次の日、ボクは時間通りに起きれた。でも、少しだけ気が重かった。
栞ちゃんはボクを知らなかった。もしかしたら、みんなボクの事を忘れているのかもしれない。
でも、どうしてボクはみんなのことを覚えているんだろう。始めに会ったときは分からなかった。これもどういうことだろう?
部屋で考えててもわかんないや。そろそろ、学校に行こう。
今日は早く来れた。昨日は結局予鈴の時間になっちゃった。でも今日は大体の場所は覚えている。
教室までの道のりも大丈夫だ。うん。ちゃんと30分前に教室に入れた。早く来すぎたのか、教室にはほとんど人がいない。いるのは日直と他数人。
栞ちゃんはまだ来てなかった。だから私は本を読むことにした。碧さんから借りた本。題名は『転生学』。ないと思って聞いたけど、まさか本当にあるとは思わなかった。
何か少しでもヒントがあればいいと思った。著者が書いてないところに余計興味を引かれた。ボクは食い入る様に読んだ。気がついたらもう予鈴がなっていた。栞ちゃんはまだ来ていない。どうしたんだろうと思ったけど、本鈴前ギリギリに入ってきた。
「ギリギリだったね」
「少し寝坊してしまいました。それにしても月宮さんは早いんですね」
「ボクは朝強いから。それよりも、あの……」
「何ですか?」
「名前で呼んでほしい、かな?あゆって。ボクも、栞ちゃんって呼んでるし。だから……」
「そうですね〜。……やっぱり、月宮さんって呼ばせてください。別に月宮さんの事を嫌いなわけじゃないですから」
栞ちゃんは必死に弁解した。栞ちゃんはボクを嫌ってはいない。それぐらいはすぐに分かる。
でも分からない。栞ちゃんはボクをあゆさんって呼んでた。だけど、それを受け入れてくれなかった。
これで確信した。栞ちゃんはボクとは初対面なんだ。ボクがあったときのことは覚えていない。
それどころか、前に会ったときの栞ちゃんとは、どこか違う気がする。ボクも、初めて会う気がする。
もちろんそんな分けない。この顔は忘れていない。ちゃんと美坂栞と言う名前。この町で会った。
それは間違いないはず。だけど、初めて会ったほうが説明が合う。最初、栞ちゃんだとわからなかった理由が……
今は答えを出すのはやめよう。あまりにも情報が少ない、と言うより、非現実的すぎる。まあ、ボクがまたここにいられるのも、十分非現実的かもしれない。
それなら、これくらいのことは起きても不思議じゃない、のかな?
ううん。だから今はまだ答えを出す時じゃない。私が全部、全部見たら、その時だそう。それまでは、この違和感の中にいよう。
ボクは極力その事を考えないことにした。どうせ考えても悪い方向に進んでいくだけ。なら考えるだけ無駄。
そう思って考えるのをやめたら、また新しい疑問が浮かんできちゃった。
ボクは、いつからこんな考えをするようになったんだろう?こんな小難しく、こんなに無駄のない考え。ボクは頭の良いほうじゃなかった。それはそうだった。ボクは小学4年以上の教育は受けていない。そこからずっと眠っていた。だからこんなに頭が回るはずがない。なのに、何でボクの頭はこんなに回るんだろう?
