日々はゆっくりと降り積もり、冷たかった冬をその身に抱え込んでゆく。道端で縮こまった融け残りの雪を、重みのない透明な光が刺し貫いている。
 当てもなく商店街をぶらつけば、人気だった中華まん屋に青いシートがかかり、出番を終えた不満の色もなく静かに背景におさまっている。一昔前のアイテムばかり集めたようなゲーセンも、気づけばすこしだけ中身がいれかわっていたりする。走り回っていた屋台の親父の姿も、ここのところ見ないようだ。
 そうして、俺はこの青い空のもと、両手をコートにつっこんで、相変わらずふらふらと街を歩いている。

「今晩、何がいいかな?」
「そうだな、おでんとか」
「もう、おでんって季節でもないよ」
「そっか? まだ寒いだろ」
「祐一、寒がりだよね」

 汚れた雪が固まって、誰かの足跡がある。雪が融けるまで足跡は残るだろうが、それをつけた人物は立ち去ってもういない。

春風駘蕩


 夕飯の買い物に向かういとこと別れ、商店街の人通りを歩き出した。午後の街角、石畳の通り。ざらめを踏み潰す、じゃくじゃくという音がする。
「よっ、ほっ、とっ」
 建物の蔭になって、踏み荒らされた雪が凍っている。わざわざ探して、融け残りを逃さず踏んでゆく。そんな子どもじみた几帳面さが妙に愉しい。横断歩道の白いところを踏んで歩けばいい一日になるって話を思いだして、ああ、あれと同じノリだなと可笑しくなる。
 商店街を駅前に抜ける道は緩やかなのぼりになっている。
 ゆっくりと息を吐けば、一拍遅れで白い呼気が消える。口中で空気を温めて、ちいさく軽く深呼吸。大きくすると呼吸器が傷んでしまう。
 街灯の根もと、塀の裏側、看板の下、店舗の軒先。日差しに押されて、勢力を後退させる一方の冬の残りを覗いて歩く。
 街角のカフェスタンド前を過ぎる。見慣れてきた、何の変哲もない商店街の通り。
 むず痒いものが、からだの奥でうごめいている。土踏まずの地面が軟らかくなる。
 こっちに引っ越して来て、しばらく経った頃からだ。どうしてかこんな気分になることがあった。だんだんと馴染んできたこの街の向こうに、ふとしたきっかけで記憶の欠けらが浮かんでくる。
 右脚の膝をつっぱらかして、急に立ち止まる。軽くあがったつま先が落ちる。そういえばこの場所で、とあたりを見まわした。落とし物を探してたやつもいたっけ。あいつも、こんな気分だったのかもしれないな。
 そうやって、通りの真ん中でもの思いに浸っていると、目の前をどたどたと駆ける人影があった。どっかで見たようなと首を捻るが思い出せない。気のせいかと三秒で諦めて、再び氷踏みに興じるべく次の獲物を物色し始めると、こんどは逆向きに道を横切ってゆく。
 やはり気になる。目で追いながら、もう一度考える。薄くなった頭髪、お人好しそうな雰囲気、エプロン装着……。
 やっと思いだした。見覚えがあるのも当然、たい焼き屋のおやじだった。ここのところ姿を見なかったから判らなかった。
 そうと気づいた瞬間、からだが勝手に動いていた。反射的に後を追って、ゆくての角を曲がる。勢い込んで飛び込んだ、見通しのいい、まっすぐにひらけた一本道。
「………」
 どこに消えたのか、おやじの姿がない。抜け道があるのかと捜してみても、ずっと先に十字路があるだけのようだった。
 心持ち肩が落ちる。正気に戻れば、何を期待していたのかと馬鹿らしくもなる。まあ、期待なんてのはいつだってそんなものだ。それでも、一応、探すだけは探してみようと、ゆっくりと歩きだ――。
「どうしたの?」
 ひょこっと耳もとに声が届いた。同時に、見えない背中にどすっと重みと温かみ。覚えのある声だった。一時はなんだかんだで毎日のように聞いていたような気もする。
