真琴が帰ってきてから一週間経って、私は相沢さんにものみの丘に呼び出された。
 あれから一度も真琴には会っていない。相沢さんと顔を合わせることもほとんど無かった。他の方も言わずもがな。
 きっと、それをちょっと不審に思ったのだと思う。ひょっとしたら、相沢さんは私が何を考えているのか察しが付いているのかもしれない。
「待たせたな」
 私の到着から十分が過ぎて相沢さんがやって来た。
「いえ、相沢さんも遅刻はしていないですよ」
「ま、な。それでも待たせただろうし」
「そうですね、十分だけですけど」
 そうやって笑みを返した。こうして笑みを見せれば、本題を切り出しにくいと思ったから。
「なんか、あったのか?」
 けれど、私のその返しに格好を崩すことなく、相沢さんは尋ねてきた。
「何か、とは?」
「いや、あれ以来、ロクに顔合わせないから、気になったんだけど」
「そうですね」
 さっきと同じ返事。だけど巧く笑みを作ることができなかった。
 しばらく間が空く。さえぎるものの無いお陰で、冷たい風が強く吹き付けられる。草木も、春の訪れを感じさせるには、まだ遠かった。
「多分、嫉妬しているんですよ」
「嫉妬? 天野が、誰に?」
「自分でもそれはよくわからないんです」
 夕焼けが丘を赤に染め上げる。日の傾きが急になった分だけ、相沢さんの顔の陰影が良く映えた。その向こうに、力のある眼差し。それを得るために通り過ぎた苦労は、いくつほどあったのだろう。
「相沢さん」私は背を向けて質問する「何故、あの子は帰ってこないんでしょうね」
「え……」
 戸惑う声が聞こえる。背を向けているから表情まではわからない。あの子というのが誰なのか結びつかなかったのかもしれない。なにせ、私はあの子のことをほとんど相沢さんに話していないのだから。
「真琴が帰ってきた。それは嬉しいことなんでしょうけど、どこか憎いと思ってしまうんです。それが、誰に対してなのか分からないですけど」
 真琴が帰ってきたあの日。晩御飯を一緒にした時に、どうしてか自分だけが蚊帳の外にいるような感があった。それは疎外感とは違う。事実、水瀬家の人達は、私を迎え入れる用意をしてくれていた。なのに、私はどこか、遠い出来事のように眺めていた。
「……」
 返答に詰まっているのがわかる。今度ははっきりと言いたいことが分かった上で。相沢さんに、こんな話をしていても始まらないとは思うけれど、言葉を止める事はできなかった。元より、吐き出す場所なんて限られていたのだから。
 何故だか自分が、相当嫌な人間になっている気がした。いや、きっとそうなのだ。幸せの絶頂にある最中の人に、あえて闇を押し付ける。私がやっているのはそういうことだ。
 水の底。深く沈殿している黒いもの。今の心の場所で、一年前までに私がいた場所でもある。私は、元の場所に戻っていたみたいだ。
「天野」
 相沢さんの呼びかけが聞こえる。背を向けたまま、なんでしょうか、と返事した。
「お前と、真琴は、友達なんだよな」
 その言葉に、少し心が揺れた。
「お前の質問にはっきりと答えるのは、俺にはできないし。この質問がさっきの話の答えになるのかもわかんないけど」
 一拍置いて、戸惑うような、けど何かの確信を持っているような声で、続けた。
「俺は、お前と真琴が友達になれると信じているよ」
 そう告げて、相沢さんは丘を降りていった。

 丘に立ったまま、そこから風景を眺めていた。自分の家と、相沢さんたちの家。距離は、ここから見ても遠い。それは、今の心の距離を表しているようにさえ思えた。
 寒い。そう呟いた。いつしか夕陽は姿を半分程しかさらしていなかった。これからもっと冷たい風が吹いてくるだろう。それでもいいか、と思いなおすとこの寒さも気にならなくなってきた。心の澱にまで達した自分を実感すると、人々の交わす言葉だけでなく、皮膚感覚でさえも遠い出来事のように思えてしまう。
 それでも、さっきの相沢さんの言葉だけは届いた。友達。そう、私と真琴は友達になったはずだ。だけど、真琴は最初その事実すら失念していた。それで果たして、私たちは友達になれるのだろうか。
 自分への問答に答えがでないと分かったところで、私は帰路についた。
 
