もう一人いる


■深夜■


 ゆらゆらと、大海の水面を漂う夢を見ていた。眠りながら、その身を揺らす振動を心地よく覚えていた。

「……いち、……ゆういち!」

 遠くから、誰かが自分を呼ぶ声が聞こえる。誰もいない筈の場所での違和感。

 ――ああ、夢か。

 それに気づいたとき、祐一は自分が夢の世界から浮上していくのを感じた。

「祐一っ!」

 囁くように、しかし鋭い声で彼女は祐一を見下ろしながら、その身体を布団越しに揺すっていた。

「真琴か…? どうした……?」

 暗闇の中、祐一の部屋のカーテン越しに差し込む僅かな街灯の光りが、彼女のパジャマ姿をそれと認識させていた。

「あ、祐一、起きた」
「何だ、悪戯なら勘弁してくれよ」

 うぅ、と呻きながら頭をハッキリさせていく。

「違うわよぉ」
「性的な意味での悪戯なら歓迎だがな」

 下品な笑いを声に混ぜて布団から手を出し、真琴の腕を掴む。キツネっ娘は、慌ててその手を振りほどいた。

「わっ、ばかー」
「ここんところ、してなかったし、久しぶりに、いいだろ?」

 半分冗談で半分本気で。

「だめぇ。今、そんなことしたらお漏らししちゃう」
「お漏らし?」
「……あのね、真琴、おしっこに行きたいの。一緒に来て。祐一」
「……トイレぐらい、一人で行け」

 少し怒気を込めた声で言い捨て、布団をかぶる。

「あうーっ、寝ないで。下から変な歌が聞こえるのよぅ。だから怖くって」
「歌?」

 祐一は布団から身体を起こし、強く瞬きを繰り返した。

「ん……? 別に何も聞こえないけどな? 歌っていっても、まさか秋子さんがこんな遅くに歌ってるわけないだろ」
「ううん。男の人の声だった。ねえ、祐一ぃ。怖いよ。誰かいるんだよぉ」

 怯えるように真琴は祐一の手を包むように握る。その温もりに、不覚にも祐一の胸の奥がカッと熱く満たされてしまう。
 真琴とのえっちはご無沙汰だが、まあいいか、と思ってしまうくらい彼女が愛しくなった。わかった、と言ってベッドから抜け出し、真琴につきあうことにする。

「階段を降りようとしたら聞こえてきたの」

 とりあえず祐一は階段と2階の廊下の電気を点灯する。光りに目を細めつつ耳を澄ましたが、特におかしな音は聞こえない。

「やっぱり何も聞こえないぞ」
「今は聞こえないけど、さっきは聞こえたのよぅ」
「ん、まあ、それじゃあ、俺についてこい」

 祐一は階段を踏み出し、真琴は彼の背中にくっつくように倣った。

「おまえ、最近、天野から怖いマンガ借りてるから、それで、ありもしないものが聞こえたような気になったんじゃないか?」
「そうなのかな」
「あの、何てタイトルだったっけ。地下室から髭面の大男が出てきたやつ」
「わあーっ、怖いから今思い出させないで」

 祐一はこの間、暇潰しに真琴から又借りした、少女漫画雑誌の中の一作を思い出した。
 進学校に通っている主人公が、人間関係に疲れ、夏休みを利用して避暑地にある、母の友人の経営しているペンションへ一人旅をする。しかし夜毎、不気味な声になやまされ、その原因を探っていくと、隠されていた地下室に、ボサボサ頭で髭もじゃの、精神に異常をきたした男が監禁されていたという話だった。
 祐一自身、読んだ後は暫くいやあな気分になったので、純情な真琴なら、それ以上に影響されても仕方ないだろうと思った。

「夜中トイレが怖くなるくらいだったら、そんなマンガ読むなよ」
「だって……怖いけど面白いんだもん」
「まあ、とにかく真琴はさっさとトイレに行け」

 階段を降りてトイレに到着すると、祐一は中の電気を点け、ドアを開けて真琴に入るように促した。

「ほら」
「うん……」

 ガチャ。パタン。ガチャ。

 真琴は入って直ぐに再びドアを開けて、祐一の顔を見る。

「祐一、そこで待っててね。いなくなっちゃ嫌よぅ」
「ああ、しっかり聞いててやるから、早く済ませろ」
「うん」

 パタン。ガチャ。

「……えっ、今、祐一、変なこと言わなかった?」
「いいから、早く済ませろ」

 真琴が用を足す間、念のため、玄関や秋子の部屋、浴室の方向を見渡したが特に異状は見受けられなかった。居間のテレビを消し忘れた可能性もあると思い、ドアを開けてみたが、その見当も外れていた。

