chapter 漆 / 決戦前夜
六畳二間のアパートで、風呂は共同だが深夜から明け方にかけて利用する人はほとんどいないと聞いた。近くに24時間営業の銭湯もあり、お湯には苦労しない。そして一夜限りなので家賃は無料。貧乏学生の身分からすれば万々歳だ。
割り当てられた一室で、三人は向かい合って座っていた。全員じっと中央の一点を見つめ、そこに笑顔はない。
沈黙を破ったのは祐一だった。
「準備室で久瀬の話を聞いたときから、ここまで来てから言うつもりだった。逆に言えば、ここに来なかったら言わないつもりだった」
どれだけ本気なのかを確かめてから。
そして引くに引けない状況に持っていってから。
そういうことを祐一は強調した。
「知ってるなら知ってるでべつによかったんだが、まあたぶん知らないだろうとは思った。……いいか? もう一度言うぞ。倉田佐祐理さんは、リストカットシンドロームなんだ。……傷は浅いからその場で手当てして、きちんと診断を受けたわけじゃないらしいが、症状はほとんど同じだと」
「相沢それ……どこで知ったんだ?」
「もちろん本人から聞き出せるわけはない。佐祐理さんの親友に、川澄舞って人がいる。これは久瀬も知ってると思うけど、二人は同じ部屋を借りて一緒に生活してる。その人とちょくちょくメールしてるんだ」
「ああ……なるほど……川澄さんか……なるほどね」
「そのへんの事情は知らないわけじゃない。が、まあこの際だから気にするな。……続けるぞ? 舞の言うところによると、高校時代に一度。幼少時にも何度か。そして今年の夏にまたやったらしい」
「今年の夏? つい最近じゃないか」
「そうだ。実家なら自分の部屋があるし、言い方は悪いが抑止力になるようなものはない。けど今度は違う。舞を心配させるとわかっていて……わかってなくても、ダイレクトに知られる、そういう状況下で切ったんだ。……どれだけあの二人が親交が深いかは久瀬もよく知ってるだろ?」
「嫌ってほど知ってるさ……でもまさか……だって考えてもみろ、自己犠牲なんて厭わない二人だぞ? 川澄さんが同じ部屋に住んでるんだぞ? なんで倉田さんがそうなる?」
「そのへんの詳しいところはわからない。男絡みだとしか」
「男? 倉田さんに男? 馬鹿な、それこそありえない」
「人は変わる。久瀬もよく知ってるだろう?」
初めて北川が口を開く。
何人の男が玉砕してきたか知っているだけに、信じがたかった。
「そうか…………変わるか。男絡みか……」
「タイミングがいいのか悪いのか、舞から一度こっちに来てくれってメールがあった。それにかこつけて今回の計画を練ったわけだけど……俺に助けを求めるなんて、言っちゃなんだが相当切羽詰ってるぞ」
「そこに僕が、のこのこと告白をしに来たっていうのか?」
「まったくその通り」
「…………本気か相沢?」
「俺はいつだって本気だぞ? 冗談と言うとき以外はな」
二人が睨み合う。互いに一歩も引く様子はない。
言葉を発さず、北川が手で祐一を促した。
「俺がからかってると、久瀬は思うのか?」
「……いや」
「あの二人は俺にとって大切な友人だ。それこそ久瀬、北川、お前らと同じなんだ。転校したばかりのやさぐれていた俺と親しくしてくれた。卒業した今でも関係は切れてない。そりゃ会うことはめっきり減ったけど……幸せになって欲しいって思ってるんだ」
「そうか……くそ。相沢の気持ちがわからないわけじゃないんだ……」
「腑に落ちないんだろう。相手がそんな状態のときに自分は何を言うつもりだって」
「まあ……ああ、そうだ。そうだな。確かにそう思った」
「俺だって佐祐理さんの状態を知った久瀬がどう思うかなんて、何回も考えたさ。でもな、お前しかいないんだよ」
「なにがだ」
「あれだけ親しい舞でも駄目だった。原因が本当に男絡みだとすると、舞だと力になれるか厳しいんだ。けどそれとはまったく別に……いいか関係なくだぞ? 佐祐理さんの原体験に一番近いのは、間違いなくお前だ」
「う……」
「いきなり連続で重大発表されて何も考えられないかもしれないが、俺はもう何日も考え抜いた。お前が適任なんだよ」
「僕がか……? 僕が倉田さんの力になれるって、お前は言うのか?」
「もっと正確に言うなら、力になれないわけがないんだ」
「僕は……しかし、僕は…………」
久瀬の声がどんどん尻すぼみになっていく。目も泳いでいる。
とうとう言葉が途切れて押し黙ってしまった。その瞬間を計っていたように、北川が動いた。
「おい」
「じゅ……潤?」
肩をむんずと引っつかみ、目線を揃えて真正面から久瀬を睨みつける。
この場にいる誰もがかつて見たことがないほど、その瞳には力があった。
