第五章 で、結局どうにかなるかも。
きっと月桂樹の木陰で わたしを思い泣いているでしょう
わたしの思い出を星の姿のうちにまさぐっていることでしょう
(エミリオ・バジャガス『ノクターンとエレジィ』)
祐一が帰宅すると、玄関にしばらく前から見慣れている靴があった。男物のランニングシューズ。その横にある名雪のスニーカーと一緒に、祐一はきれいに並べて置いておく。こういうところにはしっかりしている名雪には珍しく、脱ぎ捨てられたままになっていた。
十二月、すでに雪が降る季節になっている。寒がりの祐一は羽織っていた外套を脱ぎ、裾や肩や袖にこびりついていた雪をはたき落とした。靴を脱いで、廊下を歩く。足の裏から冷気が伝わってくる。
叔母の秋子は買い物に行っているようだった。台所にも今にもその姿は見えない。部屋にこもるような人ではないので、屋内にはいないのだという結論を下した。
階段を上がってすぐのところにある名雪の部屋に向かって声をかけようとしたが、何やら中の良さそうな話し声が聞こえてきたため、帰ったことを示すためにわざとらしく足音を軋ませるにとどまった。隣にある自室のノブに触れる。それも床のようにつめたい。名雪の部屋のように、布でカバーをつけておいた方がいいのだろうかと考え、すぐに首を振った。もうあと何ヶ月もいないのだ。余計なことはしない方がいい。
部屋に入った祐一は外套をハンガーにかける。そしてベッドに腰を下ろして、かぶっていたニットの帽子を床に投げつけた。
北川潤は悩んでいた。受験生とはいえ、息抜きは必要である。そのため駅前のレンタルビデオ店にいたのだが、大恩ある担任教師の教えを守るか否か、思い悩んでいた。つまり以下の戒律の内の十一番目についてである。
一、ヤハウェが唯一の神であること
二、偶像を作ってはならないこと
三、神の名をいたずらに取り上げてはならないこと
四、安息日を守ること
五、父母を敬うこと
六、殺人をしてはいけないこと
七、姦淫をしてはいけないこと
八、盗んではいけないこと
九、偽証してはいけないこと
十、隣人の家をむさぼってはいけないこと
十一、アダルトビデオを借りるときは魂を込めてただ一本を選ぶこと
魂を込めて選び出した一本に問題があるから悩んでいるのである。
『糞食決算』。
まさかあるとは思わなかったのだった。
自他共に認める『無類のおもしろい題名エロビデオ好き』である北川にとっては借りなければならぬ一本であるように思えてしまうのだった。その一方で、このジャンルのビデオを借りることは、越えてはならぬ一線を越えてしまうことになるのである。もちろん北川に糞尿を食う食わないの趣味はない。しかし大恩ある師、石橋の戒めは守らなければならない。
「ええい、ままよ」
北川はビデオテープ本体をパッケージの中から抜いて、AVコーナーを出た。その出入り口は暖簾で隠されているのだが、そこから飛び出した瞬間に他の客とぶつかった。二人とも尻餅をついてしまう。
「痛ててて」
北川が尻をさすりながら立ち上がる。目の前で倒れている客は女性で、見覚えのある髪型をしていた。
「……美坂?」
「痛い……って北川くん?」
クラスメイトの美坂香里だった。北川は反射的にまずいと思い、手に持ったビデオテープを後ろ手に隠した……隠そうとした。しかし、できなかった。彼の手の中にビデオテープはなかったのである。
「あ……あれ?」
きょろきょろとあたりの床に目を動かすと、香里の手が触れるか触れないかの位置にテープが落ちていた。
「あ!」
北川は思わず指差してしまう。それが間違いだった。当然のように香里の目線は指先の延長線上にあるビデオテープに向かう。香里は納得したように「北川くんも借りに来てたんだ」と言いながら、テープを摘み上げる。ラベルに目がいく。そこには当然のように『糞食決算』と書かれている。
北川は頭を抱えた。
香里は最初は意味がわからなかったのだった。性の知識がないわけではないが、マニアックな部分まで踏み込んだことは一度もなかった。
北川とてそれは同じである。面白い題名だからネタのために、という部分もあったのである。しかし香里の瞳には、そうは映らない。いつかの授業中に北川がつぶやいた言葉、「ああ、うんこ食いてえ」が鮮やかに蘇り、思わずビデオを放り投げた。
