思い出が還るのは、子どもの理想がいっぱいにつまった空間だ。
 狭い路地の突き当たりに、影を落とす陽だまりの石垣に、静かな鎮守の森に、丈高い川原の草むらに、樹液の匂う雑木林に、時間に忘れられて秘密の場所が眠っている。
 そこには、好きな人がいて、寂しさも悲しさももの足りなさもない世界だ。
 毎日、朝から夕焼けを繰り返し、決して夜はこない。
 学校には校則も制服も宿題もなく、遊びたいときに遊んでいい。
 ポケットは小銭でじゃらじゃらとして、好きなだけお店で無駄遣いする。
 そして、通りの角を曲がればその向こうには春がある。
 俺の場合、それは雪の降るこの街だった。
 七年のあいだ、ずっと避けていた北の街だ。

 小途沿いの茂みが途切れると、街外れの丘へ向かう山道が現れる。ひとりがやっと通れるくらいの狭い通廊、奥深い森の入り口だ。
 どことなく見覚えがある場所だった。胸の奥でむずむずと誘うものがある。
 決断して、足を踏み出す。間違いだったら引き返せばいい。
 密生する笹のやぶ。絡み合った枝が天井でアーチをつくる。
 雪解け水で膨らんだ、歩き難い踏み分け道。張り出した根っこを足がかりにして進む。滑りやすく、何度も転びそうになって木の幹をつかむ。手のひらがべっとりと汚れる。
 いつか確かに歩いた道だ。そして、それはここ最近の記憶じゃない。こっちに遊びに来ていた子どもの頃だ。
 その頃の俺は、両親の仕事の都合で冬の休みになるとこの街の叔母の家に預けられていた。珍しかった雪に喜んで、冬の遊びをやりつくした。商店街を遊び回って、まるで庭のように感じていた。
 それが定例行事となったある年の事、商店街で泣いている少女を見つけた。知り合ってから、毎日を暗くなるまで遊んで暮らし、それは休みが終わって俺が帰る日まで続いたはずだ。
 だけど、別れの日が思い出せない。
 今更の話だが、俺は何もあゆのことを知らなかった。家も知らないし、連絡方法もない。ポケットの人形と彼女がいたという記憶だけが俺たちを繋いでいる。
 どんな事情があるのか、何が起こったのか。どうして別れを告げたのか、俺にとってあゆはどんな存在なのか。――忘れてしまった思い出の中に、いったい何があったのか。
 思考はぐるぐると空回っている。胸の動機が苦しいくらいに打っていた。肉体的なものなのか精神的なものなのか分からない。
 濡れた枯れ葉が顔を打つ。頭上から冷たいしずくが落ちてくる。しばらく歩くうち、服がじんわりと重くなってきた。
 体力が奪われる。肩で息をつく。疲れがたまって、いらついてくる。
 湿った落葉に足をとられる。土踏まずが張ってくる。片膝に痛みが走る。かばうようにしていた足首もおかしくなりそうだ。
 少しだけ休憩しようと足を止めると、胃の上半分にじわっとした不快を感じた。
 無理したようなあゆの笑顔と、そして、いつかの会話を思い出す。どんな流れでそうなったのか、ふたりで落とし物を探していた。まるで見つかりそうにないし、天気は悪くなるしと酷い状況なのに、それでもあゆは楽しそうだ。
「悲しいことがあっても、自分に都合のいいように考えていつも前向きに」
「そういうの、お前っぽいよな」
「これ祐一君の台詞だよ?」
「俺? らしくないなぁ」
「そんなことないよ」
 そう言って笑った、あいつの顔が浮かんでくる。無責任な俺の言葉を真に受けて、いまも笑っているのか。どこで笑っているのか。
 待ってろよ、あゆ。
 ポケットの人形を握り締め、再び歩き出した。
 森は代わり映えもせず続いている。獣道というのもいい過ぎなくらいの細い傾斜路。行く手をふさぐ木ヅタと枝葉をかき分ける。蜘蛛の巣が張り付いて、露出した肌の部分をむずむずと痒くする。
 こうやって一歩進むごと、忘れてしまったあの冬に近づいていくのだ。――そして、消えてしまった彼女の記憶にも。どんな気持ちであゆが落とし物を探していたのか、少しだけ解ったような気がする。