「おい久瀬、お前に訊く。お前はなんだ? 久瀬だろ? じゃあ久瀬に訊こう。初恋の相手は誰だ? 倉田さんだろ? 俺と初めて出会ったときからそうだったもんな。ずっと一途に思い続けてるんだろ? その証拠にどんな女と付き合っても長続きしない。埋めようとしても全然ダメだったんだろ? もう何年だ? 十年だぞ? じゃあ最後に訊こう。初恋はいつだ?」
「僕の、初恋は……」
「今だろう!?」
「……今、だよ」
「声が小さい。いつもの演説の勢いはどうしたよ? おい!」
「今だよ!! ああそうさ、僕は彼女がずっと好きなんだよ! 十年? ああそうだろうな、初めて会った、いや見たときからずっとだ、十年にもなるさ。一弥に毎日相談したよ! 乗り気じゃないのに無理やりな! それでも実の姉が褒められてまんざらでもなさそうだった……あいつは姉のことが好きだったんだ! でもだ! 倉田さんは一弥を! 実の弟の葬式で! 一滴の涙もこぼさなかったんだぞ! 弔問客にへこへこ頭下げて……なんだっていうんだ……くそ……」
「……それがお前のしこりか」
「こんなの……告白以前の問題だ。彼女と会話していると、いつも頭のあの光景がちらつくんだ。それで必要以上につっけんどんになったり、好意をないがしろにしたりね……自分でも抑えられなかった。なあ、相沢、確かすこし前だったかな、中学高校とチャンスがなかったって僕は言ったよな? 大嘘さ。何度もあった。あったんだ。今となっちゃ僕の自惚れかもしれないが……片っ端から自分で潰していただけだ……」
沈痛な表情で告白する久瀬を、二人はただ見守った。
「それがなんだ……リストカット……? そんなに彼女が苦しんでいたなんて、ぜんぜん知らなかったよ。本当にいまはじめて知った。しかも、最近の話じゃない。もうずっと彼女は苦しんできたんだろ? それを、なんなんだ僕は……! 一弥の死に悲しまなかったと勝手に決め付けて……十年だぞ? こんなにも長い間だ! 彼女を非情な人間だと…………くそ、くそ! くそくそくそ!!」
両手を床に叩きつけようとする久瀬を、二人がかりで押さえつける。しばらくは暴れて抵抗したが、不意にスイッチが切れたように大人しくなった。
「なあ相沢、潤……本当にこんな僕が、彼女を救えるのか……?」
「贔屓目なしに言えば、こればかりはやってみなくちゃわからないな」
「ハハハ」
力なく笑う久瀬。目が虚ろになってきている。
肩と腕を持ち上げて、なんとか立たせた。
「……頃合か」
「だな」
北川が右から、祐一が左から、それぞれ構えを取った。
「久瀬、これを見ろ」
「なんだ……ん? 拳に何か書いてある……なに、マスクメロン? 潤なんだそれは? 相沢は……スイカ? スイカがなんだ?」
「わからないか?」
「油性マジックまで使ったってのに」
「意味がわからない」
二人で目を見合わせ、二、三度頷き合う。
「相沢が野菜担当で、」
「北川が果物担当なんだな」
「そうか……それで?」
促され、祐一が無言でドアを指差す。
条件反射で顔を向けると、そこには無言で様子を見つめている舞の姿があった。
「あなたは……川澄さん……? え? 川澄さん? なに? なんで?」
すかさず動いた。
「せーのっ」
「うりゃ」
ゴシャッ
「……というわけなんだ」
緑茶をすすりながら一部始終を語り終えると、久瀬は歪んだメガネのふちを持ち上げ、体を起こしてそれとわからないくらいのため息をついた。
「夢オチにしては出来すぎだと思ったが、ぜんぜんまったく違ってたわけか」
「今回も夢でもないんでもないからな」
「俺と相沢でしたためた作り話でもないぞ」
「しかし仕組んだ話ではある、と」
祐一がにやりと笑う。
北川がにやりと笑う。
久瀬がにやりと笑う。
最後に笑った男が、横で俯きっぱなしの佐祐理を抱き寄せる。
「……本当にこれは夢じゃないのか?」
「あはは……夢だと佐祐理が困っちゃいます……」
力のない声を聞くや否や、ますますいっそう腕に力を込める。
「まさか! 夢でもなければ作り話でもない。すると現実だ。なら決まりです。倉田さん、心配しないでください。今は部屋に五人もいますよ、ほら。川澄さんだっている、友人の相沢だっている。あ、こいつは北川って言って僕の長年の友人です。見た目通り軽いやつなんで迂闊に近寄らない方がいいです。あ、そうだ。人数も揃ってることだしトランプします? 大富豪とかブラックジャックとか」
「賭けものばっかりですね」
「わかりますか。さすがだ。さては好きですね」
「あはは。じつは嫌いじゃないです」
密着状態で雑談している。それと見つめる三人。舞はぼへっと眺めているだけ。残りの二人は次の通り。
「……なあ相沢。なんだこのお調子者は?」
「さあ? 色ボケしてんじゃないぞこの鼻メガネ」
