chapter 弐 / シグナル
「そうだな、ひとつ昔話でもしようか。あらかじめ言っておくけど、けっこう長くなる。嫌ならここで帰ってくれていいよ。
……。
おい。
…おいって。
どこ行くんだよ。
なに?
帰る?
めんどくさいから?
あのな、言葉のあやっていうものだよ。本当に帰るやつがいるか。
君が帰ったら僕はなんだ? 部屋で一人で本を音読する危ないやつか? 不審者か? 御用か?
なに?
だって嫌ならここで帰れって言っただろ?
君は馬鹿か? そこは嫌でもいるところだろう!
君からすれば粘り腰でようやく本題に入れたってところだろう? これを聞かないで何のために来たのさ。
……まあいいや、そこに座って。
……。
なんで正座なんだよ。
それパイプ椅子だよ。普通に座れよ。長い話って言ってるだろう。痺れるよ。
だからなんであぐらなんだよ! なんだよその「さあ来い!」って顔は! 身を乗り出すな!
あんまり構えてくれないくていいよ。もっと気軽に、数学の授業でも受ける気持ちでさ。
僕が悪かった。認めるから起きてくれ。おい。
……いいか? 目、覚めたか? なに? 授業? 終わった終わったよ。ああ終わったよだから僕の話を聞け。
目覚めのお茶? そこらにあるから汲んでくれていいよ。汲み方くらいわかるだろう?
……わからないのかよ!
そこで泣きそうになるなよ!
いいよ、僕が汲むよ。緑茶でいいんだろう?
いつもは紅茶を飲んでいる? じゃ紅茶か? アールグレイでいいか?
……緑茶でいいならいいって言えよ! 最初からよ!
はあはあ……なんで僕は話す前からこんなに疲れてるんだ? おい、寝るな。起きろ。
緑茶カテキン? ああ、なんかあるらしいね。効果は知らないから僕に訊くなよ。
……駄菓子も出しておくか。いや、礼はいいよ。どうせ出さなくても五秒後に言われるだろうから。
…よし! 落ち着いたな。これで完璧だな。トイレとか言うなよ。
……。
…………。
行ってくればいいじゃない……………………
いやいや怒ってない怒ってない。そうだな、はじめに行っておくのが正解だもんな。
おかえり。
いいよ報告しなくて。
尿の色なんか聞きたくないよ。
こげ茶色? そっちかよ! よけい聞きたくないよ!!
……。
尿がこげ茶色なのかよ!
明日にでも泌尿器科に行ってこい。本気で心配だ。
そこで頬を染めるな! いいか惚れるな掘るな! 僕にそのケはない!
じゃあはじめようか……
………………
僕もトイレに行ってこよう。
なんだよ。笑うなよ。さっきから興奮しっぱなしなんだから尿も出るってもんだよ。
あるところに一人の少年がいました。
小学校低学年で、まだはなたれのがきんちょだ。
その少年はクラスにあまり馴染めなかった。単純に肌に合わなかったんだ。
まず担任に好かれなかった。これは痛い。これで友達を作る手立てがひとつなくなったわけだ。
教師ったって新任で、今の僕らとたいして変わらない年の人だ。好き嫌いはもう仕方ない。
担任が少年を好まなかったように、少年も担任が嫌いだった。
先に嫌ったのは少年だった。だから担任も手をこまねくしかなくなったんだ。
まあそのへんは前置きだ。
小学生といったら普通、日が暮れるまで友達とどこかで遊ぶものだろう。
けど少年にはそういった友達もできなかったんだな。
自然と近所の病院の中庭に行くようになった。
どこが自然かって? さあな、子どもの考えることだ。面白そうだとかそんな理由じゃないか。
気がつけば、少年にとって病院の中庭が遊び場になっていた。
お年寄りから子どもまで、まあ割と大きな病院だったから、入院患者も色々いた。
その中で少年は、一人の少年と出会った。
紛らわしいからK君と名付けようか。
少年はお年寄りが好きだった。仲良くなった老人と会話しているうちに紹介されたのが、そのK君だった。
少年はけっして気さくな方ではなかったが、K君の持つ独特の雰囲気を好んですぐに仲良くなった。