「……探しもんだ」
「あ、ボク、手伝うね。――えっと、あれ? 探しものって何?」
 変わらぬ声が弾んでいた。
「……相変わらず、食い逃げしてるのか?」
「そんなことしないもん」
「相変わらず、何にもないとこで転んでるか?」
「もう、他にいうことってないの〜?」
「相変わらず……少しは身長伸びたか?」
「って、ちょっとしか時間たってないよ」
 やっと振り向いて、そこに期待通りの姿を見つける。
「よう、久しぶり」
「あはは、久しぶりだねっ!」
 赤いカチューシャ。胸もとにかかえた紙袋。狐色になる前の小麦粉の生地の色、たっぷりサイズのコートに長靴。ミトンの手袋。
 小学生の頃に出会って、そして、いまもやっぱり小学生のような自称同い年の知り合いだった。
「そういう失礼なところ、変わってないよね」
 ふっくらして見える服装のせいで、余計にやせっぽちに映ってしまう。気を使って嘘をついてもいいが、たぶんそれは空しいだけだ。
「お前も色々変わらないな」
「……ホントに変わらないね」
 がっくりとしている。
「そうやって、ため息をつくと幸せが逃げるぞ?」
「呆れてるのっ」
 大げさにため息をつくあゆに、両手を広げて肩をすくめる。わざとらしいジェスチャーに返す、わざとらしいポーズ。――やがて、どちらともなく表情が緩む。
「あいかわらずだね」
「あいかわらずだな」
 愉しくなって、顔を見合わせて笑った。
 いつの間にか街で見かけなくなって、それっきりになっていた。もともと何か約束して会うほどの間柄じゃなかったが、全然会わないとなればさすがに気にもなってくる。
「最近、何やってたんだ?」
「あれ? そうだよね?」
 きょろきょろあたりを見回して、ぱたぱたと自分のからだを叩く。動きにあわせて、ぴょこぴょこと背中の羽が揺れる。
「どうしてたんだろ?」
 小首を傾げて考え込んで、
「おかしいね」
 と、にっこり笑った。
 冷めた空気、明るい日差し。融けた氷が石畳に染みを作る。ちらほらと見える歩行者が思い思いの方角に足を進めている。人通りのある場所では、まだ冷たい街の空気もわずかに緩んで感じられた。
 目的地も決めず、ふたり連れ立って動き始める。歩幅の狭いゆっくり目のペースに合わせるのは久しぶりで、妙に新鮮な感動があった。
 子どもの頃に何日か一緒に遊んで、数年ぶりのこの街で再会した、そんな親しいのかそうでないのかよく分からない知り合いが、また隣を歩いている。
 人の縁っていうのはつくづく不思議なもんだ。――そんな感慨の視線を向けると、胸もとの紙袋をごそごそやって、暢気にたい焼きを取り出していた。
「祐一君も食べる?」
「盗人の共犯はごめんだ」
「盗んでないもん」
「じゃ、なんで屋台の親父がおっかけてたんだ?」
「気がついたら持ってたんだよ」
「忘れたふりしたって罪は消えんぞ」
「わ、ぶった。祐一君がぶった。ホントなのにぃ」
 その場かぎりの空っぽなやり取り。そんな繰り返しが、ただ愉しい。不思議なくらいに気分が浮き立つ。
 あゆが何か言う。それをからかって遊ぶ。やり過ぎて沈んでしまう。謝ると、また元気になる。自分でも酷い奴だとは思うが、それを止められない。
 知らないうちに鬱憤でも溜まってたんだろうか。――いや、ひょっとしたら甘えてるのかもしれない、とそうも思う。
「たい焼きはね、あんがたっぷりならいいわけじゃないと思うんだ。だったら、あんこを食べればいいだけでしょ? 生地とあんのバランス、それが大切なんじゃないかな」
 得意げに語り、紙袋から新しいのを取り出すと、口を開いて小さく噛み付く。幸せそうに、はぐはぐと頭からかじっている。
