「いってきます」
 その言葉に返ってくる言葉はなかった。
 お父さんもお母さんも仕事に行ってるし、あの状態のお姉ちゃんから返事があるはずもない。
 私は小さくため息をついて、ゆっくりとドアを閉めた。
 空はすごく晴れていて、こんな日に家にいたくなかった。
 それに今日は、お姉ちゃんと顔を会わせたくなかった。
 どうしようかとしばらく迷って、結局あの公園に行くことにした。


 その日は休日にもかかわらず、公園にはほとんど人の姿がなかった。
 日差しはそれなりに暖かったけれど、時折吹く風がまだまだ冷たくて、春はまだ遠いと感じた。
 噴水のすぐ近くのベンチに腰掛け、噴き上がる噴水を見ながら、私は祐一さんのことを考えていた。
 並木道での出会い。中庭での再会。
 一緒にバニラアイスを食べたこと。雪合戦をしたこと。モグラたたきをしたこと……。
 祐一さんとの想い出は、どれも本当に綺麗できらきらしていた。
 それはこれ以上持っていたら、諦めることが出来なくなってしまいそうなくらい。
 あのきらきらは、時間のない私にとって眩しすぎたのだ。

 そして、夜の公園で噴水をバックにしての告白。
 本当にドラマのような展開だった。あれが本当にドラマだったのなら、私は祐一さんの告白を受け入れただろう。
 私は祐一さんのことが好きだから。
 でも、あれはドラマではなく冷たい現実。ドラマのようにハッピーエンドでは終わらない。
 そんな悲劇に、祐一さんを巻き込みたくなかった。
 悲しい想いをさせるのは家族だけで十分だし、もう一人のお姉ちゃんを作りたくはなかったから。

 だから諦めらめた。祐一さんと一緒にいることを。あの日はそう思っていた。
 でも、あのきらきらは今も私の心を捕らえて放さなかった。祐一さんと過ごした日々が頭の中で何度も何度も繰り返されていた。
 諦めることには慣れているはずだったのに、諦めることがこんなにもつらいのは、初めてのことだった。
 もし、自分の身体が丈夫だったら。もし、私が普通の女の子だったら、こんな想いはしなくてもすむのに。
 しかし、私は普通の女の子ではなかった。病魔に冒されている私に残された時間はもうほとんど無い。それは、間違いのないことだ。私の身体のことは私が一番よく知ってるから。
 それを覆すには、それこそ奇跡でも起こらないと駄目だろう。でも……。
「奇跡は、起きないから、奇跡………ですよね」
 私はそう、小さく呟いた。




「起こらないと思ったら、きっと起こらないよね」
「え?」
 何気なく呟いた言葉に返事があり、びっくりして声のした方を向いた。
 その声の主はあゆさんだった。
 あゆさんは私の知らない間に、茶色い紙袋を抱えて、ちょこんと私の隣に座っていた。
「はい、おすそわけ」
 そう言って、手渡されたのはたい焼きだった。
 茶色い紙袋の中からでてきたそれは、出来立てなのか、ほかほかと湯気がたっていた。
 私はまじまじと、あゆさんとたい焼き交互に見つめてしまった。
 そんな私の様子を気にすることなく、あゆさんは目を輝かせながら茶色い袋からたい焼きを取り出して、頭の方からかぶりついた。
「うぐぅ。やっぱりたい焼きは焼きたてに限るよね〜」
 そう言うあゆさんは、顔面がとろけるくらい嬉しそうで。そんな笑顔を見ていると、今までの沈んでいた気持ちがほんの少し軽くなったような気がした。
「いただきます。あゆさん」
「うん。熱いうちに食べよ」
 あゆさんはそう言うと、早くも二匹目のたい焼きに手をのばした。
 あゆさんの真似をして、ほかほかのたい焼きを頭からかぶりついた。
 ぱりぱりの皮に甘すぎないあんこ。そしてなりより、身体にぬくもりを与えてくれる温かさがおいしかった。
 しばらくの間、私とあゆさんは噴き上げる噴水を見ながら、黙々とたい焼きを食べていた。


