年度末最後の授業は体育だった。男子は校庭でサッカー、女子は体育館でバレーボール。体育教師は前回の授業でそう言った。いつもなら後三日、後二日と重々しいカウントダウンが行われるのが常だが、最後の授業が体育で、しかもサッカーとあっては、誰もがその到来を待ち望んでいた。しかもこの高校では二年次の終わりに修学旅行が敢行されるため(つまり三年生として過ごす一年間は受験戦争そのものである。)、余計に三学期は短く感じられた。
 と、北川潤は思った。
「寒いから上着取ってくるわ」
 体育着に着替えるとき、もちろん男子と女子は別々である。しかし更衣室は使用しない。体育の授業は二つのクラスいっぺんに行われるため、片方の教室に男子、もう片方に女子となる。相沢祐一や北川が普段いる教室で女子が着替え、男子は隣の教室で着替えていた。
 北川はタイミングを見計らっていた。いい天気だったから学校指定のシャツだけで大丈夫かと思っていたが、三月である。さすがに寒かった。ジャージの上を取りに教室に戻ろうと思っていたのである。都合のいいことに、美坂香里が教室から出てきたところだった。
「よお。美坂」
「北川君。どうしたの?」
「いや、寒ぃからさ、ジャージ取りに来た。まだ誰か着替えてるか?」
「ちょっと待って」。
 香里は一度教室に戻り、中を確認する。
「いいわよ。入っても」
「おう。サンキュー」
 体育館へ向かう香里を尻目に、北川は教室に入る。彼の座席は窓際にある。いいポジションである。
「おいおい何で窓開けっ放しなんだよ」
 三月の冷たい風が吹き込んできて、彼は大きなくしゃみをする。もともとジャージを着ていない自分が悪いのだが、損なことはお構いなしに、心の中で毒づく。何考えてんだよ。開けっ放しにしてたら教室の中が冷え切っちまうじゃねえか。
 机の上に置きっ放しにしておいたジャージを羽織ると、一際強い風が吹いた。北川は避けるように身をかがめたが、窓際の席に置かれていたものが飛んだ。女子の着替えである。例えばブラウスとかスカートとかベストとか。
「だから言わんこっちゃねえんだ。まったく」
 そのままにしておくのもどうかと思い、彼はスカートを拾い上げる。隣の席だったから、美坂香里のものだった。
 拾い上げたところで、ひゅうと誰かが息を飲んだ。
 反射的に北川はそちらを見る。スカートは手の中である。北川は一瞬言葉を失う。美坂香里が驚いたように彼を凝視していた。
「北川……君?」
「美坂」
「そ、それ」
 言われて北川は自分の手の中にあるスカートを見た。スカートである。誰がどう見てもスカートである。男子が女子のスカートを握りしめている。更衣室代わりの教室で
「……何してるの?」
「え? いや……。いや、違うんだ! 違うんだよ、美坂」
「何が違うの」
 一歩北川が踏み出す。スカートを持ったままで。どう言葉にすればいいのだろうか、どういう表現を用いれば誤解なく彼女に伝わるのだろうか。そのようなことを考えていたから、最悪なことに、うまく言葉が生まれずにいた。結果的に悪印象である。
「俺は……」
「……最低ね」
「ねえ香里早く行こうよ……って北川君?」
 水瀬名雪が現れ、スカートを持ったまま立ち尽くしている北川を見つける。
「おい、香里も名雪も何してんだ、お前ら体育館だろ……って北川?」
 名雪に遅れて現れた相沢祐一も動きを止める。
 時間が凍りついたように、その場にいた者は言葉を失った。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
 動いたのは北川だった。絶叫し、スカートを放り投げて走り出す。その奇天烈な動きに香里も名雪も祐一もしばらくその場を動けずにいた。
 授業は滞りなく始まる。最後の授業だ。男子のサッカーはゲーム形式で、15分ハーフで行われた。なぜか異様に精度の高く熱いプレーを繰り返す北川は前半だけで2ゴール、3アシスト、1オウンゴール、1イエローカードだった。
