昼休み直前だった。
北川潤は凡庸で退屈な授業を続ける石橋を冷たい視線を投げかけていた。一コマ分の授業内容は明らかに終わっていて、本筋とは関係ない話を延々と続けていたからだった。石橋の半生などに興味はない。早く終われ早く終われいーから早く終われという呪詛を送っていたのだけれど、全く役に立っていなかった。
クラスメイトたちも退屈を弄んでいた。堂々と話している輩もいた。石橋は全く気にしていない。授業の本題は終わってしまっていたからである。石橋自身も時間を持て余していたのだった
他にも原因はあった。腹が減っていたのである。実に空腹だった。
加えて、腹痛がしていた。下品な話になるが、多少下痢気味なのである。
全くもって奇妙だった。何かを食いたいと思う一方で、何かを出したいと思っている。取り込みたいという欲求と排泄したいという欲求が同時進行で北川を苛んでいる。そして彼はこう呟いた。
「ああ、うんこ食いてえ」
その瞬間、時間が凍りついた。黒板の上の掛け時計すら、一瞬病身を止めたくらいだった。
「北川……」
「北川君……」
「北川君……」
相沢祐一、美坂香里、水瀬名雪だけではなく、周囲のクラスメイトも北川の顔を見たまま、動きを止めていた。
北川の名誉のために言っておくが、彼は別にうんこを食べたかったわけではなかった。彼の心の内にあった「ああ、何か食いてえ」と「ああ、うんこしてえ」の二つの衝動がたまたまひとつの言葉になってしまっただけの話である。
しかし周囲の皆はそんな事情など知らない。北川がうんこを食いたがっている。誰もがそう捉えていた。中には「誰の? 誰のうんこ? 誰のうんこを食いたがっているんだ?」と考える者もいたが、概ね、みんな凍りついていた。
「あ、いや、違うんだ。違うんだ美坂」
「へ? あ、あたしは、い、嫌よ」
「いや、そうじゃなくて」
そのとき、チャイムが鳴って、昼休みに突入し、廊下からざわめきが飛び込んでくる。
「だから、その……うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
獣のような咆哮を上げ、北川は教室を飛び出した。
若者たち。
第二章 バカは死んでも、やっぱり治らない。
今ここで、泣くには、僕は若すぎる
(GOING STEADY - TOO YOUNG TO KRY)
水瀬名雪が放課後の部活動に姿を見せなくなってからしばらく経つ。陸上部部長という立場の人間がそう簡単に職務放棄をしていいのかという疑問が生じるのは当然の話だが、彼女は同学年の現副部長、および次期部長、次期副部長に作成した練習メニュー等を引き継いでいるので、練習自体には問題はなかった。彼女の行動を問題視する者もいなかった。部員はもちろん顧問さえも、致し方ないだろうという判断を下していたのだった。ある雪の夜に、彼女の母秋子は車にはねられた。
はねられたとはいっても、命は無事だった。ただ今まで通りの生活に戻るためにはリハビリが必要で、娘名雪はそれを手伝っているのだった。秋子が若く見えるとはいえ、高校生の娘がいる母親である。十代二十代の青年とは怪我の治癒にも何にでも時間がかかってしまう。すでに退院して、通院という形でリハビリを続けている。行きは無理だが、帰りはいつも名雪と一緒に帰っている。
一人っ子で、母子家庭で育った名雪にとって、母親は絶対的なものであったが、その認識は事故を境に変わった。事故前、彼女の中では唯一絶対のものとされていたのだけれど、事故後は完璧な母親とはいっても結局はただの人間に過ぎないという考えを持つようになっていた。しかしそれは矮小化ではない。彼女の思考には続きがある。完璧な母親とはいっても結局はただの人間に過ぎない、だからこそ助けなければならない、これからは甘えてばかりいないで母娘として助け合うべきなのだ。
だから名雪は、少なくともリハビリ通院の頻度がもっと少なくなるまでは母親を手伝おうと考えている。リハビリ関係はもちろん、炊事洗濯においてもである。