 あの子もまた、真琴と同じように、日に日に知性を落としていった。そうやって落ちていく過程は、どこまでも残酷で、悲しかった。
 箸を握れなくなった。しょうがないからといってスプーンを渡して食事をさせた。それでもご飯はぽろぽろとこぼれていって、そうして苦労して食べるご飯は、あまりおいしそうに食べてるようには見えなかった。私の表情は歪んでいたに違いない。
 ん、ん。つまむというより、つかむという表現が似合いそうなスプーンの握り。お世辞にもおいしそうに食べてるとは思えない、苦労している表情。
 頑張って、食べなさい。おざなりに聞こえてしまう自分の声。それだけ、今の状況に対する落胆が大きい。
 むずかしい。私の言葉を気にする風でもなく、淡々と食事を続けるあの子。何を言っても言葉が辛くなりそうで、私はなにも言わないようにした。
 私が望んだ日常は、徐々にひび割れたものになっていくのがわかった。
 あの頃の私は、漠然とした怒りに包まれていた。心も視野も狭かった。
 だから、私は――。


 あんな出来事があった後でも、私と真琴の関係が進展する事も後退する事も無く、私は日々に埋没していった。真琴があれからどうなったのかは知らない。ひょっとしたら、昔みたいにバイトを始めているのかもしれない。保母さんのバイトをしていた、というのは相沢さんから昔聞いた話だ。その相沢さんとも、あまり会話をしていない。
 一人でいる時間が更に増えたお陰か、私は昔の思い出を解きほぐす回数が増えていった。真琴、という鮮明なイメージが、私の懐古を助長させているのかもしれない。けれど、私はその中で一度も、二人の終着点に到達するには至らなかった。出会いの思い出から始まって、楽しく過ごした日々、そして日常の崩壊、そこまででイメージが途切れる。それから、が浮かんでこない。
 本当に、いい子だった。私の幸せな思い出の大半は、あの中にある。それ以外の思い出は、母がまだ兼業主婦だった頃のものだ。失ったものを取り戻してくれた、表情が豊かで私を楽しませてくれた。なにより、笑顔が可愛らしかった。どうして、あの子は帰ってきてはくれないのだろう。

 相沢さんからの二度目の呼び出しがあったのは、そんな考えが頂点に行き着いたところだった。
 なんと間の悪い、とは思ったものの無碍にするわけにもいかないので、それに応じた。場所は前と同じようにものみの丘だった。

 約束した場所にいたのは、約束した相手ではなかった。待っていたのは、帰ってきた妖狐だった。もちろんあの子じゃなくて、真琴だ。
「久しぶりっ」
 窺うような姿勢も無く、無垢に笑顔を向ける真琴は、あの子と重なってしょうがない。
「お久しぶりですね」
「うんっ、あれから全然顔合わさないから、祐一にお願いしちゃった」
「そうですか」
 そうして、草原に腰掛けるように促され、私と真琴は話に興じる事になった。話すときの真琴の表情は豊かだ。だからこそ思ってしまう。
 ――ああ、あなたは本当にあの子にそっくりなのね。
 仕草が、笑顔が、最近描くイメージと重なっていく。あの子は、こんなに自分から話す性格じゃなかったけれど、それでも頭の中の映像が実を伴って現れたように思えてしまう。そうだ、あの子はこんな髪の色で、瞳が揺れて、目元が可愛らしかったのだ。
「それでまた祐一がね、真琴のにくまんを食べようとするから……って、美汐聞いてる? どうしたの?」
 声質も似ている。語調は明らかに別のものだけれど、それは性格の違う双子のように私に移る。
「――美汐……みしおっ!」
 真琴の強い言葉に、意識が戻される。また、沈んでしまったようだ。
 内に向いていた意識が外に向く。それだけで分かる。真琴は違う人、なのだと。
「あっ、美汐。どうしたのっ?」
「……真琴は相沢さんから、何か言われましたか?」
 真琴の言葉を流して、私は質問した。
「え、うん。別になんにも言われなかったけど」
 無視をして話す私に驚いているのか、真琴の返事の調子は乱れていた。
 けれど、嘘を言っているようには見えない。きっと、この子もまた、嘘を言えるような人柄ではないだろう。沈黙か、あからさまになるかどちらかだろう。
「以前、相沢さんとお話するときに、私はあの人にこう言ったんですよ」
「? なんて?」
 相沢さんが何故、真琴に何も言わなかったのか、私には分からない。だけど、今の私は真意を悟るまで考え込むほどの余裕なんてなかった。考えるつもりもなかった。
 それとは別に考える。今から私が言おうとしている台詞は、真琴にどんな反応をもたらすのだろう。戸惑い、当惑、昏迷、言いようはいくらでもある。だいたいそんなところだろう。けれど、なにか解になりそうなものを秘めているのかもしれない。そう考えると、これから言う台詞を止められはしない。
 残酷な言葉かもしれない。この子もまた、幸せの絶頂であり、私は今相沢さんにしたようにそこから引っ張り落とそうとしている。だけど構わない。構っていられないと決めたから。
「どうして、真琴は帰ってきたのに、私のあの子は帰ってこないのか、って聞いたんですよ」
 そう宣告して、私は真琴を草の上に組み敷いた。

