chapter 壱 / 飲むヨーグルトと飲まないヨーグルト





「ようし相沢、俺は今年から空気読めないキャラを目指すぞ!」
 時は放課後、場所は図書室、事は受験勉強中。北川がおもむろに立ち上がって大声でそんなことを言いはなった。
「いや……なんつうか抱負にするまでもないから」
 参考書に目を戻す。なになに、TPOとは、時(time)と場所(place)と場合(occasion)をいうのか。なるほど。
 図書室ほどマナーを重んずる場所を俺は知らない。北川の声を待ってましたとばかりに利用者たちの視線が突き刺さり、それとほとんど同じタイミングで向かいの香里と名雪が他人のフリに入る。うわ、なんて空気読んでるやつらだ。勉強しないで俺と北川の新年トークに耳を傾けてやがったとみえる。
「いや、俺は決めたんだ。これまで貧乏くじばかり引いてきた。合コンにいっても男女の人数合わなくて立ったまま進行やらされたり、文化祭の実行委員長を押し付けられて当日どこにも回れなかったり、体育祭は俺だけ全競技に出場ときた。それもこれも便利キャラってイメージが定着してることが原因とみたんだけど、どうだろう、この読みは。外れてると思うか?」
「うんまあ、勉強しろ」
 一言で切って捨てる。北川はちっともこたえてない。
 色々と言いたいことや訊きたいことはある。しかしここで声高にそうしてしまったら同じ空気読めないキャラになってしまう。北川こそ空気読みの達人だと俺は思っているんだけど、一体どういう心変わりなんだ? ホント色々訊きたい。でも我慢だ。なぜならば俺たちは受験戦争の最前線で竹やりふるう特攻隊だから。香里教官はさながら一騎当千の武将か。
 とか何とか考えてるうちに、ぬ、ぬ、ぬ、と机の上の携帯が震えた。こんなに小さい音でも部屋中に響いているような気がして、すぐに手に取って止める。設定しておいたアラームが発動していた。もう三時間たったのか。
「こんなところかしらね」
「だな」
 キャプテンの声を合図に、他の利用者の邪魔にならないようそそくさと後片付けをして図書室を後にする。一度教室に戻って荷物を取り、それから帰宅コースへ。
 時計の針が地面と垂直になるこの時間でも教室の明かりは灯ったままだった。俺たちが図書室だと普段より身が入るように、教室で集中している奴もいる。わかっちゃいるが、この時期、校舎の中ではどこに行ってもくつろげない。
 ミーティングは学校の外で行う。
 さすがに校門近辺で参考書を広げているやつはいなかった。
「はい、今日もお疲れ様。じゃあ次は明後日ね」
「うん、おつかれさま〜。祐一もすこしはましになってきたかな?」
「こう見えても勉強は苦手じゃない」
「嫌いなのがミソよね」
 まったくその通り。
 最後にお見舞いしてくれた香里に親指を下げてささやかな反抗を示し、名雪と肩を並べて歩き出す。
 図書室でトンチンカンな誓いを立てた張本人は、あれから別れるまで終始無言で何かを考えているようだった。

 部活を引退した名雪と二人で下校するようになったのは夏休み前から。なにか用事があるときは事前にその旨を伝えるが、何もなければ二人だけで、と暗黙の了解になっている。示し合わせて一緒に帰ってたころと何が変わったろう。あるいは何が変わらなかったのだろう。
「どうしたんだろうね、北川くん」
「さあな」
 つれないようだが本当に見当がつかないので、これについては後ほど本人に問い詰めるしかない。回答に不満なのかもの言いたげにしていたが、俺の表情から読み取ったのかそれから突っ込んではこなかった。名雪は天然なようでいていちいち鋭すぎるので、かなりの頻度で助かったり困ったりする。
「そういえば祐一、さいきん久瀬くんと仲いいよね?」
「ん? ああ、まあな」
「だよね? うん、それならよかったよ」
「なんなんだ」
「さて、なんなんでしょう」
 って名雪にはぐらかされるなんて。俺も落ちた……のか? なんだか上機嫌になってしまって質問してもなにも答えそうにない。にこにこ顔で腕を振って歩いている。俺が久瀬と仲良くするのがそんなに嬉しいのだろうか? 逆に二人で過ごす時間が減ってよくない思いをさせてしまう可能性を心配してしまったというのに。
 せっかく機嫌がいいところでやぶを突くこともないので、頭の片隅に疑問符は押しやった。それから話題は勉強のこと。試験のこと。成績のこと。受験のこと、などなど。避けて通れない道とはいえ、今後は漢字二文字の単語ってだけで嫌いになりそうだ。え、名雪? 愚問だな。
「もしかして、なんかえっちなこと考えてる?」
「考えてる」
「わっ、ほんとに?」
「本当」
「わっ、わっ」
 そう何度も名雪に遅れを取る俺ではないのである。
 久瀬には勉強していないような素振りで接したが、週に3回ああして図書室で放課後の勉強会を開いて頭を痛めつけている。そして空いた2日を使って生徒会準備室に突撃。最近はこのサイクルが定着してきた。
 勉強会を提唱したのが香里なら、それを週3にしようと主張したのも香里だった。毎日することが効率的ってわけじゃないらしいが、やりようにもよるんじゃないかと俺は思う。が、そのへんは香里も建前だろう。息抜きするも根を詰めるも俺次第ということ。実際、仕事が少ない日は久瀬にも勉強を見てもらっている。ただ奴からすれば、週に2回だけ、それも自分の仕事次第でやったりやらなかったり、という不安定っぷりに映っているわけで。こないだのように心配されるのも無理はなかった。