「わたし、修学旅行行きたくないよ。お母さん心配だもん」
「名雪、私は大丈夫だから行ってきなさい。あなたが行かないと、祐一さんとか香里ちゃんとか皆が心配しちゃうわよ」
「でも、二泊三日だよ」
「大丈夫だから。それにまだ入院しているんだから、間違いは起こらないでしょ」
「うー」
彼女が修学旅行へ行くか行かぬかを考えていた頃はまだ秋子は入院中だった。もしも退院していたのなら、名雪はかたくなに拒んだだろう。しかし病院の中にいるのだから大丈夫という秋子の言葉は説得力に満ちていた。秋子としては、自分のことで部活動だけでなく修学旅行という高校生活における大きなイベントを捨てて欲しくないという気持ちがあった。だから彼女もかたくなな態度をとった。そして結果的に何事もなかったのだから、お互いの選択は間違っていなかったのだろう。
今、四月になりクラスが新しくなった。名雪、香里、祐一、北川の四人は同じクラスになれたが、斎藤は別になってしまった。斎藤だけは理系コースを選択したのでしょうがないのかもしれない。
それはともかくも、名雪は今日も病院に来ていた。無論直行であるから制服のままである。リハビリ自体は専門医が診るので、名雪は何もしないで見守るだけだ。しかし帰路はまだかすかに不自由な母を支えるため、名雪の出番となる。
受付の看護士に会釈をして、階段がある奥の通路へ足を運んだときだった。
「水瀬?」
「え?」
振り返ると、斎藤がいた。
「あ、斎藤くん」
「珍しいなこんなところで」
松葉杖をついた斎藤が器用な動作で名雪のそばへ行く。
「風邪でもひいたか?」
「え? 違うよ。お母さんを迎えに来たんだ」
「あ、そっか。水瀬のおばさん、怪我してたんだっけ」
「ううん。いいよ。もう本当によくなってるから」
「俺も上まで行くんだ。一緒に行こうぜ」
「うん」
冷たい廊下だった。二人が並んで歩こうとすると、どうしても名雪が先に行ってしまうのだった。名雪はいつもは階段を使用するのだが、気を利かせてエレベーターホールへ向かっていた。しかしまだ松葉杖なしではびっこをひいてしまう斎藤はリハビリの一環として、筋力が落ちてしまわないようにエレベーターではなく階段を利用していた。
怪訝に思いながらも、歩調を緩めて斎藤と並んで歩く。病院の中央を貫いている階段は医師や看護士などはよく使うが、患者はあまり使わなくなっている。二人は階段の前に立った。
慣れたもので、名雪は肩を貸してやろうと斎藤の手をとる。しかし斎藤はやんわりとそれを制し、「大丈夫」と言い、松葉杖を名雪に預けた。
「大丈夫って?」
「一人で平気だよ」
「そうなの?」
頷いた斎藤は、けんけんの要領で階段を上がった。
「わ。すごい」
利き足ではない左足でのジャンプで、膝や踵にかなりの負担がかかるのだけれど、今の斎藤にはその負荷が心地良いくらいだった。動けなくなるくらいまで走り抜けた中学校や小学校時代の思い出が去来する。
汗と土にまみれた日々の思い出。斎藤が通っていた中学校にはサッカー部はあったがもちろん芝ではなく土のグラウンドだった。ところどころ小石がめり込んでいることもあって、スライディングで一歩間違えると長い擦り傷や切り傷ができてしまう。それでもスライディングはやってしまうのだけれど。
そういえば、と斎藤は思い返す。あのとき、北川と競り合ったとき、とても楽しかったなあ、と。結果的に怪我をしてしまったのだけれど、あの瞬間彼の全身の細胞はボールに向かって反応していたのだろうし、それは普段の練習の中でもあまり感じたことがないものであったのは確かだ。
踊り場まで上がると、名雪が「斎藤くん。すごいね」とぱちぱち拍手をする。単純な驚きだった。逆に斎藤は照れてしまう。
「水瀬にだってできるよ。難しくないから」