「……え?」
 ワケが分からない。という表情をして、真琴は私を見つめていた。次第に、状況が飲み込めてきたのか、息を呑むような音が聞こえてくる。
「私にも、あなたに似たような子がいたのは、知ってますか?」
「う、うん、祐一に聞いたから」
「だけど、私のあの子は帰ってきていないんです。何故でしょうか?」
「そ、それは……」
 先ほどの希望的な発想は、発想にしかなりえないとわかった。解はない。だとしたらこれから先に続くのは、彼女を澱に引きずりこむための時間だ。
「ま、真琴は、ただ祐一たちの元に帰りたいと思っただけで……」
「そうですか」
 あなたが帰ってきた理由は、この際どうでもいい。そこに何か答えになるものがあるなら、話は別だけれど。
「私は、この世界が嫌いです。あなただけを受け入れて、あの子は受け入れさせてくれない」
「あぅ……」
 詰まったように言葉が出てこなくなる真琴。
 あの子と真琴にどれほどの違いがあったのだろう。けれど、世界の摂理は真琴を受け入れ、あの子は外れた。だとしたら、受け入れられた真琴がまたいなくなったのなら、世界はどう動くのだろう。
 そうだ、この子が受け入れられているなら、この子さえいなくなれば、バランスを取るように、あの子が帰ってくるかもしれない。そうに違いない。この状況はチャンスだ。このまま、真琴の息の根を止めてしまえば、あの子が帰ってくる。帰ってくるんだ。
「ごめんなさい。あなたのことは嫌いではない、と思うのだけれど」
 そう言って、私は真琴の首に手を掛けた。目を閉じる。緩やかに、けれど確実に私は力を込めていった。
「ぁぅ……」
 細くなっていく真琴の声。こんな真似をして、真琴は恨むかしら。相沢さんは間違いなく恨むでしょう。けど、この子はどうなのかしら。きっと、純真な心だから、死ぬ瞬間まで私の悪意に気付かないかも。そんなはずはない。私は今、相沢さんに対して以上に悪意を振りまいている。きっと真琴には、憎悪の感情が渦巻いているに違いない。だけど、あの子が戻ってくるならば、そんなものは大した問題にはならない。だから私は、最後にその表情でも拝もうかと、閉じていた目を開けた。
 その表情を見て、私は戦慄した。恐怖もなく、怒りもなく、そこにあったのはただ悲しみだけだった。捨てられたものだけがもつ、悲しみの情。それは、私が意図せずに閉ざしていた、最後のイメージを呼び起こさせた。