「月宮さん」
「何?栞ちゃん?」
「ボーっとしてると指されちゃいますよ」
「月宮。転校生だからってボーっとしてていい訳じゃないぞ。そんなに暇ならこの問題を解いてみろ」
教師が新しく問題を書く。黒板を見て、教科書のどこら辺をやっているのかを確認する。
やっぱりそうだった。新しく書いた問題はここでの問題を発展させた問題だ。基本的なことをやっている中、いきなり応用をやらせる。
この事から、ただボクをいびりたいことが分かった。多分、この中にはこの問題が今の段階では解けないと分かってる人もいる。
ここで分かりません、と言わせて私を笑う。そして自分が解いて見せてあたかも自分が頭が良い、と言うことをアピールする。
人を見下すことを快感だと思っている下賎な考え。それなら、こっちにも考えがある。
「どうした?分からないのか?だから……」
「分かりますよ。解いて見せます」
こういうタイプは圧倒的に生徒から嫌われている。理系の教師には多い。だから、ここは思いっきり反抗するようにしよう。
ボクは黒板の前に立つ。そして流暢にチョークを走らせる。一箇所も省略することなく、おそらく教科書に書いてある通りに書く。考えた時間は黒板まで歩いていく時間だけ。そして、最後に、皮肉を込めてこう言うだけ。
「これでいいですか?」
「うぐぐぐぐ」
予想通り悔しそうな顔をしている。教科書と見比べて少しでも間違いを探しているようだ。無駄なことだよ。例え何を言ってきても、言い返す言葉は十分にある。まあ、何か言ってくる事は間違いないと思う。
「こんな問題解けたくらいでいい気になるなよ」
「なりませんよ。それより、ボクにこの問題を説かせた意味を教えてください?先生も、その本がなければ分からないみたいですし」
「お、俺はこれ位解ける。お前!教師をバカにするのも……」
「バカに、ですか。頭の悪そうなことをされたもので。つい、そうなんだと思いまして。あと一つ言っておきます。相手より頭のいい立場にいるんですから知識を与えるのではなく、ひけらかすのは間違いだと思います。そうやって威張っていると、哀れに見えますよ」
これが止めだ。きっともう言い返しては来ない。ボクは目をつけられるだろうけど、この位の人なら、問題ないと思う。
ボクはゆっくり机に戻る。それ以上は何も言ってこなかった。きっと教室中が隠れてガッツポーズしてるに違いない。
きっと休み時間には祝福だ。って、あれ?あれ?ボク、何してるんだろ?どうしてこんな事したんだろ?ボクって、こんな人だったっけ?こんなに嫌な人だったっけ?どうして、どうしてだろう?
考えているうちに、チャイムが鳴った。それと同時に逃げるようにさっきの教師は出て行った。
そしたら教室中でなんか声が聞こえる。みんな喜んでいる、と言うより、何だろうな。知らなくていいかも。
何人か私のところにやってきて、『さっきはよかったよ』とか『スカッとした』とか言ってきた。やっぱりみんなに嫌われてたようだ。私はちょっとしたヒーローなんだ。女の子だからヒロインかな?って何考えてるんだろ?もう昼休みだよ。今日はお弁当ないから食堂に行くって栞ちゃんと約束してるんだ。だから早速栞ちゃんと一緒に食堂に行った。行ったはいいけど、もうすでに人で溢れていた。
「うぐぅ〜、人がいっぱいだよ」
「空いてる場所を探してみましょう」
ボクたちは空いてる席を探した。もちろん見つかるわけがない。所々空いてる場所はあるけど、二人で座れる場所はなかった。
「あれ、栞ちゃん?」
「あ、名雪さん。こんにちわ」
「なゆき、さん?」
水瀬名雪。きっとその人なんだろう。半年前、ボクが住まわせてもらった家の人。祐一君と、一緒に暮らしてる人。
でも、ボクはきっと見覚えがないと思う。面影だけが残っているんだろうな。そうじゃないと、いいんだけど。
「そっちの人は?」
「えっと、月宮あゆです。栞ちゃんのクラスメイトです」
「始めまして。私は水瀬名雪。よろしくね」
「うん。よろしく。水瀬先輩」
「俺は北川潤だ。よろしくな」
「はいはい。自重しなさい。北川君」
「あ、お姉ちゃん」
話が勝手に進んでいく。どの名前も、私は知ってる。北川君は聞き覚えはないけど。
もしかして、いるのかな?いちゃうのかな?駄目だよ。まだ、全然準備してない。覚悟が出来てない。
「あの、ボク、今日はパン買って教室で食べるよ。席も一つしか空いてないみたいだし。それじゃあ」
ボクは答えを聞かないで走り出した。だって怖い。もし、いや、祐一君はボクの事を忘れてるから。
そんなの、ボクは耐えられない。だって、あの時、またボクを好きになるって約束したから。ボクは信じてるから。
「あいたっ」
「おっと、大丈夫か?」
「ごめんなさい」
前方不注意でぶつかっちゃった。とりあえず謝って、早くこの場を立ち去りたかった。
だけど、足が動かない。動けない。顔を上げて、顔を見ている。目が離せない。だって、今あっちゃいけない人が、目の前にいる。
一目で分かってしまった。その人が誰なのかを。
「祐一、君」
次の言葉を待った。でも、聞きたくなかった。ボクの名前を呼んでほしい。だけど、それはきっと無理。
次に出てくる言葉は、きっとこうだ。
「「どうして俺の名前を知ってるんだ?」」
一字一句違わない。祐一君はボクの顔を見ても何も感じていない。駄目。もうここにはいたくない。
早く、早くどこかに行かなきゃ行けない。ボクは動かない足を無理やり動かし、その場から立ち去った。逃げた。
やっぱりそうだ。誰もボクの事を覚えていない。覚えていないと言うより、知らないといって方が正しい。
どうしてこうなっちゃったんだろう。夢、なのかな?実はボクはまだ病院で寝ていて、ちょっといやな夢を見てる。
それはない。さっき祐一君とぶつかったとき、確かに痛かった。これは夢じゃなく、現実。
現実、なんだ。でも、ボクの願いは叶ったのかな?またみんなと一緒にいること。ボクの事は知らないけど、ボクはみんなと一緒にいることは出来る。
なんだ。簡単なことだったんだ。一からまたやり直せばいいだけのことだったんだ。だってボクは一度死んだんだ。
だったら始めからやり直すこと意外できない。うん。これで頭も心も整理がついた。自分でも驚くくらい切り替えが早い。
どうしてこんな早く切り替えが出来るんだろうか?昔のボクは、どうだったんだろう?