「いや、美坂、おい美坂、違うんだこれは美坂」
「……変態」
香里はそのまま店を駆け出していった。あとに残されたのは『糞食決算』と北川潤だけだった。
時間の流れが感じられなくなるほど速くなってしまったのはいつからだっただろうか。栞は勉強机に頬杖をついて、目覚まし時計の文字盤を睨んでいた。
祐一の一方的で身勝手な別れの言葉を耳にして逃げ出してから、すでに二ヶ月、年が変わろうとしていた。あの日以降、二人っきりであったのは一度もない。すでに周囲も空気の変化に気づいていて、破局したのだといううわさが一通り駆け巡り、今は小康状態になっている。
私はどうすればいいのだろうか。栞は今でも祐一を好いている。しかし、この街を出ると宣言した祐一と恋人同士でいるためには遠距離恋愛になってしまう。今までの日々を振り返るに、二人が遠距離恋愛を成立できるほど成熟した人格を持っていないことは一目瞭然だった。だからといって、栞が高校を中退して祐一に着いていき、東京で同棲するという案ははっきりいって現実味がない。それを見越して、祐一は別れようと言ったのだろう。
愛が全ての障害に打ち勝つなんて嘘っぱちだ。以前はハラハラドキドキしながら見ていた恋愛ドラマが今ではひどく色あせている。夢の中にいられたなら、そう考えるときがたまにあるが、それが恐ろしい考えなのだと最近では思い始めていた。
「栞、入るよ」
香里の声がした。栞がうんと答える間もなく、香里はドアを開ける。
「どうしたの?」
「あたし、北川くんのことが信じきれない」
「え? どうして?」
「だって、あんな変なビデオを」
「ビデオ? お姉ちゃん、エッチなビデオなんて男の子は皆見るんだよ」
「皆? あんなのを?」
「え? うん。そうだよ。男の子はああいうのが大好きなの」
「あれを? あれが大好きなの?」
「……うん。どうしたの?」
栞はいささかあきれていた。実の姉とはいえ、ここまで男子高校生の煩悩に無知であるとは思っていなかった。
「皆見るんだよ。一緒に見る彼氏彼女もいるくらいだし」
「え! 一緒に?」
香里はめまいを覚え、倒れそうになる。
「一緒には無理よ。北川くん、一緒には無理……でも、うん。がんばる」
うわごとのように繰り返す。
香里は栞のベッドに背中を預け、栞もその隣に座る。そして姉妹揃って、大きな大きなため息を吐き出した。それから顔を見合わせて、笑う。
「どうしたの? 相沢くんのこと?」
「うん」
「まだ好きなんでしょ?」
「……うん」
「でも、どうしたらいいかわかんないんだ」
「うん」
「駆け落ちしちゃえば?」
「え?」
「着いてっちゃえばいいじゃない」
「祐一さんに?」
「うん」
「そこまですれば、相沢くんの性格上、絶対断れないと思うけど」
「そうかもしれないけど、でも……」
栞は下を向き、敷かれている淡い桃色のカーペットの毛をいじくり始める。
「あたしも変になっちゃったかな。でも、あれなのよね、相沢くんもまだあんたのことが好きなんだと思う。もしかしたらそうするのを待っているのかも」
「祐一さんが?」
小さい声。
「でも……」
「ま、あんたの自由だけど。人生は長いし。まだ若いんだから」
香里は額を栞の額にくっつけて、冗談めかして言う。
「ひどい言い方かもしれないけど、栞、あんたあのとき死んでたかもしれないんだから、今さらできないことなんてないでしょ?」
「え?」
そしてにっこりと笑った。
最近はずいぶんと表情が丸くなってきたというのがもっぱらの評判だった。栞は目を見開く。吸い込まれそうな瞳だった。姉のこんな表情を見るのは初めてかもしれなかった。
香里は立ち上がって、部屋を出ようとし、足を止めた。そして振り向かずに「ま、お母さんたち説得するって言うんなら、手伝うけど」と言い残して出て行った。
栞は髪の毛をいじりながら、思索にふけった。そしてベッドに仰向けになり、壁にピンで留めている自分と祐一のスナップ写真に目をやった。まだ終わらせたくないなあと強く思った。
「もしもし?」
「北川くん?」
「お、美坂か。どうだった? 栞ちゃんに言った?」
「うん、今さっき」
「どうだろうね。動くかな」
「さあね、あたしに言えるのはここまでだから」
「ああ。悪いな。でも見てらんねえんだ、相沢と栞ちゃんのこと」
「あたしも。ほんとお互い、不器用っていうか何ていうか」