しかし斎藤の左足の筋力はこうして大きくなっていった。再びサッカーができるようになるまでこのトレーニングは続き、彼の膝は多少の負荷には余裕で耐えられることができるくらいの強靭さを手に入れることになる。
そして将来、斎藤が『和製ホベルト・カルロス』、『悪魔の左足』と呼ばれるようになるとは名雪はもちろん、斎藤自身も思わなかった。
そして実際ならなかった。
学校帰りの制服姿の少年少女の中に、逃げようとする少年と首根っこを引っ張っている少年がいた。相沢祐一と北川潤である・。
「やだよ。恥ずかしいよ。ていうか、バイトあんだよ」
「おら、ガタガタ言ってんじゃねえぞ。バイトなんかやめちまえ!」
「そのうちやめるけど! でも今更感強いだろ。斎藤だって嫌がるって」
「嫌がるわけないだろ。とりあえず頭下げろって。話はそれからだ」
北川が嫌がっているのは斎藤に謝るということである。斎藤を負傷させた日以来、何となく疎遠になっていた。最も接近したのが終業式の日だったが、『き行』と『さ行』の間には数人しかいないのにもかかわらず、二人が言葉を交わすことはなく、目すら合わせなかった。
それは何となく照れてしまうからだった。怪我の直後であったなら、北川はすぐにでも謝っただろう。しかし斎藤は膝の怪我だったが、北川は頭を打っていて、脳震盪を起こしていたのだった。明日謝りに行こうと思っているうちに、終業式になり、四月になり、クラスが変わり、今に至っている。
「斎藤、今日病院に行くって言ってたから。ほら行くぞ」
「やだよ。斎藤だって謝りに行かないオレの気持ち汲んでくれるよ」
「汲まねえよ。ていうか、わかりにくいよ!」
「あ、祐一さん」
「え?」
と、手の力を緩めた瞬間だった。北川は祐一の手のひらを払いのけると、脱兎のごとく駆け出して、すぐに見えなくなった。
「あの野郎」
「あの、何かまずかったですか?」
「え? え、いや、いいんだけど。情けないのは北川だ」
美坂栞は首を傾げる。恋人の苦々しげな顔を不思議に思う。
「ああ、いや、男同士の問題だ」
「そうなんですか?」
「まあ、いろいろあったんだよ。あ、お前、今帰り?」
「はい」
「じゃ、帰るか」
「はい!」
並んで歩き出す。栞はすぐに祐一の手を取る。無骨な男の手のひらだが、その大きさが心地良かった。
「あ、相沢くんだ。ていうかツーショットだ」
「どうも、どうも。相沢です」
すれ違う女子大生っぽいなりをした女性に声をかけられる。
「がんばってねー」
「がんばりまーす」
祐一は簡単に返答をしてやり過ごすのだが、その後は決まって舌打ちをする。しかし舌打ちをしたいのは栞も一緒である。見ず知らずの女性に恋人が声をかけられでれでれしているのを見るのは不愉快で腹立たしい。だからいつも祐一の手をぎゅっと握る。すると祐一は困ったなあとでも言いたげに髪の毛をかき回す。
美坂香里にとって、この日の昼休み直前の北川発言は青天の霹靂だった。まさかあんな趣味があったなんて。もちろん彼女とて、世の中には色々なフェティシズムが存在していることは知識としては持っている。しかし北川に限って、と思っていた。北川は馬鹿で阿呆だが、それ以外は実にまっとうな青年であると考えていた。
あたしはどうすればいいんだろう。
誤解を解けばいいのだけれど、北川にしろ香里にしろ半端じゃない不器用さである。すれ違ってばかりの毎日なのだ。昨月、北川が教室で香里のスカートを手に持っていたことの誤解が解けたのが今月である。じつに一ヶ月近くが経過しているのである。
祐一、栞、名雪の三人は実はいつ二人がくっつくのかを賭けているのだけれど、これでは賭けにならないのではないかと考え始めている。それくらい不器用な二人だった。ちなみに賭けの内容は『近日中』が栞で、『一学期中』が名雪、『今世紀中』が祐一であった。
彼女はすでに帰宅し、受験勉強を開始していた。『短く効率的に』が彼女のモットーである。だらだらと七時間だの八時間だの徹夜だのするのは彼女の性格上あわないのだ。夕方帰宅してからの九十分、夕食入浴を終えて寝る前の九十分、この二つのコマが彼女の常の勉強時間である。積み重ねがあるから、これからは詰める作業ばかりなのだ。
