第三章 ポルノをめぐる冒険。
女体の神秘を見てみたいと初めて心底思ったのは小学校高学年の頃で、道端に落ちていたエロ本の黒消しの向こう側を布団の中で想像して勃起した夜に精通が来た。黒い墨の向こうに広がっているのは桃源郷そのものに違いない。当時のぼくはそう考えていた。
しかしそう簡単に目にできるものではない。例えばうちは花屋なのだけれど、訪れるお客様に「ちょいとお客人、パンツを脱いでいただけませんか」などと口にすれば、店を畳まなくてはならなくなる。ではどうすればいいのか。答えは簡単で、しかも二つある。恋人とことに及ぶ、もしくは風俗へ行く。しかしぼくは高校生なのだから、おそらく風俗は無理だ。入れてくれないし、金もない。いや、金はきっとどうにかなるが、ほぼ間違いなく入店を断られるだろう。
恋人を作るというのは魅力的な選択肢だが、現実味という観点においては非常に困難であると答えざるをえない。例えば友人の相沢祐一などは下級生の美坂栞ちゃんと、彼女は同級生だった美坂香里さんの妹なのだけれど、付き合っているのだが、まだことには及んでいないらしい。「不抜けめ!」と罵るのは簡単だ。しかし美坂栞ちゃんが大病を患っていたのは周知の事実であり、相沢がそれを慮って性欲を押さえつけ……いや、コントロールしているというのも情けなくもありかっこよくもある。
というようなことをぼくは友人の北川と話していたのだった。新学期になっていた。ぼくは北川や相沢とは違い、理系コースを選択していたから、クラスは別々になってしまっていた。まだびっこをひいているけれど、怪我から一ヶ月が過ぎて、通学程度なら問題なくこなせるくらいにまで回復していた。先生の話では、再びサッカーを始めるまではまだ長い長いリハビリをこなさなければならないらしい。階段から落ちた際の傷が大したことなかったのはよかったのだけれど。
「風俗はな」
「だよね」
「絶対怒られるし、バレたらマジやばくね?」
「だね」
北川もぼくも購買で買った菓子パンを食っていた。うまくもまずくもない、味気ないパンだ。いっそまずいくらいのほうが笑いを取れる、なんて考えるのは邪道か。
背中を屋上の柵に預けていたぼくたちは大きなため息を同じタイミングで吐き出した。悩みの種を知らない人が見たら、受験か恋か将来か、そんな思春期的な悩みを吐露しあっているように見えたに違いない。しかし実際は違う。女性器を見るにはどうすればいいのかを話し合っていたのだった。
そしてそのハードルはすさまじく高いものであるように思われていたのだけれど、数ヶ月前に転向してきたばかりの相沢が放った一言で、ぼくたちの近い将来の行動は決まった。相沢は一人立ち上がって、柵に両手を乗せて、遠くを見ていた。一見かっこよく見えるのだけれど、考えていることはおおむね僕らと一緒なのでちっともかっこよくない。
「お前らよ、今時女子のマングースくらい見れるだろ、簡単に」
「どうやって?」
ぼくたちは声を合わせて、相沢に問う。
「いや、何だろう、インターネットとか?」
語尾上げをするところを見ると、相沢もよくわかっていないようだった。
「馬鹿だなあ」
北川が笑いながら言う。
「オレたちにITは無縁の存在だぜ。なあ、斎藤」
「そうだよ。それに、もう、なんか、プレステって何? って感じだし」
「そうそう。この街はツインファミコンで止まってるんだ」
「相沢はどうなの?」、ぼくは試しに聞いてみた、「インターネット的なあれがあるわけ?」
「馬鹿だなあ、俺は東京の人間だぞ。何かあれだろ、WWWなわけだろ、ネットワークコマンダー的な」
だめだこりゃ、と思った。
ぼくたち同様相沢もIT革命によるエロの恩恵を受けていない古い人間であるとすぐにわかった。ぼくたちが顔を見合わせてにやにやするものだから、きっと悔しかったのだろう、相沢はぐっと背を伸ばして声を張り上げた。
「だったら、だったら、お前ら、そんなにオナゴのマングースが見たいなら、買いに行けばいいじゃない!」
相沢はマリー・アントワネットみたいだった。
「どこに? 何を?」
聞き返した北川に相沢は胸を張って答えた。
「歌舞伎町さ! 裏ビデオさ!」
しばし思案した北川が目を見開いて咆哮した。真似をして相沢も吼えた。原哲夫みたいだった。ぼくも叫んだ。たまたま屋上へ到る階段に面している廊下を通りかかった教師に取り押さえられて説教を食らった。