 残暑を過ぎればあっという間に夜が冷え込む季節になる。
 冷え込む分だけコタツがぬくぬく。
「ういー」
「祐一、まだ寝たらだめだよ」
「あと五分」
「だめ。あと三十分がんばるの」
「くぁぁ」
 一瞬飛びかけた意識を呼び戻して、あくびを噛み殺しながら顔を上げる。向かいには眉をつり上げた名雪の顔。横にはベッド。視線を上げれば目覚まし時計。紛れもなく名雪の部屋である。そうだ、夜はこうして名雪の部屋で勉強しているんだった。翌日に影響が出ない程度に、夕食後に1、2時間だけ。それでも集中してやればやった分だけ成果は出るのだ。うむ、継続は力なり。って名雪や香里が言えばまだ説得力あるんだろうけど。
 今夜はいまいち勉強に身が入らない。自分の彼女のことを考えていて、とかなら自分でも仕方ないと思えるのに、浮かんでくるのは男の顔ばっかり。これはどうなんだ。どうなんだろう? 目の前のマイ彼女。視線で問いかけても通じるわけはない。いや、すこしは通じたのかもしれない。なぜなら名雪が参考書を閉じたから。無言で筆記用具も片付ける。なんとなく俺もそれにならう。
 怒ったのかと思ったら違った。
 片付けが終わると先ほどと同じようにコタツに入った。違うところといえば、真向かいから真横にきたという一点だけ。
「こら、狭いだろ」
「祐一、なにか悩んでるよね?」
「……だから鋭すぎるんだって」
「うー」
 不満げ。知らない。俺も不満げ。
「聞かせてほしいな」
「名雪に相談することなんだろうか」
「役に立つ答えは言えないかもしれないけど、でも聞くことはできるよ」
「うん、それもそうか」
 答えが出なくても一人で悩んでいるよりはずっといい。と思いたい。
「自分でもなにに悩んでいるのかわからないんだけど」という言い出しから始まった。我ながらなんて難易度の高い相談だ。