そんな中、母親が香里を呼ぶ。
「香里、電話。名雪ちゃんから」
「はーい」
香里は携帯電話を持っていない。美坂家で持っているのは栞だけである。退院後、非常事態が起こったときにという理由で持たされたのだ。
受話器が置きっ放しになっている。母親は夕食の下拵えに戻ったらしい。彼女は受話器を取り、「もしもし、名雪?」と言う。
「香里!」
「何? どうかした?」
「大変なんだよ!」
切羽詰った名雪の声を聞くのは、あるいは初めてのことかもしれないなあと香里は思った。
リハビリを行っている多目的ホールは病院の五階にある。そこに至る階段を斎藤はすべてけんけんで上がったのだった。名雪の尊敬の眼差しはいたいほどだった。しかし実際は下りる方がはるかに辛く、筋肉にも負担がかかるのである。そのことは言わないでおいた。
本来はこのようなことを病院でするのはいけないとはわかっていた。まあしかし、患者がほとんど使わないという点、昔から怪我をするたびにこの病院へ来ていた結果、医師や看護士とも顔馴染みになり、叱られることが少なくなったという馴れ合いの状況が今を生んでいた。
最後の十五段が目の前にあった。さすがに息が切れているが、疲労はそれほどたまっていない。ふんと自分を奮い立たせ、とんとんとんとリズムを刻んで、上りきった。上り終えると、今まで我慢していた汗がいっせいにふき出してくるのだけれど、決して気持ちの悪いものではなかった。
「斎藤くんすごいね。わたしもやってみようかな」
「え?」
断っておくが、名雪は現在制服を着用しているのである。うかつな行動に出れば、下着がちらりどころかどすこいとばかりに露出することになる。しかしそんなことはお構いなしに名雪はいったん階段を上って松葉杖を斎藤に渡し、また下っていった。
名雪にとっては、陸上部部長の立場があったのだった。片足けんけんでの階段上りはグラウンドが使えないときの筋力トレーニングのメニューの一つに加わる可能性もある。ものは試し、身をもって体験してみようという考えだった。
踊り場で屈伸をする名雪の姿は斎藤が部活動中、たまにトラックに目をやったときにハツラツと走っている名雪そのものだった。これほどまでに近いところで見たことはなく、どきんと心臓がはねた。
「よし!」
大きく息を吐いて、名雪は階段を上がる。わざと利き足ではない左足を軸足にしていた。しかし思いの外簡単だったのだった。毎日のトレーニングを続けていた名雪であれば、余裕でクリアしていただろう。しかし彼女の筋力が落ちていたのは確かだったのである。最後の段でバランスを崩してしまい、重心が背中から腰にかけての部分に移動してしまう。
「あれ?」
名雪は素っ頓狂な顔をしていた。
「水瀬!」
とっさに斎藤は名雪の手を掴んだ。彼女の手首は折れそうなくらいに細かったが、はっきりとした体温が感じられた。その体温を離してはいけないと直感し、斎藤は力の限り引っ張った。火事場の馬鹿力である。名雪は五階のフロアに転んだ。「痛っ!」と声を上げ、しかしすぐに振り返って斎藤を見た。しかしそこに斎藤の姿はなかった。
彼は名雪と入れ替わるように階段を転げ落ちていた。足の怪我がなければ、踏ん張りきれたのかもしれなかった。しかし腰も膝も二人を支えられる状態ではなかった。五階と四階の間にある踊り場に倒れた彼はぴくりとも動かなかった。
「斎藤くん!」
名雪は慌てて駆け下りて、斎藤の肩をゆする。するとこめかみのあたりから一筋の真っ赤な血液がつうっと流れる。意識はないようだった。
「斎藤くん! あ……どうしよ……あの、斎藤くん?」
恐慌をきたしそうになる名雪だったが、自分には医学的な知識も経験もないことを知っていた。しかし運がいいことにそこは病院だった。
「あ、ここ病院。先生! 誰か! 助けてください! 助けてください!」
