誰かに呼ばれたような気がして、私は頑張って意識を浮上させた。
 目を開くと見慣れた天井。それは病室の天井。
 身体のあちこちが病魔との戦いで悲鳴をあげていた。
 ずきずきと痛む頭で周囲をみる。視界に入ったのは、あの人形だった。
「人形……とって」
 もう自分で身体を起こすこともできなかった。だから、そう小さく言うのがやっとだった。
 私の言葉を聞きつけたお母さんが、私の手にそっとあゆさんがくれた天使の人形を握らせてくれた。
 その人形から、優しいぬくもりが伝わって来るような気がした。



「栞ちゃん」
 祐一さんと別れて家路を急いでいた私はその声に振り返った。
「あゆさん」
 私を呼び止めたのは、あゆさんだった。
「栞ちゃんに渡したいものがあるんだよ」
 そう言って、あゆさんは私に羽も輪っかも取れてしまっている、ぼろぼろの天使の人形を握らせた。
「汚れは落としたんだけどね。ボク、お裁縫あまり得意じゃないから」
「え? これは?」
「これはね、何でも願いを三つかなえてくれる人形なんだよ。もう、願い事は二つ使っちゃってるけど、まだ一つ残ってるから。これを栞ちゃんに渡したくて」
 沈む夕日で眩しいくらいのオレンジで覆われた街並み。そんなオレンジに包まれて、あゆさんは神妙な顔で話を続ける。
「この間約束したから。だから、残っている最後の願いを栞ちゃんに使ってもらいたいんだよ。それが今のボクの願いだから………」



 あの時のあゆさんからもらった人形。何でも願いをかなえてくれる人形。
 私はこの人形をあゆさんに返すつもりだった。あゆさんの大切な願いを自分のために使っていけないと思っていた。
 あゆさんの気持ちは十分に嬉しかったし、この人形を見るたびに、病魔に負けそうになる自分を奮い立たせることが出来たから。
 病気が治ったなら、この人形のおかげで頑張れましたって、あゆさんに言いたかったけど、それももう無理そうだから。
 やっぱり奇跡は起きなかったから。だから、私は最期のお願いを人形に向かって呟いた。

 もし、叶うならば、祐一さんとお姉ちゃんと家族のみんなが笑ってるそんな世界を。
 あの祐一さんと過ごした最後の一週間より、素敵な世界を見せてください、と。

 そう願った瞬間、あゆさんがもらった人形が光を発した。
 その光は温かくそして優しく私を包み込んだ。
 その温かい光に包まれながら、私の意識はゆっくりと暗闇に落ちていった。




「……り……栞。いい加減に起きなさい。置いてくわよ」
 そんな声と共に身体が揺すられる。
 ぼんやりとした頭でも、そこに、お姉ちゃんが制服を着て立っているのがわかった。
「おはよう。お姉ちゃん。もう制服着てるなんて今日は早いんだね」
「なにのんきなこと言ってるの」
 そういって、枕元の目覚ましを私に突きつけた。
「もう、こんな時間!?」
 目覚ましはいつもの出発予定時刻から五分すぎた時間を指していた。
 あわてて、飛び起きて制服に着替え、洗面所に行ってさっと顔を洗い、急いでブラシで寝癖を整える。
「行ってきます!」
 部屋に戻って机の上に置いてある鞄をつかむと、のんびりと朝食を食べているお父さんとお母さんに声をかけて、玄関を飛び出した。
「遅い。走っていくわよ」
「うん!」
 私は玄関の前で待っていたお姉ちゃんと一緒に、学校へと走った。
 私が元気になり、お姉ちゃんと一緒に仲良く登校する。
 あの頃には考えられなかった光景がここにあった。



 人が溢れる学食で三人分の席を確保して、祐一さんとお姉ちゃんを待つ。
 しばらくぼんやりと二人を待っていると、背中から声がかかる。
「お待たせ。栞」
「お待ちどう。買ってきたぞ」
「ありがとうございます」
 現れたのは当然、祐一さんとお姉ちゃん。
「栞はAランチだったな」
「はい。そうです。祐一さんたちは、そろってカレーなんですね」
「たまにはね」
「香里が注文したら俺も食いたくなってな」
「栞もカレーが良かった?」
 にっこりとした顔で、そんなことを聞くお姉ちゃん。
 私の返事なんかわかっているくせに。
 だから、私はそっぽを向いて言うのだ。
「そんなこと言う人、嫌いですっ」
 そんな私を見て、祐一さんもお姉ちゃんも笑っていた。
 あの時に叶わなかった光景がここにあった。



 夕暮れの街を祐一さんと歩く。
 ファンシーショップで、あれが欲しいと言って祐一さんを困らせ、ゲームセンターでモグラさんをたたいて祐一さんにからかわれる。そんな祐一さんを私が怒って、喫茶店でアイスクリームをおごってもらう。
 そして、別れはあの噴水の公園。
「それじゃあ、また明日な」
「はい、また明日です」
 明日も逢えるに、もう期限など考えなくても良いのに、名残惜しさを感じる。
「なあ、栞」
 そんな雰囲気を祐一さんも感じ取ってくれたのか、祐一さんが私を呼び止める。
「もう少しだけ時間良いか?」
 本当はこれ以上遅くなるとお父さんがうるさいのだけど、それはきっとお姉ちゃんが助けてくれるから。
 だから私はその言葉に一も二もなく頷いた。
 噴水が見えるベンチが私たちの定位置。そこに座って、お互いに何も言わずにただじっと噴水を見つめる。
 人がいない公園に二人きり。私たちはどちらからともなく唇をあわせた。
 もう一度見たいと思っていた光景がここにあった。



「お父さん。あんなに怒らなくても良いのに」
 お風呂上がり、私は私の部屋でお姉ちゃんとのんびりと話をしていた。
 話題は、門限の時間に遅れて帰ってきた娘を怒る父親だ。
「莫迦ね。あんたどんだけ門限破りしてると思ってるのよ」
「そんなにしてないと思うけどなあ」
「二十一回よ」
「え?」
「今日で、二十一回目」
「嘘」
「こんな事で嘘ついてどうするのよ。フォローしているあたしの事も考えてね。後、お父さんのことも少しは考えてあげて。やっと元気になった娘が、夜な夜なほっつき歩いてたら心配するでしょ? ましてや男付きで」
「だって……」
「だってじゃない。そのうち、外に出歩けなくなるわよ」
「えぅ〜」
「えぅーじゃない。今度こそ気をつけなさいよ。あたしの門限まで短くなっちゃったら困るから」
 そう言った後、お姉ちゃんは大きなあくびをした。
「そろそろ寝るわ。そっちも早く寝なさいよ」
「うん」
 そう言って部屋に戻るお姉ちゃん。
 私もすぐに寝る準備を始める。
 明日の学校の準備をして、目覚ましをセットする。
 そして最後に、机の上に飾ってある天使の人形に挨拶をする。
 私がこんな幸せな日々を送れているのはこの人形のおかげだから。あの時の願いは確かに叶っていたから。
 お姉ちゃんに直してもらって、今は羽根も輪っかもある天使の人形。
 その少し寂しげに笑っている天使の人形に、小さなお願いをしてから眠るのが最近の日課になっていた。
『明日も幸せな日々が送れますように………』と
 そして、その小さな願いは叶い続けていた。次の日も、その次の日も、その次の日も……。



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