数日後の夕方。
 実家のリビングのソファーに腰掛けながら、あたしは夕食までの時間をくつろいでいた。
 共働きの両親はまだ帰ってきてはいない。
 あたしと栞だけの、のんびりとした姉妹二人だけの時間。
 以前は失っていたこの時間を、あたしはとても大切にしている。
 今日は先日北海道に住む親戚にもらったおみやげを、二人で食べよう。
 夕食前にお菓子を食べるのはよくないが、両親に内緒で食べてしまうのが楽しいのだ。
 ……そう思って楽しみにしていた。

「……チッ」

 自分の正面のソファーで繰り広げられる、微妙にイライラする喜劇のようなものを視界の端に入れ、あたしは舌打ちする。
 
「祐一さん。あーんってして下さい」
「おいおい、栞……恥ずかしいって香里が見てるよ」
「そんな事言う人、嫌いです」
「仕方ないな……あーん」

 可愛い妹に”あーん”をしてもらっているのは、あたしに気を使っているようで全く使っていない男。
 その名も相沢祐一。
 学校の同級生にして、名雪の従姉妹であり、北川君の親友であり、妹の彼氏である、目の上のタンコブだ。

「どうですか、祐一さん?」
「いやぁ、栞があーんで食べさせてくれるとおいしいな」
「きゃっ、恥ずかしいですぅ」

 きゃっ、側で見てるあたしも恥ずかしいですぅ。
 っていうか、大至急ブチ切れたいですぅ。
 あと、相沢君が食べてるお菓子って、あたしの分なんですけどぉ。
 そんな感情を必死に押し殺しながら、興味もない雑誌を一生懸命読んだフリを続けるあたし。
 嫌なら席を立てばいいのだろうが、後から押しかけてきた相沢君に気を使うのは嫌だった。
 このバカップルを二人っきりにするのは危険だし。
 
「祐一さん。このお菓子の名前知っていますか?」
「確か北海道の、白い恋人だっけ?」
「ふふっ……なんか、この名前って」
「ああ、俺達のことみたいだな」

 などとほざいて一層盛り上がるバカップル。
 いや、全然意味が分からないから。
 とりあえず北海道の皆さんに謝れ。
 あと、相沢君だけ頭強く打って死ね。
 さすがに相沢君をたたき出す方法を考え始めた頃、ようやく栞があたしに気を使い出す。

「あ、お姉ちゃんごめんね。勝手に盛り上がって」
「……別に、かまわないけど」

 本音は全然違うけど、バカップルに切れたら自分が負け組みみたいだから、我慢だ。

「悪いな、香里。最近栞にかまってやれなかったからさ」
「いいわよ。それより……相沢君、大学合格おめでとう」
「サンキュー」

 そう、相沢君はめでたく昨日第一志望の大学を合格した。
 さすがのバカップルも受験直前は会うのを自粛していたようで、昨日からはパワー全開でイチャついている。
 だからまあ、先程からの二人の暴走も多少は大目にみているというのもある。
 もうキレそうだけど。

「あ、そういや……香里の彼氏の方も今日第一志望の合格発表だ」
「ああ、北川さんですか」
「いや、彼氏じゃないから」

 ものすごく自然に口にする二人に一応ツッコミを入れておく。 
 名雪にしてもそうだが、この二人もあたしと北川君と付きあわせたいらしい。
 北川君の事は好意的に思ってはいるが、愛ではない。
 正直、放っておいてもらいたい。自分の事は全て自分で決める。
 こちらの淡白な反応が気に入らなかったのか、相沢君はこちらを見つめながら考え事をする。
 あたしが視線で”何見てるのよ”と睨みつけると、困ったように肩をすくめて答えた。