「あゆさん」
「駄目だよ。これはボクの分」
 袋の中から、五匹目のたい焼きを取り出そうとしてあゆさんは、あわてて私にそう言った。
 私があゆさんのたい焼きを取るわけ無いのに、あゆさんはたい焼きの入った茶色い紙袋を私から少し遠ざける。
 私はその様子を微笑ましいと思いながら、先ほどから気になっていたことを口にした。
「さっきの言葉の意味を教えてくれませんか?」
「え? なんだっけ?」
「奇跡……起こらないと思ったら、きっと起こらないって」
「あ。そのこと? ……うんとね、奇跡は願いだから。諦めなかったら、どんなに時間はかかっても願いは叶うんだって、ボクはそう思ってるんだ。だから、栞ちゃんが諦めちゃったら、願いは叶わないと思う。奇跡は起きないと思うんだ」
 諦めない限りどんなに時間はかかっても願いは叶う。あゆさんの言いたいことはよくわかった。そして、その言葉を私が受け入れられないことも。
「時間がない場合はどうすればいいと思いますか?」
「え?」
「奇跡を起こす。願いは叶う。でもそれにはすごく時間がかかる。でも、長い時間待てない人もいる。例えば、もう何日も生きられない重い病気の人の願いは叶わない。奇跡は起こらないって事ですよね」
「一人ならそうかも知れないね。ボクはさ、願いが叶うには、その願いに見合うだけの想いが必要なんじゃないかと思うんだよ。その願いに見合うだけの想いが集まれば、きっと願いは叶うんだよ。だから、時間がない人は大勢の人に想ってもらえば良いんじゃないかなって思うよ」
「大勢の人ですか……」
「うん。ボクの願いは七年かかったよ。すごく些細な願いだったけど、ボクしか望んでいなかったから、その願いが叶うだけの想いがたまるまで、時間がかかったんだと思う。もし、ボクの他にその願いを想ってくれたら、きっともっと早く叶ったんだと思うんだ。時間はかかったけど、ボクは願いが叶ったから満足だけどね」
 そう言って、少し遠い目をして願いのことを話すあゆさんは、満足といった言葉とは裏腹に、少し寂しそうな顔をしていた。


 大勢の人が私のことを願う。言葉にするのは簡単だけど、その事は私にはすごく難しいことだと思った。
 一日しか会っていないクラスメートが、どれだけ私のことを想ってくれるのだろうか? 病院の知り合いが、どれだけ私のことを想ってくれるのだろうか?
 あゆさんが言う些細なお願いがどんな物かわからなかったけど、些細という願いでも七年もかかったのだ。私の病気を治して欲しいという大それた願いは、私一人で何年かかるのだろうか?
 たとえ私だけでなく、家族やお医者さんたちが私のことを願ってくれたとしても、今日明日で叶う物でないだろう。
 やっぱり奇跡は起こらないから奇跡というのだと、内心でため息をつきながらそう思った。

