第四章 お前を呪っちゃうかもしれない。


will you still miss me , when i’m gone?
is there love there , even when i’m wrong?

will you still kiss me , if you find out?
i will now leave you.
don’t follow me around.


 自室のベッドで仰向けになったキミには視界がため息で濁っていくように感じられている。
 避けられているような気がする。
 夏休みが終わる日、学業に本格的に復帰したキミは入退院を繰り返していたために今まではやり遂げたことのなかった夏休みの宿題を机の上に重ね、ベッドにその身を委ねている。
 避けられていると感じるのはきっと錯覚だ。キミはわかっている。恋人である祐一くんは受験生であり、受験に備えた勉強をするための時間が必要なのだ。それは理解している。
 しかし、それだけではない気がしている。
 何かが、違う気がしている。

 小さな喫茶店で、キミと祐一くんは向かい合って座っている。祐一くんはアイスコーヒーの入ったグラスに刺さったストローを手のひらで弄んでいる。キミの前には紅茶が置かれている。カップルや友達同士が至るところで会話に花を咲かせているが、二人に挟まれているテーブルを中心にした半径二メートルはそこだけが切り抜かれたように静まり返っている。時折、祐一くんの手にあるグラスの氷がからんからんと音を立て、虚空に吸い込まれる。
 キミが着ている服は先日姉と連れ立って数駅先のデパートへ赴いたときに購入したものだ。祐一くんに褒められるかからかわれるかを期待していたのだけれど、反応は全くない。風向きが明らかに変わっている。キミは単語帳をぺらぺらとめくりながらストローを吸う祐一くんを眺めながら、自分が何かするか言うかしたのだろうかと自問する。しかし答えは出ない。見に覚えは全くない。
 浮かない顔をした祐一くんを見ているのはおもしろくないとキミは思う。


「相沢君が?」
「うん」
「さあ。あんたが知らないことをあたしが知ってるわけないでしょ」
 勉強についていけていないキミはお姉ちゃんの香里さんによる補講を受けている。それはいつだって、夕方か夜にキミの部屋で行われる。
「だって、栞の方が一緒にいる時間長いんだから」
「でも、お姉ちゃんは同じクラスでしょ? だから」
「同じクラスって言っても、いつもと同じに見えるけど。名雪をからかって、北川君と馬鹿をして」
「北川さん……」
「何よ?」
「うん、別に」
「何も変わってないように見えるけどね。あ、斎藤君が別のクラスになったか」
「斎藤さん」
「何よ?」
「名雪さんとどうなのかな」
「え?」
 香里さんは虚を突かれたように瞳を大きくする。
「いい雰囲気だって聞いたから。で、お姉ちゃんはどうなの?」
「何がよ」
「北川さんと」
「くだらないこと言ってないで、続き続き。また留年してもいいの?」
「え? それは嫌だよ」
「だったら、しっかりやりなさい」
「う、うん」
 香里さんは気にしている。キミが明らかに空元気であることを。それは体調のせいではなく、精神的なものが原因だということをわかっている。
 相沢祐一。キミに気づかれないように、香里さんは唇を動かす。
 一方、キミの手の動きは止まっている。上の空で、集中力のかけらもない。