しかしそんなことはもうどうでもよかった。胸も股間もどきどきわくわくむらむらむくむく膨らんでいた。
かくして、ぼくたちはゴールデンウィークの休日を東京旅行にあてることを決めたのである。
しかし金がないのだった。バイトをしている北川はいいとして、仕送りをもらっている上に居候先の水瀬さんのお母さんから小遣いをもらい、それをしこたまため込んでいる相沢も腹立たしいがまあいいとして、ぼくは金がないのでバイトをしなければならないのだけれど、この足では職種が限られてしまう。
短期に稼げる、会場設営のような力仕事系がまず駄目だ。土方も無理だ。交通整理やコンサートの警備員みたいな立ちっぱなし系も不可。ぼくは駅前でもらったフリーペーパーとにらめっこを続けていた。電車で数駅ほどの範囲内でのアルバイト募集を掲載しているぺらっぺらの冊子だ。都会などではもっと分厚くなり、ごっそりクーポンが付いてくるらしい、相沢に聞いた。
その冊子を放り投げて、ぼくは敷きっぱなしの布団に寝転んだ。どうすりゃいいんだ。ぼくは試しに二人の反応を想像してみる。
「何だ、金ないのか」
「じゃあしょうがないな」
「だよな」
「じゃ俺たちだけで行きましょう、北川さん」
「そうそうさっさと行きましょう、相沢さん」
「わはははははは」
「わはははははは」
嫌だ。嫌過ぎる。置いていかれたくない。ぼくは東京に行ったことがない。正確に言えば、通ったことしかない。このチャンスは東京見物も兼ねているのだ。上野、浅草、神楽坂。受験を控えている以上、夏休みは動けない。今しかない、そんな思いを抱えている。背水の陣だ。加えて、女子のマングースだ。マングースだ。
マングース!
心の中で一つ叫んで、ぼくは不貞寝を決め込んだ。
「それで君あれか、金をせびりに来たわけか」
「せびりにって久瀬ちゃん、そうじゃないよ。貸してくれって話だよ」
ぼくは久瀬の部屋にいた。でかい家のわりに、コンパクトにまとめられた部屋だ。
「同じだろ」
「違うよ。返すもん。せびりにきたら、それもう返す気ないだろ」
「まあ、どっちいいけど」
「頼む! 貸してくれ!」
「で、いくらあればいいんだ」
「何か、それ政治家みたいなだ。『いくらあればいいんだ』って」
「うるさい。茶化すな」
顔を真っ赤にして怒る。久瀬は、普段はしかめっ面なのだけれど、ぼくといるときくらいはいつも子供みたいになる。
小学校のとき、ぼくと久瀬は教室で前後の位置にいた。『く』と『さ』の間に、他に誰もいなかったのだ。どういう奴かよくわからなかったので、とりあえず後ろから軽く手のひらで叩いてみたのだった。そしたらむきにになって殴りかかってきて、大喧嘩になった。
ぼくもむきになった。冗談のつもりだったのにという不満があった。実に子供らしい理由だ。拳骨で久瀬の顔面を殴ると鼻血が出た。一方、ぼくは突き飛ばされて、柱に顔をぶつけて、瞼を切った。血が出た。まだ幼かったから、血まみれになったお互いを見つめあって、おっかなくなった。きっと久瀬もそうだった。殴り合いが終わったところで、ぼくたちは教師に取り押さえられた。
今でこそ久瀬は冷静沈着、悪くいえば陰険に見えるが、根底の部分では何も変わっていない。要するに、すぐにむきになる。そういえば三学期、生徒会関係で三年の先輩とひと悶着あって久瀬が逃げ出したという話があったけれど、きっとそれは正解だったのだ。久瀬がむきになって食ってかかっていたら、もうそれこそ笑えない事態になっていたに違いない。
「お前は子供だなあ」
「斎藤、お前に言われたくないよ」
「悪いけど、俺は一足先に大人の階段を上るよ。東京で」
「……何が言いたいんだ、お前は」
「じゃ、今日は帰ろうかな」
「……ちょっと待て。金借りに来ただけかよ」
「悪いね。いや、ちゃんと返すから」
口約束ではあったが、ぼくはその日は帰ることにした。いくら久瀬でも、常に二万も三万も持っているわけではないのだ。
心なしか、足が軽かった。必死の思いで集めたニューウェルスやロサリオ・セントラルのレプリカシャツを売る羽目にならなくて、本当に良かった。久瀬には迷惑をかけてしまうけれど、阿呆くさい青春のひとこまになってくれればいいと心底思っている。
……無理だな。
そしてゴールデンウィークは訪れる。ことの次第を決めてから、ぼくたちの股間は膨らみっぱなしだった。何せ、そう、女体の神秘を見られるのだから!
