始まりは公園だった。他には何も無い。服は着ている。だけどそれだけ。ポケットに手を入れても布の感触しかない。お金なんて無い。お金がどういうものなのかもわからない。帰る場所など、一度死ぬ前にもう失っている。だからこそ、こんな暗闇と静寂に包まれた公園に一人佇んでいた。
 でも少女はそれを不幸とは思っていなかった。だってそれは少女の初めての外出だから。死んでも叶わないと思っていた願い。白い病室、四角い窓に切り取られた外の景色。それ以外の景色を見ることが出来る。何より自由に歩ける。走ることが出来る。それだけで始めは幸せだった。
 一月ほどは歩ける喜びを満喫した。だけどそのうちにいろいろなことがわかってきた。物を買うにはお金がいること。自分と同じくらいの子供は学校に行っていること。自分が何も知らないこと。文字の読み書きも出来ない。だけど聴く事は出来る。
 勉強がしたかった。だから、学校に行ってみた。だけど門の前で追い返された。みんなが本を持って授業を受けている姿を、門の外から羨ましそうに見る。見てるだけじゃやっぱり嫌だった。だから、夜中に学校に忍び込んだ。机の中に入っている教科書を盗った。何の教科書かはわからないけど、数冊持っていった。次の日の朝、また学校に忍び込む。教科書を盗った所の窓の下に行く。少しだけ聞こえるそれを聴きながら、教科書を見る。聞こえてくる声だけを頼りに文字を追っていき、読み方を理解する。でもそれも限界がある。所々聞こえなくなる。その度に、どこを読んでいるのかわからなくなった。それを探しているうちに、巡回の教師に見つかってしまった。子供相手ということで、事情を話したらちゃんとわかってくれた。教科書を盗った事は伏せておいた。その教師は親切で、勉強を教えてもらう事が出来た。
次の日も、その次の日も来て勉強を教えてもらった。それからしばらくして、その教師から質問があった。『学校に通ってみたくない?』そう言われて、すこし困惑した。学校には通ってみたかった。でも、自分の今を考えると、それが出来ないのが現実。だから、通いたくても通えない、と返答した。どうして、と訊かれた。だから、そこですべてを話した。お金が無いこと。家も家族も無いこと。自分についても、さほどわからないこと。わかるのは名前。よくわからないのは、一月何も口にしなくても、平気で生きていること。全部話して、その教師は、自分の家に誘ってきた。今まで見てきて、その人が信頼に足る事はわかった。その人も、女性と言うこともあって、少女は、『はい』、と答えた。
 少女にとって、学校は楽しかった。いろんな人と話ができ、いろんな事をして遊べた。それより、誰もが自分と普通に接してくれることが、何よりも嬉しかった。勉強も驚くほどはかどった。でも、楽しい時間はあっという間に過ぎていく。楽しい時間はあっという間に過ぎ、簡単に崩れ去る。
 中学2年の秋。その日は突然訪れた。突然の交通事故。7年間家族として暮らしてきた人との突然の別れ。悲しむ暇など無かった。突然に家を追われた。葬式なんて行われなかった。今の中学に、小学時代の友達は、ほとんどいなかった。だから、その人が死んだとしても、一緒に悲しんでくれる人はいない。少女はまた、独りに戻る。
 バイトをしたかった。一銭も無い少女にとって、それ以外生き残る術は無い。昔と違って、今は人並みにお腹が減る。だからこそ、お金が必要だった。でも学校側の許可が出なかった。事情を話しても、信じてもらえなかった。だから、無断でバイトをしようと試みたが、どこも雇ってくれなかった。素性も全くわからない。住所も無い。そんな人間を雇えるわけも無かった。
 少女は生き残るためには手段を選ばなかった。ゴミ箱をあさり、盗みを働いた。学校にも、もう通ってはいない。突然いなくなった少女を、誰かが心配しているだろうか。誰も心配してはいなかった。誰も自分を心配して無いのを疑問に思った時、少女は世界を知った。
 「世界は少女に自由を与えた。行動の自由。それ以外は与えなかった。それで十分だったから。少女は世界を拒絶するはずが無かった。元の世界に、何の未練が無かったから。それだけ与えれば、少女は満足だった」
 夢の続きを現実で思い返している。少女の世界を、次々と思い出す。
 「世界は最初、少女を異物と見た。その少女を、世界に溶け込ませるため、少女の願いをかなえた。少女は自由を手にしたが、生まれつきの不幸を捨てられなかった。それでも少女は、世界に溶け込んだ。それでも自由は、少女にとって大きかった。他に望みはしなかった。自分に対しては何も望まなかった。たとえ元の世界で死んだ方がよかったと思っても。今更だった。今更否定しても遅かった。この世界は、他の世界の人を決して快く受け入れない。だから、少女は世界の理になった。独りで生きていく事になっても、死ぬことが出来なくても、自分の幸せを捨てでも、他の人に自分と同じ道を歩ませないために。『桜井碧の日記』より。