 翌日の朝、キミはトイレにうずくまっている。お腹が痛いのだ。しっかりと定期的に来るようになった月経の痛み。以前は慢性的な生理不順で、遅れとその逆を交互に繰り返していたのだけれど、今では反対に完全に規則正しくなっている。しかし鈍い痛みは以前よりもはっきりとキミの下腹部を貫いている。たまに我慢できなくなって、倒れそうになる。しかしどうにか耐えなければならないのだと意地になる。
 弱みを見せないという一点のみにおいて、キミはひどく強情になる。それは香里さんの前でも祐一くんの前でもそうなのだけれど、それが逆に仇になっていることにキミは気づいていない。
 青白い顔をしたキミを見て、香里さんは驚いたように言う。
「ちょっと、大丈夫なの?」
「え? うん。平気」
「そう? 平気には見えないけど。調子悪かったらちゃんと言いなさいよ」
「わかってるよ! うるさいな!」
 あ、とキミは口を開く。怒鳴るつもりはなかったのに、と後悔をしてももう遅い。香里さんもお母さんもお父さんも怪訝な顔でキミを見ている。キミは香里さんに耳打ちをする。「お腹痛くて」。香里さんはそれで事情を了解する。
 しかし、キミのもやもやは決して晴れない。些細なことで苛立っている気がする。どうしてなのだろうとキミは考える。それはうまくいっていない自分への苛立ちなのだろうか。
 キミが祐一くんといったん別れて手術に望んだとき、もしも全てが治ったのなら、何もかもがうまくいくだろうと思っていたのだけれど、実際は思い通りにならない現実ばかりが目の前に転がっていて、自分がどれだけ世間知らずであったのかを今、まざまざと見せつけられている。生きるというのはそんなに甘くないということなのだろう。キミは自嘲する、私は何を夢見てたんだろう。


 キミと祐一くんは図書館でお互いのノートをにらんでいる。図書館で勉強しなくちゃならないんだと言う祐一くんにキミは無理矢理着いていき、ちゃっかり隣の椅子に座っている。
 いつかの喫茶店とは違い、キミたちがまとっている沈黙は場の空気にそぐわないものではない。むしろしっかりと調和をしている。重苦しいくらいの空気はキミの呼吸を乱す。
 どちらかといえば、キミの方が熱心に勉強をしていて、祐一くんは落ち着かない様子で周りを気にしている。誰か知り合いでも来ることになっていたのかなとキミは考えるが、閉館時間になるまでいても、結局誰も来ない。それは九月の日曜日、図書館は午後五時で閉館となる日、九月の十一日。
 キミは後になって思い返すことになる。この日が決定的な変化を生んだ日であった、と。


「耐えられないんだ」
 祐一くんはキミにそう言う。キミはその夜そんな夢を見る。
これは正夢になるのだろうと不思議と確信する。
「耐えられないんだ」
 何に耐えられないのかをわかっていれば、なだらかに崩れていくキミたちの繋がりも少しは粘り気を生じさせていたのかもしれない。でもキミは気づけなかった。
 夢の中で、祐一くんはひどく苦しそうな顔をしているのだけれど、キミは、キミ自身が感じている苦しさと対峙するので精一杯で、とその事実に気づかない。


 キミは教室の窓から校庭を見下ろしている。体育の授業で、三年生の男子がマラソンをしている。校庭のトラックをのろのろと延々走り続けている。祐一くんは一番遅れたグループにいて、北川くんにちょっかいをだしている。楽しそうな顔に汗が光っている。
 あんな笑顔を私はもうずっと見ていない、キミはそう思う


 自分の何が負担になっているというのだろう、自分の何がいけないというのだろう、キミはそのような悩みを抱えて日々を過ごす。答えはない。ストレスばかりが溜まり、十月のある日、キミは風邪をひいて学校を休む。
 いつもお弁当を作って持っていっているキミは、祐一くんはこういう日はどうしているのだろうかと布団の中で考える。それから期待もする。見舞いに来てはくれないだろうか、と。
 しかしいくら待っても祐一くんは来ない。深い眠りにつく前に、枕に染みができていることにキミは気づく。舐めてみると、わずかにしょっぱい。キミはわっと泣き出して、しかし唇を噛んで嗚咽を抑える。唇が切れそうになるくらいに強く噛んでいるうちに、「栞の唇って、何か和菓子の皮みたいだよな」という恋人の言葉が思い出され、キミは全身から力を抜いて、ただしゃくり上げる。
 病に臥しているときだって、こんなにも辛いことはなかった、そう感じる。
 なまじ目の前にいるものだから、その遠さがひどく悲しい。