二泊三日。相沢の鶴の一声でそう決まった。何でも、向こうの知り合いに顔を見せたいらしい。まあ、当然のことだと思う。一泊二日だとスケジュールがきつきつになってしまうので、二泊三日にしたのだと言う。それをぼくと北川は昼飯を食っているときに聞かされて、北川が「相沢、お前本当は向こうに彼女いるんじゃねえの」と茶化した。すると相沢の弁当をいつも作っている健気な栞ちゃんが無言で相沢をどこかへ連れて行った。
ぼくたちは各々の昼飯を食っていた。相沢は戻ってこなかった。北川の話によると、というのもこの高校では受験にあわせて文系コースと理系コースにわかれ、理系コースを選択したぼくは北川や相沢と別のクラスになってしまったから実際は見ていないのだけれど、相沢は午後の授業にひどくくたびれたなりで現れたらしい。いちいちベタなカップルだ。
しかし二泊は夜行バスの中で過ごすのだから、一泊二日みたいなものなのだろう。予算を少しでも安く抑える必要があったために電車ではない方がいいだろうという判断だった。東京での一泊は相沢に委ねている。ぼくも北川も東京に行くのは初めてなのだから、詳しい相沢に一任するのが妥当だろう。
胃袋に納まった昼飯がぼくの睡魔を呼び寄せていた。このまま眠ってしまって、少し先の未来の夢を見たいと思った。しかし眠ってばかりもいられない現実が確かに存在していて、ぼくは板書とにらめっこを続けた。
夜行バスが出ている駅までは普通に鈍行で向かった。修学旅行のときとは違い、ぼくたちは大きな鞄など持っていなかった。相沢なんか、手ぶらだった。ちょっとコンビニ、みたいな格好をしていた。
しかしそれにも理由があったのだという。そもそも相沢は待ち合わせの時間にやって来なかった。
「遅い」
北川が憤慨していた。まだ五分くらいしか過ぎていないのだけれど、北川の気持ちはすでに東京、ないしは裏ビデオに鷲&ß25681;みにされているようだった。最近、オレのちんすこうは一日二十四時間のうち二十時間は食べごろで困るとこぼしていた。
その裏ビデオへ一直線に向かっている気持ちが折れそうになっている。ああ、折れそうになっているのは股間も一緒か。さっきから前屈みで行ったり来たりしていた。
「遅い」
「まあ、来るでしょ。時間は余裕持ってるから大丈夫だし」
「馬鹿野郎。そういう問題じゃねえんだ。まったくよお、東京を何だと思ってんだ!」
日本の首都だろ、とは言えなかった。
まもなく相沢は姿を現したのだけれど、ぼくたちは度肝を抜かれた。一人ではなかった。栞ちゃんがいた。二人は肩で息をしていて、見ようによっては一ラウンド終えてきたばかりであるようにも思えた。
北川がすぐに相沢を引っ張っていき、ぼくは栞ちゃんとその場に残された。栞ちゃんは腹を立てているような、しかし寂しげな顔をしていた。そもそも腹を割って話したことなどなく、どう話しかければいいのかよくわからなかった。
「佐藤さん」
「……いや、斎藤なんだけど」
「斎藤さん」
「何?」
「私も一緒に行っていいですか?」
ときが止まった。ように思えた。
一緒に行く、東京に、歌舞伎町に、裏ビデオ屋に。
それはだめだ。だめだよ。そう思った。
どこに行くのも栞ちゃんの自由だけれど、裏ビデオ屋は男と一緒に行くような場所ではない。行ったことがないから実際に店の中がどうなっているのかはわからないのだけれど、レンタルビデオ店のアダルトコーナーのように、まれにカップルがいたりする、そんな空間であるようには思えなかった。
「だめだよ」
「どうしてですか? 斎木さん」
「いや、斎藤だから」
「斎藤さん、私も旅行くらい行きたいです」
「でもさ」
「平気です。自分の体調のことなら自分が一番良くわかっていますから」
どう断っていいのかわからなくなった。栞ちゃんの気持ちは理解できるからだった。
しかし、断らなければならないのだった。そもそも目的は旅行じゃない。買い物だ。
「栞ちゃんだめだよ」
「どうして?」
「だから、その」
「男と男の旅行だからだ!」
北川だった。背筋をぴんと張った北川が明朗快活な良く通る声でそう宣言していた。その斜め後ろで相沢が申し訳なさそうな顔をしている。
「男と男?」
