白い天井が見える。白いカーテン。見慣れたはずのこの景色。そこに、違和感はあった。
(どうして、ボクはまたここにいるんだろう?)
1週間前に、月宮あゆはここにいた。もうすでに用済みの場所にいる。
体には無数の計器のコードが繋がっている。よく辺りを見渡そうとするが、視界がそこで途切れる。目を開けようとするが、体は全く言う事を聞かなかった。
(何でここにいるんだろう?これは夢?それとも、今までのが夢なんだったんだろ?)
目からは何も情報を得ることはできない。だけど、何故か周りの音だけははっきりと聞こえる。だから、これは夢なのだと思える。確信は無いけれど……
医者らしき人の声が聞こえる。話の内容はよくは聞き取れない。でも、こちらに近づいてきている事は分かった。何を言われるのかは、見当もつかなかった。
「月宮あゆの手術の準備を急げ。美坂栞の遺体の搬入も同時に行え。適性も完璧だ。執刀は私がやる。急げ」
「はい」
(美坂栞・遺体・執刀・適性。どういうこと?分かりたくない。違う。それは絶対違う。そんなはずは無いよ。だって、だってボクは、ボクはちゃんと助かった!誰も犠牲にしてない!栞ちゃんを犠牲にしてまで、助かりたくなんて無い!)
「ですが先生、美坂栞さんはまだ生きていますけど、勝手に殺しては……」
「彼女は助からない。いや、助けることが出来ない。それは彼女も分かっている。だから、せめて彼女の体で助けられる人を助けて欲しいと、言っていた。私だって、医者として、患者一人を見捨てる真似なんてしたくない。だが……」
「もう、もうやめて!」
ガバッとベッドから飛び起きる。窓からは日が差し込んでいる。白いカーテンも、天井も、ここには無かった。だけど、さっきまでの嫌な感覚は、鮮明に残っていた。
「夢?いやな、夢だったよ」
まだ心が安定していない。頭の整理が追いつかない。あわてて時計を見てみる。時間は6時55分。目覚ましが鳴る一寸前だった。
何時までもこうしてるわけにもいかない。今日もまた学校がある。制服に着替えて髪を整える。リボンをつけたら身支度完成だ。
リビングに姿を見せる。そこには碧の姿は無い。代わりにサンドイッチがラップに包まれ置かれていた。それともう一つ、紙切れが置いてあった。
『あゆへ
もし、この世界が少しでも嫌になったらこの紙にそう書いてください。私が元の世界に帰してあげます。元の世界であゆが生きていけるかは私には分かりません。
でも、この世界の事はすべて嫌な夢としてなかったことに出来ます。たとえ元の世界で生きられなくても、幸せな夢は見れます。その中で、生きる事も出来るでしょう。
確実にあゆに不幸になって欲しくないと言う、私の願いです。どうか、自分を不幸にする道は、選ばないでください。私と同じ過ちは、起こさないでください。
桜井 碧より』
紙にはそう書いてあった。3行の文章から、気持ちが伝わってくる。どれだけあゆを元の世界に帰したいか。この世界に残したくないか。
それとは関係なく、気になることがあった。なぜ、桜井碧はあゆを元の世界に帰す力があるのか。元は普通の人間だった。それなのに人外の力が使える。
それはありえない事。例えここが前いた世界と違うとしても、その力が使えるはずが無い。使えるのは、ファンタジーの世界だけ。
でも学校の人たちはいたって普通。普通と違うところは無い。ファンタジーな要素は周りからは見れない。
だけど、月宮あゆは確かに死んだ。だけど、こうして生きている。自分の生きていた世界と似て非なる世界。それを見ると、ここはファンタジーの世界だと思えてしまう。
なら、ここがファンタジーの世界だとする。いや、今までの情報からすれば、ここはファンタジー。桜井碧は定期的に忘れられると言った。それが真実なら、それは現実ではありえない事。それより自分でおきた不可思議なことを思い出してみよう。
一つ目は、自分の性格が違う。それに似て、中身も違う。知識の量が違う。明らかに知ってはいない事を知っている。それは勘違いなのかもしれない。たまに自分じゃない何かが出てきている気がするのも、勘違いかもしれない。あるとすれば、二重人格、