「好きだよなぁ、それ」
「あ、やっぱり欲しかった?」
 急いでしっぽを呑み込んで、袋の中を覗くと、申し訳なさそうな顔になった。
「でも、最後の一個なんだ。もっと早く言わないとダメだよ」
 立ち止まり、困った様子であたりを見回す。
 いつの間にか、駅の近くまでやって来ていた。
「おなかすいてるんだ? えっと、あ、パン屋さんがあるよ」
 あゆが指したのは、あまり評判のよくない店だった。
 二階建ての一階部分が店舗になって、奥のショーケースに疎らにパンが並んでいるのが見える。
「いや、あのパン屋は……」
「ダメかな?」
「あそこのパンは賞味期限が消してあるんだ」
「しょうみきげんって?」
「この時間まではおいしく食べられますってやつだな」
「じゃ、いつまでも食べられるんだ」
「んなわけないだろ」
 あれで商売が成り立ってるんだから、意外と食べる奴はいるんだろう。
 我がいとこは平気らしいが、実際に食べる姿は見たことがない。健康的というか丈夫で長持ち、何とかは風邪引かないで、あいつなら確かに平気で食べそうではある。繊細な俺には到底出来ない相談だが。
「名雪さん?」
 と言って、あゆがきょとんとする。
「あれ? お前ら会ったことなかったっけ?」
 てっきり、ふたりは顔見知りだと思ってた。
「……祐一君の好きな人だとか」
「まさか。俺のいとこ。世話になってるとこの娘さんだ」
「あ、秋子さんの?」
「ああ、そうだ」
 ふーんふーんと、口の中で言葉を転がして、しばらく何か考え込んでいる様子だったが、突然、俺の顔とパン屋を見比べて、
「――買わないの?」
「お前、この流れで買うやつがいると思うのか」
「おなか空いてるんじゃなかった?」
「せめて対象くらいは選びたいぞ」
「そっか、そうだよね」
 なるほどそれは分かるという調子で頷く。あたりを見回して、まじめな顔で悩んで見せ、やがてぽふっと両手のひらを打ち付けた。
「何かみつけてくるね!」
 とめる間も有らばこそ、あっという間に角を曲がって姿が消えてしまう。
 いきなり現れて、いきなり去って。せわしないのは相変わらずだった。変わるもの、変わらないもの。どこか気分が楽になる。

 雲が通り過ぎる。日が翳って、冷たい風が吹いてきた。背筋にふるえがこみあげて、肩をすくめてぶるっとする。寒かったのを思い出してしまった。
 せめて風のあたらない場所で待とうと、適当な店の軒先を借りる。
 半分だけシャッターがおりて、店内に明かりはない。暗い中に骨董品やらおもちゃやらぬいぐるみやらが並んでいる。何の店かよく判らない。雑貨屋かファンシーショップの類だろうか。
 テント地の軒庇の下で、街の人通りを眺めて時間を潰そうとする――が、すぐに飽きてしまう。もともと待つのはあまり得意な方じゃない。こうやってひとを待たせるとは許しがたい所業である。
「――とは思わないか?」
「そうなんですか?」
 返事があって驚いた。気づかなかったが、先客がいたらしい。目をやれば、身長ほどもある巨大な何かにのし掛かられた――いや、ぬいぐるみを背負った姿があった。やたらインパクトのある恰好だ。あゆの羽といい、背負い物が好きな土地柄なのかもしれない。ぬいぐるみが本体だったらヤだなとつまらないことを考える。
 髪の毛にリボン。透けるような色白の肌に小作りな顔のパーツ。にこにこと笑顔を浮かべたかわいらしい人だった。
「はじめまして、ですよね?」
「はい、そうですね」
 ずいぶんにこやかな人だった。笑顔に押されて、間が持たなくなってしまう。
 あああ、うん。のどの調子を整えた。変な声を出してしまいそうだ。