あれ?思い出せない。昔のボクって、一体どういうんだっけ?ま、今は関係ないからいいや。
とりあえず午後は普通に授業を受けよう。明日からなら、みんなと一緒にいれるかも。きっと大丈夫。
明日から、またボクが始まる。それでいいんだ。きっとそれでいいんだ。半ば強引だけど、ボクは納得した。
きっとまた、一緒に入れる。
次の日。ボクは昨日と変わらない朝を過ごす。
朝早くおきて、碧さんとゆっくりご飯を食べる。そして家を出て、学校に到着する。昨日と違うのは、40分も前に着いちゃったことだけだ。
空いた時間は本を読む。『転生学』の本。この本は不思議だ。普通なら、死んだ人間がどうなるのかとかが書いてあると思う。
でもこれは違った。冒頭部分から、何かが違う。
『人は死ぬ。そして生まれ変わるのは普通である。もし、未練があったならどうだろう。強い思いがあったらどうだろう。魂は素直に次の運命を受け入れるだろうか?答えは否。決してそうはないだろう。魂はまた同じ時空を求め、同じ自分になろうとする。自分が一番幸せを感じた場所・時で、自分の未練を果たすだろう』
はっきり言って難しいと思う。冒頭からよく分からないところが多い。言葉の意味は分かる。
この本を読んでいるのは、今のボクと同じような事が書いてあるから。誰なんだろう、この本を書いた人は?
そんなことを考えてると、もう本鈴が鳴った。気づいたら栞ちゃんももう来ていた。ボクはずっと本に夢中だったらしい。
HRが始まっても本の事を考えていた。担任はあまりクラスには干渉しないタイプだったので好都合だった。
さすがに休み時間には人が集まってくる。昨日の一件でボクは完全にクラスに溶け込めたみたいだ。
でも、ボクは席を立つ。ちょっと栞ちゃんと話があったから。
「あのさ、聞きたいんだけどさ、あの、ゆ、じゃなくて、相沢先輩ってどんな人?」
「祐一さんですか。ってあれ?昨日月宮さん途中で戻りましたよね。祐一さんには……」
「その帰りに会ったの。その、何ていうか……」
あれ?うまい言い訳が見つからないや。どうしよう。こんなんで大丈夫かな。駄目だろうな。
じゃあ何かうまい事言わなきゃ。でも、何言えばいいんだろ?