二つ目は、自分が知っているはずの人間を知らない。逆もあった。自分を知っている人間が自分を知らない。それも勘違いかもしれない。デジャヴというものかもしれない。でも、そんなにも不可思議なことが同時に起きるだろうか?答えはイエス。限りなく低い確率でなら、この状況もありえる。きっと1%より低い確率だろう。それでもあると言えばある。常識的に考えればありえない事。でも、常識はあまりにも現実に弱い。ありえないことがあっさり起きるのが現実。だからといって、常識がすべて通じないわけではない。常識はすべての考えの基本となるもの。この時も、例外ではない。だから、あゆはここで、この世界はファンタジーだと決めた。
「もうこれ以上考える時間は無いみたい」
時計は7時50分を指している。まだ歩いていっても10分くらいは前に着く時間。昨日休んだから今日は行かなきゃ行けないと思っていた。欠席の理由を思い出して少し恥ずかしくなった。恥ずかしがっていてもしょうがないので家を出た。
(まさか、噂広がってないよね。昨日のこと)
辺りを見回しながら校門をくぐる。これだけきょろきょろしているので、周りから少し注目される。そんな時、不意に後ろから声を掛けられる。
「つ〜きみ〜やさん」
「わひゃう」
突然のことにあゆは変な声を上げる。尻餅つきそうな所をギリギリで堪える。栞はビックリして数cm飛び上がった。二人とも気持ちを落ち着けてから、会話に入る。
「し、栞ちゃん。ビックリした〜」
「それはこっちの台詞ですよ。月宮さん、いきなり変な声上げるんですから」
何回か言葉を交わすことにより段々と落ち着いていった。教室につく頃には普通に話せる状態になっていた。
「それで、どうしてあんなにビックリされたんですか?」
「うん。転校2日目で先生に喧嘩売って、4日目でいきなり休んで、何か噂になってるかな〜、何て思ったんだよ」
「う〜ん、広まってるのは武勇伝ぐらいです。昨日は風邪で休んだんですよね。そう聞いてますよ」
そう聞いてあゆはホッとした。碧の言った欠席の理由は冗談だった、と思った。それで安心しきって普段どおりの1日を過ごす。普通に授業を受けた。
それでお昼は学食で食べる。あゆはAランチを頼んだ。栞はうどんだった。途中祐一達と一緒になったので6人で食べた。名雪があゆのイチゴムースをせがんできて、香里に止められる。でもしつこくせがんできてくるのであゆは仕方なく渡した。あゆは思いっきり渋々という顔をしたけど名雪は全く悪びれる事無く取っていった。後で名雪は香里に説教を受けていた。でも、自分が悪いことをした覚えは無い顔をしていた。結局最後は笑い事となって片付いた。
午後の授業も何事もなく終わった。今日は栞と一緒に帰ることにした。帰り際に担任に『欠席の理由を言うときはもうちょっと恥じらいを持った方がいいぞ』と耳打ちされた。その瞬間全部が分かった。碧は嘘を付いていなかった。担任が気を使って風邪と言う理由に変えてくれていた。あゆがそれに気づいた時は、逃げたくなるぐらい恥ずかしがっていた。だけど、栞に気づかれないように平静を装った。せっかく一緒に帰れるのをふいにしたくなかった。何とか平静を装い一緒に帰れた。動揺を悟られること無く別れた。
今日は、何の変化も無く半日が終わった。家には鍵がかかっていた。鞄から鍵を取り出して開ける。玄関を通ってリビングへ行く。そこは今朝と何一つ変わってない。台所には皿が1枚水に浸けられている。今朝食べたサンドイッチが置かれていた皿。ピチャン、ピチャンという水道から水がたれる音だけが部屋を占めていた。この空間には、今、独り。
「碧さん。ボクに会いたくないんだ」
碧の最後に言った言葉を思い出してみる。『すぐに分かるよ。独りがどんなに辛いか。元の世界の方が、どんなに良いか』
あゆは今ボーっとテレビをみて、本を読んでいる。読んでいるというより、ページを捲っているといったほうが正しい気がする。無駄に時間を過ごしている。何をしたいわけでもない。強いて言えば、時間を進めたい。夜になれば普通に碧が帰ってくると信じている。でも、その望みはだんだんと薄れていく。普段帰ってくる時間を過ぎても、碧は帰ってこなかった。それから2時間経っても帰ってこなかった。仕方なくあゆは、考えを変えた。
「あの時、碧さん、どうして突然考えを変えたんだろう?」