「そうだ。オレたちは互いの親睦を深めるために東京に行くんだ」
確かに裏ビデオを買った三人の間には共犯関係が生まれるかもしれない。
「でも……」
「男だけなんだ、どんな馬鹿やるかわかんない。危険だぜ」
確かに下手したら警察に厄介になる。危険だ。
「なあ、栞頼むよ。行かせてくれよ」
「行かせたくないです」
「頼むよ。もう我慢できねえんだ」
「我慢してください。私のために」
相沢はきっとホームシック的なものを言っているのだろうけれど、非常に卑猥な会話に聞こえた。
「栞ちゃん。オレからも頼む」
と言った北川がぼくに合図を送ってくる。
「栞ちゃん。俺からも」
「栞、俺からも」
三人で栞ちゃんに頭を下げる。異様な光景だった。夜だから、この街の夜は都会と違って早いから人通りは昼間よりは少ないのだけれど、少しはましだった。真昼間ではなくて本当に良かった。
栞ちゃんは絶句して立ち尽くしている。
裏ビデオを買うための旅行だと知ったら、絶句どころか倒れて死んでいるかもしれない。
「すまん栞!」
相沢が改札の方へ駆け出す。無言の北川がそれに続く。ぼくも後を追おうと思ったのだけれど、動かない栞ちゃんがどうしても気になってしまった。少しだけ近寄って、声をかける。
「栞ちゃん、あのね」
「サイモンさん」
「……いや斎藤なんだけど。ていうか、誰? ドラクエ3? ガーファンクル?」
「斎藤さん。祐一さんに伝えといてください」
「あ、ああ、うん」
栞ちゃんは大きく息を吸い込んで、「大っ嫌いだあ!」と叫んだ。
ぼくはいきなりのことに驚いて尻餅をついてしまい、「うわあ、ごめん、ごめんなさい」などと口走りながらすぐに立ち上がって駆け出した。
ちょうど電車が来ていたので、ぼくは急いで駆け込んだ。隣の車両に相沢と北川がいた。
「栞なんか言ってたか」
しゃがみこんでいる相沢が言う。
さっきの絶叫は、電車が入ってくる際の轟音にかき消されていたようだった。
「いや、別に」
「そうか。ああ、そっか。よかったあ」
表情が完全に緩んでいた。
数日後に確実に訪れるであろう、愛の修羅場を相沢は知らない。
駅から駅へ、電車はぼくたちを運んだ。ここで夜行バスに乗る。何しろ初めてのことなので、少し緊張している。相沢と北川はどうなのだろうか。
「なあ、相沢」
「どうした、北川」
「前の席にさ、中島美嘉と宮崎あおいが座ってたらどうする?」
「いや……ねえよ」
「いたらの話だよ。中島美嘉と宮崎あおいじゃなくてもさ、高島美嘉と宮原あおいとか」
「誰だよ。AV女優か?」
「何でもいいけど、前の席の人が『はいはいナナでーす』とか携帯で話してたらどうするかって話だよ」
「何もしねえよ。俺ナナじゃねえもん。きっかけねえじゃん」
「じゃ、ほら『はいはい祐一でーす』って前の座席の人がさ」
「それ男じゃねえかよ! やだよ、何だよ、それ」
「あ、そっか」
全然緊張していないようだった。
バスの座席は二列と二列の計四列になっていた。ぼくと相沢が隣同士で、北川は一つ前の列の座席になった。バスとは言っても、思いの他広く、快適だった。隣の相沢は窓の外を見ている。修学旅行のときもよくそうしていた。そういうときの相沢は何となく話しかけづらい。ぼくは前の席の北川の髪の毛を引っ張ろうとしたのだけれど、北川はすでに眠ってしまっていた。首都東京までしばしの骨休めといったところか。
「なあ、斎藤」
「え?」
相沢は窓の外を眺めながら、続ける。
「いいところだよな」
「え? 何が?」
「いや、わかんねえけど、何となく」
「えー、うん、まあ、そうなんじゃない?」
「栞泣いてたか?」
「え? 栞ちゃん? 泣いてはいなかったよ」
悲しそうな顔はしていたし、怒ってもいたけれど。
「そっか。ま、しょうがねえか」
それっきり、相沢は黙りこくってしまった。よく見たら、いつの間にか寝入っていた。ぼくは持ってきた文庫本を取り出して、一時間ほど読んでいた。寝付けなかったのだ。しかし文字を追っているうちに、瞼が重くなってきていた。腕時計で確認すると、午前一時。七時くらいに到着すると以前目を通した冊子には書かれていた。もちろんバスだから、渋滞による遅延はあるのだろうけれど、きっとそれくらいの時間に到着するはずだ。ぼくも寝ようと思い、ひざの上においておいた帽子を深くかぶった。