「いや、そんなに俺達の事が羨ましいなら、香里も彼氏を作ればいいのにと思って」
「なっ……」

 内面はともかく外面ではクールを気取っているあたしも、さすがに今の言葉には”カチン”と来る。
 読んでいた雑誌をテーブルに放り投げ立ち上がり相沢君に食ってかかる。 

「誰がいつ羨ましがったのよ!」
「えー、なんかさっきから俺達のこと気にしてるから」
「き、気にしてないわよ!」

 図星をさされ、自分でも顔が赤くなったのがわかった。
 あせって言葉も続かない。
 対して何故かニヤニヤ笑いの相沢君は余裕たっぷりだ。
 なんだか下に見られている気がして悔しい。
 それでも数秒をかけ必死に自分を押さえつける。
 それから、ゆっくりとソファーに座りなおしてから、反論を開始する。

「相沢君……ちょっと自意識過剰なんじゃない?」
「そうかな? なんか独り者の妬みのオーラーを感じた」
「あんたね」
「白い恋人とか意味分からないから……とか、心の中でツッコミ入れてそうだった」
「えっ」
「ついでに俺に対して、頭強く打って死ねとか思ってそうだった」

 ひぃぃ! 変なところで鋭いんですけどこの男!
 しかし、独り者の妬みとは随分と失礼な発言ではないだろうか。
 そう考えながらも、思考を完全に読みきられた立場としては返答に困る。
 失礼なことを考えていたのは事実だし。完全に負けた気分になってきた。
 しかし、この相沢君の余裕はなんだろうか……これが彼女持ちの余裕か?
 などと考えているときだった。栞が割って入ってきたのは。

「もう、祐一さん。あんまりお姉ちゃんを苛めないでください」

 そう言って相沢君の額を指先で軽くつついた。
 その注意の仕方自体はバカップル丸出しで多少イラついたが、あたしに助け舟を出してくれるのはありがたい。
 期待の視線を送っていると、栞はあたしを可哀想なものを見る感じで言った。

「お姉ちゃんは、今まで一度も彼氏が出来たことがないんですから、私達を羨ましがるのも仕方ないですよ」
「そういや、そうだな」

 チクショォォォ……
 可愛い妹にまで下に見られて、本気で泣きそうになるあたし。
 心の中で血の涙を流しながらも、歯を食いしばり、両方の手のひらを痛くなるほど握り締めながら耐える。
 ここで切れたら完全に負けである。
 バカップルを羨ましがる独り者である。
 あたしは全身全霊を込めた笑顔で辛うじてこの場をかわす。

「まったく、栞は何言ってるんだか」
「あれ? 違いましたか」
「当たり前よ。あたしは彼氏が出来ないんじゃなくて、作らないだけだから」
「そうなんですか」
「そうよ。でも、仲睦まじい二人の邪魔をしたのなら悪かったわね」

 あくまでクールに理解ある姉を演じ、あたしはこの場から立ち去る事にする。

「あたしは席を外すから、後は二人でごゆっくりどうぞ」

 何故だか困った顔の二人に、笑顔で告げて立ち上がり、リビングのドアに向かう。
 腹の中は煮えくり返っていたが、あくまでクールにポーカーフェイスで去り際に会釈をして部屋を出た。
 
「……」

 とりあえず脱出には成功した。
 バカップル相手に無様な醜態を晒さずにすんだのは良かった。
 しかし、ドアを閉めた後もあまりの無念のため、その場で一歩も動けず持っていたハンカチを噛み締め無言で唸る。
 かなり悔しい。
 でも、向こうは恋人同士でこちらは確かに独り身。あの話題で議論するのは分が悪すぎる。
 撤退こそが戦術的にはベターなはずである。勝ち目がないのなら被害は最小で食い止めるべきなのだ。
 確かにこの時のあたしの選択はまちがいなく最良だった。
 ……しかし、思わぬ落とし穴があった。
 部屋を出た後もこの場に留まっていたため、バカップルのヒソヒソ話が聞こえてきてしまったのだ。
 
「……今のお姉ちゃんの話をどう思いますか?」
「彼氏が出来ないんじゃなくて、作らないだけだからってやつ?」
「はい」
「まあ、完全に独り者のいい訳だよな」 
「……ですよね」