「そんな難しい事言わなくていいですよ。ちゃんと話してあげますから」
「えっ?あれ、ボクが考えてること」
「はい。しっかり顔に出てました」
うわ〜、今のはちょっと恥ずかしいな。でも、聞けるんだから、ま、いっか。
「祐一さんは、一言で言うと、可笑しな人ですね?」
「おかしな?」
「はい。いつもはふざけてるんですけど、たまにすごく優しかったり、頼りになったりするんです。でも、告白はやめておいた方がいいですよ」
「もしかして、誰かと?」
「はい。昨日あった名雪さん。青い髪の人と付き合ってるんですよ。かなりのラブラブです」
「そう、なんだ」
「他には……」
「前髪は趣味で伸ばしている。実は女の子のお願いにNOと言えない。誰にでも優しくするので意外と人から好かれている。それぐらいかな」
「どうして知ってるんですか?すごいと言うより……」
「聴いたの。いろんな人から。ちょっと、気になったから。でも大丈夫だよ。好き、ってほどじゃないから。これでも一度も一目惚れって言うの、したことないから」
最後はちょっとだけふざけた。そうでもしなければ、何か変な感情が芽生えそうだったから。
それにしても、祐一君が名雪さんと。大丈夫、大丈夫。ボクのことを知らないんだから、当たり前なんだよね。
当たり前。当たり前。アタリマエ。アタリマエナンダヨネ。ボクハ……
「月宮さん!」
「!!!」
何だろう、今の感じ。怖い。とてつもなく怖い。どうして、どうしてボクは二人に……
そうだよね。少しぐらい憎くなるのは当然だよ。だって、別れ際に、ボクは約束したから。今はもう意味を成さない約束。
うん、忘れよう。忘れれば、ボクの願いも叶う。ボクの願い、か。いつからこんな望みが低くなったんだろう。
いいんだよ。ボクの望みはまた一緒に過ごすこと。それ以上願うのは、きっと贅沢というものだから。
一度死んでいるボクが生き返る。そして願いが全部叶う。そんな奇跡、起こるはずない。多分、ボクが生き返る代償として、約束を持っていったんだと思う。
だからみんなボクの事を忘れてしまったんだ。きっと、そうなんだよね。
(ボクのこと、忘れてください)
今の、何だっけ?
「ボクのこと、忘れてください。何だっけ?そんな事、ボク、思ったっけ?」
何だろう。記憶がはっきりしない。どうして?起きた時は、ほとんどのことを覚えていた。時が経つにつれて、昔を忘れていってる?
気のせい、じゃない。今はもう霧がかっている。半年前の別れのすべてが分からない。約束したことだけは覚えてる。
「『俺は待ってる。いつまでもお前を待ってる。俺は……』俺は?俺は何だっけ?あれ?」
何これ?何なのこれ?何で思い出せないの?何で?さっきまで覚えていたのに
「どうなってるの!」
「わっ、どうしたの?」
「えっ?あれれ?」
食堂にいた。祐一君たちと一緒に食事を取っていた。ボクのお昼はカレー。頼んだ覚えなんてない。
それどころか、さっきまで栞ちゃんと話してたはず。まだ1時間目も始まってなかったのに、何がおきたの?
「ごめん。大声出しちゃって。水瀬先輩、びっくりしちゃった?」
「うん。ちょっとびっくりだよ。急に大声出して、どうしたの?」
「夢、見てたのかも。起きながら夢見るなんて、変だよね」
「そんな事ねえよ。名雪なんて一回寝ながら学校まで来れたぞ。おまけに朝食って着替えまでして」
「そういえばそんなこともあったわねぇ」
「わ、わ、それ言わないでよ〜」
このやり取り、変わってない。懐かしいんだよね。祐一君が名雪さんを苛めて、名雪さんがむくれる。そして次はボクがからかわれる。
今はそのやり取りはない。その代わり栞ちゃんがその対象になっている。楽しい、だけど、寂しい。
そんな時間は過ぎていく。結局授業になんか集中できなかった。雑談にも集中していない。ずっと考えてる。ボクにとって違和感だらけの今を。
帰り、歩きながら本を読んでいる。ちゃんと歩きながら読んでも事故がおきないように周りに注意は配る。
やっぱりこの本、ボクのために書かれたような気がする。それを、何で碧さんが持っているんだろう?