大声を張り上げた。すぐに近くにいた看護士や医師が駆けつけた。どうしたの? どうしたの? 口々にそう言うのだけれど、名雪は大粒の涙を流して泣きじゃくり、辛うじて「わたしが、わたしのせいで」と聞き取れるばかりだった。
「いらっしゃいませー」
「おや、北川くん、今日は笑顔がないね」
「そうですか? オレはいつもミスタースマイルですよ」
「どこか浮かない顔をして、いらっしゃいませー」
「いやいやそうでもな、いらっしゃいませー」
「何か悩みでもあ、いらっしゃいませー」
「特に何もな、いらっしゃいませー」
「……なんか今日お客さん多くないかい?」
「そうですね。いつもよりも、いらっしゃいませー」
栞と祐一は北川をどうすればいいのかという点について話し合っていた。公園のベンチにいた。男の問題だなどと言いながらも、結局は栞の知恵を借りようとしている祐一であった。
「男の意地ってのがあるんですよ。私にはわからないですけど」
「意地張るところじゃないと思うんだよね」
「そりゃそうですよ。やっぱり北川さんが折れないと」
「だよなあ」
と、そのときである。『太陽にほえろ!』のあのメロディーが流れたのだった。
思わず、『七曲署の面々がどこかから俺を?』と考えて身構える祐一だったが、栞が携帯電話を開いて通話を押すと、メロディーは止まった。
「何だ栞か」
「もしもし? あ、お姉ちゃん。え、祐一さん? いるよ。いるけど」
口を尖らせる栞を見て、何を嫉妬しているんだろうと微笑ましくなる祐一だった。
「どうしよっかなあ。あ! いや、違う! 違うの! ごめんなさいごめんなさい!」
電話の向こうで一体何が? 再び身構える祐一であった。
栞は再び口を尖らせて、携帯電話を渡してくる。
「もしもし」
恐る恐るである。栞は不貞腐れている。自分に言えなくて、祐一に言わなくちゃいけないことっていうのは何なのか。腹が立ってしょうがない。
「香里なのか? うん。俺だよ。何! 斎藤が! 本当か? わかった。すぐ行く」
祐一は座っていたベンチから飛び上がるようにして離れ、栞に携帯電話を放った。唇が震え、落ち着かない様子だった。栞は首を傾げる。
「祐一さん?」
「栞。斎藤が、あ、いや、お前先に病院行ってくれ。名雪がいるから」
「え? 病院? 斎藤さん?」
「俺、北川に連絡してから行くから。頼む急いでくれ。名雪が大変そうなんだ」
「どうしたんですか?」
「斎藤が事故で。よくわかんねえんだけど。香里に名雪から電話があったって。でもお前ん家から病院まで結構かかるだろ。ここからだとすぐだから」
「え、あ、はい」
ようやく事情を半分くらい飲み込んだ栞は慌てて駆け出していく。祐一は公衆電話を探しながら、ていうか、携帯借りればよかったんじゃねえかと後悔していた。
祐一から連絡を受けた北川は店長の原付を借り、病院へと急いでいた。無免許ではない。原付の免許は持っていた。しかし慎重に運転していた。生まれながらの小市民であった。
駐車場の一角にあるバイク置き場に原付を止め、彼は走った。夕暮れではあったが、まだ人の姿がたくさんあった。受付の美人看護士に斎藤の居場所を聞くが、いまひとつ要領を得ない。この美人看護士め! も内心拳を握りながらも、へらへらと笑っていた。
彼があせっているのは本心からの心配だった。斎藤は正に友と呼べる男だったのだ。どうしてオレは謝らなかったのだろう、ちくしょう、どうして。北川は闇雲に友の姿を探した。三階より上にある病室が並んでいる廊下を早歩きで探す。こんな状況でも病院内は走らないというルールを守るところが北川が北川たる所以だった。
四階まで来たところだった。栞の姿が見えたのだった。蒼白の面体で、ふらふらと廊下を歩いていた。
「栞ちゃん?」
「……北川さん?」
栞は北川の顔を確認すると、やはりふらふらとおぼつかない足取りで近寄った。よく見ると目や鼻が赤い。泣いていたのだろうかと北川は思った。