「お待たせ」

 水で洗った真琴の手が、今度は逆に祐一の手から熱を奪った。真琴の怯えが消えないのか、2階まで戻っても手の冷たさはそのままだった。

「ね、祐一、一緒に……ううん、なんでもない」
「真琴、ちょっと」

 祐一は真琴の両肩に手を置く。

「え? あ……」

 彼女の額に唇を押し付けた。

「ちょっとは怖さが紛れたか?」
「うん。……ありがと。ねぇ、真琴は、えっちな祐一はあんまり好きじゃないけど、優しい祐一は好きよぅ」

 ちゅ、と頬にお返し。

「……それじゃ、おやすみ」
「おやすみ」

 祐一は真琴がドアを閉めたのを確認して、電気を消した。


■朝■


「あら、真琴、どうしたの」

 朝の食卓で呆としている真琴を見て、秋子が声を掛けた。齧りかけのトーストが両手の中で冷めていた。

「具合悪いの? 大丈夫?」
「ああ、秋子さん。真琴の奴は、ゆうべ変な時間に起きてしまったから、ちょっと寝不足なだけですよ」
「あら、そうなの?」
「どうして祐一がそんなこと知っているの?」

 声に振り向くと制服姿の名雪が口をへの字に曲げて祐一を見ていた。
 名雪の所属する陸上部は、春の大会に向けて活動が活発な時期になっている。特に部長である名雪ら3年生は、最後の大会なのでモティベーションも高い。普段は寝坊助な名雪が、しっかりと朝練のために早起きしていることからもそれが窺い知れる。

「あ、いや、それはな」
「ゆういちっ」

 真琴がすがるような目で祐一を見つめる。一人でおしっこに行けなかったことを明かされるのが恥ずかしそうだ。だから祐一は口篭るしかない。そんな二人の様子に、名雪は眉間に皺を寄せる。恋愛感情としての祐一への気持ちは吹っ切ってはいたものの、家族として、目の前でこんな様子を見せつけられるのは、矢張り複雑な気持ちであった。

「また二人で寝たの? 朝辛くなるほど疲れるなら、程々にしたほうがいいと思うよ」

 言い捨てて、くるり、と玄関へ向かう。

「待てっ、名雪。何かあらぬことを想像してないか?」
「行ってきます」

 彼の言葉を聞いたのか聞いていないのか、名雪は振り返らないまま学校へ向かった。祐一は頭をガリガリと掻きながら席に着き直す。すると秋子がニコニコ顔を浮かべていた。

「そんな貴方達には、はい、これをお勧め」

 と、いつの間に取り出したものか、秋子特製のジャムの入った瓶がテーブルに置かれる。

「わっ」
「うっ」

 眠気が一辺に吹き飛んだ。二人の食事は、ビデオの早送りのように速くなった。


■深夜■


 ゆらゆらと、大海の水面を漂っていた。昨日と同じ夢を見ているが、夢の中なのでそれとは気づかない。
 祐一はハッと目を覚ます。暗闇の中。ぼんやりと白く天井が見える。記憶が混乱し、彼は枕もとの時計を手に取った。真夜中だったが、いつもの就寝時間から今までの時間を計算すると、それよりも随分長く寝ていたような気がする。
 祐一は目を閉じ、最後の記憶をたどった。夕食後に猛烈な眠気に襲われて、仮眠のつもりで室内着のままベッドに潜り込んだのだった。
 一息つくと、祐一はパジャマに着替えようと立ち上がった。

 …………?

 幽かな違和感。

 震度1の地震かと思った。寝呆けていて頭がグラグラするだけかとも思った。しかし。

 聞こえる……!

 胸がドキリと弾む。真琴の言っていたのはこれか。聞こえるというよりは、振動が伝わってくるという感じだ。
 祐一は着替えを中断し、そろりそろりと音を立てないように歩みだした。自分が音を立てると、もう聞こえなくなりそうな気がしたからだ。神経を耳に集中し、電気もつけないまま忍び足で階段を降りていく。音が近づいてくる。

 こっちか……!?

 祐一は音の出る方向を見定めた。そちらへ向かった。そして――。


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