そんなことは今はどうでもいいや。ボクがどうなっているのかが知りたい。こんな非現実的なことだから、藁にもすがる気持ちなんだけどね。
帰ったら碧さんにも訊いてみよ。これこそ藁にもすがる気持ちなんだけどね。信じてもらえるかも分からないけど。
「あの、碧さん。ボク、最近変なんだよ。その、いろいろ変なことがあるんだよ」
「いろいろじゃ分からないよ。笑わないから言ってみて」
「うん。あのね、最近物忘れが激しいんだ、と言うより、記憶がないんだ。それでも生活してるらしいんだけど。それに、ボクの方もおかしいんだ。少し昔のボクとは全然違うんだ。頭もいいし、言いたい事はっきり言ってるし、キツイ事も言うし、ほんとに全然違うんだ」
「全然違う、ね。やっぱり、その症状が出てるんだ」
「碧さん、何か知ってるの!」
「知ってるよ。そういう事言った人を、私、他に知ってるから」
「これからボク、どうなっちゃうのかな?」
「身体には以上は出ないよ。その代わり、月宮あゆが消えて、月宮あゆが生まれる。今のあなたならこれくらいの意味は分かるよね」
「どうして?どうして……」
「それ以上は言わない。ヒントはこの家の中にいっぱいある。だけど、あゆちゃんなら一番の確信をもう持ってるかもね」
「どうして答えられないのか、も言ってくれないんだよね」
「ごめん、じゃないね。最後に私から一言、ほんとにこれ以上は言えないから、しっかり聴いて覚えてね」
「……うん」
「これはあゆちゃんが選んだことだから。望んだからここがある。それだけは忘れないで」
碧さんがこんなに詳しかったのに、何も不思議に思わなかった。不思議な事だらけなのに。ボクの他にも、同じような人がいたって。だから詳しいのかな?でも、何かが違う。気になりすぎる。
『これはボクが選んだこと。ボクが望んだからここがある』どういう意味?ボクは、ここを望んだ?誰もボクを知らないこの世界を、ボクが望んだ?
ボクが望んだのは、みんなといたい。確かそうだった気がする。ほんとにそう願ったのかな?これも鮮明に思い出せない。
今はまだ分からない。ヒントは、ボクがもう持っているかもしれない。ボクが持っているのは、『転生学』の本。
もしかしてこれが?そうかもしれない。違うかもしれないけど、読む価値は絶対ある。なら早く読もう。思い切ったら即行動。明日までに読み終わればいいな。
まだ4分の1も読んでない分厚い本を取って思う。あゆの部屋の電気は消えることないかった。ページとページが擦れ合う音と、時計の音だけが響いていた。
ぱたん、と本を閉じる。カーテンの間からは日が差し込む時間になっていた。時計を見てみる。針はちょうど6時を指していた。
「もう、こんな時間なんだ」
結局一晩中読んでいたみたい。だからこんなに眠いんだ。学校で寝ちゃわないか心配だな。
「なら、おいしいコーヒーでも淹れてあげようか?」
「碧さん!何時からそこに?」
「私は朝早いの。あゆを起こすタイミングはいつも計ってるの。こんなに早くからおきてるから、目覚ましがいらないかな、っと思って」
「嘘、でしょ」
「嘘だよ。あゆが一晩中それ読んでたの知ってるよ。『転生学』本当の名前は『奇跡の代償』。
昨日私が言ったあゆと同じ境遇の娘の体験談、見たいな物。だからほんとは学問なんかじゃない。その娘が自分と同じ人が現れたとき、気づかないうちに自分を亡くす人が現れないように。そういう想いを込めて書いた本」
「どうしてそれを書いた人が女の人だって分かるの?どこにも書いてないのに。もしかして、これ書いたの?」
「私、とか言いたいの?そんな偶然あるわけないじゃない。女の子だって分かったのは文書から。世の中には60億近くの人がいるんだから、
その中から二人が会うなんてゼロに近い確率だよ。ないない」
碧さんは否定した。言葉に揺らぎはなかった。はっきりしてた。嘘、じゃないと思う。嘘つくのを慣れてるわけじゃないと思う。
悪い人じゃないのは分かってる。だから信じたい。酷く言えば、碧さんだったら何かが変わるなんてことはないと思った。
今日は早く起きた、というより寝てないね。寝覚めのコーヒーでも貰おう。やることもないし、いつもどおり学校に行こう。
「ねえ、あゆちゃん。今日、鏡見た?」
「鏡?どうして?」
「いや、いつもと同じ顔してるな〜、って思ったから。気にしないで」
気になるに決まってるよ。一晩中本を読んでたのに、いつもと同じ顔してる?眠そうでもない。目の下にクマもできてない。
そっちは個人差があるかもしれないけど。それにしても元気そうな顔ね。本格的にこっちの世界に馴染める様になってきちゃってるんだろうか?