「斎藤は?」
「あっちの……あそこです」
そのままわっと泣き出す栞。北川を振り払い、化粧室へ消えていった。
北川は栞が指差した病室を見る。禍々しい気が感じられた。真っ黒いオーラが北川にさえ見えるような気がした。覚悟を決めて、北川はノブを回した。
沈黙である。一切の音を拒絶したような静寂だった。ベッドがあり、真っ白いシーツをかけられているのは紛うことなき斎藤だった。窓から差し込んだ夕焼けが室内を紅色に染めていた。脇に丸椅子を置いて、祐一が座っている。呆然とした顔をしていた。魂が抜けてしまったような、そんな顔だった。
「おい……相沢……」
北川が声をかけて、祐一はやっと北川がいることに気づいたようだった。
「……北川……来たのか」
北川はつかつかとベッドに歩み寄り、そして斎藤を見る。
「相沢……斎藤……は?」
「……きれいな顔……してるだろ……ウソみたいだろ」
「斎藤! お前どうして!」
北川はその場にがっくりと崩れ落ちる。両目から涙がこぼれていた。握った手のひらはぶるぶる震え、喉がからからに渇いていて、もう声が完全にかすれている。
「ごめん。すまん。本当にすまなかった。オレ、本当は謝りたかったんだ」
鼻水を啜り、しゃくりあげる。
「オレ、お前のために何かできることないかな……ねえ、斎藤」
北川は立ち上がると、亡霊のような足取りで出て行った。祐一はそれを黙って見送る。
廊下に出て、壁に背中を預けて再び崩れ落ちる。へたり込んだまま咽び泣いて、またふらふらと立ち上がり、名雪を引っ張ってきた香里、そして洗面所から出てきた栞とすれ違う。全く視界に入っていないように、北川は廊下を歩いていく。
一方の名雪たちである。名雪は香里に押されるようにして病室に入る。すると中では祐一と斎藤が歓談している。
「斎藤くん!」
「おお、水瀬、お前大丈夫か?」
「こっちの台詞だよ!」
「いや、頭打って、血出てたけど、大丈夫らしい。明日もう一回検査するって」
「そうなんだ。よかったよ。ごめんね、わたしのせいで」
「名雪、お前何考えてんだ」
「うー。ごめんなさい」
祐一は四角になるように、ドアから見てベッドの向こう側に隠しておいた丸椅子を出し、「立ち話もなんだから」と名雪たちを座らせる。
「まあ、何事もなくてよかったな。秋子さんは?」
「お母さんは帰ってもらった。大丈夫だって言ってた。心配だけど、斎藤くんも心配だし。わたしのせいだし」
「そんなことないって。俺がおとなしくエレベーター使ってれば良かったんだから。禁止令出ちゃったし」
「でも、わたし……」
「いいっていいって」
「斎藤が言うんだから、いいってことで水に流せ」
「そうそう。名雪にもいい薬になったでしょ」
「そうだな」
「ひどいよ、香里、祐一。わたし本当に心配だったんだよ」
名雪が不貞腐れると、香里も斎藤も祐一も声を上げて笑った。名雪もつられて笑った。神妙な顔をしているのは栞だけだった。
「あの、祐一さん?」
「何だ?」
「北川さんはいいんですか、放っておいて」
「……あ」
笑い声は止まった。
「やば」
「ばりやばですよ!」
「探しに行こう!」
斎藤以外が立ち上がる。斎藤は立ち上がりたくても立ち上がれないのだった。
「頼むぜ皆。あいつ結構思い込み強いんだ」
「知ってる。まかせろ」
何をどう任されればいいのかわからない祐一ではあったが、一応力強く頷く。
廊下に出たところで、祐一は「香里はあっち、俺と栞はあっち」と言う。
「祐一、わたしは?」
「お前は……斎藤のとこにいろよ」
「え?」
「だってそうだろ。一応責任持って、今日くらいはいてやれよ。いきなり何か急変したら大変だろ」
「……そうだけど」
「北川のことは俺たちに任せろ」
「うん。任せる」
と頷いた名雪は病室に戻り、祐一たちは二手に分かれた。
晴天だった。春の空は柔らかく、北川を見下ろしていた。彼はフェンスにもたれかかり、泣きじゃくっていた。友人が死んだ。その現実を受け止められないでいる。
