(私は迷わない。もう、迷いはしない。
私がする事は、しなければいけない事は、あゆを元の世界に戻りたいと思わせること。
私情はすべて捨てる。昨日みたいに惨めなのはもう嫌だ。あれさえなければ、私の望みも、あゆの望みも叶っていた。なのに、私はすがりついた。私が独りではない世界を。
それを捨てる。私は…………私は世界。私が決めた事は、世界の理になる。だから、私はもう、迷わない)
碧は決意を胸に秘める。右手に緑色の光を携え、夜明け前、真っ暗な自分の部屋を出た。目指すは隣の部屋で寝ているあゆ。
あの後、あゆはちゃんとここに帰ってきた。碧は少しだけ、ほんの少しだけほっとしていた。嬉しかった。
自分を頼ってきてくれた事は、嬉しかった。でも、それはそれとして取っておく。心の片隅に……
この願いは捨て置くべきだった。碧の第1の願いと第2の願いは決して両立できるものではない。真逆の位置にある願いは、持つものではない。
「あゆ。大丈夫だよ。もうすぐ悩まなくて済むから。答えはもう出ているんだから。後はそれを選ぶきっかけがあればいい。そのきっかけを、私が作ってあげるから」
右手の光がだんだんと集まっていく。そして一つの形になる。円盤型。1枚のディスクになって、光は安定した。
「良い夢見てよ。あゆ」
ディスクをそっと枕の中に植え込む。枕は淡い緑色の光を1度放って、また元に戻る。
それを確認し、最後にあゆに微笑んで、部屋を後にした。
(後は、あゆに会わなければそれで良い。あゆが願ったとき、その時にだけ、あゆに会えばいい。それがきっと……)
考えを途中でやめ、部屋に戻る。
まだ夜は明けていないが、もう着替えを始める。身だしなみを整え、リビングに行く。
食パンを一つ摘み、もう一つをサンドイッチにする。それにラップをかけ、テーブルに置いていく。横にメモを挟み、家を出る。
まだ夜明け前の風は冷える。少しの厚着はしてるが、その上から冷たい風が差し込んでくる。
そんな外を歩いている。病院へ行ってもまだ自分の仕事の時間じゃない。だから適当に時間をつぶしている。
別に公園で寝ていてもよかった。それはたまにいる真面目な警官に捕まりたくなかったから。そうなるとまた面倒だ。
仕方なくコンビニに立ち寄る。すでに目を通し手いる雑誌を手に取り立ち読みを始める。眠そうな店員には悪いけど、冷やかしだ。
それも気が引けるか、お腹が減った時用にサンドイッチを一つ買っていった。
そんな事をして、やっと時間が過ぎていった。時間通りに仕事を始め、淡々とこなしていく。
(今日は、いつもより楽な気がする。仕事が少ないのかな?でも、時間も早く感じる。もうすぐ、終わりか)
仕事の時間はもう終わった。いつもと同じ時間に終わったはずなのに。その時間がとても早くに感じていた。
いつもはこれで帰るだけ。でも、今日は帰れない。あゆに会うわけには行かないから。また、どこかで時間をつぶさなければいけない。
(独りは、慣れてる。少し前に戻っただけ。大丈夫。きっと大丈夫)
でも、あまり大丈夫ではなかった。朝より待っている時間は短かったはずだけど、その時間が、とても長く感じられた。
家に戻ってみる。電気は、全部消えていた。あゆも、もう寝たみたいだ。
家に入ってまず一番最初に、今朝置いておいたメモを見る。あゆからの返答は、なし。まだ、答えが出てないみたいだ。
「まだ、出ないんだ。早く出さなきゃ、辛いだけなのに」
メモを残し、部屋に戻る。とりあえず荷物を置いて、バスルームに向かう。シャワーを浴び、疲れを取る。外を歩いていた汚れも洗い流す。
でも、この悩みは、まだ流れていかない。未だに、自分の願いが消えない。第2の願い。これがまだ、消えてくれなかった。
シャワーも浴び終えて、着替えも終わった。あゆは、起きてきてはいなかった。起こさないように、静かに部屋に戻る。
戻ってすぐに、自分の部屋を施錠する。そうしてからベッドに倒れこむ。風邪を引かないようにちゃんと布団をかぶる。看護士が風邪を引いたらお笑い種だ。
でも、風邪を引くのかは分からない。お金が入る前は、野宿続きだった。補導された事は、数回はあった。その時は、適当にあしらった。
関係ないことだった。起きた時、ベンチの下だったときもあった。草むらで寝てたときもあった。雪の上も、あったかな?それでも、風邪を引いたことは無かった。全く体調を崩さなかった。嫌でも思い知らされた。自分は、この世界では普通ではない。異常な存在、汚物だった。
私は、帰りたかった。他にどこも場所が思い浮かばなかった。逃げ場所は、そこしかなかった。だから帰りたかった。私が死んだ世界に。