「で、栞ちゃんは何かあったの?」
 あゆさんはそう言いながら、心配そうに私の顔をのぞき込んだ。
「えっと……」
 私はあゆさんから目をそらした。本当は話してはいけない事だった。話せばあゆさんに余計な心配をかけるだけだから。
 余計な心配をさせないために、祐一さんにも話さなかったのだから。
 でも、自分の気持ちを誰かに話したかった。溜まっている想いをはき出したかった。
 私はしばらく噴水を見つめ、小さく深呼吸をした後呟くように言った。
「人を好きになってしまいました。大切な人に告白されました」
「それって、祐一君?」
 その言葉に小さく頷く。
「そっか。祐一君は、栞ちゃんのことが好きなんだね……」
 いつの間にかオレンジ色に変わった空をぼんやりと見つめながら、あゆさんは寂しそうにそう言った。
「こんな私のことを好きになってくれるなんて、未だに信じられません。でも、そう言った時の祐一さんはすごく真剣で、嘘を言ってるように見えませんでした」
「祐一君、すごく意地悪だけど、そう言うことを嘘で言わないと思うよ」
「私もそう思います。だから、断りました」
 その言葉を聞いて、あゆさんがびっくりしたようにこちらを向いた。
「栞ちゃんは、祐一君のこと、嫌いなの?」
「……好きです。本当は、泣いてしまいそうになるくらい嬉しかったです。でも、私は人を好きになっちゃいけないんです」
「なんで、そんなのおかしいよ。祐一君は栞ちゃんが好きなんでしょ? 栞ちゃんは祐一君が好きなんでしょ? だったらどうして?」
「好きだからこそ、でしょうか……。これ以上好きになったら、別れの時がつらいですから」
「なんで? つきあう前に別れる時のことを考えるなんて」
 真剣な表情で詰め寄ってくるあゆさんを見て、私はあゆさんも祐一さんのことが好きなんだということを何となく感じ取った。
 そうでなければ、こんな風に詰め寄ってきたりはしないだろう。
 だったら私がこの場所からいなくなったあと、あゆさんに祐一さんのことを任せたらいい。
 そう思って、私は病気のことを口にした。
「次の誕生日まで生きられない。そう、お医者さんに宣告されました」
「え?」
「私の誕生日は2月1日。あと、ちょうど1週間。祐一さんにつらい想いをさせたくないですから。だから、断りました」
「……駄目だよ」
「え?」
 思いもしなかった明確な駄目出し。
「そんなの駄目だよ。それじゃ、絶対栞ちゃんが後悔するよ。」
「じゃあ、あゆさんは祐一さんにつらい想いをさせても良いと?」
「そんなのわからないよ。でも、それじゃ栞ちゃんが駄目だと言うことしか」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
 そう、おもわず声を荒げそうになった言葉を私は飲み込んだ。
 だって、あゆさんが泣いていたから。
「ボクは、祐一君につらい想いさせたくないよ。でも、栞ちゃんがそんな想いで諦めちゃうのは、もっと嫌なんだよ。ボクは祐一君のことも、栞ちゃんのことも大好きだから。ボクも一生懸命栞ちゃんの願いが叶うようお願いするよ。だから、だから……」
「あゆさん……」
 あゆさんにこんな風に言われるとは思ってもみなかった。だって私とあゆさんは、片手で数えるくらいしか話したことがなかったから。
 だからこそ、あゆさんのその気持ちが嬉しかった。お姉ちゃんも、家族も、祐一さんも失った私だけど、あゆさんがいるということがわかったから。
「願いは諦めたら駄目なんだと思う。ボクも何度も諦めちゃおうと思ったけど、でも、どうしても諦められなかったから。願いが叶うまでに、七年もかかっちゃったけど、でも、願いは叶ったよ。ボクの願いが七年もかかったのは、きっと、ボク一人しかそんなお願いする人がいなかったからだと思うんだよ。だから、ボクも栞ちゃんのこと一杯お願いするよ。栞ちゃんと祐一君が笑っていられるようにって、一杯、一杯お願いするから……だから……諦めちゃ駄目だよ……栞ちゃん!」
 そう言って、私の手をぎゅっと握り占めてくるあゆさんは、本当に真剣に私の心配をしてくれていて、私は困った顔をしながら、じっとあゆさんを見つめていることしかできなかった。



 あゆさんが落ち着いてからしばらくの間、私とあゆさんはお互いのことを話していた。
 私は、病院で起こった様々なことや今はもう全然話をしてくれないお姉ちゃんのこと、そして、学校での祐一さんのことなんかを。
 あゆさんは、小さい時の祐一さんのことや大好きなお母さんのこと、そして、大切な探し物があって、それを一生懸命探しているといったようなことを話してくれた。
 そんな他愛もない話をしているうちに、空のオレンジは次第に藍色を帯びるようになってきていた。
「もう帰らなきゃ。栞ちゃんはどうする?」
「そうですか。……私はもうちょっとここにいます」
「そっか、じゃあ帰るね。またね」
 そう言って元気に手を振って商店街の方に走っていくあゆさんを、私は感謝の気持ちで見守っていた。
 あゆさんは、私にとって神の御使いなのかもしれない。
 命を捨てようとした時に現れ、想いを捨てようとした時に現れ、そんなことは駄目だと、直接的に間接的に言ってくれる。
「私の本当の気持ちを祐一さんに伝えてもいいのかな………」
 あゆさんは今の状態が良くないと力一杯否定してくれた。今のままだと私が後悔してしまうと。
 確かに、このままで終わってしまったなら、きっと後悔してしまうだろう。そんなことはあゆさんに言われなくてもわかっていた。
 でも……祐一さんの顔を思い浮かべる。
 私のエゴで祐一さんを苦しめてもいいのだろうか。
 それが嫌で自分から祐一さんを諦めたというのに。あゆさんの泣いた顔と、祐一さんの悲しげな顔が交互に浮かんだ。
 かなり長い間、噴き上げる噴水を見ながら考えていたけれど、どんなに考えても結論は出なかった。
 もう一日よく考えてみよう、そう思って立ち上がった時、私の時間は確かに止まった。