いっそ、ここから身を投げてしまおうか。
首を曲げてフェンスの向こうに目をやる。中庭があった。日中であれば、入院患者が日向ぼっこをしている中庭だ。死ねるだろうか。きっと死ねないだろう。オレには飛び降りる根性すらないからだ。
がっくりと肩を落とし、俯いていた。無人の屋上、シーツを干している時間帯もあるが、すでに片付けられている。風の音しか聞こえない。正しいとも間違っているとも言ってくれない風。
北川は大の字に横たわった。雲一つない空。もう暮れかかっている。じきに夜が来るだろう。しかし彼は動けそうにもなかった。このままここで朽ちていくのも悪くないのかもしれぬと思った。それほどまでに大事な存在だったのだと今さら気づいた自分に腹が立った。
そのとき、階段へと繋がっているドアが開く音がした。
「……北川くん」
「……美坂」
「やっと見つけた」
「……どうして」
「探したのよ。皆心配してる」
「……オレなんかを?」
「そう。北川くんを」
一歩一歩確実に歩み寄る香里に北川は背を向ける。もう誰にも顔向けできないような気持ちだった。やはり飛び降りてしまった方がよかったのかもしれぬとさえ考えた。
「戻りましょう。風邪ひくかもしれないし」
「いいよ風邪くらい。斎藤に比べりゃ、どうってことないんだ」
「そうだけど。でも皆心配してるから。……あたしもね」
「……」
北川は答えない。優しい言葉をかけられると、いっそう惨めな気分になる。そしてまた涙がこみ上げてくる。この涙というやつは際限がないのだな、そう毒づいた。
「……北川くん」
香里は隣にしゃがむ。付き合いは長いが、こんなにも近くに香里を感じるのは初めてだった。
「大丈夫、大丈夫だから」
実際大丈夫なのである。斎藤はぴんぴんしている。屋上の感傷的な春風に吹かれて、香里も妙なテンションになっていた。普段ならただ「ドッキリだから」の一言で済ませてしまいそうなものなのだが、北川の心境に言葉を重ねるという器用な行動に出ていた。結果的に、北川はまだ斎藤が死んだのだと思い込んでいる。そういう意味では、香里は悪女なのかもしれぬ。
さて、北川は顔を背けていたが、一瞬だけ香里の顔を見た。目が合った。香里はかすかに笑った。あまりプラスの感情を外に出さない香里の小さな笑顔はその瞬間の北川の気持ちを爆発させるのにじゅうぶんだった。号泣し始めた北川は、勢い余って香里に抱きつく。
香里は、あるいは母性本能をくすぐられていたのかもしれなかった。普段は馬鹿をやっている、ひょうひょうとした北川が思いっきりへこんでいる。そのシチュエーションに彼女は酔っていたのかもしれない。北川の頭を撫でるなどというらしくない行動に出たのもそのためだろう。
北川はしばらく泣き続けた。香里はその北川を拒絶しない。そんな夕暮れ。
「栞」
「はい」
「これはちょっと出るに出られないよな」
「ですね」
「どうすればいいんだろうな」
「戻りますか? とりあえず大丈夫だと思いますけど」
「だよな。でも、これどうしよう」
祐一は服の中に隠していた『大成功!』と書かれた画用紙を栞に見せる。
「……さあ」
「まあ、いっか」
「いいんじゃないですか」
「邪魔できないもんなあ」
「はい」
「よし、戻ろう」
「はい!」
「斎藤くん本当にごめんね」
「だからもういいって」
「うん。でも」
「いいんだよ。水瀬が無事でよかった」
名雪は椅子を斎藤の枕元において座っていた。すぐ近くである。
「あ、斎藤くん」
「何?」
「助けてくれてありがと」
「あ、うん。いいよ。無事でよかったから」
口数が少ない二人で、しかも同じことを繰り返していたが、重い空気というわけではなかった。
夕焼けがまぶしい。名雪は目を細める。とりあえず無事でよかったという安堵で彼女の心は満たされていた。
「水瀬、ごめんな」
「え?」
「こういう状況で言うのは卑怯だと思うんだけど、言うよ」
「え? え?」