自分のことを棚にあげるとはこのことだった。香里も北川も自分のことになるとてんでだめであるのに、妹や親友のこととなると、やたら活発になるのだった。もちろん、それは間違ったことではなく、彼らが俗に言う『いいヤツ』である証拠なのだけれど。
「ところで北川くん」
「はい、何でしょうか」
声のトーンが明らかに変化したのを聞き、北川は態度を改める。香里と付き合っているうちに、意地になるべきところと引き下がるべきところの差がはっきりとわかるようになっていた。
「昼間の、ビデオ屋のことなんだけど、」
「ビデオ……あ! いや、美坂、違うんだ! あれは本当に誤解で……」
「見るよ」
「誤解なんだって……え?」
「あたし北川くんがどうしてもって言うんなら、見るよ」
「え? お前何を言って……え……?」
「うん。じゃ、また明日に」
さすがに恥ずかしくなって切ってしまう香里だったが、受話器を握り締めたまま立ち尽くしている北川は放心状態だった。五分はそのままの姿勢でいた。やがて呟く。
「美坂って、そういう趣味があるのか?」
一方の香里はその夜なかなか寝付けなかった。ああ言ってしまった以上は見なくてはならぬだろうが、果たしてみていることが自分にはできるのだろうか。来るべき日を想像するにつれ、逃れられぬ自分の運命を呪うようになった。堂々巡りの嗜好を繰り返していると、いつの間にやら空は暁色になっていた。
年は明け、日々は過ぎる。栞も祐一も自分からは何も言い出せず、ただすれ違うだけの日々を過ごし、やがて祐一はいったん受験のために東京へ行ってしまう。ついでになるのだが、北川と香里も結局どちらからも言い出せず、アダルトビデオ鑑賞の日はやって来ていない。
迷いというのは迷っているうちが花である。栞の沈鬱だった表情が明るくなり始めたのは二月に入ってからのことで、香里はああ決心してしまったのだなと確信した。最近は、栞はインターネットに熱中していて、家に帰るなりどこかのウェブサイトを閲覧していた。あえて香里は栞には何も言わず、両親にも一切口外していなかった。
きっと驚くに違いない。しかし両親は栞には甘いし、どうにかなるだろう。香里はそう考えていた。嫁入り前の娘が同棲など冗談も休み休み言えと怒鳴り出しそうな父親であるから説得は難しいかもしれぬと思っていたが、栞は十六歳、結婚できるのである。生活はできないかもしれないが、結婚はできる。それを盾に攻めようと香里は考えていた。
どうしてここまで栞をサポートしようとしているのだろうか。自問の果てに出た回答はたった一つ、栞への償い、それだけ。もちろんただのわがままなら許さない。しかしこれは栞の人生におけるターニングポイントになり得るものであり、栞の選択が間違っているとは思えなかったのだった。それに二人並んで歩いている姿はとても様になっていた。香里は北川と自分もそうなれればいいなとも思っている。
もう決めたんだ。これから私は自分の人生を自分で選んで、ああ辛いなあって思ってしまっても、それでも自分で決めたことの責任を取るんだ。
栞はある夜、そう決心する。これから栞は両親に全てを告白する。反対されるのも、叱られるのも、怒鳴られるのも、全て想定していた。それでも切り開かなくてはならない道なのだ。そう思っていた。祐一さんのためでもあるのだと自分を奮い立たせる。このまま祐一さんがこの街を去ったら、きっと二度と戻らないだろう。修学旅行とはわけが違うのだから。頬を軽く叩いて、がんばれ、私、がんばれと力強く頷く。
そしてリビングでくつろいでいる両親と姉の前で、栞は震える口を開いた。
祐一にとっては、合格通知を受け取ってからの卒業式までの日々は長くて短いものだった。入学の手続きはもちろん、住む部屋を探したり、引越しの手配をしたり、アパートの周辺の地理を覚えたりと、課題が山積みだったのだった。だからあっという間に式の日が来て、過ぎ去り、この街を去る日がやってきた。朝早く、彼は駅の待合室にいた。椅子に座り、鞄に手をかけている。秋子さんと名雪にだけは言っていたが、他には誰にも伝えていなかった。寂しく、悲しい別れになると思ったからだ。
時計を見る。若干早かったようで、電車が来るまではもう少しかかりそうだった。退屈をしのぐものは何一つ持っていなかった。ため息をつく。そこへ「相沢!」と、声がかかる。