ボクが消えて新しいボクが生まれる。つまり、こっちの環境に一番適合できるボクになる。元のボクの意識は無くなっちゃう。こんな事、知らなければよかったかも。別世界、平行世界、か。そんなもの、本当にあったんだ。まるで魔法みたい。
ボクが今生きているのも、魔法みたいだし、あってもいいのかもね。
早く学校へ行こう。学校にいる間は考えるのはやめよう。せっかく、みんなと一緒にいられるんだから。
楽しまなきゃ、損、だよね。そう、だよね。誰か、誰でもいいから答えてよ。答えられないって分かってるよ。でも、誰でもいいから答えてほしい。慰めだっていいから、誰か、答えてよ。
ボクは、泣いていた。心の中でずっと泣いていた。みんながいる。一緒にいられる。こんなに嬉しい事はないのに泣いている。
だって一人ぼっちだもん。誰もボクの痛みを分かってもらえない。あの娘も、ボクと同じような感じだったのかな?
結局学校でのことはほとんど覚えていなかった。2時間目で少し居眠りしたのと、お昼に水瀬先輩と同じAランチを食べたこと。
じゃなかった。名雪さんと、だった。やっぱりだんだんとボクが無くなっているのが分かる。もう時間が無いのも……
ボクは少し急ぎ足で帰った。少しだけ残った『奇跡の代償』を読み終えなきゃ。最後のほんの数ページ。
最初の方は本当に学術的に書いてあった。多分、怪しまれないように、だと思う。途中は体験談。終盤は後悔。
文章なのに感情がこもっている。痛みが伝わってくる。彼女は、きっと今のボク以上に辛かったんだ。
それなのに、他の人のことを思ってこれを書いたんだ。彼女のために、泣いてもいいよね。やっぱり、ボク、泣いてばっかりだ。
泣くってことは、ボクは、この世界を否定しているんだろうか?受け入れられないんだ。世界がボクを受け入れないという自分勝手な解釈はしない。
ただ、ボクがそんなこと言える立場じゃないってだけだけどね。
それにしても、最近変なことばっかり考える。それでも本の内容が入ってきているのは不思議だな。
とか考えて、本も読み終わった。最後の一文。あれが一番気持ちが入ってた。
『いまさらだけど、ここに書きます。きっと、知らない方が幸せなのかもしれない。でも、選んでほしいと思う。私の自分勝手なのかもしれません。何も知らず、何もかも忘れてその世界を選ぶのもいいでしょう。でも、もし忘れたくなかったら、思ってください。昔のこと。大好きだった人・場所を。きっと、あなたの願いは叶うはずです。私が、いますから』
私がいる、って事はこれを書いた人はまだ生きている。碧さんは違うって言ってた。少し変わった雰囲気だったけど、動揺はしてなかった。
もし、ボクがこの世界を必要としなくなったら、この人が何とかしてくれる。でも、どうやってだろう?ボクの居場所、どうやって知るのかな?
拒絶、か。どうしようかな?誰も、ボクの昔を知らないんだよね。だから、ボクの望みは、もう叶わないんだよね。
昔を望めばきっと叶う、か。考えてみよ。今日1日。そんなに考える時間をとっても意味があるとは思わないんだけど。大事なことだから、しっかり考えよう。
たとえ、答えが変わらなかったとしても。
「痛っ!やっぱりこの道は辛いや」
歩いていく途中から、どんどん道が狭くなっていってる。ほとんど獣道に近い。人が通った形跡が全くといっていいほどなかった。
「やっぱり、家で考えてた方がよかったかな?」
ボクは今日学校を休んだ。と言うよりサボったんだね。碧さんはボクの事情が分かってるみたいだった。だから休みの連絡をしてくれた。
でも、『朝から生理が酷い』はないと思うよ。恥かくのボクなのに。他人事だと思って酷いよ。おかげで助かった?のかな。
1日考える時間が出来たわけだし。それでじっくり家で考えようと思ったけど、どうも落ち着かなかった。
それで外に出てみた。誰かに見つかるわけにも行かなかった。だから、ボクは、ボクの学校に行くことにした。
誰も入らないような森の中。一際大きな木があった場所。ボクの事故によって切られてしまった木。でも、そこはいつまでも、ボクと祐一君の学校だ。
「そろそろ、かな?」