 結論からいうと、俺にホモっ気があることが判明した。
「だれもそんなこと言ってないよ」
「果たしてそうだろうか?」
「あるの? 祐一」
「いや」
 逆に訊かれて言葉に詰まる。名雪にボケを拾ってもらおうなんて少しでも考えた俺が愚かだった。
「つまり祐一は、力になってあげたいんだよね?」
「そういうことになるのか」
「わたしにはそう言ってるように聞こえたよ」
「じゃあ、そうだ」
「自分でも考えなきゃだめだよ?」
「こと相沢祐一に関しては名雪を百パーセント信用しているんだ」
「わ、なんかはずかしいこと言ってる」
「じっさい俺よりも俺のことを知ってるくらいだし」
「うー、そうかな?」
「俺の性感帯は?」
「祐一はおへそ弱いよね。……ってなに訊いてるの〜」
「ほらな」
「うー」
 とうとう耐え切れずにコタツの中にもぐってしまった。顔の上半分だけ出して俺を睨んでくる。
 ……俺ってへそが弱かったのか。
「嫌だったか?」
「嫌じゃないよ。嬉しいけど、でも、でも」
 自分でもかなり恥ずかしい相談をしてしまった俺にこれ以上の恥などない。
 同じようにコタツにもぐり、すでに密着している名雪の体に腕を回……そうとする寸前、唇で唇をふさがれた。
 が、すぐに離れた。
「名雪?」
「そんなこと言われると、その……くなっちゃうよ」
 したく、と言った。気づいたとたん、俺も動いていた。
 そうえいば今日は、俺ほどではないにしろ、名雪も集中していなかった気がする。ここのところご無沙汰だったし、ひょっとするとひょっとしてしまったのか。なんということだ。
 コタツに入ったままきつく抱き締め合う。久しく感覚を忘れていたが、こいつの身体の柔らかさは一体なんなんだろう。プリンでも食ってる錯覚にとらわれそうになる。背中に回した腕に力を込めたりゆるめたり、それを断続的に繰り返す。ぎゅ、むにゅ、ぎゅ、むにゅ。名雪も同じことを返してくる。すり合わさる頬が、二人の間で潰れた胸の感触が、風呂あがりのシャンプーの香りが、揃いも揃って俺の頭をどうにかしようとしてくる。身体の芯が熱くなってものごとが考えられなくなってきた。
 理性があるうちに耳元で囁く。
「このえろっこ」
「えろじゃないよ……」
「じゃあやめるか」
「うー」
 不満げ。知らない。俺は得意げ。
「もちろん冗談だ」
「祐一、いじわる」
「いや、これくらい察せよ」
「むずかしいよ……」
「俺もとっくに我慢できないってこと」
「あ」

 この日は、乱れに乱れた。
 おへそが大変なことになった。



 遅れてやってくるのはいつだって罪悪感とか後悔のたぐい。わかっていても繰り返してしまうのは、天秤がそれらを掲げたからだ。まったく二者択一なんてシステム、どこの誰が作ったんだろう。くそ、責任者でてこい! と思ったら俺でした。これでは一発お見舞いするわけにはいかない。
 歯を食い縛る。食い縛って咀嚼する。今日も今日とて非の打ち所のない焼き加減。絶妙です、秋子さん。
「……についてなんですけど」
 パンに喉が詰まって発音が壊れたので言い直す。
「欲望、ですか?」
 朝食の席での話題としては不適切きわまりないと思う。けれど衝動を抑えられなかった。
「えーとたとえばですね、いくら義侠心にあふれる勇者でも、三日徹夜で飲まず食わずだったらどうかな、みたいな」
「勇者どころじゃないですね」
「たとえどこかで村が滅ぼされていようと、その時はたらふく食って寝たいですよね」
「私もそう思います」
 のほほんと相槌を打つ秋子さん。
 訊き方が回りくどすぎたろうか。
「でもね、祐一さん」
 コーヒーもいつも通り美味だ。喉に詰まりさえしなければ。
「勇者も学者も、学校の先生やオリンピック選手だって……彼らがその立場にいられるのは、そんな時にまで成し遂げなくちゃならないことをやってきたからなのかしら?」
「いや、それは」
 正確なところはわかるはずがない。
 わからないが多分違う。
「目標があるのはいいことだけれど、目標のための目標を忘れてしまっては元も子もないのね」
「目標の目標、ですか?」
「条件でもいいけど……たとえば祐一さんや名雪に当てはめると、これから受験まで不眠不休で勉強しろ、と言われたらどう?」
「それは無茶だ」
 間違いなく死んでしまいます。
「そうね。合格するためには知識が必要で、身につけるためには勉強しなくちゃいけないって誰もが知ってる。でも、効率よく勉強するには健康な身心が不可欠なの。それを知ってるから、誰も睡眠時間をゼロにしてまでは勉強しないのね」
「……なるほど」
 頷いてから、考えてみれば当たり前だという結論にたどり着いた。それなのに、なんでこんなにも腑に落ちるんだろう。
 コーヒーを飲み干すと、秋子さんが二杯目を注いでくれた。表情もいつの間にかやわらかくなっている。
「今の話はちょっと極端ですけど。人間はそんなにシンプルなものではないから、ひとつのことに目がくらんで他のすべてが目に入らなくなる、なんてことがよくあるのね」
「優先順位を間違えるな、ということですよね?」
「おおむねそんな感じです」
 いつものポーズでにこりと笑う。相変わらず若い笑顔だった。
 でも、いくら若く見えても、俺よりもずっと生きている人なんだ。
「ヨーグルト食べます?」
「は?」
 だからなのか、たまにこんなふうに唐突すぎて置いていかれることもしばしば。
「さいきん作ってるんですよ」
「わあそれはすごい。じゃなくて。ヨーグルトっていうと、あのヨーグルトですか?」
「飲むヨーグルトと飲まないヨーグルトがありますよ」
「わあそれもすごい。じゃなくて。あの、何味ですか?」
 一番重要な項目。無回答だったら俺は往く。
「まだ試作の段階なのでプレーンですね」
「安心していただきます」
 コップ一杯の牛乳みたいな液体と、皿に盛られたまっさらなヨーグルトがすぐに出された。なるほど本当に真っ白だ。
 まずは液体の方を一口舐めてから、あらためて飲み下す。さすがに喉ごし爽やかとはいかないが、どこまでもヨーグルトな味で普通に美味い。
 続いて固形の方。つるんとしていてこちらも美味い。
「どうです?」
「おいしいですよ」
「ありがとうございます。どちらも基本的に同じ味なので」
 確かに、固形か液状かという違いだけで、味にそれほど変わりはなかった。
「わかりましたか?」
「味の違いですか?」
「ではなく。さっきの話です」
「あー。えー」
 さっぱりわからない。どんな繋がりがあったんだろう。比べようにももう胃の中だ。
 胃の中のヨーグルト、真意を知らず。なんてことわざにもならない。
「だからね、祐一さん」
「はい」
「人を気にかけるのはとてもいいことだけど、まずは自分の周りをやっつけてからでも、遅くはないかもしれませんよ」
 はい、まさにそれを行った結果がゆうべの振動です!
 なんて口が裂けても言えるはずもなく。
「……恐れ入りました」
 これで勘弁していただいた。