昨日の昼のことを思い出す。大樹の前、元あゆと祐一の学校の前でした会話。あゆは最初はこの世界を去りたかった。元の世界に帰りたかった。碧もあゆを帰したがっていた。そのためにわざわざ自分の体験談まで読ませた。そしてしっかりあゆの心を動かした。それなのにかかわらず、寂しいと言った。あゆと一緒にいたいと言った。いう必要も無いのにあゆに教えた。その所為で、あゆの心は簡単に揺れ動いた。すぐさま天秤に掛けた。少しでも元の世界に帰ろうとする思いと、少しでも碧と一緒にいたいという思い。結局天秤はどちらにも落ちなかった。少しだけ、一緒にいたい思いのほうに傾いただけだった。だから、帰りたくないって言った。だけど、また碧はあゆを帰すと言った。今度は手段を選ばない感じだった。そしてあゆを傷つける事無く、心変わりするのを待つといった。
このことから考えられる事は一つ。碧には二つの望みがある。一つはあゆを元の世界に戻すこと。もう一つはあゆと一緒にいたい。きっと、もうこれ以上独りでいたくはない。そう思っているだろうとあゆは考えた。
「それなら、ボクは考えよう。碧さんの考えを変える方法を」
シャワーを浴びて寝巻きに着替える。そして、その方法を考えながら、床に入った。
いつの間にかあゆは眠りについていた。目を開けた時、すでに窓からは光が差し込んでいた。時計の針はまだ7時を指している。この時間なら十分間に合う時間だった。
「碧さん。帰ってきてはいたんだ」
リビングのテーブルの上には今日の分の朝食が置かれている。今日は和食。焼鮭とご飯がある。レンジで温めている間に顔を洗ってくる。鏡を見てみる。顔色は普通。この家に来た初日と同じ。学校3日目の時とは違う。あの時は無理してそれを隠していた。だけど、もうそれが必要にならないくらい普通に戻っていた。
レンジの音に急かされながら、リビングに戻る。一人で寂しかったけど、朝食を食べた。食べ終え食器を水に浸けておく。部屋に戻り着替え、身支度をする。今日はきっと昨日とは違う。きっと大事な1日になる。そう思いながら、あゆは家を後にした。
今日は土曜日なので学校は半日。ほとんどの人が午後からの予定について話している。一人で登校している人もどこか浮ついている。『デートなのだろうか?』とか考えながら校舎の中に入っていく。教室に入って挨拶をする。珍しく栞があゆより早く教室にいた。あゆは挨拶だけをして席に着く。
「栞ちゃん。今日、放課後空いてる?」
「放課後、ですか。ええ、空いてますよ」
「少し、話があるんだ」
「今じゃ、だめな話ですか?」
うん、と一度だけ頭を縦に振る。多分長くなる、と、二人じゃないとまずい、と付け足した。栞は少し考えた後、はい、と返事をくれた。
後は他のクラスメイトと話しをして、チャイムまで時間を潰した。チャイムとほぼ同時に担任が入ってくる。普段通りのHRが始まる。普段と変わらぬ授業。土曜日だからと言って特別な授業は無い。少し前までは味わえなかった普通を、今は満喫する。
何一つ変わった事もなく、半日が終わる。帰りのHRが終わると同時にみんな一気に帰り始める。少しでも遊ぶ時間が多く欲しいみたいだった。あゆはそんなみんなに『また来週』と挨拶する。そのあゆ本人は、栞の準備が出来るまで待っていた。
「月宮さん。もういいですよ。それで、お話って何ですか?」
「ここじゃ何だから、中庭で話しよ。いい?」
栞は笑顔でうん、と答えてくれた。もう校舎には用が無いので一度靴に履き替えてから中庭に行く。今度はあゆの方から切り出した。
「話っていうのは、ボクの、大切な人の話なんだ。その人に、もう、会えなくなるかもしれないんだ」
「転校、ですか?」
軽い話でないことを理解し、そう、あゆに尋ねた。あゆはううん、と首を軽く横に振る。『近いようなもの』だと言う。
「その人がね、別れたがってるんだ。別れたほうが良いって言ってる。でも、本当は別れたくないって思っているはず。無理してると思うんだ」
それからあゆは言葉足らずだけど話し続けた。自分がその人といたいという気持ち。その人が無理にでもあゆと別れたいという事。そのためにあゆに嫌いになって欲しいという事。そして、一緒にいたいと言ってもらえれば、ずっと一緒にいられる事。