光が見えてきた。そこまであと少し。あと少しなのに、道は険しい。枝が服に引っかかる。リュックの羽根も木にかかる。
リュックの枝はそっとはがす。服は少し破れてもいいから強引にはがす。ビリッ、って音がしたけど、気にしないことにした。
その甲斐あって何とか抜けることが出来た。さっきの獣道とは違う。広がった空間。そこに聳え立っている一本の大樹。
「やっぱり、あるんだ」
大樹は立っていた。自分の世界では切られていたはずの木が、ここでは立っていた。
その樹がすべてを物語っていた。ここは、月宮あゆがいなかった世界だと言うことを……
「ははは。やっぱり、この世界では、ボクはいないんだ。月宮あゆはいなかったんだ」
ボクは、今、すべてが分かった。彼女の書いた本の通りに事が進んでいく。その内に、本当に今のボクは消えていく。
きっとじゃない。必ず、ボクは消える。そして誰かも分からないボクが、この世界で暮らしていく。それで、この世界は正しく動いていく。
それが、摂理。
「そうなっちゃうなら、ボクは……」
「生きることをやめ、思い出の中だけで、幸せに死ぬことを望む。それは間違いじゃない。それが、自然な姿なんだ」
いつの間にか碧さんが隣にいた。ボクがここについてから間もないのに。後ろからは誰もついてきていなかった。
碧さんは、最初からここにいた。きっと、ボクがここに来ることが分かっていたんだと思う。
「あゆちゃん。答えは、決まった?」
「答え?それより、どうして碧さんがここにいるの?」
「あゆちゃんをつけて来た、じゃなくて、あゆちゃんを先回りしてた、が正しいね。そろそろ、決めなきゃいけない時期だと思ったから」
「そう、なんだ。でも、それって、碧さんには関係ない話なんじゃないの?」
「一緒に暮らしてたんだから、少しは関係あるよ」
今日の碧さん、やけに食らい付いて来る。どうしたんだろ?何でそんなに必死になってるんだろう。今のボクには、全然理解できない。
「もう一度聴く。このまま、いや、昔を忘れてここで生きるのか。ここでのことを夢だと思って、元に戻るか。さあ、選んで」
どこからか、碧さんが大きな槍を取り出し、ボクの左胸に突きつけた。殺意はないのは分かる。
元に戻ると言うことは、ボクはもう一度死ぬって言うことなんだ。また、あの痛みを体験するって事なんだ。
でも、ボクは、ここにいたくない。あの痛みを感じてでも、ここから離れたかった。この樹を見たとき、そう、決心したはずだった。
「どうして、碧さんはボクのことにこんなにこだわるの?」
「こだわる?どうして私があゆちゃんのことにこだわらなければいけないの?理由がないじゃん」
「さっきと言ってること違うよ。ボクの答えを聴きたいって言ってた。少なくとも、全くこだわってないってわけじゃない」
「それは言葉のあや。一緒に暮らしてたから、同居人のことだから、理由も分からなく消えてもらいたくなかったから。これでいい?」
「質問を変えるよ。どうして、ボクにこんなに嘘つくの?」
「嘘?私が何時、どんな嘘をついたの?」
「今。同居人だからボクの答えを気になっているわけじゃないって事」
「……なくていいよ」
「それと、あの本の著者のこと」
「知らなくていいよ。あゆは」
碧さんの態度が明らかに変わった。ボクは、きっと核心をついたんだ。碧さんにとって、一番触れてほしくない部分だったと思う。
「あゆは何も知らなくていいんだよ!さあ選んで!すべて夢に消してしまいたいって!」
胸に突きつけられた槍を、喉に持ってくる。ボクに強制してくる。ここに残ることを、選んでほしくないみたい。
どうして選んで欲しくないんだろう?選んで欲しくない、って、ああ、そういうことなんだ。これが答えなんだ。
「自分と同じ道を歩んで欲しくない。そうなんでしょ、碧さん?」
「そうよ。あの本を書いたのも私だよ。そうだよ!私みたいに辛い思いを目の前の人にして欲しくないからだよ!それで、もう分かったでしょ」
「分からないよ。だって言ってくれないんだもん。どうして、ボクに嘘ついたの?」
「…………」
ボクはどうしても知りたかった。何で嘘をつく必要があったのか。どうして、わざわざ自分を傷つけるような真似をするのか?
