そこにあるのは残酷なまでの距離。私はそれを見て絶望してしまう。
 声も届かない。息も聞こえない。手を伸ばしても届かない。
 私は憎んだ、世界を、この世の摂理を、束の間しか与えられない奇跡を。
 
 だから私は、最初信じる事が出来なかった。相沢さんの元に真琴が帰ってきたという知らせに。




 手と手をつないで




 二月の始め、相沢さんから連絡がかかった。真琴が帰ってきたと。それを受けて私は、水瀬さんの家にうかがうことにした。
 冬はまだ終わりを迎えない。この季節独特の奔放な風が吹き付ける。ゴミが入らないように目を細めながら、私は相沢さんの家へと向かった。私の家から水瀬さんの家までの距離はかなり遠い。下校の時に相沢さんと会うと、校門で別れるようになる。そんな距離だ。
 時折、相沢さんに誘われて、水瀬さんの家にお呼ばれしたすることがある。発案は大抵秋子さんで、相沢さんはそういう指示でも出されているのか、私の家まで迎えに来ることが多かった。今歩いている道は、その時の道のり。迷い無く歩が進むのは、それだけ私が水瀬家の人たちからの温情を受けてきた事の証左なのだろう。
 相沢さんと歩く時は大抵、真琴の話が出てくる。私と相沢さんが話すときは、私が聞き役に回る事が多い。だから、私は真琴のことをよく知っているけれど、相沢さんはあの子のことを実はよく知らなかったりする。どれもこれも、相沢さんは幸せそうに話をする。その時の表情が印象的だった。


 その日の相沢さんのお話は、水瀬家一同で撮ったプリント機の話だった。
 あの時撮ったプリントは、今も大切にみんな持ってるよ。名雪も秋子さんも。二人ともそれ以外では使ったことなんてないのに、何故かそれだけは大切に保管してる。
 口元を緩めて話す相沢さん。何故か、なんて言ってるけれど、その理由もしっかりと理解しているはずなのだ。 
 本当は、分かってるんですよね? と尋ねれば。
 はは、まあな。と破顔して答える。そんな、いつものやりとり。そう、本当は分かっているくせに、相沢さんは何故かなんて言い回しを良く使う。照れ隠しなのか、私にあえて追及されたいのか、それとも別に理由があるのか、そこまでは知らない。
 そういった話も一通り済むと、学校とかの日常の話になる。中間テスト、学食の味、数学の先生のお話。
 私はいつも、そんな他愛の話をしている最中、別の事を考えている。真琴の事、それから連想されるあの子との思い出。あの日は確か、あの子と最初に出会った日のことを思い出していたように思う。

 中学一年生の頃だった。私の家は母子家庭で、母と私の二人暮しだった。母はやさしい人だったけれど、仕事が忙しくてあまり一緒にいてはくれなかった。家に帰っても一人、それが嫌で遅くまでどこかで時間をつぶしていたこともあった。私は誰かと一緒に食事をする事に飢えていた。一人で食べるご飯の味気なさは、私を日に日に弱らせていく気すらした。この生活が始まって、三年くらいが経ったけれど、私は一向に慣れることはなく、一人である事を日ごとに実感していくようだった。
 いつものように一人で帰る放課後。今日も母は遅くなると言っていた。だから足取りは重く、そうやって踏みしめる一歩一歩が、自分の孤独さを確認しているようにすら思っていた。だけどその日は、違っていた。家の目の前に一人の女の子が立ち尽くしていたからだ。それがあの子。人里にあらわれて、人々に災厄をもたらすハズの妖狐の生まれ変わり。
 記憶がないと言っていたあの子を、快く母は居候させてくれた。今思えば、寂しがっていた私への配慮にもなると考えていたのかもしれない。事実、私はあの子と親しくなり、家にも早く帰るようになった。いい子だった。


