chapter 陸 / カルマ





 倉田佐祐理の朝は早い。そして予定的である。
 時計が音を奏でると同時に目を覚ます。六畳部屋に布団を二組敷いて、彼女は入口から遠い右側に身を置くようにしている。アルバイトと学校との兼ね合いから、布団がどちらとも埋まる日はあまり多くない。特に彼女よりも同居人が仕事に熱心で、彼女が知っている限りでもふたつ掛け持ちしている。それ以上のところは彼女にもわからない。
 今日は確か、コンビニの深夜だったか。あくびをかみ殺しながら布団を抜け出し、丁寧に折りたたんで押入れに仕舞いながらゆっくりと、頭に冴えが戻る速度を追い越さないように、本日の予定を思い描く。ひとつずつ、順番に、忘れないように。それは傍から見れば祈りにも似た仕草だ。けれども同居人を含めて、彼女のその姿を目にする者は一人としていない。
 独り言が多そうだ、と評価されたことは一度や二度ではなかった。もし彼女を観測する何者かが存在するとすれば、誰かと会話する彼女との間隙に少なからず驚くに違いない。
 彼女は一人では喋らない。一人でいることは一人であり、それだけだ。
 表情が動くことも稀である。玄関の呼び鈴が鳴ったときと、携帯にメールが届いたとき。このふたつが、彼女を一人から救い上げる数少ない標となる。小さな折り畳み式の機械から、昔気に入って毎週見ていたアニメの主題歌が流れだす。すると彼女の顔にはたちまち光が射し、何よりも優先して機械を開く。次に読む。理解する。そして返信する。一連の動作は、もはやひとつの儀式である。
 儀式がすむと、彼女はまた一人。部屋の中で一人。飯を食うのも一人。テレビを見るのも一人。何をするも一人。まるで砂漠の真ん中にいるみたいだ、と思うようになった。違うところは太陽さえも照らさないこと。

 都会は冷たい。その意味を知ったのは、家族からの忠告でもなければ友人の又聞きでもなく、実際に暮らし始めてからだった。
 冷たくて、乾いていて、空っぽだ。どうして街はあんなに人と物で溢れているのにそう思うんだろう。まだ彼女の中で答えは出ない。ただ、日増しに冷たくなり、潤いがなくなり、空白が大きくなっていくことは感じていた。主語はない。心の中はただ漠然としている。まるで形をなさない曖昧な何かが、次第に存在感だけを放つようになった。
 天井を見上げることが増えた。天井から見下ろすことが増えた。見上げることはつらいけど、見下ろすことはとても楽であることに気づいた。ずっとむかしから気づいていた。だから彼女はそうした。刃物のたぐいは同居人が厳重に管理していて、許可がおりないと手に持つことも許されない。一度手首を切ってから、そういうことになった。

 彼女は勤勉で柔和で人当たりがよく、模範的な学徒である。すくなくとも周囲にはそう認識されている。講義を休むこともなく、講義中に寝ることもなく、課題を人に依頼することもなく、提出しないこともない。そこに清楚で愛らしい外見も相まって、彼女は同性よりも異性をよく惹きつけた。
 彼女は笑う。
 週に四回は大学へ赴き、一時間半の講義をいくつか受け、学食で昼食を摂り、同居人のアルバイト先に顔を出し、部屋に戻る。部屋の外にいる限り、彼女はほぼ笑っていると言っていい。一人で歩いている最中だろうと、食事中だろうと、お手洗いだろうと、彼女は笑顔を絶やさない。
 生まれて初めての恋人は、同じ科の学生から人気の高い、テレビでよく耳にするアイドルグループの誰かに似ていると評判の男だった。付き合うことになったきっかけはもう覚えていない。向こうから積極的に話しかけてきたことと、会話がとても楽だったこと。そしてそれがベッドに入るまで続いたことは覚えている。手首の傷を見せたときの顔がひどく印象的だったことも、なんとなく覚えている。その数日後には別れ話を切り出され、キャンパスですれ違っても挨拶も交わさなくなった。すれ違った一度目と二度目はこちらに気づいてないと思い気に留めなかったが、自分からの挨拶をはっきりと無視された三度目で彼女は理解した。
 それから近いうちに手首の傷が増え、彼女は同居人に刃物の扱いを禁止された。








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