 私の視線の先に、祐一さんが立っていた。
 私たちは、しばらくの間じっと見つめ合っていた。
 お互いに、最初の一言に何を言って良いか迷っていた。
 そんな張りつめた沈黙を壊したのは私だった。
「ここは、夜の方が綺麗ですよね」
 もう、私の事は祐一さんに知られている。でも、その事実をあえて無視して、いつも通りに話しかけ、いつも通りに笑うことが出来た。
「俺は寒いから昼の方がいいな」
「残念です」
 いつものように、笑顔の向こう側に全てを押し込めながらそう言って、私は祐一さんに背を向けた。
 祐一さんに背を向けたのは、笑顔の向こう側に押し込めたものが押さえ切れなくなりそうだったから。
 祐一さんの顔を見ていたら、諦めていた気持ちが、諦めきれなかった気持ちが、どうにもならないところまで行ってしまいそうだったから。
 祐一さんと他愛のない会話を続けながら、私は必死に気持ちを抑えつけようとして失敗していた。
 押さえつけようとすればするほど、自分の祐一さんに対する気持ちが大きくなっていったし、気持ちを抑え込むのに成功しそうになると、あゆさんの泣いている顔が邪魔をしたから。
「祐一さん」
 私は私の後ろから延びてくる祐一さんの影に向かって呼びかけた。
「……えっと」
 本当はこのまま立ち去るつもりだった。でも、そうすることは出来なかった。
 限界だった。ふくらんだ想いは、出口を求めていた。
 これを言ったら祐一さんを傷つけてしまう。そう思っても言わずにはいられなかった。
 私は一つ深呼吸をして覚悟を決めた。感情を暴走させないように、事実だけを祐一さんに伝えよう。そして自分の気持ちも。
 私はさらにもう一度深呼吸すると、今まで閉じこめておいた想いを口にした。
「祐一さんには、謝らなければいけないことがたくさんあります。そして、感謝しなければいけないことも、たくさん、たくさん……」
「立ち話もなんだし、そっちに行ってもいいか?」
「……はい」
 私の固い声に対し、祐一さんはいつもの優しい声だった。
 その声を聞くことさえ辛くて、私は俯いた。
「座ろうか」
 その言葉に私は無言で頷いた。
 背中に祐一さんの手が優しく当てられ、私を噴水の縁へと腰を下ろさせる。
 冷え切った身体に当てられた祐一さんのその手は、とても温かく感じられた。



「……話してくれるのか?」
「……はい」
 もう迷わなかった。だから、私は全てを祐一さんに告白した。
 私が重い病気でそう長くは生きられないということ。ずっと、胸の奥にしまい込んでいた気持ち。
 ため込んでいた想いが次から次へと言葉になり、夜の公園にはき出されていく。
 そして、その想いに祐一さんは応えてくれた。
「これから……何日経っても、何ヶ月経っても、何年経っても、栞のすぐ側で立っている人が、俺でありたいと思う」
 でも、それは難しいから。本当は私だってそうでありたいけど、それは本当に奇跡でも起きないと無理なことだから。
 でも、祐一さんがそう言ってくれたから、だから私の本当に本当にささやかな夢を、現実では見ることすら出来なかった夢を見させてくださいと祐一さんにお願いする。
 それは、重病人ではなく普通の女の子としての生活。
 学校に通って、みんなと一緒にお昼を食べて、好きな人と商店街を歩いて、夜遅くなるまで遊んで、お父さんとお母さんに怒られて、それを、お姉ちゃんがかばってくれる。そんな、普通の女の子が普通に送る生活。
 そんなささやかな夢を見させてくださいとお願いする。
「でも、一週間だけです。一週間後の二月一日……私は、祐一さんの前からいなくなります。それ以上の時間は、祐一さんにとっても、私にとっても、悲しい思い出を増やすだけですから……ですから、一週間です……それでも、本当に私を受け入れてもらえますか?」
 この願いは私のわがまま。この願いを祐一さんに伝えられただけでも十分だった。後に残される祐一さんの気持ちを考えれば、ここで否定の返事が返ってくる方が普通だと思った。
 でも、そう思ったのに、祐一さんは私の願いを聞き入れてくれた。
「ありがとうございます」
 この瞬間、私は心からの笑顔を浮かべていたに違いない。だって、それは私が夢見た普通の女の子になった瞬間だったのだから。


 そして、私が普通の女の子として暮らす一週間間はあっという間に過ぎていった。
 クラスメイトに囲まれてお勉強をして、祐一さんとお昼を食べて、商店街を歩いて……。
 本当に夢のように幸せな一週間だった。ただ、その夢のような一週間にお姉ちゃんがいなかったのが少し寂しかった。
 でも、そこまで、求めてしまってはいけないだろう。諦めてしまっていた生活が送れただけでも感謝しないといけないのだから。
 たとえそれがたった一週間だったとしても……。






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