去りゆく冬の寂しさは、大感動を徒にしない。騒がない、わめかない、涙にくれて大向こうに見得を切らない。韜晦して、ただひとりで何度も味わう。
夕暮れの近づく商店街、人の歩みが速くなる時間。コートのポケットに両手を収め、流れに逆らってわざとゆっくり歩く。
街のざわめき。惣菜の匂い。道ばたで暖を採る一斗缶の炎。いぶる灯油の臭いがわずかに届く。低く振動するボイラーの響き。
ようやく慣れてきた、この街の様々なもの。
この場所を駆けていた彼女を覚えている。彼女はもういない。
大事なものが滑り落ち、胸の底は言葉にならない何かでいっぱいだ。それはぎゅうぎゅうと内側から胸もとを押し上げる。
大きくなりすぎた塊は、やがて喉からはみ出してしまう。吐き出した透明な玉が手当たり次第にあたりを押しつぶす。そうやって、何もかもすっかり破壊しつくした後で、見た目のそっくり同じ街が生まれ変わる。――それでも人の歩みは変わらない。何があったか気づきもしないで。
待ち合わせのスーパーの前に戻ると、買い物袋を提げたいとこが待っていた。視線を宙に投げて、じっと身動きせずに立っている。
声を掛けようとしてその姿にためらうと、あ、と口元が動いて、すぐにいつものふにゃっとした雰囲気が戻ってきた。こちらに気づいたらしい。
足早に寄って来て、呆れた顔をつくって溜め息ひとつ。
「祐一って、ちゃんと待っててくれたことないよね」
「ん? ああ、悪い」
「……どうしたの?」
「どうって?」
「心配事?」
「いいや、別に何もなかった、と思う」
「やっぱり、祐一、何かあった?」
怪訝そうな顔に答えず、買い物袋を受け取って中身を見透かすまねをする。夕飯の材料のはずだ。
「結局、何にしたんだ?」
「当ててみる?」
「流しそうめんと冷ややっこ」
「おでんがいいんじゃなかったの?」
「そっか、おでんか」
「うん、おでん」
そう言って、先に歩き出した。「おでんっ、おでんっ」と謎の歌を口ずさんで、どこか楽しげに背中が揺れている。買い物袋を提げて、その後からついてゆく。
電球の街灯。煉瓦の街路、切石の帰り道。勢力を伸ばしてきた物陰が、街のカタチを変えている。
足りないものにも慣れてしまったこの通り。
行き場をなくした憤りを押さえつける。いつの間にか、ポケットでぼろ布の固まりを握り締めている。
気づけば、前をゆく背中に話しかけていた。
「――春を探してたんだ」
「ふぅん、そうなんだ」
「そのつもりだったんだけどな」
「それで、見つかった?」
何の気ない問い返しに、答えることが出来ない。
そうして、鈍い後悔とともに浮かぶのは、背中の羽を揺らして走る姿であり、からかわれてすねる様子であり、真面目な顔をする声の調子であり、最後に見た笑顔であり、背伸びして手を振るしぐさである。
ひょいとどこからか現れて、一言二言やり取りし、角を曲がって走り去る。彼女の去った、あの角の向こうには春があるのだろう。俺はその姿を見送って、せわしない奴だと笑っている。また出会うことを疑いもせず。
「……駅の近くのパン屋がさ」
「パン屋さん?」
「おまえ、あれ、食べるんだって?」
「おいしいよ。他より安いし」
「期限が過ぎてるだろ」
「そんなのたいしたことじゃないよ」
「だよな。でも、あいつはどう思ったかな」
おしまいの声はかすれた気がする。
しばらく歩いて、ふいにいとこが足を止め、釣られるように立ち止まった。痛いほどの空気の固まりが、彼女の背中で長い髪を弄っている。
何呼吸かの間があって、振り返らず声だけが届いた。
「――この街だって、春はあるよ」
春はない。いまだ遠い。もう春なんて来ないのかもしれない。そう思う。思わなければいけないと思う。不器用に春を探して、見つけたのはもうそれがないということだけだった。
頬を叩く冷たい風。ばりんばりんとトタンが喰われている。
こうして日が落ちかかれば、空気はまだ冬の匂いだ。薄暗くなれば濃やかに名残を感じることも出来る。
これだけ寒いから、目の奥だって痛くなる。
「おなか空いたね」
「そうだな」
「おでん、楽しみだね」
「そうだな」
「まだ、ちょっと寒いね」
「そうだな」
ちらっと頬を覗かせて、いとこが「帰ろ」と呼んで来る。
それに引っ張られるように、また歩き出す。もう、商店街に来ても、何かを探してふらつくこともないんだろう。
やがて、この街にも遅い春が来て、温かい風が吹いてゆく。凍える雪は街をけぶらす雨へと変わり、この冬に歩いていたものたちの痕跡を洗い流す。この街で迎える初めての春がやって来る。
雨が降り、ほこりが舞い、木の葉が踊り、また新しい雪が降り、きっと何かが俺の周りにも降り積もり、惨めでちっぽけな傷痕を包み込んでしまう。
だけど大切なものは、いつでもあの冬の中に忘れたままだ。
感想
home
prev