「おい、北川さ、何かあったのか」
「え? あ……いや、何もないよ」
 級友に聞かれ、自分のことでもないのに慌ててしまう祐一だった。
 後半に入っても北川の勢いは止まらないと思われた。サッカー部でもないのに木村和司ばりのフリーキックを叩き込む北川を見て、奮い立った男がいた。斎藤だった。彼はサッカー部だった。
 北川に激しいショルダーチャージを食らわせて、言う。
「おい、北川。調子に乗んじゃねえぞ」
「乗ってねえよ」
「フットボールを誰よりも愛する俺としてはかなり腹立たしいんだよ。お前に点取られるの」
 もはや他の生徒は傍観者だった。斎藤は巧みに北川のシャツを引っ張るが、北川は北川とは思えぬバランスとフィジカルを発揮し、倒れない。北川はボールをキープしたまま止まる。
「斎藤。お前サッカー部だからって偉そうに」
「うるさい。お前には負けないよ」
「正直俺はさっき負けた」
「はあ? 何言ってんの?」
「美坂チームか。何もかも皆懐かしい」
「え?」
 その瞬間、北川が爪先でスペースにボールを蹴る。ブラジルの快速左サイドバックが時折披露する、所謂一人スルーパスである。しかし斎藤も負けはしない。どちらが先にボールに触れるか。実質、超短距離の競争である。意地と意地がぶつかる。
 先にボールに触れたのは斎藤だった。サッカー部は伊達ではない。身体を入れながら、巧みに手と肘で北川を遮り、かく乱する。しかしそのときの北川はもはや何も恐れていなかった。無理矢理に身体を捻じ込もうとする。
「うわっ!」
 勝利を確信していた斎藤は諦めを知らない北川に驚き、慌てて上半身でブロックする。それが失敗だった。お互いの肘がクロスカウンターのような形で決まる。斎藤の肘は北川の即頭部にめり込み、北川の肘は斎藤の顔面を直撃した。
「北川!」
「斎藤!」
 祐一を始めとした傍観者たちは慌てて駆け寄ったが、すでに遅かった。先に斎藤が体勢を崩し、覆い被さるように気絶した北川が倒れる。
 脳震盪を起こしてい北川はすぐに保健室に担ぎ込まれた。だらだらと鼻血を流しながらも膝から脛を押さえていた斎藤は病院に運ばれた。
 何だかわけのわからぬままに、有耶無耶のうちに最後の授業が終わってしまい、「何だかなあ」と相沢祐一はため息をついた。


若者たち。



第一章 バカは死んでも治らない。


 駅前の広場に別れを惜しむ恋人同士の姿があった。
「どうしても行ってしまうんですね」
「ああ」
 少女の名は美坂栞と言う。目の前で顔を伏せている恋人の袖を掴んだまま、離そうとしない。
「一緒に行ってはいけないんですか?」
「ああ。すまない」
 相沢祐一は声を震わせた。
「しょうがないんだ」
 絞り出すような声は風に吹かれたら掻き消えてしまいそうなくらいに弱々しい。
「しょうがないって……そんな!」
「おい……相沢」
 北川が祐一の肩に手を置きながら言うが、祐一は北川を見もせずに問答無用で振り払う。すぐ近くでは斎藤がアコースティックギターの音を合わせている。
「どうすればお前と一緒にいられるのか、考えてみたけど、お前を連れてくのはやっぱり無理だ」
「当たり前だ馬鹿」
「……また会えますよね」
「ああ。必ず帰ってくる」
 祐一は栞を胸に抱き寄せ、そう耳元で囁いた。
「だから当たり前だって。相沢? 相沢さん? もしもし? 聞いてる? 皆整列してるぞ」
「約束破ったら……ひどいですよ」
「絶対帰ってくるから」
「帰ってこないわけがないだろうに」
「俺は、栞、お前のことを忘れるつもりはないし」
「忘れる方が問題だろ」
「これからもお前を」
「早く行こうぜ。相沢君」
「愛し続ける……ってうるさいよ! さっきから何だ、北川!」
「皆並んでんだよ。お前待ちなんだよ。急げ」
