。
 客のいない食堂で店主がテレビを見ている。
 あまり活気はないけれど、それでも人は暮らしているらしい。
 目の前が開けると、駅前のロータリーに出る。
 歩道をまわって、ベンチに向かった。
 冷たい風が吹き寄せてくる。
 つんとするような冬の匂いだ。
 視界の端を白いものが落ちていく。
 頬に冷たい水滴が当たる。
 雪が降っている。
 夜空を背景に雪の子が舞い降りている。

   /

 息が白く乱れる。
 凍り付いた雪が、足もとでがりがりと云う。
 叩けば音のしそうなほど澄んだ空気を押し分けて、まだ昼前の街角を歩いている。
 せっかく学校まで行ったのに臨時休校とやらで時間が空いてしまった。校長の母親がお産だとか、暴れ牛が出たとかよく分からない理由だったが、知り合いは部活だ勉強だ人生の旅に出るだと思い思いに散ってしまい、俺はといえば特にすることもなく、当てもないまま何か面白いことでもないかとぶらついていたりする。
 昨日までの雪が道脇に寄せられている。
 ごうっと唸るボイラーの音。
 湯気が側溝から立ちのぼる。
 ぽつりぽつりと人通り。誰も転ぶ人がないのを見て、さすがに地元の人間は器用なもんだなと感心を新たにする。
 やっぱりこの街には冬が似合う。満開の花の舞う春もいいけれど、雪の季節は特別だ。少しだけいがらっぽい冬の匂いも、どことなく人をくつろがせる。こうやって、のんびりとした目で見る街は不思議に新鮮で、まるでしばらくぶりに訪れた場所のようだった。妙に懐かしい気分で通りを眺める。
 と、目につくものがあった。
 コーヒー屋の角にへばりつき、背中の羽を揺らしながら曲がり角の向こうを窺っているやつがいる。
 何やってんだ、あいつ?
 落ち着かなげにあたりを見回している。胸もとには紙袋をしっかりと抱きしめて、不審人物そのものだった。
「どうした今日は。またずいぶんと大漁だな」
「あっ、祐一君」
「よお。元気してたか?」
「うん、もちろん!」
「だよな。それしかとりえないもんな」
「うわ、ひどいよ」
「悪い悪い。元気が一番だよな」
 うんうん、その通りっと頷いている。
 いつもの笑顔である。
 何かうれしくなってくる。
「そういや、さっきは何をきょろきょろしてたんだ?」
「あ、そうだ」
 急に深刻ぶった顔つきになり、もう一度、角の向こうを覗く。
「実は大変なんだ」
 紙袋を抱きしめる。
「ほら、これ」
 たい焼きである。
「さっき商店街を歩いてたら、マスクと黒眼鏡で顔を隠した人がすれ違いながら渡していったんだ。追われてるみたいだったし、後ろを気にしてたし、何か急いでたみたいで、きっと重大な秘密があるんだよ。思うんだけど、スパイだったんじゃないかな。どうしよう、これ持ってるときっと怖い人が来るよ」
 身振り手振りもついて、今回の言い訳はなかなかの力作だった。
「……で、それをいったい?」
「どうすればいいと思う?」
「そりゃ、素直に金を払うのがいいんじゃないか」
 指摘はしてみたが、想定している会話の流れから逸れるためかあっさりと聞き流され、
「実はいい考えがあるんだ」
 いたずらっぽい顔をしながら、たい焼きをふたつに割る。ほんわりと白い湯気が立った。あんこが顔を覗かせる。
「はい」
 半分こっちに渡してくる。
 もっともらしく頷くと、
「しょうこいんめつしなくちゃね」
 といって、かぶりついた。
「おいしいね」
 手のかかった言い訳に免じて、ご相伴にあずかるとする。
 屋台のおやじには悪いが、あとで払っとけばいいだろう。
 胸のうちで謝罪しつつ、おいしくいただく。
 久しぶりに食べたたい焼きは舌の上にじんと甘かった。
「やっぱ、冬はいいよな」
「うん、たい焼きもおいしいし」
 雲間から太陽が顔を覗かせる。
 わずかな陽光を集めて、少しだけ暖を採る。
 雪がまぶしい。
 こうしていると、この白い景色だけが本物で、雪の融ける日なんて来ないんじゃないかって気もしてくる。それでも、いつかは遅い春が来て、雪の季節は終わってしまう。続くのは、のんびりと平和な季節だった。
「知ってるか? ここは春になると桜が満開なんだぞ」
「ここが?」
「ああ、街いっぱいに花びらが散ってな」
 ふーん、とあゆは通りを見回している。
 雪の積もった今からじゃまるで想像できない情景だろう。
「でも、俺は冬が好きだな。春になると変な虫は出てくるし、一日中眠いし。雪が融ければ空き缶だらけだし。あと犬の糞な」