「今日は一人?」
 喫茶店のウエイトレスにそう声をかけられる。考えてみれば、いつも誰かと一緒、強いていえば、キミはいつも祐一くんと一緒にこの店を訪れている。
「珍しいね」
 ウエイトレスはアルバイトで、エプロンの下に見えた制服から判断するに、同じ高校だろう。キミはメニューを見て、「これをください」と指差す。
「はい。カフェオレね。ねえ、相沢君は?」
「え?」
「やだなあ、いつも一緒じゃない。今日はどうしたの?」
「あの、どうして知ってるんですか?」
「だって、有名人じゃん。美坂栞さんでしょ?」
「え、あ、はい。あの……祐一さんは、今日は忙しくて」
「あ、そうなんだ」
「はい」
 悪意があるようには見えない。ただ暇を持て余していただけのようだ。実際、店内はがらんとしている。キミは出されたカフェオレに口をつけ、甘みが広がるのを待つ。
しかしいつまで経っても甘みは感じられず、逆に半身の不在を否応なしに実感させられてしまう。他愛もないおしゃべりが、今はひどく恋しい。


 ただ倦怠期と表現してしまえばそれまでなのだけれど、根っこは実際はもっと深いところにあり、キミ一人の力ではどうにもならないことを知ったのは北川くんと学校帰りにばったりと会ったからだ。
「栞ちゃん、ずばり温泉に誘うべきだ。相沢言ってたぜ。『遠いところに行きてえよ。誰も俺たちを知らないような、そんな遠いところに』って」と北川くんは言ったのだけれど、その言葉でキミはようやく事態の真相に見当をつける。


 ゴールデンウィークくらいまではそうでもなかったなあとキミは感傷に浸る。自室の勉強机に足をかけ、付属の椅子を傾けている。何かが決定的に変わってしまったのはあのときだったのだろうか。
 それは違う気がする。
 再開した三月は二人の関係が密接なもので、お互いが文字通りの半身であると実感できていたと記憶している。四月になり、三年生と一年生という関係になってからもそれなりに悪くなかったはずだ。しかし四月も半ばを過ぎてからだっただろうか、余所余所しさを感じ始めてしまったのは。そしてゴールデンウィークを挟み、五月。四月下旬に感じていた二人の間のくぼ地はその存在を決定的なものとしていて、今となってはお堀が二人を隔てているようにも感じる。
 それでも周囲には気づかれていないようだ。当初の熱気が冷めただけで、精神的なところで繋がっているのだと。しかしキミはそうは思っていない。もう終わってしまったのだと考え、そう考える自分を悲しんでいる。
 もはやキミには想像することしかできないのだ。そして思い出を洗い直すこと。しかし記憶の海で溺れているのは気分はいいが、非生産的で、蟻地獄に飲み込まれるようなものだ。今のキミは、終わりの季節の予感に怯えるばかりで、ゆっくりとした、しかし決定的な変化と向かい合うことができなくなっている。
 本来なら、キミは祐一くんと面と向かって話すべきなのだ。キミは彼の恋人で、全てを知る権利を持っている。しかしキミは彼の口からある言葉を告げられるのを恐れている。それはもう確信に近い恐怖だ。
 その恐怖は病を退治するための手術に望んだあの冬の孤独よりもはるかに大きい。


 朝、目覚めたけれど部屋でぼんやりと窓の外を眺めていたキミの耳の香里さんの声が届く。
「栞、電話。相沢くんから」
 当然といえば当然の行動も、今のキミには青天の霹靂としてしか映らない。不安なままでいさせて。そう願っていたくらいなのだけれど、電話には出ないといけない。関係がぷつんと切れてしまうことになったとしても。
「もしもし」
 部屋を出て、階段を下りた先に電話はある。香里さんが「ほら、相沢くんから」と受話器を渡す。キミは家鳴りや廊下の軋みにさえかき消されてしまいそうな声で「もしもし」と言う。
「もしもし? 栞か」
「うん」
「あの、その……何だ、話があるんだけど、出てこれないか」
 雑音に聞こえる。しかしキミは頷く。
「うん」
「じゃあ、うん、そうだな……あ、迎えに行くよ」
「うん」
 電話線の向こうで受話器が置かれる。「もしもし」と「うん」しか言ってなかったな、とキミは思い返す。キミは洗面所へ行く。鏡に映った自分の顔をじっと見つめる。すこしやつれてきたかなと苦笑する。