「せっかく栞との別れを惜しんでるとこなんだ。少しくらい待て」
「だから修学旅行だろうに。惜しむも何もすぐ帰ってくるんだから」
「愛し合う二人には二泊三日も二、三十年くらいに思えるんだよ。な?」
「はいっ!」
 北川潤は頭を抱えた。前々から思っていたけれど、この二人は馬鹿だ。しかもその馬鹿具合は日増しにひどくなっているように思える。
「それにしたってそんな芝居仕立てにしなくても」
「不治の病を克服した女との色恋だ。いちいち劇的にしないと、以降が成り立たないだろ。一ヶ月がその後の数十年間に敗北してしまう」
「意味わかんないよ。まあとにかく栞ちゃん、相沢借りてくから」
 ほら行くぞと北川は栞を見つめていた祐一の頬をバチバチ叩いた。わかってるよと不貞腐れたように祐一は足元に置いておいたバッグを担いで、「じゃ行ってくる」と栞に声をかけた。
「待ってますから。お土産頼みますね」
「おう。木刀買ってきてやる」
「い、いりませんよ! そんな帰りの電車ですでに飽きられてるようなもの」
「じゃあ、八橋だな」
「はい。木刀じゃなけりゃ何でもいいです」
「だから早く行くぞ」
「へーい」
 並んで歩き出す二人を見送り、ああいう関係もいいものだなあと栞は思うのだった。しかし、寂しいのも確かだった。見送るというのはいつだって寂しいものだ。入院していた時分の病室を去る家族の背中は、できることならもう二度と見たくない。もうすぐ電車が出るのだと思い、栞は顔を背けた。
「汽車を待つ君の横で僕は時計を気にしてる。季節はずれの雪が」
「降ってねーよ! 何やってんだよ」
 咳払いを一つして弾き語り始めた斎藤をぶん殴る北川のよく通る叫び声が駅前のロータリーに響き渡った。
「痛えなあ、何すんだよ」
「皆待ってんの! 何なんだよ、お前まで。何だそのギターは」
「ヤマハだよ」
「国産かよ。……どうでもいいよ。何で弾いてんだって話だよ」
「ああ、相沢に頼まれたんだよ。別れの場面を盛り上げてくれって」
「頼まれたからって……お前」
 北川はため息とともにその場にへたり込んで、「バカばっかだな、若者たちめ」とまるで自分が爺のような言い方で、誰に向けるでもなくつぶやくのだった。


 そして電車の中である。目的地である京都までの長い旅は午前六時七分という極めて寒い朝に始まった。祐一としてはいっそ栞も連れて行こうかと思っていたくらいなのだが、病が癒えて間もない彼女に無理をさせるわけにはいかない。祐一は徐々に見慣れないものへと姿を変えていく窓の外に目をやっていた。
 早すぎて何も見えなかった。
 ボックス型の座席に座っていたのだった。早朝の車両に人影はまばらだった。数駅先の比較的大きな駅で新幹線に乗り換えるのだが、三時間以上乗り続けなければならないのだった。祐一は離れていく雪の町にたった二ヶ月前に居候として越してきたときのことを思い出した。すこぶる退屈だったのである。
 しかし今は友がいる。隣に座っている北川を眺める。彼は眠っていた。祐一にもたれかかるようにして、穏やかな寝顔を見せている。時折むにゃむにゃと声を出して、祐一を枕だと思っているのだろうか、頬をすり寄せてくる。はっきりいって気色悪いのだが、どの道この電車に乗っているのはたった二十分程度なのである。寝させておいてやろうと、先ほどから無視を決め込んでいた。
 ところで、二十分程度の時間でここまで熟睡できるものなのだろうか。向かいの席に座っている水瀬名雪は重たそうな瞼をぱちくりと動かしていた。祐一の服に涎を垂らそうとしている北川の阿呆面を見ていると、自分が寝ているときもあるいはこういう顔をしているのだろうかと不安になってくる。彼女は祐一を見る。祐一がその目線に気づく。
「祐一、わたしは馬鹿みたいな顔してたかな」
「うん……え? え、何? 何だそれ」
「あ、ごめん。えっとね、だから」
「うん」
「北川君がね、馬鹿みたいな顔してるから」