数時間前、左右から顔面に正拳突きを喰らい、メガネを吹き飛ばして鼻血を撒き散らし、久瀬は倒れた。現在はフレームの歪んだメガネに鼻ティッシュという姿である。
「……祐一、もう一回説明して」
「ん? 舞、わかりづらかったか?」
「はちみつくまさん」
慣れない言葉に久瀬と北川の表情が変わる。祐一は流した。
「敵を騙すにはまず味方からというか……前もってすべてを知っていたのは俺と北川だけだったってこと。久瀬は完璧に騙した。ここが舞と佐祐理さんの住所だと知らせてなかったから、明日にでも行くもんだと思ってたんだろうな。それでまんまと本心を聞き出せたわけだ。何から何まで隣に筒抜けなのにな。で、舞と佐祐理さんには俺一人で行くって言ってあった。こっちはまあ、舞にいきなりプラス二名くっついて行くって言いづらかったからなんだけど。今回はどうしても久瀬を連れて行く必要があったから、前もって断られるわけにはいかなかった」
「……わかった」
「こんなもんでいいか」
「祐一はかしこい」
頭を撫でられる。また久瀬と北川の表情が変わる。祐一は流した。
「でも一番驚いたのは、久瀬だな」
「そうそう。俺もあんなに情熱的な一面は十年間ではじめて見た」
「何とでもいえ。情熱。実にいい響きじゃないか!」
「あは……久瀬さん、すこし苦しいです」
「あ、すいませんつい。情熱が暴走してしまいました」
「……ダメだこいつ」
「今は何を言っても無駄だろ」
さっきから佐祐理を片手で引き寄せたまま離そうとしない。近づくもの全てを退けかねない鼻息の荒さである。
「けっきょくのところ、両思いだったわけだよな?」
「いや、要素をはらんでただけで、佐祐理さんの方は微妙だったんじゃないか?」
「そこ外野うるさいよ!」
ビシィと指摘する。鼻息も飛んできた。はずみでティッシュが抜けて、慌ててはめなおす。
「一弥から話は聞いてたんです。とても楽しくていい人だって。だから当時から、ぜひ一度お話したいと思ってましたよ」
「そんな……そうだったのか……照れます」
「幸せなのはわかったからお前は五分黙っててくれ」
北川が延髄に手刀を叩き込む。崩れ落ちるが二秒で起きた。
「お互いずっと相手が気になってたのに、久瀬は佐祐理さんを誤解してて態度悪いし、佐祐理さんは佐祐理さんで嫌われてると思い込んで、すれ違い続けた十年間……みたいな感じか」
「けっこう感動モノな展開のはずなんだけどな」
「おい二人とも、それじゃまるで感動的じゃないみたいな言い草じゃないか」
「お前がさっきから斜め斜めにずらしてるのが原因なんだけど」
「空気読めない達人は久瀬にゆずる。俺にはムリだって身に染みた」
「さっきからなに言ってるんでしょうねこいつら? ハハハ」
「あははー、佐祐理は頭の悪い子なのでわかりません」
さらりと逃げを打ったのを祐一は見逃さなかった。なんだ、結構元気なんじゃないか。
「倉田さんに必要なのは人の体温。温もり。それと言葉。あと愛。そう、愛だよ」
「アイ?」
舞が首を捻る。ピンとこないのだろう。
祐一と北川も、何言ってんだコイツ的な視線で眺めるばかり。
しかし久瀬は一人で何度も頷いて納得し、思いついたように鞄に手を突っ込んだ。
出てきたのは、薄汚れたうさぎのぬいぐるみだった。
「これだよこれ」
「なんだそのゴミは?」
女子高生と戯れていた北川は知る由もない。この中で唯一出所を知る祐一の顔は一瞬にして引きつった。
「倉田さん、これをあげます。愛の証として」
「えーと……うさぎさんですね」
そういえば久瀬は熱くなるほど馬鹿になるんだった。
保護者二人が同時に思い出したが、すこしばかり、いやかなり手遅れだった。
「拾いもんをプレゼントするなよ」
「あのな相沢、ものは値段じゃなくて気持ちだろう? つまり愛だよ」
「そもそも値段は存在してないわけだが」
「じゃあ残るは気持ちだけじゃないか」
「こいつダメだ……」
極めて常識に則った指摘をした祐一も、処置なし、と両手を上げた。
佐祐理は差し出されたぬいぐるみを受け取り、じっと見つめている。
「これと同じもの、一弥も持ってました……」
「きっとあいつの生まれ変わりに違いないですよ……」
なんなんだその展開は? 引きまくる周囲などお構いなしに、二人は盛り上がっていく。
「そういえば心なしか一弥のにおいがします」
「青くさいやつでしたからね」
そうなのか。今は亡き彼は草のニオイがしていたのか。周囲はすっかり観戦ムード。
「このにおいが、愛……?」
「きっとそうです」
「違う」
思わず祐一が口で突っ込む。北川は口を押さえながら手を水平にスイングする。二人合わせてツッコミ一本。舞がなんとなく審判になる。
夜なのに、窓の外でカラスが鳴いた。
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