 一度目の発熱の峠を越えて、あの子は全く言葉を発さなくなった。外に興味を示す事もなく、ただ部屋で寝るばかり。もはや、テーブルに座るのすら困難で、一緒に食事をするのは私の部屋にならざるを得なかった。私一人の力では、到底不可能な作業ばかりだったのだ。そう、もはやあの子との食事は、作業と呼ぶに相応しかった。
 時折、表情を動かしはするけれど、どれも変化に乏しく見ていて気が滅入るだけになっていた。私の話相手は、もう居なくなっていた。ただ一人、精巧に出来た人形に話しかけるようなそんなイメージだった。それでもあの子は、私を追うように動いた。表情も変えず、ただ淡々と私に追いすがる。居なくなれば泣き喚く。学校に行くことも叶わなかった。
 私にとって、決定的になったのは、珍しくお母さんが帰ってきた時の、食事だった。お母さんのお陰で、あの子をテーブルに座らせることが出来た。そして、三人での食事。楽しくなるはずの食事は、果たしてその通りにはいかなかった。知らないうちに、知性が衰えていたあの子を見て、戸惑うばかりのお母さん。後で、事情を訊きたいのだろう、食事中、ずっとお母さんは私を見据えていた。案の定、お母さんは私だけを呼んで、事情の説明を要求した後にあの子のこれからの身の振り方を話した。私だって、事情なんて分からない、ただ衰弱していって、ああなっただけとしか言えなかった。あの子は、施設が預かる事になるだろう、最後にそう私に説明して、お母さんは寝室に行った。つらそうな顔だった。
 どうしてこんな事になったんだろう。私は考えて、考えて、考えて、答えが出ないままに自分の部屋に戻った。ベッドにはあの子が寝ていた。
 こうしているのも、これで最後なのかもしれない。
 だから私は――彼女と決別することにした。私の日常を壊した人。一人の時以上に辛い食事を教えてくれた人。さよなら。心の中で私はそう呟いた。
 翌朝、あの子はまた熱をだしていた。二度目の高熱。
 だけど今日はお母さんがいるから、私は久しぶりに学校に行こうとした。登校の準備をして、部屋を出ようとすると、あの子がこっちをみて声を出す。言葉にはできないそれは、まさしく鳴き声だった。
 どうしたの? 私は尋ねる。だけど返事が帰ってくることは無い。言語はとっくの昔に失ってしまった。
 学校に行かなくちゃいけないの。それに、もうお別れだから。昨日言いそびれた言葉を投げかける。
 だから、もうさようならだね。私は遂に別れの言葉を告げた。
 その瞬間、あの子に浮かんだのは、絶望を抱えた悲しみだった。捨てられた。言葉を発する事のできないはずの彼女から、今まで感じたことのないほどはっきりと言葉を投げられた気がした。捨てられた。捨てられた。
 そして、私が何か言葉を掛けようとした矢先、あの子はそこに居なかったかのように消えていった。あるのはただ、あの子が着ていたはずのパジャマと、かぶさっていた毛布だけだった。


「う……ううっ」
 それが事実。その事実は質量を伴っているかのように私に衝撃を与えた。耐えられなくなって顔を伏せる。けれど伏せた先にあるのは、真琴の体だった。
「どうしたの美汐っ……泣いてるの?」
 首を絞める力が緩んだようで、真琴が声を掛けてきた。だけど、その言葉も今の私には届かない。
 そうだ、私は見捨てたのだ。あの子にとっての救いであったはずの自分は、その救いである事を放棄した。真琴は言った。自分はただ、祐一達の元の帰りたいと思っただけと。自分を迎えてくれる場所に戻りたいと思ったから帰ってきたのだ。
 だから、あの子が帰ってくるはずがない。見捨てた私の元に、あの子が戻りたいと思うのは、到底ありえない。帰る居場所がある真琴と、失くしてしまったあの子。私が失くしたあの子。

 そこにあるのは残酷なまでの距離。私はそれを見て絶望してしまう。
 声も届かない。息も聞こえない。手を伸ばしても届かない。
 私は憎んだ、世界を、この世の摂理を、束の間しか与えられない奇跡を。

 だけど、本当は。

 距離を作ったのは自分。絶望したのも、させたのも自分だ。
 口を閉ざし、耳を塞ぎ、伸ばした手を振り払った。
 ただ憎むだけに終始した自分は、束の間の奇跡から、あの子をたぐりよせる真似なんてできなかった。
 

 分かっていた。本当は分かっていた。私が嫉妬していたのは、私に出来なかった事をやり遂げた相沢さんで、私が憎んでいたのは、私自身の弱さだったことに
 だけど、気付いたところでもう遅い。私はまた過ちを犯した。私は真琴をこの手で、殺めようとした。救いの手を振り払うどころか、私は自ら他人の奇跡を奪おうとした。
 私のこれから過ごす道はもう限られている。贖罪の道。だけど、赦しを与えてくれる人はもういない。私が消したから。だから、私は一生をそのままで過ごす。死んだ後に贖い受けるかもしれないが、きっと私とあの子は同じ元には辿りついていないだろう。私はもう、どこにも進めないんだ。