 春のいやな部分をあげる俺の言葉を聞いているのかいないのか、
「見てみたいな。きれいだろうね」
 と目を細める。
「……ま、いまは冬なんだし、冬らしいことでもして遊ぶか」
「うん」
 とりあえず、雪だるまを作ってみる。転がせる限界まで大きくした土台に一回り小ぶりの頭部をのせようとしたが、ふたりがかりでも持ちあがらない。しかたないので、もっと小さい雪玉を作り、胴部を加えて三段重ねにしてみた。ミカンと人参で目鼻をつける。
「気に入らない」
 げし、と蹴り倒す。
「よくできてたと思うんだけど」
「妥協はよくないな。芸術家の血が許さない」
 よりよいもの、より完全なもの、遙かな高みを目指して、作っては壊し作っては壊し、雪だるまを作り続ける。雪の階段を駆け上がり、届かないどこかへ辿り着こうとする。
 いまいち構成が悪い。
 これはいささか通俗的過ぎる。
 どっかで見たような代物だ。ひとつ見つければ百個はあるだろう。
 一見良さそうだが、よく考えるとあちこち破綻している。
 口当たりはいいが、視界から消えたらすぐ忘れそうだ。
 妄想を形にしただけ。いっそおぞましい。
 ひとつ完成するごとに難癖をつける。
 たかが雪だるまに芸術家の血が騒ぎすぎだった。
 壊すのもめんどくさくなり、少しずつ場所を移しながら作り続ける。
 歩道にずらりと雪だるまが並んだ。
 道行く人は、無視したり、感心げにうんうんと頷いたり、びっくりしてまじまじと見つめたりしている。その様子を見て、顔を見合わせ笑いあう。
 雪合戦もした。
 まるで当たらない攻撃を避けながら、何気なく投げた雪玉がちょうど顔を上げた瞬間のあゆに命中する。雪玉はしばらく顔面に止まっていたが、やがてぽとりと地面に落ちた。
 笑いを隠しながら、悪い悪いと顔をぬぐってやる。
「もう、祐一君は少し女の子を大事にしないとダメだよ」
「脳内彼女を愛する気持ちだけは日本一だと近所で評判なんだが」
「そういうの、ご近所には隠そうよ……」
 あゆは憤慨していたが、さっきの間抜けな顔を思い出すとどうしても笑えてしまう。
 商店街を駆け回り、転び、また起きあがり、頭から雪山に突っ込んで愉快な姿をさらす。かまくらを作り、雪原に気持ちよく氷レモンを作り、一緒にやろうといっていやがられ、通りすがりの人の足もとに雪玉を投げてびっくりさせる。走って逃げる。
 さすがに遊び疲れて、ベンチで小休止する。
 どこからかあゆがたい焼きを取り出した。
 分けてもらい、並んで食べる。
「おいしいね」
「ああ、おいしいな」
「たのしいね」
「ああ、たのしいな」
「たのしいのが一番だよ」
 その通りだと思った。
 他愛もないやりとり
 他愛もない時間。
 幸せを煮込んだスープのようだ。
 どんな出来事だって笑いの中に取り込まれ、傍にいることが本当に当たり前に感じられる。知らないうちに失って、しかもそれに気づかずにいたものが、やっと戻ってきたって実感する。
 すべてのよいものが街にあふれている。胸一杯にあふれてくる。あふれ出した感情で埋めつくされて、自分を失ってとけ込んでしまいそうになる。
 ふと思う。それもいいかなと。
 こうやって、いつも元気なあゆと一緒に暮らすのだ。この融けることのない雪の世界で。ふたりの時間がこんなに自然だったなんて、忘れていたような気がする。
「そういえば、探し物ってどうなったんだ?」
「探し物?」
「何だか知らないが、熱心に探してただろ?」
「あ、もう探してないんだ。見つけたら、終わっちゃうから」
「終わっちゃう?」
「うん、終わっちゃうんだよ」
「そういうもんか」
 意味も分からずに相づちを打つ。
 妙に残念な気がした。
 何となく会話の途絶える中、最後に残したしっぽを一口で呑み込む。
 どんな手品を使ったのか、たい焼きはまるで出来たてのようだった。水っぽくもなっておらず、焦げ色が絶妙で、熱い中身が湯気をたて、やわらかすぎずかたすぎず、しっぽの先までうまかった。
「はい、残りは祐一君のぶんね」
 袋ごと渡された。ずいぶんサービスがいい。
 受け取ると、まだいくつか残っている。
「あいつにも持っててやるか」
 そんな考えが浮かんでくる。
 ひさしぶりに食べたらきっと喜ぶだろう。
 まあ、いくらうまいたい焼きでも、雪の中で食べなきゃ感動も半減するだろうが――。
「あいつって?」
 小首をかしげながら、あゆがこっちを見ている。
 そうだ。
 思い出してしまった。