 キミは祐一くんの後ろを歩く。その背中が、この日はひどく小さく見える。少々猫背になっているのかもしれない。不思議と、音が消えている。キミの耳に届いているのは自分自身の心音だけ。
 祐一くんとキミが辿り着いたのはものみの丘と呼ばれているところで、きつね色に染められた草原の風が秋風にそよいでいる。祐一くんは豊かな草の上に腰を下ろす。キミも真似をして、隣に座る。手に触れたり、肩に頭を預けたり、見つめあうようなことはない。キミは体育座りで手元の草をぶちんと抜いては、風に葉っぱの死骸を渡す。
 しばらく、何もしない、何も言わない時間が流れる。以前はすこぶる気持ちのいい時間だったが、今は緊張で息が詰まりそうなくらいに重苦しく、鈍い時間だ。栞は泣きそうになってしまうが、涙を流すのはきっとあと数分先なのだろうというひどく客観的な視点も持っている。
 それはせめてあと数分だけでも恋人でいさせてほしいというはかなげな願いを多分に含んだものなのだけれど、祐一くんはキミの気持ちを全く考えないで立ち上がり、口を開く。震えた声。
 その言葉がぶつ切りになっている。キミは初めて祐一くんも辛かったのだとはっきりと理解する。そして自分の気持ちしか考えていなかった自分を恥ずかしく思い、顔を伏せる。しかしその行為は祐一くんの目には違った意味を持ったものとして映る。それはつまり別れの予感が確信に変化したという事実。
「俺たち、この街ですごい有名人じゃんか」
「どこ行っても、声かけられてさ」
「それが辛いんだよ」
「俺も栞も普通の高校生だろ」
「なのに、何でそうなっちゃうのかなって」
「だんだん、本当にきつくなっちゃってさ」
「ごめんな、栞は悪くないんだ」
「俺は今でもお前のことが好きだよ」
「でもだめなんだ。ここじゃだめなんだ」
「卒業したら東京に帰る。もう決めたんだ」
「栞はあと二年はこの街にいるわけだろ」
「だから、別れよう。それがいいと思うんだ」
 俯いたままの祐一くんの声は本当に震えている。それは風が揺らしているのか、彼自身が揺らしているのか。両方なのだろうとキミは思う。
 沈黙の時間はひどく重い。祐一くんは顔を上げて、キミを見つめる。
 キミは顔をそらしそうになる。
 風が吹いて、キミの髪をなでる。ひどく優しく思えて、怒鳴ってしまいそうになる。
「もう嫌なんだ」
 キミは答えない。
「耐えられないんだ」
 キミは唇をかみ締めている。そして決死の覚悟で言う。
「祐一さん」
「私、前、言いましたよね」
「『今、自分が誰かの夢の中にいるって、考えたことはないですか?』って」
「でもそうじゃないんですよね」
「夢を見てたのは私たちの方なんですよ、きっと」
 祐一くんは背を向けたまま、答える。
「ああ……そうだな」
「でしょ? 夢って都合いいですから」
「ああ」
 先ほどからキミは恋人からの刃のような言葉を必死で飲み込もうとしていたのだけれど、その小さな身体ではいよいよこらえきれなくなり、立ち上がってきびすを返して走り出す。
 祐一くんに追いかけるような気力はなく、がっくりと崩れ落ちて、両膝を地面に沈める。そのまま倒れて、ぐるりと回り、空を見上げる。
 真っ青な秋空の下、つがいの赤とんぼが稲穂にとまっている。



will you still miss me , when i’m gone?
is there love there , even when i’m wrong?

will you still kiss me , if you find out?
i will now leave you and i will miss you.

(MOGWAI - R U still in 2 it?)


(この章、了)



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