 気が付けば、私は水瀬家の前に立っていた。思いにふけっている内に、たどり着いてしまった。どうも私には、そんな傾向があるらしい。天野って妄想癖があるよな、とは相沢さんの弁だ。言葉になんだか底意があるような気がしたので、その場でちょっとした報復をしたけど。
 ドアの前に立ち尽くす。呼び鈴を押すところで少しためらって、けれど私は押した。ドアの向こうで騒がしい音が聞こえたかと思うと、扉が開いて中から相沢さんが出てきた。
「よっ、天野」
 いつものように気軽な挨拶を交わそうとする相沢さんに軽く会釈をする。そして真琴の所在を尋ねた。
「居間で名雪たちと軽いパーティ開いてる、入れよ」
「そうですね……お邪魔します」
 そうして私は水瀬家の敷居をまたいだ。

「……あぅ?」
 居間に入ってきた私を、真琴は不思議そうな顔で見つめてきた。
「えと、この人、誰?」
 場が凍りついたような気がした。今思えば、あの時のやり取りなんて、真琴ははっきりと覚えてないのかもしれない。したことといえば、抱きしめて互いの名前を交わしただけ。それだけでも意味はあるのかもしれないけど、それだけじゃ足りないのかもしれない。
 凍結した空気を振り払うかのように、相沢さんが真琴に強めの声で問いただす。
「バカ、忘れたのか? 天野だよ。お前と一緒に名前教えあっただろ?」
「んん……」
 そうして真琴は、私をじっと眺めた。最初は記憶にない、というような顔をしていた真琴だけれど、やがて焦点があったかのように私を見つめる。
「天野……さん?」
 そういえば、私はあの時名字しか教えてなかった。
「改めまして、天野美汐です。好きなように呼んでくれてかまいません」
「んと……じゃあ、美汐、でいいかな?」
 窺うように私を見る。この子は人見知りのする子なのだろう。私と母以外にはあまり懐かなかったあの子のように。
「はい、構いません。よろしく、真琴」
「……うんっ。よろしく美汐」
 そうして真琴が笑顔を見せる。その瞬間に、部屋を包んでいた冷気が全て取り払われた。思い思いに笑顔が作られる。よく見ると、秋子さんはお菓子を作っているようだ。
「お邪魔してます。挨拶が遅れました」
「あら、美汐ちゃん。いいのよ今日はそんなかしこまらなくて」
「そうだよ、今日は嬉しい日なんだから」
 秋子さんも、名雪さんも笑顔。その笑顔は、最後には真琴のもとに向かう。それを受けてはにかむ真琴だけれど、それも最後には笑顔に変わる。それは理想的な空間だった。
 理想的な空間、私が望んだもの、私が失ったもの。あの子との日々が私にもたらしたものは、そういう形容が良く似合う。
 食事の時間が楽しみになった。それまで、作り置きや冷凍食品が多かった私の家で、たとえそれだけであっても楽しい食事が出来ることを教えてくれたのがあの子だ。どんな料理でも表情が千変万化するあの子が楽しくて、一人の時には感じられなかった味も感じられるようになった。自分で料理を作るようにもなった。それを食べるあの子の表情を見るだけで自分も満たされる。人懐っこい笑みが崩れる事は無くて、家の中でも外でも私とあの子は一緒に過ごしていた。
 今在るこの空間は、あの時とは違う。私はこの中に含まれている人間なんだろうか。

 秋子さんから晩御飯のお誘いを受け、私はご相伴に預かる事にした。珍しいな、と相沢さんが言ったけれど、今日は母が帰ってこない旨を伝えると得心のいったような表情をした。
 以前もそう思ったものだけれど、秋子さんの腕は相当なものだ。特に今日は、その腕によりをかけている。その理由は言うまでも無い。
「作りすぎちゃったかしら」
 照れくさそうにそんな台詞を言う彼女に、
「いいんじゃないですか? 今日は」
 相沢さんはそう返した。
「秋子さん、早く早く」
 急かすように真琴が言う。目の前のごちそうに我慢が出来ないのだろう。
「真琴、もう少し落ち着きなさい」
「あぅ、美汐」
「そうだ真琴、天野みたいにだな、おばさんくさい領域にまではいかなくとも、もう少しおとなしさを――」
「何か言いましたか?」
「――いや、なんでもない」
「ふぅ、まったく……」
「それでは頂きましょうか」
「おそいよー」
「うんっ」
 そうして晩御飯の時間が始まった。