K君はなるほど入院患者らしく、あまり身体が丈夫ではないようだった。何かの持病を患ってたそうだ。
二人は主にベンチや木陰に腰掛けて会話した。
学校のこと、家のこと、遊びのこと……少年は剣玉が得意だった。持ってきて、やって見せたりした。
K君はずいぶん喜んだ。そういう遊びをまるで知らなかったんだ。
人と話すことも慣れてないようだった。
少年はしかし、K君を確実に好いていた。引っ込み思案だがとても聞き上手で、ありていに言うといい奴だった。
彼らは週に何度も会うようになり、親睦を深めていった。
少年はふと、学校のことを聞いた。どう見ても自分とあまり年が変わらないからだ。
自分と同じ小学校に通っていることを知ったのはそのときだった。
少年は手放しで喜んだ。ぜひ病気を克服して、一緒に学校で遊ぼうではないか。興奮しながらK君と約束を交わした。
少年はこんな話も聞いた。なんと同じ学校にお姉さんもいるそうだ。
K君のお姉さんならきっといい人に違いない。
何も知らない僕はそう思い込み、よかったら会わせてくれないかとK君に頼んだ。
拒絶されたのはそれが初めてだった。
明確に嫌だと言われたわけじゃない。悲しそうに微笑んで会わない方がいいよ、とだけ言った。
なぜだろう。怖い人なんだろうか。興味が尽きない少年はそれでも喰い下がった。
先に折れたのはK君だった。ここに連れてくるわけにはいかないけど、と学年とクラスを教えてくれた。
人よりも行動力があった僕は次の日さっそく見に行った。あわよくば仲良くなろうと目論みながら。
さてここで問題だ。
少年は物怖じしないで上級生のクラスに行って、K君のお姉さんを見ることができた。
ちゃんと見つけて、あの人がそうなんだとわかった。
でも話しかけることはなかったんだな。
……なぜだかわかるか?
そう考え込まなくていい、いたってシンプルな理由だよ。
………………。
なに?
昼に食った刺身にあたった?
君は馬鹿か?
どこの小学校出身だよ。向こうじゃ給食に刺身なんか出るというのか。出ない? ああそうだろうよ。
いくらこっちが雪国でも刺身はないだろう、刺身は! どれだけ常温に自信あるんだ! 毎日2、3人病院行くよ!
そんなに変化球じゃないよ。
じゃあヒントを出そう。
話しかけられない原因は彼自身にあったわけだ。刺身とかそういう外的要因じゃなくてな。
これならわかるだろ?
……………………。
そう! 彼は! 彼女を見て! そう! それから!!
…………。
なに?
彼女を見てその場で射精した?
君は大馬鹿か?
だから小学生だって言っているだろう! どれだけ精通早いんだ! 精通してても無理だ!
あともうちょっと包んで言えよ! 皮? 皮じゃなくて! ていうか君もか! 僕もだ!
…………いや、落ち着こう。なんだっけ、射精じゃないよ。皮、も違う。理由だよ。
注文が多いって……僕がおかしいのか? いやそんなわけはない。君が明らかにおかしいんだ。
けど当たらずとも遠からずだ…………まあ言ってしまうと彼女に一目惚れしてしまったんだ。
少年も早熟だったんだろうな。K君が難色を示した理由がまったくわからなかった。
それくらい可愛らしいお姉さんだった。しかもそれだけじゃない。
彼女はクラスの中心なんだと一目でわかった。
彼女の周囲は笑顔に満ちていて、教師もそれを笑いながら見ている。そんな理想的なクラスだった。
人間、あまりに高貴なものを前にすると気後れしてしまうだろう? それと似たような感情だったと思う。
とにかく、これは話しかけられるわけがない、とすごすご退散したわけだよ。
あとはまあ、言ってみれば作戦会議だな。
会える日は病院にすっとんでって、少年はK君と話し込んだ。
色々話したな。K君がお姉さんとうまくいってないことや、自分の病気が治りそうもないってことや、まあ色々。
……ああ。K君はもう居ないよ。僕と出会ってからちょうど半年かな。
少年はK君とお姉さんが仲良くなってほしいと願った。けどその年齢じゃ何もできないだろう?