 コンチクショウォォォ……
 敵方の思わぬ追撃に、あたしは溢れ出しそうになる涙を必死に押さえながら駆け出す。
 泣いたら負けよ香里! 泣いたら負けなんだから!
 隠し切れない悔しさを振り切るようにあたしは駆け出す。
 
「!」

 当たり前だが、走ったのは本当にわずかな時間だった。
 突然の顔面に吹き付ける冷たい風にあたしは思わず立ち止まった。
 気がつけば目の前にあるのはお向かいさんの家の囲い。
 あたしは咄嗟に振り返り、呆然と自分の家を見上げる。
 なんといつの間にか家を飛び出そうとしていたのである。
 空を見上げればいくつか星が見える。
 まだ夕方とはいえ、この季節は日が落ちるのもとてもはやい。
 もう十分に薄暗いこの時間帯に、外に立ち尽くす自分の格好を見れば、なんとも情けなかった。
 二月のこの寒さの中、コートも着ずに部屋着のままで、履いているのはサンダルである。
 悔しさで我を忘れていたようだ。それほどまでにバカップルのいる家の中に居たくなかったのか。
 ピューっと、また北風が吹いた。
 あまりの寒さに震え自分の体を抱きしめる。それから大きな溜息をつく。
 何をやっているのだろう。自分らしくない。あまりに情けない姿である。
 寒さのせいか、思考が冷静になる。
 どうやら、あたしはここまで我を失うほど悔しかったらしい。
 本当に可愛い妹と友人の仲睦まじい姿が羨ましかったのかもしれない。
 もう一度溜息をつく。
 栞が関わると、あたしの冷静な部分が失われてしまうのは相変わらずのようだ。 
 今後は気を付けようと心に誓う。
 くだらない反省と共に吐き出した白い息が、ゆっくりと空に向かって吸い込まれていくのを呆然と見上げてしまう。
 その時だった。

「えっと、美坂?」
「!」

 突然の聞きなれた声に振り向く。
 そこのいたのは北川君だった。
 先程話題にも出た友人の予想外の登場に、あたしは真赤になって硬直する。

「き、北川君!」
「どうしたんだよ? そんな寒そうなかっこうで」

 不思議そうに首を傾げこちらを見つめている。
 そんな彼の顔を見て、すぐに冷静さを取り戻す。
 そう、彼は先程のやりとりなど何も知らない。焦ることなど何もないのだ。

「えっと、家の暖房が効き過ぎていたんで涼みに」

 この寒い街の真冬にこの言い訳は苦しいような気もしたが、根が素直な彼は信じたようで、小さく頷いてくれた。

「そんな事よりこんな時間にどうしたのよ?」
「報告したいことがあってさ」

 少し照れたように微笑む北川君。
 何かを言いたくて仕方がないが、恥ずかしくて言い出せない。そんな感じだ。
 どうやら嬉しい報告であるのは態度で分かった。
 もう冷静さを取り戻していたあたしは、先程のリビングでの会話を思い出す。 
 今日は彼の第一志望の大学の合格発表の日だ。 

「あ、ひょっとして大学のこと?」
「……あらら、気づかれちゃったか」

 北川君は真赤になりながらも、姿勢を正し、何故かガチガチ緊張した表情で直立姿勢を取りながら報告してくれた。

「この度、私北川潤は……めでたく美坂香里殿と同じ大学同じ学部に合格致しました!」

 軍人のように敬礼し、本当に嬉しそうに微笑む北川君。
 なんとも誇らしげな笑顔だ。
 あたしは寒いのも忘れ彼に駆け寄り、思わずその手を握りしめた。

「よかったわね! 合格おめでとう」

 あたしは心から賞賛の言葉を送った。
 彼の両手を景気よくブンブンと振り回す。
 正直に言わせてもらえば、あたしが推薦で合格していたのは、彼の学力では相当厳しい大学だったのだ。
 最近彼の成績が良くなってきたのは知っていたが、それでも合格率はかなり絶望的だったはずだ。
 それでも彼は見事にその難関を突破し、合格したのだ。大変素晴らしいことである。友人としてこんなに嬉しいことはない。