   /

 幸いばかりの毎日に、ほんのわずかな剥離がある。剥げたあとから覗くものがある。
 人混みの路上で。
 夕暮れ迫る街角で。
 商店街の店先で。
 例えばそれは駅前にあり、少女の姿をとってベンチで誰かを待っている。羽をはやした、あの冬の忘れ物である。

 次の日は朝から雨だった。
 雨樋から水の垂れる、ばらついた音がする。
 霧吹きが路上をぬらす湿っぽい日だ。
 部屋をひっくり返して探し物をする。
 机の引き出し、ベッドの下、カーテンの後ろ、本棚の蔭、クローゼット。
 引っ越した日には空っぽだった部屋にも、多少の生活感が出てきたとはいえ、わざわざかき回して調べるほど持ち物は多くない。
 だけど、必要な手続きだった。
 もういない人を本気で求めたとき、始めて手にはいるものなのだ。
 雑誌のページをめくり、空っぽの花瓶をひっくり返す。靴下を一枚一枚裏返し、治りかけのかさぶたを剥がすよう念入りに探す。
 いつの間にか失ってしまい、気にしながらもずっとそのままになっていた、思い出すことも少なくなったそれ。出来上がったジグソーパズルの余ったひと欠けら。だけど、今なら見つかるはずだ。
 昼前になってやっと見つかった。その頃には雨もあがって、外は明るくなっていた。
 ポケットに突っ込んで、ひどいありさまとなった部屋をあとにする。洗濯物を抱えて廊下を歩いていたあゆをつかまえ、散歩に出る。
 玄関を開けると、もわっとする空気に包まれた。
 雲から逃れた太陽が、休んだ分を取り返そうとまぶしく光を押しつけてくる。
 水蒸気でいっぱいの通りを抜け、消え残りの水たまりをはね散らかして歩く。
 仕事をじゃまされて膨れていたあゆも、いつの間にやらすっかり機嫌を戻し、天気になってよかったね、などといいながら、胸もとをぱたぱたとやっている。
 じんわりと汗ばんで、ロータリーへと向かう。
 昨日よりも暑くなりそうだ。もう夏も近い。
 空っぽのベンチに並んで座って、いろんな話をする。
 いまやってること、凝ってること、家族のこと、話題は尽きない。
 料理うまくなったなという話をする。
 学校にいきたいんだという話をする。
 手伝いはしてるかという話をする。
 朝のごみを出し、布団を干し、物置を片付け、草をむしり、風呂を洗い、洗濯をし、料理を学ぶ。そんな一日の話を聞く。
 報告する様子はどこか楽しげで、最初はまぶしく感じ、そして、安心した。家族にとけ込み、毎日の生活があり、それに、やりたいことがある。
 そんな誇らしそうな姿を見て、いまさらのように気づいた。
「……おまえ、少し背が伸びたんじゃないか?」
「え、ほんと?」
 頭の上に手をかざし、うーんと首を伸ばす。
「でも、もうちょっと欲しいかな」
「そうだな。ざっと三メートルくらい」
「伸びすぎだよ」
 本当に楽しそうに、前を向いて笑うのだ。
 もうひとりでも大丈夫だ、と思った。
 いい機会なので、いままで触れずにいたような話もする。
 そういや、おまえの親戚とかどうしてるんだ?「誰もいないんだって」
 どんな事情でうちに来たんだっけ?「秋子さんがもしよかったらって」
 事故の時ってどうやって病院にいったんだ?「祐一君が助けてくれたんじゃないの?」
 入院費ってどうなってる?「病院で持ってくれたって」
 リハビリ早く終わったな。「奇跡的だってお医者さんがいってたよ。がんばったんだ」
 答える言葉はよどみない。
 病人らしい顔色の悪さは失せ、うっすら汗をかく頬は少しだけ日焼けしている。切りすぎたという髪はいくらか伸びたらしく、目深に被った帽子から毛先がはみ出していた。
「髪、伸ばすのか?」
「うん。やっぱり伸ばした方がいいよね」
「かもな」
「伸ばしたら、名雪さんみたいになれるかなあ」
 つんつんと前髪を引っ張りながら、しみじみ漏らすその口ぶりがおかしくて、つい笑ってしまう。
 なれるだろう。望めばきっと何にだってなれる。
 おまえはなりたいものになれる。
 だけど、あの冬のあいつにはなれないかもしれない。
 手の届かない春を思って、さびしい笑みを浮かべることはないのだ。
「なあ、あゆ」
「なに?」
「ありがとう。今まで楽しかった」


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