渋谷だった。京王線渋谷駅近辺で降車したぼくたちは、そのままJR渋谷駅のハチ公前改札にやってきていた。まだ朝だというのに、かなりの人がいる。しかし彼らはきっと声から家に帰る人たちなのだろう。
「どうだ、北川、斎藤。ここが東京だ。えー、では、ご感想を」
ぼくと北川は顔を見合わせる。何か叫びたい気分だった。
「ベッチョしてっか!」
「ベッチョしてっか!」
二人が同じ言葉を叫んだのは偶然だったのか必然だったのか、今でも結論は下せていない。ちょっとした奇跡だったのだけれど、道行く人に白い目で見られた。きっと奇声に対してのものに違いない。
「お前ら、着いてそうそうそれかよ……」
相沢の顔は引きつっていた。
「いやいや相沢さん、この北川、かなり興奮してますよ。さあ、買いに行きましょう」
「え?」
「いやだなあ、目当てのブツですよ。ほら、早く」
「馬鹿、お前、馬鹿。まだ店開いてねえだろ」
「え? そうなの?」
「知らないよ。知らないけどさ、お前、朝の七時から開いてる店って、それコンビニだろ」
「あ、そっか」
「それに、俺には予定があるんだから」
「え?」
「え?」
なぜか目が泳ぐぼくと北川。相沢は伸びをしながら、あっさりとこう言ってのけた。
「言ってなかったっけ? 友達と会うって」
「言ってない言ってない。なあ、斎藤」
「聞いてない聞いてない。なあ、北川」
「あ、悪ぃ。でも、まあ、そういうことだから。ちょっと実家行ってくるわ」
「えー」
「でも、相沢。オレたちは?」
「お前さ、ガキじゃねえんだから、うろうろしてろよ。夕方くらいに戻るからさ。メシ食うだけだし」
「でもオレ怖いよ。コンクリートジャングルだよコンクリートジャングルだよ」
「大丈夫。斎藤がいる」
「えー。まじっすか。俺、頼っても意味なくないっすか。こう見えても、ほら、けが人ですよけが人ですよ」
「大丈夫、そっち交番あるだろ。困ったときは頼れ。そうだな、五時だな、夕方の五時にまたここで会おう」
と、相沢は手を振りながら歩き去ろうとする。
ぼくは前から抱いていた疑問を思い出し、口にする。
「相沢、お前の実家ってどこなの?」
立ち止まった相沢は振り返り、へらへら笑いながら答える
「純情商店街」
見知らぬ土地に残されてしまったぼくと北川は何となくため息をつく。今のところ、認識しているものは忠犬ハチ公の像だけなのだ。ぼくはその頭を撫でてみる。冷たかった。この冷たさが何となく東京を感じさせる。冬の雪がぼくにあの街を思い出させるように。
「どうする」
しゃがみこんでいる北川がぼくを見上げている。
「どうするって言われてもね」
「とりあえずさ」
「うん」
「何か食わねえか?」
「ああ、いいね」
何か食うといっても、早朝で店はほとんど開いていなかった。結局偶然見つけた松屋に入った。入る前にふと見上げた向こうにPARCOの五文字が見え、ぼくたちは興奮してしまう。
「北川、あれがパルコだべやな」
「え? あ、あれか。あれがポルコ」
「パルコ」
「パルコか。あとで行ってみよう」
単に松屋と言っても、地元の駅近辺には松屋がないので、ちょっと遠出したときでないと食べられない。かすかに覚えている味とはまた違ったものであるように思えた。
ぼくはものの数分で平らげてしまい、隣でずるずると味噌汁をすすっている北川に話しかける。
「どうするよ、これから」
「いや、ここにいるしかねえだろう。お前下手に動いて帰って来れなくなったら最悪だぜ」
「だよな、『お前らどこ行ってたんだよ』、『え? ちょっと西日暮里』とか行ったら、キレるぜ相沢」
味噌汁の椀を置いた北川がふううと息を吐いた。
ぼくは腕時計を見る。まだ八時にもなっていない。ここにいるといっても、百貨店の類はまだ開いていないし、どこで時間を潰していいのかもわからない。確実に言えるのは、松屋は時間を潰す店としては不適当であるということだ。
「何か怖いしさあ」
「うん」
「どっかでだべってるのがよくねえか?」
「うん。そうだね」
決まりだった。こういうとき、男子だけだと話は早い。