あゆは信じてもらえないと思っていた。うまく説明できなかったから。それでも栞は終始真面目に聞いてくれていた。たとえ真面目に聞いてくれていたとしても、答えが返ってくるとは信じていなかった。
「……月宮さんの話は嘘じゃないことは判ります。そうすると、心配なのは、その人があゆさんと別れるのを諦めた後です」
意外な返答だった。眠るまでずっと考えていた事は、どうやって碧の気持ちを動かすか。そうすれば全部終わると思っていたから。だけど、栞は別の答えを出した。
「嫌い、って言うだけだったら、あとで簡単に仲直りできるかもしれません。ですが、嫌われようとしているのなら、別です。もし、嫌われようとして、酷い事までしたら、簡単にはいかないと思います。やった側の人が、そんな自分を、許せなくなるから」
栞の言葉は不思議だった。よく判らない説得力というものがあった。
「どうして、そんな事が判るの?」
あゆの訊きたい事はそんなことじゃなかった。だけど、その説得力が何なのかが知りたかった。それで、何かわかるかもしれなかったから。
「私のお姉ちゃん、知っていますよね。その、話です」
栞の話は、聞き覚えがあった。でも、何故知ってるのかはわからない。だけど、薄くだけどその記憶が残っている。
栞の姉、美坂香里の話。栞は去年はずっと病気だった。治らないかもしれない、もう長く生きられない。そう言われたらしい。それを聴いた香里は、栞を拒絶した。自分に妹なんていないと思い込み、栞がいなくなった時に、痛みを和らげるために。
だけど、栞は助かった。手術法が見つかり、栞は普通の生活を送れるようになった。栞が家に帰った時、香里はいなかった。しばらく帰ってこなかった。話によれば、香里は祐一の家にいたらしい。いまさら顔を合わせられないから、と言っていた。
「香里さんは、栞ちゃんになんて言ったの?」
「『あなたなんて、生まれてこなければよかったのよ』でした」
背筋が凍りついた。栞はどこか遠くを見てそう言った。本当にその時の痛みが伝わってくるような錯覚に襲われた。
「あれは、本当に痛かったです。その痛みで、本当に死んじゃうかと思いました」
「それで、どうやって香里さんと、またいられるようになったの?」
「お姉ちゃんがいないほうが痛い。お姉ちゃんがいなくなったから痛かった。本当の事だけど、そういって許してあげました。そうしたらお姉ちゃん、祐一さんの家なのに大泣きしました。それから、元の関係に戻れました」
栞は全部話してくれた。自分には辛い思い出のはずなのに。それが、あゆには嬉しかった。
「ありがとう。でも、どうしてボクに話してくれたの?話すだけでも、辛いのに」
「こんなに悩んでいる友達がいたから。だから、私に出来る事を何でもしたかった、じゃ駄目でしょうか?」
あゆは少し呆然としていた。栞は自分の言った台詞に少し照れる。今になって恥ずかしくなってきたようだ。でもあゆが呆然としているのはべつの理由。もはや記憶の片隅程度にしかない昔の栞のイメージ。それとピッタリ当てはまった。
(もう、大丈夫。ありがとう。栞ちゃん)
今度は栞に抱きつきながらありがとうを言う。それで時間を使わせてしまった事を謝る。栞は気にしてないようだった。
あゆは栞に挨拶をして家に向かう。もうやる事に迷いは無かった。真っ直ぐと家に帰った。当然家は閉まっている。いつも通り鞄から鍵を取り出して中に入る。真っ先に向かったのはリビング。そして昨日、今朝と変わりなく置かれているメモを取る。
(これなら、碧さんは絶対読む。今ある唯一の、連絡手段だ)
早速ボールペンを取り出してメモの裏側に書き込む。
『碧さんへ
最初にボクの気持ちを書いておきます。ボクは碧さんと一緒にいたいです。だから、帰りません。学校の人はみんな良い人たちです。だから、寂しくありません。
もう一度書きます。ボクは碧さんと一緒にいたい、だから、こちらに残ります。ボクからのお願いです。ボクの我侭なのかもしれないですけど、どうか聞いてください』
あゆはメモをそっとテーブルに戻す。明日になれば、碧に合えるという希望を持ち、まだ日が沈まないうちに自分の部屋に閉じこもった。
きっと、明日が終われば元通りになる希望を抱いて……
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