 
 私の背中に、真琴の手が回ってきた。その手がさするように、背中を上下する。
「大丈夫?」
 なんで、この子はこんな風にいられるのだろう。
「ごめんね、美汐がそんな風に考えてるなんて知らなくて」
 どうして。
「でも、真琴は、一度は、忘れちゃったけど」
 もはや私の手は、真琴から完全に離れていた。
「あの時、美汐が真琴に優しくしてくれたのを知ってるから」
 お名前は?
 そう尋ねたあの時のことだろうか。だけど私は、決して優しさだけであんな振る舞いをしたのではないのだろう。弱いものを守る事で、自分自身の保全を図る。そんな風には決して考えなかったと、胸を張って言えるのだろうか?
「だって、今思い出しても、美汐はやさしい顔だったから」
 真琴は笑顔で、だけどどこかおそるおそると。
「だから、美汐。友達になろうよ」
 そっと、胸の前に手が差し出された。
 少し震える右手。それはきっと、真琴もまた救いを与える行為に戸惑いを覚えている証なのだろう。これは、真琴が与えてくれた、私への救いだ。
 けれど、許されるのだろうか? 一度底まで沈み、また少し浮かんだと思ったら沈む。さらには、他人までその澱に引き込もうとした私に、救いが与えられるのは。
 くもの糸のような可能性。もしもう一度、私が誰かを蹴落とそうとするならば、糸は切れ二度とたらされはしない。
 出来るのだろうか、私に。二度も底に沈み込んだ私だ。これからそれを直せる保障なんて、どこにだってない。だけれど。
「やったぁ! ありがと、美汐!」
 それでも、やり直そうと思える。これからの道は険しくて、弱い心で臨めばいつだって折れる可能性があって、だけれどもう一度があるとするなら、それに残りの一生を費やしたいと思える。私はもう迷わない。


 泣いて顔がぐしゃぐしゃになった私を、真琴は園児に付き添うかのように手をつないで歩いていった。丘から降りるのも、もう間もないだろう。
「あ、そうだ」
「なんですか?」
 急に立ち止まって、少し後ろを歩いていた私に向き直る。
「祐一に何か言われてないか、って訊かれたけど、ちょっとだけ嘘ついちゃった」
「え?」
 それじゃあ、私の悩みを真琴は知っていたのだろうか? 
「ううん、さっきのことは知らなかったけど。『天野は今、すごい悩んでるみたいだからな、友達として力貸してやれよ』とか言ってた。祐一のクセに偉そうよね?」
 別の話だったけれど、それはきっと私の思いを見越しての、真琴へのアドバイスだったんだろう。
「なんか『天野には言うなよ』とか言ってたけど」
「……どうして、私にそれを言おうと思ってたんですか」
「ん、なんでだろ、わかんない」
 それきり、真琴は前を向いて、再び歩みを進めていった。手をつないでいた私もつられて前に進む。
 相沢さんもまた、私に救いの手を差し伸べてくれた一人なんだと、今更ながらに気付く。真琴との別れがあってからも、あの人は明るく振舞い続けていた。それは、私がそうさせた部分もあるんだろう。人のやさしさ、思いやり、どれだけ私は気付かぬうちに与えられて、振り払ってしまったのだろう。
 けど、もう沈んではいられない。私は救いを受けて、そして立ち上がると決めた。これから先、私は沈まず、誰も澱に引き込まずに、前を進まなければならない。そしてまた、誰かが私を求められることがあるならば、私は手を差し伸べられる人間になりたい。そうすればいつか、私はあの子の元に辿りつけるかもしれないから。
 赦しが欲しいのではない。贖いをいくら続けたところで、私の罪が減じることはないだろう。
 もしあの子の前に自分が現れて、何か見せるものがあるとするなら、それはもう私がこれから創りあげる道程に他ならない。今の私にはもう、誇れるものなんてなにも持ち合わせていないのだから。
「やっと降りたーっ」
 丘を降りて入り口に到着する。首だけで振り向けば、私とあの子の思い出の場所。私は声に出さずに言葉を告げる。
 ――さようなら。
 いつか再会を果たす時に、胸を張れる自分になる事を誓っての別れ。
 私は前に向き直り、つないでいる真琴の手をそっと握り返して歩き出した。



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