とりあえず頭がまだしゃきっとしていなかったので、コーヒーでも飲むかという話になり、タリーズなりエクセルシオールなりを探すことになった。
しかしまずはパルコだった。開いていなくとも、見ておきたかった。たくさんあったのでどれが本物のパルコなのかわからなかった。
その中のあるパルコの脇にあった狭い坂を下って、しばらく適当にぶらついていた。朝の匂いがした。オールで遊んだ若者たちの残り香なのかもしれない。
ひどく場違いであるように感じられてしまったのだけれど、そんなことはお構いなしに歩く北川の背中は大きく見えた。この行動力は単純に尊敬する。物怖じをしない男だ。
「あっちが文化村通りだな、たぶん」
きっとそうなのだろう。
そう思ってしまうに十分な説得力が北川の言葉にはあった。いや、根拠はないのだけれど。
ドトールがあったので、ぼくたちはそこに入った。店内はそれなりに混んでいた。コーヒーだけ頼んで、適当な席に座る。正直、自分が何を頼んだのか、憶えていない。コーヒーってあんなに種類あったんだ、さすが東京と驚いていた。
「北川」
「何だよ」
「俺さ、東京初めてなんだよ」
「オレもだ」
「不安だったんだけど」
「ああ」
「結構そうでもないな」
「そうか?」
「でも、夜になって人が増えたら、たぶん怖いんだろうな」
「だな……って熱っ!」
コーヒーに一口飲んだ北川が舌を出していた。火傷をしたのだろう。北川は猫舌なのだ。
「熱いな、これ」
「ゆっくり飲みなよ。時間はあるんだから」
ぼくも口をつける。
「熱っ!」
火傷した。
で、町が動き始める午前十時頃、ぼくたちはドトールを出た。
通りの姿が一変しているように思えた。制服姿の女の子が闊歩し、彼女たちはおそらくぼくよりも年下の中学生くらいなのだろうけれど、ひどく大人びて見える。あの制服や化粧は一種の武装なのかもしれない。
ぼくたちはさまようように渋谷の町を歩いた。目的はない。いや、ある。あるにはあるが、まだ機は熟していない。ゴールデンウィークだけあって、人手は普段よりもはるかに多いようだった。
「北川」
「何だ?」
「今、かなり圧倒されてる。これが渋谷か」
「これが渋谷さ」
人の波だった。ぼくたちは109というらしい建物の向かいに立っていたのだけれど、人の往来はまるで祭りの行列だった。その一方で地べたに座って煙草を吸っていたり、携帯の画面を覗き込んでいたり、化粧をしていたりする若者たちの姿もある。いや、ぼくたちもじゅうぶん若者なのだけれど。
人ごみになれないものだから、空いていそうな映画館に逃げ込んだのだけれど、空いているだけあって退屈極まりない映画だった。映画館自体はぼくたちの街にあるものと大差ないように思えたが、「ミニシアターって言うんだろ、これ」という北川の一言に愕然とした。なるほど、いわゆる単館系の映画館だったのか。
ABCマートという実にオープンな靴屋に入ったら、ひっきりなしに声をかけられて、疲労困憊だった。これじゃ、落ち着いて選べないじゃないか。店を出てからそうこぼすと、「客ば逃がさねえようにしでるんだろ。食らいづいで離さねえわげよ」という北川の説明があった。北川はひどくネイティブになっていた。
「昼飯ば何にするがっでのが問題だべや」
「北川は何か食いでえもんでもあるんけ?」
「いんや、特にねえげどもよ、うめえラーメン屋でもねえがなっで話さ」
「でも、何がどごにあんのがわがらねえべや」
「んだな。まあ何だがよ、ひでえ疲れだべ」
「んだんだ、この人込みばどうにがしでえよ。おっそろすい」
結局昼飯はラーメン屋で済ませた。太い麺の塩ラーメンだった。食券を買い、カウンター席に座るだけの動作にぼくたちは緊張を隠しきれず、北川はお冷を出してくれた店員に「あ、いや、すまんね」などと言い、失笑を買っていた。しかしラーメンはうまかった。すこぶるうまかった。しかもご飯は只だった。得した気分になった。
ブックファーストという大きな本屋に入った。本屋が五階だの六階だのまであるということのぼくたちはカルチャーショックを隠しきれない。でかすぎる。エスカレーターに乗った。ていうか、本屋の中にエスカレーターがあるという状態が理解できなかった。最終的に本屋ではないのだという結論にぼくたちは達した。