今のボクなら、きっとそんなことしないと思う。普通なら、自分が傷つくだけの選択肢を選ぶはずがない。
「嫌いだよ。あゆのその無駄に回る頭が。どうして聞いて欲しくないことばっかり聞くのよ」
「だって、聞かなきゃボク、すごく後悔しそうなんだもん。戻るって事は、もう、碧さんに会えないってことだから」
「いいよ。私の事なんて気にしなくて。あゆのしたいことだけすれば。それに、戻ったらすぐに死んじゃうでしょ。だから、私の事だってすぐ忘れちゃうよ」
「それでも、それでも教えて欲しいんだよ。お願い。教えて」
「……世の中には60億近くの人がいるんだから、その中から二人が会うなんてゼロに近い確率。頭のいいあゆには、これで全部分かっちゃうよね」
「……うん。分かっちゃった。碧さんも、やっぱり普通の人だったんだって」
「…………」
「ずるかったんだ。ちょっとの希望に、すがりつきたかったんだね」
「私はこれから年も取らない。でも、周りは誰もそれを不思議に思わない。一定の周期で、私は忘れられるから。だから、 同じ境遇のあゆなら、あゆなら私と一緒に入れるかもしれない。そんな希望を持っちゃったんだよ!あゆに私と同じ辛さを味会わせるって知っておきながら。卑怯だよ。私、すっごい卑怯だよ」
「卑怯じゃないよ。誰でもそう思う……」
「卑怯だよ!だって、こうやってわざわざ話して、あゆの選択肢を狭めて、それに、どっちを選んでも辛くさせるんだよ。それのどこが卑怯じゃないって言うの!」
「…………」
ボクは何も言い返せなかった。ボクには、分からない。碧さんは、何時からこの世界にいるんだろう?どれだけ、独りという世界にいたんだろう?
誰とも知り合うことも出来ない。友達は絶対に作れない。作ったとしても、そのうち忘れられる。その辛さは、この世界に来たときに感じたはず。
そんな辛さを、一体どれくらい味わってきたんだろう?それが、ボクには分からない。たかだか一回しか味わってないボクには……
「だから、言ってよ。元の世界に戻りたいって。一言でいいんだよ。たったの一言じゃん。それで楽に慣れるんだよ」
「言えないよ。ボクには、ボクには言えないよ!」
「なら、言いたくなるまで痛めつけようか!どれだけやれば、どれだけやればあゆは私を嫌いになるんだよ!」
「どんなに痛めつけられてもならないよ。絶対に、碧さんを嫌いになんてなれない」
「じゃあ、どうすれば、どうすれば言ってくれるの?」
「ボクは、選ぶよ。このまま、この世界で生きる。ずっと、碧さんと一緒にいる。例え、どんなに辛く、痛いことがあってもいい。ずっと、一緒にいてあげる」
「なんで?何でこっちを選ぶの?どうして元の世界に帰りたいって言ってくれなかったの?」
「ボクは、昔の思い出よりも碧さんと一緒にいる方を取っただけ。碧さんは、今、ボクの中で一番なんだよ。一番のものを取るのが、普通なんでしょ?」
「独りってことがどんなに辛いか分からないから言えるんだよ、そんな事」
「それでも、それでもボクは……」
次を言おうとしたとき、碧さんの槍が、ボクの眼の前に見えた。ボクは、怯えてしまった。
碧さんが、すごく怖かった。人相手に感じた恐怖の中では、一番だった。
「あゆは一人になったことが無いからわからないんだよ。だから簡単にそんなことが言えるんだよ。本当に独りを感じたなら、絶対に今みたいなことは言えない。言えないよ。言える筈が無い。言えるわけ無いじゃん」
槍が複数の緑色の光球となって消えていく。綺麗だったけど、今はその光景に見とれている暇は無かった。
「すぐに分かるよ。独りがどんなに辛いか。元の世界の方が、どんなに良いか」
それだけ言うと、碧さんはボクに背を向けて歩き始めた。1歩、2歩。3歩目を踏み出そうとした瞬間、碧さんは消えた。
ボクの認知できる範囲からは、完全に消えていた。
ボクは、しばらくそこに座っていた。いや、ただ、立てなかっただけ。座っていたなんてただの言い訳。
何も出来なかった。決断することが出来なかった。簡単に揺れてしまった。ボクは、碧さんの望みどおり、帰るつもりだったのに……
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