「寒いですね」
「そうですね。でも、佐祐理はにぶいですから平気です」
 両手に風呂敷包みを提げ、そして、背中には謎のぬいぐるみ。どうしても視線がそっちに向かってしまう。
「これ、オオアリクイなんですよ」
 と、どこか誇らしそうにする。それで疑問への答えはすべてすんだといわんばかりだった。――まぁ、暖かそうではある。
「こっちは牛丼です」
 荷物を持ち上げ、愉しそうに教えてくれる。
 形からして風呂敷の中はお重のようだ。だったら、牛重だろうという気もする。もっとも、どっちにしろ弁当向きではなさそうだ。何か特別な拘りでもあるのかもしれない。
 じろじろ見ていると、
「待ち合わせですか?」
「そちらも?」
「はい、ご一緒みたいですね」
 風を避けてじっとしていれば、じわじわと寒気が取れてくる。人通りも途切れがちで、街は静かだった。
 待ちぼうけ仲間のにこやかな横顔からは、待っている時間を楽しんでいる様子が伝わってくる。肩幅に足を開いて、軽く胸を張り、遠くに視線をなげるその姿。子どもの頃は相当な腕白だったんじゃないかとも思う。
 こうやって待つことだって、そんなに悪くない気がしてくる。
「……幸せそうですね」
 思わずそんなことを口にしてしまった。いくら何でも不躾過ぎるし、相手を見下したようでもある。あんまりな言い草だ。
 なんとかフォローしなくてはと焦る俺に、
「ええ。好きな人がいれば寂しいはずがありません――ずっと一緒にいられれば。そうじゃありませんか?」
 気を悪くした様子もなく、変わらぬ声で答えてくれる。
 いい人で助かった、と安心した。そして、にこやかなこの人の好きな相手というのが少しだけ羨ましくなってくる。
 そんなことを思っていると、突然、表情が変わって、
「まーいーっ!」
 背伸びするように手を振って、勢いよく道の向こうに駆け出した。
 走ってゆく、ぬいぐるみを背負った姿の向こう。ずいぶんと身長差のあるふたり組みがやって来ていた。うち片方はなじみのやつだ。
 こっちに気づいたらしく、ちびっこい方が元気に駆けてきた。
「ただいまっ」
「わっ、こら」
 最後、大きな一歩を跳んで、隣に踏み込んでくる。勢い余って、わわわと変な踊りをするのを襟首をつかんで立て直してやる。
 やっと落ち着いて、ごまかすような照れ笑い。胸には調達してきたらしい紙袋を抱きしめていた。
 向こうも無事に合流したようだ。アリクイの彼女がぶんぶんと手を振ってくる。待ち合わせの相手は、我関せずといった風で姿勢よく歩き去る。慌てた風に、愉しそうに、残された彼女が追いかけていった。
「舞さんっていうんだって。食べ物探してるときにあったんだ」
 ふたりの後ろ姿が道の向こうに消える。あゆは手を振って見送っている。たっぷり時間をかけてから、やっと手をおろし、
「あ、これ、肉まん」と紙袋から取り出して、「はい、あげる」
「……まさか、またやったのか?」
 温かい中華まんを受け取りながら、念のために訊ねると、
「舞さんに分けてもらったんだよ」
 と頬を膨らます。
 ずいぶん午後も遅くなって、少しだけ買い物の人通りが増えてくる。どこからか来て、どこかへと去っていく見知らぬ人の流れ。
 夢の中のように遠近感のない、薄っぺらな光景だと感じてしまう。視界にあるあいだだけ存在して、見えなくなると消えてしまう、通行人役の幻影なんじゃないかとすら思えてくる。
「肉まん、冷めちゃうよ?」
 日光はほんのり暖かい。風のない場所に隠れて、じっとして動かなければ多少は寒さをしのげる。こうやって温かい食べ物でもあれば、効果もひとしおだろう。
 しばらく無言で食事タイムになった。