あれは本屋じゃない。本屋っぽい百貨店だ。たぶん売っているものも本っぽいブランドものなのだろう。
夕方になっていた。日が傾いていた。ぼくたちは相沢が戻ってくる前に忠義の名犬ハチ公の元へ馳せ参じていようと思っていたのだけれど、途中でプリクラがひしめきあっているゲーセンを目にした。
ひしめきあっているとかゲーセンとかそういう問題ではなくて、もうプリクラしかなかった。プリクラのメッカらしかった。女子高生や女子中学生はここに向かって毎日頭を下げているのだろうかと考え馬鹿らしくなった。
まあ記念に、という気楽な考えで中に入った。
「このクズどもが」
「すいません」
「すいません」
相沢の怒りは頂点に達しているようだった。
「貴様ら、人様に迷惑になるようなことをするなってあれほど言っただろうが!」
「でもよお相沢、オレたちプリクラをあれしようとしただけなんだ」
「知らなかったんだよ。プリクラのメッカに入っただけで捕まるなんて……」
「うるさいうるさいうるさい! 黙れ黙れ!」
相沢はだんと足を踏んだ。お前はどこの神主なんだと思った。
「お前ら何をしたかわかってんのか? あ?」
「いや……だから」
「ていうか、何のそっと座ってんだよ。立て! この野郎! お立ちなさい! いますぐ外へ行って、十字路に立ち、ひざまずいて、あなたがけがした大地に接吻しなさい! それから世界中の人々に対して、四方に向かっておじぎをして、大声で<私が殺しました!>と」
「待てよ、何の話だよ!」
「オレたちそんなひどいことしたのか?」
「まあまあ、相沢くんだっけ、この子たちも悪気があってしたわけじゃないんだから」
「しかしマッポ、いやお巡りさん。罪は罪、償い必要が」
「いや、相沢くん、君が来るまで、二人はおびえていたんだよ。とんでもないことをしたんじゃないかって」
「とんでもないことをしたんですよ。軽犯罪でも犯罪は犯罪だ」
相沢はたんと軽くテーブルを叩く。渋谷駅前交番の中に、ぼくたちはいた。
「悪意があって入ったんじゃないんだから、まあ、君が来るまでここで待たせておいただけだから」
「じゃあ和久さん」
「和久さんじゃない。田淵だ」
「田淵さん。許してくれるって言うんですか?」
ぼくたちは丸椅子に座っている。相沢は立ったままだ。両手のこぶしを握り締めている。
「許すも何も、別に悪いことをしたわけではないんだから、いいんだよ」
そういうお巡りさんに、相沢は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます!」
「ところで君たち、ずいぶん遠いところから来たんだね。帰り大丈夫?」
「いやあ、夜行なんで」
「へえ、珍しい。買い物」
「はい、裏ビ……」
ぼくの口を相沢が手でふさぐ。
「え? うら?」
「いや、あれです」
相沢が言う。
「ウラディミール・カラモフ・ショストゥワコーヴィッチっていう友達がいて、ちょっとだけ交換留学生であれで、東京に来るっていうから」
「あ、そうなんだ。最近の若者たちはグローバルだね」
「え? あ、まあそうですね。はははは」
もう笑ってごまかすしかなかった。
七時くらいになっていた。渋谷で腹ごしらえをしてから、いよいよ歌舞伎町に乗り込む手はずになっていた。しかし相沢が案内しようと思っていた店はラーメン屋で、昼にラーメンを食ったぼくたちからブーイングが出たものだから、別の店を探しているのだ。
もうマクドナルドでいいやという結論に達し、ぼくたちは揃ってエビフィレオを食べた。欲を出せば、エビちゃんと一緒にエビフィレオを食べたかった。エビちゃんというのはもちろん海老沢勝二ではなく蛯原友里なのだけれど、もちろんエビちゃんがマクドナルド文化村通り店で素人のぼくたちとエビフィレオを食べるわけがなく、ましてや海老沢勝二なんてもっての外なのだった。
食い終わって、マクドナルドを出た。いよいよ歌舞伎町だとぼくたちは襟を正す。この冒険のクライマックスがすぐ目の前にある。隣で北川が生唾を飲み込んだ。
「あ、そうだ」
「え?」
「ドンキ寄っていい?」
「何で?」
「耳栓買いたいんだよ。帰りもバスも長いからな」