 自分でも甘いと思ってる。自分より他人か。医者になりたかったのもそれと同じ理由だし。自分の不幸を思い出していても、意味がないや」
 夢の続きをも終わった。独り言も終わりにする。寝巻きを着替え寝癖を直す。今日ですべて終わりにすると言っておいて、結局いつものことをしている。習慣は変えられないみたいだった。
 寝癖を直し終え、リビングに向かう。あゆはまだ起きてきていない。メモは昨日のと、取り替えてある。少しでもあゆが揺らげば、それで終わる。そう信じて、碧はあゆが来るのを待った。
 あゆが来るのにそんなに時間がかからなかった。扉の影で、あゆがメモを読むのを待った。あゆがそれを読み、少し驚きの表情を見せたと同時に飛び出していく。そして後ろから、あゆの左胸を狙って、槍を突き出した。完全に貫けるはずの勢いを持った槍。だけど、それは先端1cmだけ刺さるだけだった。
 「どうして、どうして?」
 「止めたのは、きっと碧さんだよ」
 一歩前進し、槍を抜く。振り返って、あゆは碧に向かう。
 「私が、止めた?」
 「うん。ボクは碧さんの考えどおり、少し揺らいだ。ほんの少しだけ。でも、考えてみれば簡単にわかった。ボクがこの世界に来たのは、碧さんの所為じゃない」
 碧の新しいメモ書き。そこに書いてあったのはちょっとした事。
『この世界に来たのは私の所為。みんながあゆを知らない世界に招いたのは私。私が望まなければ、元の世界と同じような世界にも行けた』
 簡単にだが、そう書いてあった。その所為で、あゆの心は揺らいだ。それなら、みんなが自分を知っている世界にもいけたか。答えは、NOだ。
 「ボクは自分で望んでこの世界に来た。誰の所為でもない。ボクが望んだから、ボクはここにいる。そしてボクは今、碧さんと一緒にいることを望んでいるんだ。だからもういいでしょ。もう、終わりにしようよ」
 「どうしてそんな事言うの?元の方が良いに決まってる。夢で見たでしょ。元の世界の良さが」
 夢。3日前の夜にあゆの枕に仕込んだもの。それで、あゆの心を動かそうと碧は試みた。結果は駄目だった。だから、さっきの行動に出た。あゆの考えを完全に無視する行動を。
 「最初は栞ちゃんの体を使ってボクが生きる夢」
 あゆの思いがけない発言に、碧の体は固まる。一瞬、あゆが何を言っているのかが判らなくなるくらい、混乱していた。
 「昨日は病院の女の子。心が痛んで死んでしまう女の子。そして今日、その女の子が今日まで暮らしてきた軌跡。公園から始まり、公園で終わった少女。これ、碧さんの事だよね?」
 内容は碧がここ2日で見た夢と同じ。自分の不幸を綴っただけの、くだらない物語。それを、あゆも見ていた事に、驚愕を覚える。
 「ボクはそんな事関係なく、碧さんと一緒にいたいと思った。だからさ、もう、いいでしょ。碧さん」
 この時碧は考えていた。何故あゆがそんな夢を見たのかを。結論は意外と簡単に出た。
 碧はあゆの言葉を忘れなかった。自分を頼って一緒にいたいといってくれたあゆの言葉を。それが、嬉しかったから心の片隅に残しておいた。それが原因。理性の中では1番はあゆを帰すこと。本心では、あゆと一緒にいたい、ただ、そっちの方が強かった。
 「じゃあ、私、あゆと、一緒にいたいの?そうなの?あゆは、一緒にいてくるの?」
 「碧さんが、そう望めば、ボクは一緒にいるよ」
 うなだれてしまった碧に手を差し伸べるあゆ。一度は顔を上げてそれを見た碧だったけど、また下を向いてしまった。
 「私、あゆにいっぱい酷い事した。しなくてよかったのに、酷い事した。それなのに私、平気な顔していられないよ」
 あゆが栞に聞いたのと同じ。やっぱり、どこか無理をしていた。そう思うあゆ。あゆは自分の言葉を捜す。栞に教えられた言葉じゃなく、自分の言葉を。
 「じゃあ、ボクも酷い事したら、一緒にいてくれる?」
 「えっ?」
 碧が顔を上げた瞬間。その唇をあゆが奪う。碧は数秒何が起こったか理解できなかった。平常に戻ると同時にあゆを軽く突き飛ばした。
 「何するの!は、初めてだったのに」
 「酷い事したから、これであいこに出来ないかな?」
 碧は子供のようにむ〜、っと膨れている。あゆが今更になりながら自分の行動に恥ずかしがっている。そしてどちらからでもなく笑い出す。
 「ねぇ、本当にいいの?」
 「あんまりしつこいと帰ってもいいんだよ」
 あゆは少し意地悪を言う。そんなやり取りが何時までも続くと信じて。二人はこれからの時間を過ごす。





夢。
夢を見ていた。
でも、それは夢じゃなかった。
唯一つ、願った私の夢。
独りでいたくない。
そんな小さな夢が、今叶った。
たとえ別れが待っていようと、私はそれまでの時間を精一杯過ごす。
別れなど考えずに。
だから、私はそれまでの時間を、ずっと幸せに過ごせるだろう。
それは奇跡なんかじゃなく、私とあゆが手に入れたもの。
最後に一言だけ言わせて。
ありがとう、あゆ。


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