「――あれ?」
 目の前を見覚えのある姿が通り過ぎていった。
 ぶかぶかのGジャン、長い髪の両脇で細いリボンの蝶結び。途方にくれた様子でとぼとぼと歩いている。
 いきなり街中で襲い掛かってきて、しばらく居候していた家出娘だ。ある日、ふっつりと姿を消してそれ以来連絡が絶えていた。やっぱり記憶が戻っていたらしい。
 通りの店先を覗いて歩いて、何かを探しているようだった。思いついたように先まで走っていったり、一度通り過ぎた場所に戻って確認してみたり。時折、通行人にぶつかって邪険にされたりする。
 やがて、歩道の真ん中で立ち止まってしまった。
 大丈夫か、あいつ……。
 思わず声を掛けそうになったところで、通りの向かいから同じように見守っている少女に気づいた。
 呆然とする真琴の姿を見ている。通りがかりに足を止めた感じではなかった。あいつを知っている子なんだろう。なんだ、ちゃんと友だちがいるんじゃないかと、少しだけ安心した。
 学校の制服。下級生の色のケープのリボン。姿勢にも表情にも、どこか近づきにくい硬質な雰囲気がある。そっと忍び寄って様子を窺う。気づいてるだろうに、まったく反応がない。
「あいつの友だち?」
「……いいえ」
 こちらに顔も向けず、視線を固定したまま小揺るぎもしない。
 やっぱり驚かないか、残念。
 しばらくして、今度は向こうから問い返してきた。
「あの子を知ってるんですか?」
「ああ、自称記憶喪失の家出娘だろ」
 そう答えると、ただでさえ硬かった表情が、氷点以下に落ちてしまう。
 居心地が悪くなって、目を逸らした。真琴が再び歩き出している。下級生の彼女も動き出した。ほっとして俺も移動を始めた。
 真琴は通りで何かを懸命に探し続けている。
 店先のショーケースを眺め、道ばたのポリバケツを覗き、路地にもならないような狭い隙間に首を突っ込み、また別の店先でドアマットを引っくり返す。
 歩き出しては立ち止まり、あたりを見回して歩き出す。通行人を避けようとして、却って別の人間にぶつかりそうになる。人の傍には近づかず、向こうから寄ってくれば慌てて離れる。
 探し物の正体すら分かってなさそうだ。何だか可哀想な気がしてくる。
「あぶなっかしいやつだよな。あれでうまくやっていけるのかな」
 知らず声が漏れる。
 横目で下級生の少女を窺うが、俺の台詞など興味もないようだ。それでも、歩く速度は合わせてくれている。
 真琴を追って、じれったくなるようなペースで商店街を進む。しばらくそうして、気づけばまた足を止めていた。
 あいつの向こうにゲームセンターが見えた。店先には大型の筐体が並び、大きめの入り口から明るい店内が覗いている。
 そんな場所の前で、じっと周囲の様子を窺って、さんざん迷って時間を掛けた挙句、やっと入り口近くのカーテンの付いた機械にはいる。――証明写真の自動撮影機だった。すぐに出てくる。
 何やってんだ、あいつは。
 意味の判らない行動にあきれ返った。そういえば、居候をしてた頃も妙な行動が多かった気がする。
「――あの子は、春を探してるんです」
 隣から声がする。下級生の少女が、初めて真っ直ぐな顔を見せていた。
 心の奥を試してくるような不思議な視線だった。訳もなくやましい気持ちになってしまう。
「では、失礼します」
 一礼して立ち去って、店先でうろうろし始めた挙動不審者に話しかける。さっきとは打って変わった、穏やかな表情だ。最初はとまどっていた様子の真琴が、うんとひとつ頷いた。
 やがて、ふたり、どこかに姿を消してしまう。
 去ってゆく二人を見て、やっぱり知り合いなんじゃないかと思う。
