■朝■


「真琴、昨日言っていたあの歌声のことだけどな。原因が判ったぞ」
「ホント?」

 夜が明けて、祐一は後から起きてきた真琴に、おはようを云うと同時にそう告げた。

「狸囃子だ」
「何それ?」

 キツネっ娘は首を傾げる。

「狐囃子じゃなかったのが残念だがな。それは俺の故郷の祭りだ。ま、それはそれとして。ちょっと見てみろ」

 祐一は愛しの恋人を自分の隣に手招きする。祐一はソファの前のテーブルの上に広げた、新聞紙の天気予報欄を指し示した。今日の新聞ではない。

「一昨日、昨日と、昼間は暖かかったけど夜になって急に寒くなる日が続いただろ?」
「う……ん」

 気温を数字で見ても直感的に判らないので、真琴は自分で思い出す。

「そういう日は、上空と地上での空気の温度差のせいで音が屈折して届くんだ」

 祐一は物理の授業で習ったことを思い出しながら話す。

「???」
「つまり、天気によって、普段は聞こえないような遠くで起こった音が聞こえるようになる日もあるってことだ」
「そう、なんだ……」
「だから、どこかの家で鳴らされた音楽が、いつもより遠くに届いて、しかもお前は特に耳がいいから、俺には聞き取れなかった歌声を聞き取ったんだ」

 もののついでに祐一は真琴の耳を弄る。んー、と真琴は身を捩って声を漏らす。

「真琴、スッキリした? それじゃ、二人とも朝食にして頂戴」

 秋子が笑みを浮かべながら、トースターの周りにハムとサラダを置いている。
 ソファから立ち上がり食卓に着こうとすると、バタバタと音がして、名雪が髪を梳りながら現れた。

「真琴、おはよー。あ、祐一、新聞見てる? ちょっと貸して。今日の天気予報だけ見たいの」

 新聞紙を手に取る。

「あっ、それ、昨日の新聞だぞ」
「えっ? じゃあ、今日のはこっち?」
「いや、それは一昨日の新聞」
「んん、もーっ! 意地悪しないで」

 軽く苛だったように名雪は古新聞から手を離す。

「してないしてない。あ、ほら名雪、テレビ見ろテレビ。降水確率0%だってさ」
「あ、よかった。あーっ、今日の山羊座の運勢最悪だよぉ」
「って、そこで何故俺を睨む! 星占いは俺のせいじゃない!」
「行ってきます」

 昨日と同じような語調で名雪は玄関に走った。

「やれやれ。じゃ真琴、朝飯にしようか」
「うん……」

 しかし、真琴は完全に納得したわけではなかった。彼女の優れた聴覚は、歌声は確かに階下から聞こえてきたのだと認識していたから。


■夕方■


「祐一っ!」

 帰宅した彼の身体に、真琴は飛び掛るようにしがみついた。

「遅かったじゃないのぅ」
「いや、ちょっと北川とゲーセンに寄っててな。……どうした、真琴? 泣いているのか?」
「怖かったんだからぁ」

 涙目で恨みがましく祐一を見上げる。

「何かあったのか? 何があったんだ?」
「来て」

 真琴は祐一の腕を掴んで引っ張る。

「ほら、あれ」

 緊張しながら彼女の指差す方向を見るが、そこで祐一は脱力する。食卓のテーブルに、秋子特製のジャムの瓶が鎮座していたのだ。

「何かと思えば……そりゃ、怖いっちゃ怖いけど、食べなきゃ怖くないだろう」

 ぽんぽん、と真琴の頭を優しく叩く。

「そんなことじゃないのよぅ」

 真琴はじれったそうに続ける。

「誰が、あのジャムをテーブルに置いたの?」
「えっ、秋子さんだろ?」
「そんな筈ないの! だって、今朝、秋子さんと一緒に家を出るとき、確認したもん。テーブルの上には、何もなかった」

 祐一は、とにかく彼女を落ち着けようと言葉を発する。

「それは……お前の思い違いだろう。仮に泥棒か何かが入ってきたとして、ジャムを取り出してテーブルの上に置くだけなんてありえないだろう」
「だったら、もっと怖い! 真琴が帰ってきたときは家に鍵がちゃんと掛かっていたのよ? やっぱり、うちの中に誰かいるんだよぅ……」

 真琴は怯えて身体を固める。
 と、その時、玄関のドアが開く音が聞こえた。

「秋子さんだっ」

 チャイムを鳴らさずにドアを開けたのだから、それは秋子か名雪の筈だ。より大きな安心を求めて真琴は玄関に向かう。と、次の瞬間、劈くような悲鳴が祐一の耳を打った。

「どうした、真琴!?」

 居間を飛び出した祐一はそこでギョッとして立ちすくむ。廊下には、腰を抜かして尻餅をついている真琴。その奥の玄関にいたのは、ボサボサ髪に伸び放題の顎鬚を生やした大男が立ち尽くしていた。

「だ、誰だ!」

 怯えながら、真琴に駆け寄って肩を抱き、叫ぶ。その男は呆気に取られたような顔をしたが、その表情はたちまち爆笑に変わった。

「ははははは……誰だ、は酷いな。僕はここの家主だ。君の義理の叔父だよ。祐一君」
「え?」
「あらあら次郎さん。祐一さんが最後にあなたと会ったのはまだ赤ちゃんの時よ。憶えていなくても仕方ないわ」

 と、男の背後から見慣れた秋子の顔が現れた。

「あ、秋子さん。次郎さん……次郎さんって、ええええええ!?」

 紀行雑誌のカメラマン、水瀬次郎の久しぶりの帰宅であった。


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