 みしお、これはなんていうの? あの子がそうやって聞いてくる。
 夕食の時間だった。私が作る料理。最近始めたばっかりだけど、私は料理の才能が少しあったらしい。ここまで目立った失敗は一度もなかった。魚の焼ける、いい匂いを嗅ぎながら私は答えた。
 これは鮭っていうの。今日は塩焼きにして食べるから。
 おいしそう。いつもの豊かな表情でグリルの中に入っている鮭を見つめる。
 行儀良く、テーブルで待っててね。そう諭して、私はキッチンからあの子を追い出す。
 けれど、私はそうやって楽しそうに私が料理する姿を見つめるあの子が嫌いじゃなかった。けれど、追いすがるように私を見つめる姿も好きだったから。
 そうして出来たご飯をあの子は笑顔で食べる。私はそれをしばらく眺めた後、食べないの? とあの子に訊かれてようやく自分のに手をつける。

 週に何度もあるわけではなかったけれど、お母さんと一緒に、あの子と三人で食卓を囲んだ時もあった。
 お母さんは、いくら疲れていても、早く帰れる日には、私に手作りのご飯を作ってくれた。とてもおいしいご飯を。きっと私の料理の腕は、お母さんから遺伝なのだろう。他人に誇れるくらいに、お母さんの腕は良かった。
 あの子と三人で囲んだ、食事は二人で食べる時よりも楽しくて美味しかった。
 いつも以上に表情の変化するあの子を、お母さんも楽しげに見つめていた。私も、いつも以上に楽しげに見つめていたことだろう。
 おかあさん、これおいしいね。そうして見せたのは鯖の竜田揚げだった。あの子は魚料理が好きだった。
 でしょ? 私の自信作だから。美汐にもまだ教えてない料理だし。
 あ、ずるい。私に教えてよ。私も作るから。そうやってせがむ私、こんなことしたのはこれが初めてだった。それだけの事実で、私にとって革命が起きていたのがわかる。香ばしい匂いの奥にあった発見、おねだりという冒険、今までの日常になかったそれらは、あの子がきてからもたらされたものだ。
 そんな私の冒険に、お母さんは表面上は受け流すように、だけどしっかりと受け止めてくれた。
 はいはい、今度教えてあげるから、ちゃんとしたの作りなさいよ。笑顔で諭すお母さんの顔は綺麗だった。
 

 みんなの視線が一斉に私に集まっていた。私の箸が一向に進んでなかったからだ。
「どうしたの?」
 真琴が心配そうに私に尋ねてきた。
「おいしくなかったかしら」
 困ったように私を見るのは秋子さんだ。
「体調とか悪かった? ごめんね」
 真琴と同じような表情で名雪さんが言う。
「いえ、ごめんなさい、ちょっと考え事をしていただけです」
「そ、か」
 私の言葉に返答したのは、相沢さんだけだった。
 結局その日は晩御飯を食べてお別れになった。


 家に帰る。お母さんが帰ってこないから今日は一人だ。
 晩御飯はもう食べたから、あとはお風呂に入って寝るだけ。
 キッチンと居間を見る。そこにはもう、あの子がいた痕跡なんてものはない。
 あれから四年経った。家にあったはずの痕跡は、頭の中よりも風化が早いのを思い知ったのは、あの子がいなくなってから一ヶ月が過ぎてからだった。頭の中の風化が進んでいると実感したのが、一年を過ぎた頃からだ。それでも、一度受けた傷は決して消える事はなかった。
 何故、あの子は帰ってこないの? 真琴は帰ってきたというのに。水瀬家の中では浮かんで来なかった感情が、今になって浮かぶ。
 等しく人間に災厄を見舞わせるはずの妖狐。私と相沢さんはそれによって、悲しい事に出くわした。いなくなった時に感じた喪失感、自分自身すら空虚になってくるような感覚は二人共が持っていた。相沢さんと私に、なんの違いがあったのだろう。今の私には分からない。ただ、結果としてあるのは、帰ってきたのは真琴であって、あの子は帰ってこなかったという事実だけ。ひょっとして、私たち以外にも、妖狐に出会った人がいて、私以外の全ての妖狐は帰ってきているのかもしれない。私といたあの子だけが帰ってきていないのかもしれない。
 今夜は眠れそうになかった。
 



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