 あいつの使っていた部屋は、まだそのままになっている。いまの暮らしが落ち着いたら、一度くらい遊びに来たらいい。今度は、友だちも連れて。
 そんな感慨に浸っていると、
「――祐一君!」
 突然、声が掛かって、やっとあゆのことを思い出した。
「うわ、いたのか」
「無視してるんだもん。ひどいよ」
「悪い悪い、うっかりした」
「うっかりで忘れられてたらボクの立場がないよ」
 ふくれている。
「いや、ちゃんと覚えてたんだが、つい失念してな」
「そっか、しつねんじゃ仕方ないね」
 真面目くさった顔をする。吹き出しそうになるのをこらえて、頭をくしゃくしゃっとしてやると、もう、という顔で睨んでくる。だが、長くは続かない。いつものにこにこした顔に戻ってしまう。
「それで、なんていってたの?」
「ん? ああ……」
 春がどうしたって話を繰り返すと、感心した様子で聴いている。
「それって、どんなカッコしてるのかな? 見つかっても、気づかないと困るよね」
「そうだな、背中に羽が生えてて、たい焼きくわえて街を走り回ってる感じなんじゃないか?――お、こんなところにいるじゃないか。サボってないで、はやく暖かくしてくれ」
「無理だってば」
 そんな話をしていると、余計に寒さが気になってくる。いつまでも歩道で立ち話をしてたらバカみたいだ。

「あら、相沢君?」
 ふいに背後から声がした。振り向くと、最近、どことなく思いつめたようだった知り合いがいる。いたずらっぽい表情を浮かべ、今日はふっきれたように明るい。そういえば、出会った頃はこんな感じだった気もする。
 それにしても、ゲーセンの前とは似合わない場所で会ったもんだ。それとも、意外に似合っているのだろうか。
 いぶかしい気持ちが顔に出たらしく、
「この子の付き添いで」
 苦笑しながら、傍らの小柄な女の子を押し出した。
 あまり健康そうでない肌の色。ストールをまとって身を守っている。どこかで見たその姿は、いつぞやの学校で会った風邪引き娘だ。
 頭の隅に引っ掛かるものがあって、さらに記憶の糸をたぐってみる。
「……みさかしおり」
「何?」
「名前。似てるよな」
「妹だもの」
 なるほど、あの日は姉に会いに来ていたのだ。
 香里の妹はあゆとも知り合いらしく、ふたりで挨拶の交換をしている。そういえば、こっちに引っ越したばかりの頃、一緒に街で出くわしたこともあった。
 姉妹と合流して、店頭のモグラ叩きの前に移動した。俺と香里が後ろから見守る中、わいわいとあゆたちふたりが台に取り付く。
「やらんの?」
「やらないわ」
 想像してみる。ハンマを構えて、くるっと回って。にっこり笑って。華麗なるモグラ叩きの女子高生。……すっごく、似合わん。
 目を移す。ハンマをかかえた妹の姿。こっちは似合うな……。
 この違いがどこからくるのか、自明すぎる答えが出る前に思考を止める。あまりに不憫な気がした。いろいろとある意味双方ともに。
 コインを投入して、ゲームが始まる。あゆが横合いから乗り出すように応援している。――あっという間に終わってしまった。すごい点数だ。ハンマを持って打ちしおれ、すぐに復活して楽しそうに笑う。次のゲームを押し付けられそうになったあゆが慌てたようにかぶりを振る。
 はしゃぐ妹の様子を香里は見守っている。少しやせてしまった頬のライン。こんな柔らかい表情もするんだと思わされる。
 そうやって、何ゲームかのあいだふたりのさわぎを一緒に眺めていた。
 妹の姿を追っていた香里が、何気ない調子で視線をあゆに移し、「可愛い子ね」と感想らしいものを洩らす。「でも、名雪のことはどうするの?」
 なんのこっちゃ。だれが何だって?