「それはいつもだな」
「そうだけど今は特にひどいでしょ。寝てるから」
 さりげなくひどい言い草の名雪であった。
「まあな」
 祐一は隣の北川を見る。阿呆面である。THIS IS 阿呆面である。緩みきったほうから口にかけてのラインが必要以上に戯画された脳足りんの公家を思わせる。しかも涎である。今、涎は一筋の滝となって祐一の制服の腰の辺りに垂れている。それを冷静に見ている祐一も祐一なのだが、その流れをせき止めると竜神の怒りを買いそうな気持ちになってしまうような、そんな立派な水脈だった、いや涎だった。
「で、祐一はわたしのこと起こしてくれるよね」
「何か、習慣っぽくなっちゃったからな」
「そういうとき、わたしも馬鹿みたいな顔してるのかな」
「え? あ、いやさ、あんまし意識しないからわからねえや」
「えー、意識してよ。意識するところだよ、そこは」
「そうなの?」
「そうだよ。同い年の女の子の寝顔だよ。意識しようよ」
「いや、うるさくてそれどころじゃないんだよ、あれがな、時計のな」
「ああ、そっか」
「そうなんだよ」
 二人して、何やら深刻に腕組みをしたところで、通路から声がかかる。
「あ、相沢くんだー」
 二十代半ばくらいの女性だった。OLか何かなのだろうと祐一は思った。確実に言えるのは、同年代ではないということだった。
「え? あ、あ、どうもどうも」
「初めて見たよ、本物。がんばって」
「ええ。いや、もう、がんばりますよ」
 通りがかりの女性は別の車両へと歩き去っていった。祐一は複雑な表情で首を振りながら、正面の名雪を見る。彼女は頬を膨らませて、リスみたいになっている。
「祐一」
「何だよ」
「今の誰? 知ってる人?」
「いや、全然」
「ふうん、そうなんだ……って、知らない人なの?」
「知らねえよ。誰だよ、あれ」
「じゃあ、何で」
「いや、あれだろ。ほら、栞が治ってさ、こっちのさ、ローカルのテレビ局が取材に来たじゃない」
「うん。来たね。やかましかったよ」
「そうなんだよ、やかましかったんだよ。それはともかく、栞だけじゃなくてよ、俺も映ってたんだな」
「そうなの? わたし見てないからわかんないや」
「まあ、それで最近流行りの純愛的な色のつけ方をされたわけだ、俺たちは」
「純愛。ピュアラブ」
「いちいち英語に直すなよ。とにかく、それで、純愛好きのOLに応援されたりするわけだ」
「そうなんだ。よかったね」
「いや、別によくはねえけど」
 と、そのとき電車がブレーキをかけ、がこんと車体が揺れた。祐一と名雪は窓のほうへと倒れそうになったもののどうにか踏ん張ったのだけれど、眠っていた北川は無抵抗で倒れ、涎ごと祐一の股間に顔を埋めた。「うわ、大丈夫?」と名雪が笑う。
 そこに担任の石橋がやってくる。降車を知らせに来たのである。わざわざ声をかけなくても降りるべきくらい高校生にもなればわかるものなのだが、一応これが仕事なのだからしょうがない。良かれと思っての行動に「うるせえな。わかってんだよ!」などと返されると、無性に腹が立つ。しかしルールはルールだ。何両にもまたがっている生徒を探しては、いちいち声をかける。
 それは明らかに異様な光景だった。成績はともかく部活動では頑張っている品行方正な水瀬名雪の目の前で、北川潤が相沢祐一の股間に顔を埋めていた。それを水瀬名雪は笑っているのである。相沢祐一も困ったような笑顔を浮かべていた。北川の顔だけはうかがえなかったが、想像したくもなかった。
「お……お前ら」
 声が出ないなどということがあるだろうか。教師にとって、喉は知識よりも大事なものだと石橋は考えていた。毎朝毎晩の発声練習とハチミツ、そして加湿器は欠かしたことがなかった。その石橋の声はそのとき、かすれていたのである。
「降りる……駅だ……から」
「うるせえな。わかってんだよ!」
 何をわかっているというのだろうか!