ドンキホーテは北川と一緒に昼間も行った。圧縮陳列の利点はぼくにはちっともわからず、閉口しっ放しだった。そう言うと、「俺もわかんねえよ。何がいいんだろうな」と相沢は言った。
しかしマクドナルド文化村通り店を出たところで、北川のエロセンサーがある看板を発見する。
「なあ。相沢」
「何だよ」
「あれって……」
北川が指差す先には『DVD8枚10000円』と書かれていて、相沢は「あ」と絶句する。ぼくたちが目指していたものが、こんなにもすぐ近くにあるなんて思いもしなかった。
北川のエロサーチエンジンの手柄だった。ぼくたちはいっせいにごくんと喉を鳴らした。『DVD8枚10000円』。甘美な響きだ。その建物は■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■。
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■■■■■■■■■■■■■、■■■■■紙袋を持って渋谷駅へ向かう。ぼくたちは歌舞伎町へ行かずして目的を終えていた。
興奮と恐れを抱いていた。もしも職務質問でもされたら。無修正で高校生なのだ。しかし深夜徘徊を取り締まっているはずの警官はぼくたちには興味を示さない。着いたときと同じ、頭上に井の頭線のホームがある建物の下にぼくたちは立つ。もうすぐバスが来る。それに乗り込んで、一眠りして朝が来れば、ぼくたちのゴールデンウィークは終わってしまう。
バスに乗り込む。何のアクシデントもなく、町並みが遠ざかる。ぼくはここが故郷から遠く離れた都市であるのだと何故だか実感してしまう。離れすぎているといっても過言ではなく、別世界と表現しても差し支えない。
ぼくが訪れたのは渋谷だけだったのだけれど、他の地域でもやはりそのような思いを抱いたのだろうか。例えば下北沢、吉祥寺、高円寺、中野、日暮里、西日暮里、東日暮里……いや東日暮里はないか。
座席の位置は往路と全く同じだった。最初は元気に会話を交わしていた。他の乗客にとっては迷惑以外の何者でもなかったのだろうけれど、若者たちのくだらない青春の一こまとして見逃してやってほしい。
「北川は香里と付き合ったら絶対尻にしかれると思うんだよ」
「あー、そうだね」
「そうか? そうでもないよ」
「いーや、お前のちんすこうは香里のマングースにぱっくり食われるに違いない」
「そうだね。北川じゃ美坂のマンドリンは弾きこなせないよ」
「うるせーよ。どうでもいいだろそんなこと。ていうか、何で相沢そんな元気なんだよ」
「プレッシャーがねえんだよ」
「何だそれ、意味わかんねえよ!」
例えばこんな会話。
きっとこの冒険が終わってしまえば、ぼくたちが一生懸命ばかをする機会もなくなってしまうのだろう。ぼくたちはそれを本能的に理解していたのだと思う。
ここから先の日々は今までとは決定的に変わっているだろう。大人になるとはきっとそういうことなのだ。無責任に阿呆な冗談を繰り返していた生活はいつかは終わる。その終わりはなだらかに訪れるのかもしれないが、確実に、目にわかるような形で訪れるのだろう。
だからこそぼくはこの夜行バスにちょっとしたハプニングを期待していた。そうすれば、ぼくたちの時間はもう少しだけ長くなる。明日の朝には駅についてしまうけれど、それが一時間でも二時間でも伸びればいい。そう考えていた。
しかし現実は滞りなく、ほぼ定刻に到着する。
「着いたな」
相沢がそう言った。
その言葉は何の解決にもならないのだけれど、ぼくたちの思いはきっと一緒に違いない。
急いで帰ろう!
秘密の花園がぼくたちを待っている。
別れの挨拶もほどほどにそれぞれの岐路に着いたぼくたちはきっと慌てて走って帰ったに違いない。少なくともぼくはそうだった。店先にいる、数日ぶりに見る母の顔を素通りし、ぼくは自室に急ぐ。
荷物を置き、茶封筒のような包みを取り出し、DVDをデッキに……。
…………
…………
…………
…………ってDVDプレーヤー持ってないよ!
(この章、了)
※一部自主規制のため黒塗りにせざるをえなかったことをここでお詫びします。
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