 気がつくと、いたずらっぽい笑みを浮かべて、香里がこちらの顔を窺っている。そういえば、こんな突飛なことを言って、相手を煙に巻くやつだった。どうせ、たいした意味はないんだろう。
 もう一度香里に目をやると、堪らず吹き出していた。
 久しぶりに屈託のない笑いを見た気がする。からかわれてるのに、何故かこっちまでうれしくなった。
 しばらく経ってやっと笑いやむと、
「じゃ、そろそろ行くわ」
「なんだ、もう行くのか」
「忘れものを取りに来ただけだから」
「忘れもの?」
「ええ」
 曖昧な頬笑みで頷き、去り掛けに筐体の前で苦戦中の妹に声をかける。進歩の跡もあまりなく、モグラ叩きは冷徹な点数を表示していた。
 去ってゆくふたりを店の前で見送った。
 並んだ姿を眺めながら、あまり似てない姉妹だったなと思う。そして、仲のよさそうな姉妹だとも。
 曲がり角の手前で、香里が振り返った。傍らの妹を抱き寄せる。ぎゅっと頬を合わせると妹があたふたする。
「辛いことがあったら、全部忘れてもいいのよ。そう思わない? それじゃあね」
 もがく妹を解放し、歩き出す前にもう一度だけ笑って見せた。それは何かを押し込めて、やけっぱちなくらいに晴れ晴れとした顔だった。

 外が寒かったので、ゲーセンに戻って時間を潰した。
 俺もゲームは得意な方でないし、あゆと来てはさっぱりもいいところなので、ほとんど見学だけのようなものだった。試しにモグラ叩きをやらせてみたが、香里の妹とどっこいの成績に終わってしまう。それでも結構、楽しかった。
 しばらく遊んでから外に出ると、一瞬だけ静かな間をおいて、耳の電子音が商店街のざわめきと入れ替わる。
 通りの込み合う時間になってきた。しばらくすれば、陽も落ちる。何をする当てもなく、どうしようかとあゆの方を窺うと、もう先に立って歩き出していた。
 商店街を離れ、住宅街の坂道を抜けると、あたりの景色も寂しくなってくる。人通りも少なくなって、街の中よりも雪が多くとけ残っているようだ。
 ふたりで歩きながら、こっちに来てからあったこと、こっちに来る前にあったこと、家の話題、学校の話題、思いつくことを話してゆく。どんな話題も全身で聴いて、大げさに感情移入して返事をくれる。それが心地よくて、どうでもいいようなことまでしゃべり出す。
「たい焼きはやっぱ、腹から食べたいよな。しっかりした頭と尻を手で持って、やわらかい部分に喰らいつく。甘いところを食べ終えたらしっぽで口直し。最後にあんと皮のバランスした頭でしめる、と。どうだ完璧だろ?」
「でも、袋を持ってると、両手が使えないよ」
「一説によると、頭から食べるのは男食べ、しっぽから食べるのを女食べっていうらしいな」
「………」
「なんだ、気づかなかったな。そうか、あゆは頭からか。いや、あくまでそういう説があるってだけだから気にするな」
「祐一君って、ほんといじわるだよね」
 呆れたようにあゆが溜め息をつく。
「そういや、あんこが苦手で中まで小麦粉のたい焼きを頼むやつがいてな」
「えっ、そんなのたい焼きじゃないよ」
「中身が代わってもたい焼きだが、見かけが変わったら大判焼きだ。つまり外側の方が本体だってことだろ?」
「全然違うよ……」
「むしろ、本質はたい焼き器?」
「粒あんかこしあんじゃないとダメだよ」
「……喰うのか、あれ」
「たい焼きだよっ!」
「まあ、いまじゃいろんな具があるけどな。つーか、白あんくらいは仲間にいれてやってくれ」
 そうやって、つまらない話題で笑いあう。
 どこかに着いてしまったら、この会話も終わるんだとふと思う。なんだか惜しいような気がする。歩く速度がだんだん遅くなって、やがて、どちらともなく立ち止まってしまう。向こうも同じことを感じたらしい。