「俺、お前のこと好きなんだ」
「……え」
再びの沈黙。
斎藤がこらえきれずに口を開く。
「ずっと前からそうだったんだ」
「……そうなんだ」
「うん」
「……」
名雪は俯いてしまう。
名雪をじっと見つめていた斎藤は天井を見る。やっぱり失敗だったか、ぼくはいつもこうやってタイミングを間違えるんだなあと後悔する。
「斎藤くんごめんね」
「……え?」
「わたし、好きな人いるんだ」
「うん、相沢だろ?」
「うん。そうなんだけど……って何で知ってるの?」
「いや、有名だぜ。ばればれだし」
「え……あ……いや……えー、そうなの?」
「皆知ってるぞ、たぶん」
名雪はショックを隠しきれずに顔を真っ赤にする。彼女は肌が雪のように白いから、雪の中に苺をまぶしたようにも見えるのだった。
「そうだったんだ」
「そうなんだよ。で……相沢がどうしたの?」
「あ、それなんだけどね、最近思うんだよ」
「うん」
「わたし、本当に祐一のこと好きなのかなって」
「え?」
「だってさ、おかしいよね、七年も会ってない人のこと、しかもただの従姉妹で、結構ひどいことされたのに好きでいられるなんて」
「……うん、まあ、そうかもしれないな」
「だから最近思うんだ。好きだったって思い出を大切にしてるだけで、本当は恋愛感情なんかじゃないんじゃないかって」
「俺にはよくわかんないけどね……うん……まあ、わからなくもないなあ」
「でも、今までの気持ちが嘘だったってことになるし、複雑で、まだ決着つけられそうにないんだ」
「そうか」
「……ごめんね」
「うん、でも、いいよ。俺、待ってるよ。水瀬が結論出すまで」
「え?」
「待ってる。何かこう、未来で? 未来で、あ、そう未来で。未来で待ってるから!」
「いや別に未来で待たなくても」
「そうだよね。ごめん、うまくボケられなくて」
「ううん。こっちこそごめん。突っ込めなくて。ボケ殺しだね、わたし」
「いや、俺だ。俺のボケが下手だった」
いや俺だ、いやわたし、と言い合って、目を合わせ、二人は笑い出す。
何だかとてもおかしかったのだった。笑いたくてしょうがない気分になったのだった。流した涙のぶんを笑いで取り返したくなっていた。そして笑いすぎてまた涙を流したいとも思っていた。
笑い疲れた二人はまた目を合わせる。
「でも不思議」
「え?」
「こんな話、香里にもしてないんだよ。斎藤くんにしかしてない」
「あ、そうなんだ」
「うん。斎藤くんは特別」
「……うれしいなあ」
「栞」
「はい」
「これさ、こっちもちょっと入り辛いよな」
「ですね」
「ていうかさ」
「はい」
「さっきすごい爆弾発言があったような気がするんだけど」
「私もちょっと聞き捨てならない感じでしたけど」
「……」
「……」
「これはお互いなかったことにして」
「はい」
「どっかで時間を潰そう」
「はい」
結局、香里に連れられて戻ってきた北川は斎藤に土下座をした。斎藤は北川を笑って許し、怪我が治ったらサッカーをする約束をした。
そんな二人が病室にいる頃、廊下では香里と北川が対に結ばれたと言い出した栞が賭けの勝利宣言をし、次いで名雪も勝利宣言をした。『近日中』と『今月中』の二人が勝ち、祐一の一人負けとなった。それを香里のすぐそばで言ったものだから、どういうことだと詰め寄られ、軽い地獄を見る羽目となった。
そして名雪は一足先に軽い足取りで帰路につき、祐一と北川は美坂姉妹を送り届けた。そこで北川は店長の原付を病院に忘れてきたことを思い出し、慌てて走っていってしまった。祐一は帰り道、一人になった。空が黒い。俺の心のようだとかっこつけてみたが、恥ずかしくなるだけだった。
その帰り道半ば、名雪と栞に賭けの金を半ば強引にむしりとられた祐一はつぶやく。
「ていうか、ねるとんかよ、あの病院」
そんなことはない。
(この章、了)
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