■夜■
「お母さん、どうしてお父さんが帰ってくることを黙ってたの?」
名雪が帰って来るのを待って、家族全員の夕食。
「ごめんなさい。ちょっとびっくりさせたかっただけなのよ。少し変なことになっちゃったわね」
秋子が苦笑いして軽く謝る。
真琴はまだ次郎に対し、緊張気味で席についている。次郎は少しでも早く真琴に馴染もうと、積極的に新しい家族に話しかけている。
「僕がジャムの瓶を取り出したんだ。秋子スペシャルの味が懐かしくってね。一度うちに寄って少し食べた後、瓶を片付けておくのを忘れたんだよ」
家族なのだから鍵を持っていて当然だ。
「失礼しちゃうわ。次郎さんてば。私を迎えに来る前につまみ食いなんて」
秋子は普段他の家族には見せないような、可愛らしい、拗ねた表情をする。
「ははははは……。すまんすまん。いや、それだけ秋子の愛情の詰まったジャムが絶品だということさ」
「もう、お父さんってば、誤魔化しちゃって。今日のお母さんのお化粧が念入りだから、どうしたのかと思ってたら、お父さんを迎えるためだったんだね。それなのにお父さんったら」
「お化粧?」
祐一が名雪の言葉を拾う。
「もう、祐一。鈍感だよ。お母さん、いつもよりお化粧丁寧でしょ?」
「いや、秋子さんが綺麗なのはいつものことだから、わからなかった」
「名雪、そんなこと何度も言わなくていいの」
照れながら秋子が名雪を嗜める。その表情も、普段の母親としての秋子は見せないものだった。夫に対してまだまだ熱い慕情を胸にしているんだなと、祐一は素直に感動する。と、その時、頭にひらめくものがあって、彼は思わず叫んでしまう。
「あーっ、それじゃ、ゆうべの秋子さんのレオタード姿は!」
「レオタード?」
「レオタード?」
「レオタード?」
「ゆ、祐一さん! そのことは秘密にしてって、お願いしたでしょう?」
秋子が顔を真っ赤にして祐一を止めようとしたがもう後の祭りである。家族の視線が、秋子に集中した。
「何のことだ、秋子? 何故祐一君にレオタード姿なんて披露したんだ?」
「…………」
秋子はうつむいて耳まで真っ赤にする。そして、もう誤魔化せないわね、と云って、告白を始めた。次郎を迎えるまでに、少しでも綺麗になっておきたくて、深夜にエアロビクスをしてシェイプアップに励んでいたことを。
「あっ、それじゃ真琴が聞いた歌声って」
「すまん、真琴。俺、お前に嘘ついてた。秋子さんに口止めされてたからそうしたんだけど、お前は確かに一階の秋子さんの部屋で流れていた音楽を聞き取っていたんだ」
「そうだったんだ……」
尤も、祐一が黙っていたのは、秋子から頼まれたからというより、その視覚的衝撃が強かったせいもある。
「音量は絞っていたんだけど、聞こえちゃったみたいね」
「そうか……秋子。僕のためにそこまで努力を……ありがとう」
次郎が涙ぐんでいる。本気で嬉しかったらしい。
「次郎さん」
「嬉しい。嬉しいよ。秋子。だから、また秋子スペシャルを頼む。一緒に食べよう」
「はい」
秋子は頬を赤らめたまま、席を立ってジャムのある棚へ向かう。
「あの……聞いていいですか? そんなに、あのジャムが好きなんですか?」
祐一は素朴な疑問を口にする。あのジャムのどこにそんな魅力があるのか判らない。
「ははは……。祐一君はまだ子供だから、秋子スペシャルの味が判らないのか。一度ハマったら、癖になるぞ」
「そんなもんですか?」
「そういえば、祐一君は、真琴ちゃんと恋仲なんだろう?」
「あ、ええ……まあ」
真正面からそう聞かれたのは初めてで、気恥ずかしい。
「だったら、なおのこと秋子スペシャルの味に慣れなきゃな。秋子。二人にもジャムを出してやれ」
「えっ、俺は遠慮します!」
「真琴も、いらない!」
「まあまあ、挑戦してみろ」
席を立たんとする二人の肩を、素早く先に立ち上がった次郎の大きな手ががっしりと押さえつけた。
■深夜■
「ねえ、祐一」
「うん?」
真琴は、隣に寝ている祐一の裸の胸に手を置きながら、甘えるように話しかける。そんな彼女もまた、生まれたままの姿だった。
「なんか……真琴、部屋が揺れているような感じがするの」
「ああ。俺も感じる。下から振動が伝わってきてるんだな」
「それから……変な声も聞こえるの」
「うん。俺も聞こえる」
「それで……声を聞いていると、真琴も……その……また、変な気持ちになっちゃうの」
「俺もだ」
祐一は真琴に腕枕していない方の手をで彼女の腕を取り、自分の方に引き寄せて唇にキスをする。ほんのりと秋子のジャムの味がした。
「不思議。真琴、秋子さんのジャムがあんなに嫌だったのに、今は、癖になりそう」
「同感だ。このジャムにこんな効果があるなんてな」
祐一は劣情のまま真琴を抱きしめ、そして彼女の幼い肌のあちらこちらに強いキスを繰り返す。なるほど、愛情に比例するだけの体力を与えてくれるのならば、このジャムは奇跡のような宝物だ。
「真琴」
「祐一っ」
恋人達の熱情はとどまるところを知らない。
今宵の水瀬家は、1階と2階で熱く燃え上がるのだった。
(おしまい)
もう一人いる
感想
home
prev