「祐一、いつもに増してひどいよ」
「いや、不可抗力だ」
 久しぶりに走っている。部活を引退してからは寝坊することがなくなって自分で起きてくる名雪と二人で。
 なにしろ昨日の部活はハードだったからな。
 おいシモネタやめろよ。
「祐一が激しすぎるから起きれなかったのに、起こしてくれないなんて」
「まて。俺は二回でやめとこうって言ったのに、舌なめずりしながらまだいけるよね?って言ったのは誰だ」
「わあ、うそだよ。わたし舌なめずりなんてしてないよ」
「ともかくだな、今朝はちょっと秋子さんと高尚な話をしていて抜け出せなかったんだ!」
 嘘ではない。
「どんな話?」
「セックスの重要性」
「わあ!」
 一気にスピードアップした。
 だって嘘ではない。
「朝からお母さんとなんてこと話してるの〜」
「ばかやろう、セックスレスで悶々としてるやつは友達の力になんてなれないんだぞ!」
「それとこれとは別だよー」
「そういえばそうかもしれない!」
 あっさり覆す俺。
 だって、こればかりは食欲や睡眠欲と違って意思次第で何とかなりそうだから。
 あれは場の流れというか、俺の悩み事とは別次元というか、それはそれ、これはこれだろう? なんて都合のいい言葉だこれ。
「祐一? なに見てるの?」
「いや、なんか咎められた気がして」
「お日様に?」
「ああ」
 とりあえず俺の恋愛事は嵐を乗り切り今では順風満帆。進路だってこのままいけば名雪と二人で合格ペース。
 かたや友人連中はどうかというと、まさに悩め青春時代。
 正体不明の使命感が俺の中心から湧き上がってくるのを感じる。
「たしか、名雪と香里が知り合ったのって中学時代だったか?」
「そうだよ。一年のころに一緒になったのがきっかけかな」
「それだけ付き合い長いとさ、やっぱりお互い悩み事を相談したりしたよな」
「うん、いっぱいしたし、されたよ。進路のこととか、クラスのこととか、あと」
 校門が見えてきた。ペースを落とす。
 小走りから徒歩に戻ったところで、名雪が手を取ってきた。
「……あと、祐一のこととか」
 通学途中の罪のない生徒たちが一瞬にして邪魔者になった。
 ここに誰もいなければ、ここが俺の部屋だったら、今が放課後だったら、たら、れば、たら、れば。
「タラのレバー」
「好きなの?」
「いや」
 そもそもタラのレバーってあるんだろうか。
 何事もなかったように会話は続く。
「香里もああ見えて悩みごと多いんだよ。わたしもそういう相談、受けてるよ」
「その内容は?」
「それはおしえられません」
 笑顔で封殺される。やはりか。






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