いきなりのことにびくんと肩を震わせた祐一はとっさに駅舎の入り口を見る。すると北川の姿が見えた。北川だけではない。名雪と斎藤、そして香里。
「相沢、お前、オレたちに黙って行くとはいい度胸だ」
と、北川は祐一の胸倉を掴んで、にやっと笑う。
「寂しくなるなあ」、斎藤が言う、「遊びに来いよ」
「ああ」
祐一は頷く。
「ところでオレたちから贈り物があるんだが、受け取ってくれるか?」
「いらないなんて、言っちゃダメだよ祐一」
北川と名雪の言葉を怪訝に思う祐一であったが、すぐに言葉を失った。
彼らの後ろに隠れるようにして、栞が立っていたのだ。
「え、何で」
「来ちゃいました」
「だって、俺とお前は」
「いいんです。私も東京へ行きます。高校は辞めます」
「は? え? マジで?」
「私の夢は祐一さんのお嫁さんになることなんです。だから専門学校で料理を学びます。そう言ったら、どうにか許して貰えました。まあ許して貰えなくても、そうするつもりでしたけど」
「マジかよ。いいのかよ、俺なんかで」
「はい。もちろんです」
「そっか」
「今日は一緒に行けませんけど、四月からお世話になります。病気のことは問題ありません。推薦状書いてもらうことになってますから」
その言葉を聞いて、祐一はげらげら笑い出す。狂ったのかと思ってしまうくらいの笑いようだった。
「どうしたんですか?」
「いや、何か色々うじうじ考えてた自分が阿呆らしくなっちゃって。そうか、最初っからそうすりゃ良かったんだな。最低だ、お前を信じてなかった俺は」
「そうですよ。別れるなんておかしな話ですよ。私はこうしてまた夢を見られるんですから。もう少し私を信じてください」
「夢、そうだな。ははははは。ああ、何ていい夢なんだちくしょう」
祐一は荷物を足元に落とし、栞を抱きしめる。何ヶ月ぶりかの彼女の肉体は柔らかく暖かく、これが夢などではないのだと実感できる。栞も祐一も涙を流しそうになるが、再会するまでにそれは取っておこうと耳打ちをする。だから鼻をすすって、涙は我慢する。
「おい、相沢。公衆の面前、公衆の面前」
「え? あ、そっか」
と、祐一と栞はぱっと離れるが、名残惜しそうにしている。
北川はにやにやしっ放しで、名雪はうんうんと頷いているし、香里に至っては娘の嫁入りを見ている親のようだった。
「何だよお前ら、皆グルかよ。ギリギリまで隠すなよな」
「何言ってんだ。たまにはお前をハメてみたくなったの」
照れ隠しのような笑顔でやりあう二人。そこにどこかに行っていた斎藤が戻ってくる。手にはカメラがあって、通行人を一人連れてきていた。
「ここをこう押していただければ。すいませんね何か、お忙しいところを」
「ああ、いいよいいよ」
気さくなおっさんだった。
「何? 何するの?」
と、祐一が北川に訊ねると、「記念写真。オレたちの門出を祝して」と答えた。
そして祐一と栞を中心に、全員が並ぶ。
北川と斎藤は前でしゃがみ、名雪と香里は祐一と栞のそれぞれ隣に立つ。
彼らに掛け声もピースも必要なかった。ただ一緒にいるだけで、笑ってしまうからだ。
そして二度三度とシャッターが押される。彼らのこの瞬間が切り取られる。楽しかったことも苦しかったことも全てがこの瞬間に詰まっているように祐一には思えるのだった。斎藤が頭を下げながらカメラを取りに行き、おっさんは「君たち、これからも仲良くな」などと軽口を叩く。
そして電車が駅に入ってくる轟音が聞こえた。
「相沢、この写真、お前の分は現像して栞ちゃんに渡すから」
「ああ、よろしく頼むぜ」
祐一は斎藤、次いで北川とひしと抱き合う。名雪と香里には「じゃあ、元気で」と声をかけ、栞には「待ってるからな」と笑いかける。そして鞄を担いで、改札を抜けた。
重かった足取りが嘘のようだった。最後に一度だけ振り返り、手を振った。もはや悲しくも寂しくもなかった。この街は彼にとっては確かな思い出の地となり、友たちが暮らす、彼にとっても大切な街になっていた。きっと今度この電車で再びこの街を訪れるときは、隣に彼女の姿があるのだろう。
そう思いながら、彼は電車に乗り込んだ。
(了)
感想
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