 やがて、木立が開けると、白い野原が見えてきた。
 こんもりと積もって、踏み荒らされていない、真っ白な雪の原。光の世界と錯覚するほどの、一面に積もった雪だった。
 そんな静かな空間で、何人かの人影が動いている。
 よく見れば、街で見かけた姿ばかりだ。集まって何をしてるのだろう。寄り道して、声を掛けてみようかと思った。だが、急ぐ気持ちが先を促してくる。
 ぬいぐるみを背負った少女が相方に雪玉を投げている。やがて、互いをぐるぐる追いかけ始めた。雪山が周りに出来そうな勢いだ。
 かまくらの前で、七輪の世話をする少女がいる。やってきた真琴が手伝おうとするが、そういう地味な作業には向かず、退屈して走り出してしまう。その後ろ姿を見送って、下級生の少女は摘んだ餅をひっくり返す。
 香里たちは姉妹で雪だるまの製作中だ。小さいものから一列に並べ、だんだんと大きなものにしてゆく。転んだ妹に差し伸べた手を、逆に引っ張られて姉も巻き込まれる。雪の中に座り込んで、ふたり顔を見合わせて笑う。
 ぬいぐるみの彼女の前を、駆け回っていた真琴が横切った。ちょうど雪玉が飛んできて、顔面で受け止めてしまう。激昂した真琴があたりかまわず投げ返すと、流れ弾がさらに別の誰かに当たって、雪合戦が始まってしまった。
 めまぐるしく場所を入れ替え、すくった雪を投げあっている。攻撃を避けようとして足を滑らせ、意味もなく雪の上を転がりまわったりもする。資材作りに専念して、雪球を山と積み上げるのもいる。盾にされた雪だるまがとばっちりを受けていた。
 最近はとんと見なかった、輝いている今日という日。雪のうえで遊ぶ、躍る、光に溶ける。まばゆいほどの反射光。
 何とも頬笑ましい気分になる。結局、いつの間にやら見入ってしまった。やり掛けの作業の手を休め、時間を忘れたくなるような光景だ。――でも、探している景色とは少しだけ違う気がした。
 気がつくと、雪遊びの人数が半減している。
 他の子はどこに姿を消したのか。
 残された少女たちは、虚空に向かって楽しそうに笑い、遊び相手がまだいるかのように振舞っている。視線の先には幸せがあるのだろうか。――肝心の相手はいなくても。それとも、もともと心の中だけの相手を見ていたのだろうか。
 そんな彼女たちの姿も、いつか凍ったように固まって、もとから存在しなかったかのように溶けてしまう。
 あれだけ白かった雪景色も、まだら模様に変わり果てている。黒い地面が顔を出して、冬の終わりの様相だ。雪遊びの痕跡もすっかり消えてしまった。
 本物だと錯覚しそうになる、呼吸の長い幻視だった。
 彼女たちと遊んでいたら、今頃どうなっていたのだろう。目的を忘れ、それでも幸せだったのかもしれない。だが、選択の期間は過ぎて、もう後戻りは利かない。せめて消えてしまった幻がどこか幸せでいられる場所にいけたのならいいと思った。
 頭を振って、幻影の残滓を振り払う。雪が消え、魔法の消えた丘の斜面を横切って、奥の森に向かった。

 今度はそれほど歩かないうち、重なり合った枝々の向こうで、黒い森の一角が鮮やかな緑に浮かび上がる。
 小さな広場の中央に、巨大な木が立っていた。抱え込むのに数人掛かりになりそうな太い幹。盛り上がった根もとを、羊歯の茂みと苔の絨毯が取り巻いている。絡み合った樹根がベンチとなって、ふたりの子どもが腰をおろしていた。
 男の子が笑い顔で何か言うと、膨れた顔の女の子がそっぽを向く。困った様子で男の子が謝ると、女の子はまた笑顔になる。
 大木の周りで追いかけっこが始まった。男の子が幹の向こうで待ち伏せて、女の子をわっと驚かす。もつれるように転がって、やがて予定調和の仲直り。