けっきょくK君が亡くなるまで、少年は一人の友達として毎日雑談するしかなかったんだ。
で、少年は葬儀に出席した。そこで見たんだ。
K君はいいところの子どもで、弔問客にもまあ、親のゆかりの方々がたくさんいらっしゃるわけだ。
そこでお姉さんがな……教室の中と同じように、笑顔で対応してるんだ。
年齢だってそう変わらない。同じ小学生だぞ?
こう、父親の隣に立って、本日はようこそいらっしゃいました……みたいなさ。
少年はK君の父親を見たことがあった。うちの父親の知り合いだって紹介されたことがある。
割と厳格そうな父親だけど、彼女はその横で、一人一人に丁寧にお辞儀をしていた。
笑顔笑顔……両親とも笑顔で対応……そんな一家だった。
苦虫を噛み潰したような顔っていうのかな。
大抵の人はそんな顔になるんじゃないのか。
いや、もちろんその場ではしないさ。この話を聞くと、だよ。
もちろん少年もお辞儀をされた。
きちんと目を合わせて、いち、に、さんと数える作法に忠実なお辞儀だ。
叫びだしそうになるのをこらえてその場は乗り切った。
葬儀のことはよく覚えてないな。長かったらしいけど、気がついたら終わってた。
部屋に帰って、少年はなんだかよくわからなくて、泣いた。
本当に、なんだかよくわからなかったんだ。
なにしろ少年はまだ幼かったから。
で、そんな感情が育ってみると、彼女に対する変な執着心が出来上がっていた。
少年は中学、高校とも彼女の進路を見て決めた。
でも、6年かけてもたいして仲良くもなれず、上っ面だけで突っ込んだ話もできず、彼女は高校を卒業してしまった。
そしていま、少年は同じ大学に推薦入学を決めた……というわけだ。
……とまあ、こんな感じでいいか?
これでも端折ったんだけど、ちょっと本格的になりすぎたな。
話半分に聞いてくれよ?
というか、よく眠らなかったな。いや、僕がそう言ったんだけど。
そう深刻そうな顔するなよ。さっきみたいにジョークのひとつやふたつも飛ばしてくれ。
…………。
本気だったのか……あの回答。
いや、なんでもない。
それよりだ。ひとつ捕捉がある。
実はだな、この話の少年というのがだな。
………………。
なんで知ってんの?
いや、僕だよ。確かに僕だけど。あれ、言ったか? 言ってないよな?
…………え? ああ、確かに相手は倉田佐祐理さんだけど。
あれ? これも言ったか? 言ってないよな?
相沢お前ひょっとしてエスパーか?
僕の思考を読めるのか!?
やめろ、読むな!
ああ、確かに僕は倉田佐祐理さんとちょめちょめしたいとか、押し倒したい思ってる! 思ってるけど!
これでも常識人の自覚はある! 自重してるってこともわかるだろ!?
…………ああ! 倉田佐祐理ポスターとか自作でこしらえたけど! 昨日もそれで5回ヌいたけど!!
だからなんだっていうん……………………え?
エスパーじゃない?
話中に自分で「僕」って言ってたから? しかも3回も?
そうかー…………いや、そうだよな。僕の考えなんて読めるわけないよな。
びっくりさせるなよ、思わず取り乱しちゃったじゃないか。
…………なに?
相沢おまえ、倉田さんの知り合いなのか?
部屋も知ってる? 今でも交流がある?
おい…………まさか…………
5回ヌいたとか…………言うわけないよな?
ちょっと。なんだその笑みは。ああお茶か。お代わりいるよな? お代わりだよな?
だからなんだその笑みは。いやらしいぞ。
変なこと考えてないよな?
え? お代わりいらない? そうか、そうなのか。
…………。
………。
……。
なんか言えよ。
笑うなよ。
ん?
もう帰るのか。そうか。
いや、別に、なんだ。
相沢、倉田さんの家知ってるんだよな。
いや僕も知ってるけど。
でも相沢、行ったことあるのか。そうか。
…………。
にひひ笑いするな!
ああもう、とにかく明日だ! いいか明日だ! 今日はこのまま解放してくれ! たのむから!!
潤に言うなよ? いや、あいつもある程度は知ってるけど、なんか余計なことまで口走った気がするから。
頼みますよ相沢さん? またカラオケ奢りますんで。
はい、はい。ではさようなら。
朗報待ってます。
…………………………ああ。じゃあな。
……。
……。
……。
……。
ムキャァァァァァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
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