 石橋は混乱した。友人が股間に顔を埋めている状況を理解できているのだろうか、相沢祐一は。北川の後頭部が邪魔で見えないが、ズボンの状態が激しく気になっていたのだった。脱いではいないだろう。しかしチャックを下ろしていたら……大事である。
 それよりも気になるのは水瀬名雪である。
「祐一もういいじゃん」
「ばか。よくねえよ。俺は自主性を重んじるタイプなんだよ」
「でも、次の駅で降りるんだよ」
「ぎりぎりまでこいつの好きにさせておくさ」
「祐一、それじゃ遅いよ」
 何だこの会話は!
 水瀬は理解しているのか?
 いくら普段からぼおっとしているからといって、彼女も高校二年生である。彼氏がいるかどうかは知らぬが、目の前で行われている痴態に関する情報を持たぬわけでもなかろう。ましてや彼女は相沢祐一と同居しているのだから、エロ本の一冊や二冊、いや相沢のことだからかなり本格的なポルノ雑誌の一冊や二冊を持っているだろう、そういったものを目にしているのではないのか。
 あ、だからか。
 それが普通だと思っているのか。
『間もなく停車します』
 そんな場内アナウンスが聞こえると、北川がむっくりと体を起こした。
「うわ、思ってたより早かった」
「な? こういうもんなんだよ、人間って。結構本能あるから」
 北川は目をぱちくりさせながら、ゆっくりと振り返り、「うわ! 石橋!」と驚いた。
 石橋の目に映ったのは、口の周りを白っぽく泡立った、水気の少ない涎でべたつかせている北川の顔だった。
「あー、すっきりした」
 北川の重みから開放された祐一は誰に言うというわけではなくそう呟いたのだった。
 直後、二人は石橋に拳骨で殴られた。


 新幹線の行き先は東京である。目的地は京都および奈良なのだが、東京駅で乗換えなければならなかった。祐一は「ていうかさ、飛行機使えば早えんじゃねえのか」とぼやくが、学校側の都合という名の予算削りで朝早く出発する羽目になったのだった。
 新幹線の座席は指定席だったので、本来であれば配られた切符の文面の通りに座らなければならなかったのだけれど、それぞれの都合のいいように切符を交換してしまっていたから、実際は自由席のようなものなのだった。よほどのことをしでかさない限り、引率の教師も文句は言わない。むしろ座席をめぐる諍いやシュプレヒコールが起こるほうが厄介だったので、石橋は傍観していた。
 いや、傍観ではなく呆然としていた。弁当や飲み物を売りにきた中年の女性に「あ、お姉さんすいませんワンカップ一つ」と言ってしまいそうになり、教師という立場を一瞬でも忘れてしまった自分への嫌悪が煙幕のようにもくもくと盛り上がっていた。加えて、お姉さんではなかった。お婆さんだった。石橋がおのれの闇を見つめるとき、闇もまた石橋を見つめている。そんな感じだった。
 石橋が自己嫌悪のデフレスパイラルに陥っているころ、祐一と北川が陣取っていた席から名雪と香里がいなくなり、斎藤がやってきた。名雪と香里は他の女子のところへといったのだが、斎藤は他の女子のところからやってきたのだった。クラスの女子と楽しそうに何事か話していた斎藤を見ながら北川は羨ましさと女子とちゃらちゃらしやがってという憤怒を抱え、苦虫を噛み潰したような顔をしたのだが、ちょうど名雪と香里と入れ替わるような形になった斎藤もまた苦虫を噛み潰したような顔をしていて、祐一は窓に張り付いていた羽虫を押し潰していた。
 斎藤は担いでいたバッグを頭上の棚に置き、ギターのハードケースを空いている座席に置いた。四人掛けのボックス型の座席である。今は祐一、北川、斎藤の三人しかいないから、一つが空席になっているのである。
「あ、斎藤、お前さ、カメラ持ってきた?」
「うん、持ってきたよ。使い捨てだけど」
「やべーよ、持ってくるの忘れたよ。相沢も持ってねえよ。お前だけだよ……って何でギター持ってんだよ!」
「え?」
「え、じゃねえよ。え、じゃねえよ。お前さ、何でギター持ってきてんの?」
「え? だって、だってあれじゃん。持って帰る暇なかったし」