「これで春からも同級生ね。これからもよろしく」
「……み、美坂ぁぁぁ」

 突然、あたしの手をギュッと握り返し、瞳に涙を溜め始める北川君。
 目の前で同級生の男の子が泣き出したら驚きである。
 手を握られたままあたしが困っていると、彼は涙を隠そうともせず、意を決したようにあたしに迫ってきた。
 北川君に至近距離で見つめられ対応に困ってしまう。

「美坂!」
「な、何?」
「俺……大学に合格したら言おうと思っていた事があるんだ!」

 北川君は鼻息が感じられそうな程興奮している。
 ……これは、やばい。
 北川君とは対象的にあたしの中の冷静な部分が危険信号を発する。
 告白されてしまう。
 北川君があたしに好意を持ってくれているのは、かなり前から知っている。
 だが彼はあたしに友人以上の関係を求めてきたことは一度もなかった。
 だからあたしは達は仲のいい友人でやって来れたのだ。
 友達以上恋人未満という適度な距離感で。
 止めなければいけない。
 しかし北川君の勢いは止まらなかった。

「……俺は今まで自分が、美人で頭もいい美坂に相応しくないと思って、言えなかったけど」
「ちょ、ちょっと」
「ずっと前から美坂の事が好きだったんだ!」
「待って……」 
「俺と付き合ってくれ」

 言われてしまった。
 顔を赤らめながらも、まっすぐな瞳で見つめてくる北川君。
 それを見つめ返しながら、あたしは考える。
 栞さえ関係しなければ、いつでも物事を冷静に考えられるタイプではあるのだ。
 さて、告白されてしまった。
 あたしとしたことが、不覚である。
 しかし、過ぎたことは仕方がないので、今は対応策を考えねばならない。
 北川君の事は間違いなく好きである。
 ただ……それは友情の範囲を抜け出すものではない。
 だから恋人として付き合う気はない。あたしは今の距離感が好きなのだ。
 しかし、ここで告白を断ってしまったら二人の適度な距離感はどうなってしまうのか。
 あたしは平気だが、北川君は絶対に気にするだろう。
 せっかく同じ大学に通えるのに、大変気まずい思いをする事になりそうだ。
 最悪の場合あたしは大切な友人を一人失うことになるかもしれない。
 あたしの手を握る北川君の手が小刻みに震えている。
 彼の思いが痛い程伝わってくる。
 当然無下には断れない。必要なのは冷静な対応だ。
 考える時間をもらう。
 あたしなら時間があれば丸く収める方法も思いつく。
 冷静にそう判断した直後だった。
 突然家のドアが開いたのは。

「どうしたのお姉ちゃん? なんだか大きな声が聞こえたけど」
「あれ、北川じゃん」

 家の中から現れたのは当然、栞と相沢君。
 寄り添い合う二人を見て咄嗟に思い出す。先程のリビングでのやりとりを。
 あの悔しさを。あの無念さを。寒空の下に駆け出した無様な自分を。
 同時に忘れたのは冷静な自分。
 だから言ってしまった。栞と相沢君の前で。言わずにはいられなかった。
 友人達の突然の乱入にあせる北川君の両手を握りしめたまま。

「わかったわ。付き合いましょう」
 
 
『栞が関わると、あたしの冷静な部分が失われてしまうのは相変わらずのようだ』
『今後は気を付けようと心に誓う』

 そんな誓いを思い出したのはもう取り返しがつかなくなった後のことだった。
 生まれて初めて彼氏ができた。
 ただし、想定外の情けない展開により。
 この夜あたしは自分の愚かさをとても後悔することになるのだった。
 
 
 


home  prev  next