 午後から夕方へ移っていく、街路樹に挟まれた静かな小径。空気はきりりと澄んでいる。ふたりの呼気が立ちのぼる。
 ちらっと横目をつかうと、にっこりと目が合った。
 話の往き来が止まっていて、何となく浮かんだことを口にしていた。
「そういえば、探し物ってなんだったんだ? 見つかったのか?」
「……うん、見つかったよ」
 思い出せない落とし物を探していたあゆ。何度か探すのを手伝ったこともあった。
 そうか、見つかったのか。
 俺はまだ子どもの頃の記憶があやふやだった。思い出そうとすると、頭の中にもやもやしたものが広がってくる。それで困りはしなかったが、抜けないトゲの様に気に掛かっていた。
「なんかさ、そういうのって、思い出した方がいいんかな?」
「そういうのって?」
「忘れてる記憶」
「無理することないと思うよ」妙に声はやさしげだ。「悲しいことまで思い出すよりいいよ」
「けど、なんか気になるんだよな」
「思い出しても、きっと大したことじゃないよ」
「そうかもな。あゆが食い逃げしたとかそんなので」
「あはは、そうだよね」
 こうやって傍にいると、正味一月ほどの付き合いでしかないことを忘れそうになる。離れ離れになっていた自分の一部が戻ってきたかのようにしっくりとくる。あらためて考えると、不思議な感じがなくもない。
 会わなくなってからそれほど経っていないのだが、ずいぶん長く顔を見ていなかったような気すらしてくる。
 話題が途切れていた。だから、つい聞いてしまう。
「最近、会えないくらい忙しかったのか? でも、用が終わればまた遊べるよな。探し物だって見つかったんだし」
 変な間が空いてしまった。
 あゆの様子を窺う。うつむいている。
「……忘れもの」
「ん?」
 ポケットから人形を取り出した。手のひらに収まるくらいの小さな人形だ。
「願いの叶うお人形なんだ。もうふたつ叶えてもらって、残りはあとひとつ。でも、時間切れになっちゃった。だから、これを返しに来たんだと思う」
 両手で大切そうに人形を包み込む。目をつむって、何かを祈るようにする。やがて目を開くと、「はい」と人形を渡してくれる。
 受け取って、しげしげと眺めた。
 もとは白かっただろう人形が、すっかり汚れて黒ずんでいた。背中には羽が片方だけ残っている。
「ずいぶんくたびれてるな」
「探すのに時間が掛かっちゃったから」
 似合わない苦笑いをしている。
 居心地の悪い沈黙。
「じゃ、ボクもいかなきゃ」
「……どうしてもか?」
「うん、仕方ないよ」
「また会えるよな?」
 質問の答えは、わずかに遅れて返ってくる。
「ボクが来た理由、ホントはなんとなく判ってるんだ。たぶん、祐一君にさよならをするためなんだと思う」少し間をおいて、「祐一君が、かな?」と小首を傾げる。
 困ったような視線と見つめ合う恰好になった。
 しばらくそうしていた後、ひょいと背伸びして顔を近づけてくる。
 その場でくるりと背中を向けてうつむいて、
「じゃあね、ばいばい」
 とっさに伸ばした手が空を切っている。
 確かに彼女をつかんだはずだった。
 小走りにあゆは駆けてゆく。そして空気の中に消えてしまう。
 どうしていいか判らずに、途方にくれて取り残された。さっきまで目の前で笑っていた相手がいまはいない。
 手の中には、渡された人形がある。汚れてしまった能天気な笑顔が何だか悲しそうにしている。その顔を眺めていると、胸の中にあふれ出そうになるものがあった。
 人形をポケットにしまう。
 目を閉じれば、彼女の姿が浮かぶ。彼女のいた気配はまだあたりに残っている。自分にも分からないものを持て余しながら、そっと遊歩道を歩き出した。


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