その世界も、私を否定した。だから死んだ。幼いころから病気だった。入院が必要だと言われた。四角い世界しか知らなかった。何回も、もうすぐ死ぬと言われた。でも、ことごとく生き残った。医者もさじを投げる病気。気休め程度の言葉。厄介物見たい目で私を見る肉親たち。幼心など、私の年が一桁の時にはもう無かった。童心に帰る、なんて事もしなかった。ただ、何時死ぬのかを考えていた。隣の人は私より長く生きるのか?私よりも早く死ぬ人がいるのか?そんなことばかり考えていた。
私は、どんどんやさぐれていった。私の主張は一切通らない。車椅子で野外出すら禁じられていた。アタリマエだった。私の心が塞がるのは、必然だった。あるいは、そうするように仕組まれていたのかもしれない。病院側にとって、治せない患者なんて金づる以外の何者でもない。下手に殺しでもすれば、慰謝料やら何やらを払わなければならない。ならどうする?簡単なこと。患者を追い詰めて、自殺させればいい。私の体に刺さっているもの。それのどれかでも抜けば、勝手に死んでくれる。病院側に一切の責任は無い。後は適当にごまかせば、完璧。完全犯罪。ああ、何て単純だったんだろう。これほど楽な犯罪があるだろうか。ただ放っておく。それだけで人は死ぬ。私は、そんなに簡単に死ぬんだ。そう考えたら、笑いしか浮かんでこなかった。
それから翌日から、私は別の事を考えた。まずは、隣に寝てる人を、頭の中で殺した。いろんな方法で殺してみた。直接手に掛ける方法も考えた。医者が殺す光景も思い浮かべた。自殺している光景も。
そんな事、楽しいはずが無かった。でも、思い浮かんでしまう。どうしても、頭が考えることをやめない。気持ちが悪かった。吐き気がした。吐き気だけじゃなかった。何回か戻したこともあった。それでも、頭は考えることをやめない。そのたびに気分が悪くなっていく。それでも、思考は止まらない。看護婦、看護士、医者。次から次へと頭の中で人が死んでいく。その度に、気分が悪くなっていく。
その気持ち悪さが、体を蝕んでいく。体の節々が痛み始める。緊急で私にかかる医者たち。そんな一人一人を、私は頭の中で殺す。一人死に、二人死に、三人死ぬ。それがまた、体を蝕む。私は叫んでいた。助けて欲しい。誰でもいいから助けて欲しかった。私の本意でなかったとしても、頭の中で殺した人にも謝る。だから、助けて欲しかった。
「誰か、誰か助けて!」
ピピピピピピピピピピピ
目覚ましの音が響く。時計を見てみる。時間は5時30分。確かにセットした時間だった。
「はぁ、はぁ。夢、か」
いつの間にか寝てしまっていたようだ。汗だくになっている自分を、鏡で見てみる。電気も点けてないのに、顔色の悪さがはっきりと分かる。
「まさかね。自分の死に際を、夢で見るなんてね」
今思い出せば、あの時は自分の一番嫌なときだった。今とかけ離れているようで、近かった自分。人を憎み、世界を呪った自分。でも、結局は誰を恨むことの出来なかった自分。こっちの世界で、新しく出来た事は、人を助ける医者を目指すこと。私は、多分、愚かしい人の分類なんだろう。
「そんな事どうでもいいや。あゆが起きる前に、支度しなくちゃ」
着替えを済まし、身支度をして、ご飯を食べ終える。それだけ済まして、6時30分。あゆはまだ起きていない。
昨日と同じようにメモを残し、家を出る。昨日よりも遅いので、そのまま仕事に行っても十分だった。
今日も昨日と同じような仕事。退屈だったのか、少しボーっとしていたようだ。そこを見られて、怒られた。
新人だからって甘く見ないよ。だってさ。私、8年目なんだけどな〜。みんなが覚えてる限りじゃ、3年目かな?
また、周期かな〜。この時期が一番嫌い。今日は嫌な夢も見たし、ついてないな。こういう時は、何も考えずに仕事仕事。給料がまた初任に戻るのが嫌なんだけどね。また給料下がるのか。何もしてないのにね。ま、精進精進。
今日も今日とて時間は過ぎる。今日はいつもより遅くまで仕事した。新入りなのに偉いね〜、って褒められた。ちょっと困ったけど愛想笑いで返した。
ちょうどよさそうな時間で切り上げた。さすがにこの時間だから、あゆは寝ていた。今日はシャワーの前にちょっと夜食。本当はあまり食べたくないんだけど。太る気がして。その前にメモをチェックしてみる。昨日とは違い、今日は書き込みがあった。やっと決心がついたのかと思った。でも、違った。あゆの決心は揺らいでなかった。それよりも、前よりも力強さが感じられた。
「まだ、変わらないんだ。分かってくれないんだ。もういいや。あゆ。私、もう後戻りできないから」
home
prev
next