 遠目にも仲のよさそうな、ふたりのやり取り。それを見て、子どもの正体が誰なのか分かった。やっと見つけた俺の落とし物だ。思わず笑いがこぼれるほどの、可愛らしい記憶。――でも、何でこんな光景を忘れていたんだろう。
 男の子が後ろを向く。女の子が木に登りだす。樹皮を手掛かりにして、からだを持ち上げた。辿りついた枝に腰掛け、ぶらぶらと脚を垂らしている。見晴らしはよさそうだ。街がすっかり遠望できるに違いない。
 その姿を眺めるうち、だんだんイヤな予感が湧き上がってきた。折角、うまくいってるものがぶち壊しになるような。このシーンから始まる、何か嫌なものを知っている気がする。
 女の子は地上の男の子と話していた。からかい混じりの声に言い返そうと、からだの向きを変えようとする。――そして、バランスを崩してしまう。
 ああ、やっぱり。
 そう思ったときはもう跳び出していた。
 何かにめり込んだように勢いを止められる。空気が粘性を帯びて、水あめのように粘りつく。気ばかり焦る。手が届かない。
 目の前を、女の子が、地面に向けて。あゆが。ゆっくりと墜ちてくる。
 腰のあたりがじんじんと疼く。布越しに感じる熱いもの。コートのポケットから白い光が弾けると、行く手を遮っていた抵抗が急になくなった。
 光に支えられて、彼女は宙に浮かんでいる。
 伸ばした手がやっと届いた。
 抱き下ろした女の子を地面に寝かせる。男の子が駆け寄ってきて、その顔を覗き込んだ。平和そうな表情で眠っている。
 そうして、俺はあの冬の日に何があったのか思い出していた。
 俺が会っていたのは、いるはずのない彼女だということも。

 背後から声が掛かった。半ば予想していた声だ。
「ついて来ちゃったんだ」
「――あゆ、勝手なさよならは感心しないな」
 答えてからゆっくりと振り向いた。
 いつの間にか現れた木のベンチ。そして、あゆが座っている。
 隣の空きスペースに並んで腰をおろした。視界の正面に大木とふたりの子どもが来る。
「思い出してくれたんだね」
 思い出した。
 雪の季節にしかあゆと会った事がなく、この暖かい場所は偽の記憶だ。
 女の子が目を覚ました。心配していた男の子が、安心してまたからかい始める。仲むつまじいふたりの様子。
 男の子がぶっきらぼうに包みを渡している。いまはその中身がカチューシャだってことも知っている。届かないはずの贈り物だ。
「よかったね。幸せそうで」
 あゆの表情はやさしげだ。
 ポケットに手を突っ込む。人形を取り出して手のひらに乗せる。何度も握り締めて、酷いことになっていた。天使の意味もいまでは思い出している。女の子を助けてくれたのは、残っていた最後の願いだったのだ。
 ふたりの子どもは再会を約して消えてしまう。別れても次の冬が来て、また一緒に遊ぶのだろう。ふたりの時間は終わらず、季節が巡るたび幸せな触れ合いが続くのだ。
 そんな幸せな景色の向こう側に、白と赤の冷たい記憶があった。仰向けに手足を投げ出して眠るあゆの姿。赤く染まってゆく、ついにたどり着いた俺の原風景だった。
 胸がつぶれそうな子どもの記憶。――そんな辛いことを忘れて、俺はいままで笑っていた。
「ここ、いいところだよね。優しくて、暖かくて、少しだけ寂しくて」
 落葉樹の古木。ごつごつした皮目の樹皮。不釣り合いに初々しい、新芽の産毛。柔らかな日差しの重さ。かび臭い榾木の匂い。空気の動きは、感じるか感じないかの境界線を行き来する。
 そんな広場の景色に、あゆは目を細めている。
 子どもっぽいとばかり思っていたが、意外なほど整った顔つきをしていることに気がついた。大人になれば、相当な美人になったかもしれないと思う。
「ごめんね」
「何が?」
「せっかく忘れてたのに」
 俺を責める様子もなく、却ってあゆの方が気を遣う。謝ったら簡単にゆるされてしまいそうだ。だから、黙るしかなかった。
 梢の向こうに青い空。ぽっかりと羊の雲。
 澄み切ったきれいな空だ。だけど、これは偽物なんだと判ってしまう。春の空はもっと青灰じみてぼんやりしている。
「なあ、あゆ」
「なあに?」
 何で悲しいことがあるんだろう。ありふれて、つまらなくて、根源的な問いかけだった。
 どんな答えも、口にした途端に嘘になる。
「あの街で一緒に暮らせないのか?」
「ダメだよ、ボクはもういないんだもん」
 しょうがないなぁという調子で、気負いもなく答える。
「……じゃあ、お前はなんなんだよ」
 街で会っていた。探し物をした。たい焼きを分け合った。一緒に朝ご飯を食べた。あのとき確かにあゆはいた。
 いまだって、こうやって隣にいる。
「誰かの見ている夢だったんだと思う。この街なのかもしれないし、それとも他の誰かの夢かもしれない。ひょっとするとボクじゃないボクかもしれない」
 手を伸ばせば、彼女に触れることも出来る。手のひらから体温も感じる。こんな夢があるわけはなかった。
「バカだなお前。そんな台詞似合わないだろ」
「……苦しいよ」
 抱き寄せれば、しっかりとした手ごたえ。服越しの体温。
 少しだけ困った顔をして、あゆは話を続けた。
「それで、いまのボクは祐一君の忘れものなんだ。こうやって話してるのも祐一君の独り言なんだよ」
 そういって笑ってみせる。どこまでも純粋な笑みだった。染まってしまうことの許されない、この場所に閉じ込められた笑顔だ。
 しばらく間があって、そして付け加える。
「ボクの時間は、祐一君と会わなくなったときに止まってるんだ」
 だったら、と思う。止まったままの世界が途切れずに続けばいい。この静かで心地よい、ふたりきりの秘密の場所で、悲しいことを忘れて暮らしてゆく。この場所で、ずっとふたりなら幸せでないはずがない。
 日差しに雪は融けず、温かい風も吹かず。波風の立たない静けさで、いまこの瞬間は眠り続けて変わらない。
 あれはだめだ、それもだめだ。世界を変えるものはダメだ。変容を迫るものにかみ付き返し、すべての苛立ちを打ち倒す。――もしも言葉に力があるのなら、この時間をとめてしまいたい。
 そんな自分の感情を冷たい視線で見ている誰かがいる。何とかして消し去ってやろうとするが、気にすればするほどそいつの存在は大きくなって、代わりに俺の気持ちが縮こまってゆく。
 消沈しそうな自分を高揚させて、散り散りになった言葉をかき集める。
「だったら、俺がずっと夢を見てやる。それならいいだろう?」
 祈りのような言葉は、だけど上滑りに響いてしまう。
 うまくいえないのが、何だか悲しかった。
 ふたりで見詰め合う。
 間近に感じる息遣い。
 やがて、静かに頬笑んで、あゆは消えてしまう。
 彼女を抱いていた腕が、ベンチの座板におちた。感じていた重さがなくなっている。
 昇ってゆく、白い吐息を見ていた。
 立ち枯れの草やぶ、ところどころに裸の若木、柔らかく積もった落ち葉。そして、大きな切り株。ずいぶんと寂しい場所になった。
 腰を上げると、座っていたベンチも消える。
 どこで夢は覚めるのだろう。
 今日か、明日か、昨日か。それともこの街に帰ってきたときか、ひょっとしたら七年ほど遡るかもしれない。
 夢の中でも、みな笑い、泣き、そして何かを失うこともある。夢も現実もなく、この痛みこそが本当だった。
 これでいいじゃないか、やれることはやったんだと誰かが言う。
 それを打ち消せばいいのか、無視すればいいのか分からない。答えを出さず、時間をかけて忘れるのがいいのかもしれない。
 視線はもう感じない。代わりにそいつが泣いていた。それは自分の声だ。
 結局、最後の最後で間違っていた。出来ない嘘だと知っていたのだ。だけど、他に答えはなかったような気がしている。


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