「でも、荷物が増える一方じゃねえか、それじゃあ」
「まあ、そうなんだけどねえ」
 斎藤が肩をすくめると、外を見ていた祐一が顔を向ける。
「でも斎藤も器用だよなあ。サッカーやってギター弾いて。『シュート!』って感じだよな」
「補欠だけどな、こいつは」
「うるせーな。いいんだよ、楽しいんだから」
「ミズノのスパイク12800円」
「アディダスのロテイロ14575円」
「ニューウェルスオールドボーイズ、オルテガモデルのレプリカシャツ17800円」
「ベンチで過ごした二年間……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「おい」
「……」
「……」
「プライスレスだろ。プライスレスって言えよ」
「……」
「……」
「プライスレスだ。プライスレスなんだ」
「時間の無駄」
「金の無駄」
「うるせえ! 俺だって好きでベンチだったわけじゃねえよ!」
 がっくりと崩れ落ちる斎藤は今にも窓から飛び出しそうなくらいであった。どんよりと落ち窪んだ瞳には生気が感じられなくなっていた。
「おいおい、そんなに落ち込むなよ。ねえ、沢っち」
「そう、恥ずかしがることはねえよ。なあ、川っち」
「お前ら……いい奴だな」
「何言ってんだ。オレたち、友達だぜ」
 三人はひしと抱き合った。
 そこは車内だった。
 たまたま通りかかった家族連れが白い目で見ていた。


 新幹線に乗り込んだときのテンションはえてして維持しがたいものなのである。彼ら三人もその例外ではなく、東京駅で乗り換えるころにはすっかり寝ぼけまなこで、北川だけが元気ハツラツすっげーハツラツであったのだけれど、祐一は東京駅には特に感慨がなく、斎藤は逆に非常に楽しみにしていたものの半死半生の体を祐一と北川に支えられており、もう何が何だかわからぬままにJR東京駅を通り過ぎたのだった。
 しかしチャンスはあったのである。というのも引率の担任石橋が乗り換え時ひどく迷ってしまったからである。彼は方向音痴であった。学級委員長の美坂香里が正しいルートを示さなかったら、延々と迷っていたに違いなかった。美坂香里は友人の水瀬名雪の制止がなかったら、石橋を言葉で叩きのめしていたかもしれないくらいに呆れていた。しかし斎藤はそのような状況の中、待望の東京を前後不覚の常態で通らざるを得なかった。強いて言えば、彼は東京を経由した瞬間を全く憶えていなかった。それは復路も同様であった。
 西へ向かう新幹線でも、やはり同様の光景が広がった。唯一先ほどの新幹線と違っていたのは、石橋がついにワンカップを購入してしまったという点である。売り子が美人過ぎた。それが理由だった。しかし飲むには至らなかった。すんでのところで理性を取り戻したのである。石橋がおのれのワンカップを見つめるとき、ワンカップもまた石橋を見つめている。そんな感じだった。京都までの数時間、終始そんな感じだった。彼は例えばこんな疑問を呟いた。
「ああ、ワンカップ、おまえはどうしてワンカップなんだ」
 阿呆な疑問である。ワンカップはワンカップとして製造されたのだから、何がどうあってもワンカップなのである。千代鶴でも太平桜でもなく、ワンカップであるべきなのである。もしも長命泉であったとしたら、それはもう詐欺である。粉飾である。何故ならワンカップはワンカップとして売られているからである。
 だから石橋教諭の「ああ、ワンカップ、おまえはどうしてワンカップなんだ」という質問はナツメウナギに「ああ、ナツメウナギ、おまえはどうしてナツメウナギなんだ」と訊ねることと同義であり、ナツメウナギは「しょうがねえだろ、おれはナツメウナギなんだから、両親ともにナツメウナギで、三代前もナツメウナギ、そりゃ千年万年辿ってみれば、別の生き物かもしれねえが、少なくともここ数代は間違いなくナツメウナギさ。だからおれはナツメウナギなんだ。理由なんて、そんなものはねえよ」と答える他ないのだが、石橋はナツメウナギ語を理解していないのでその回答には少なくとも今は辿り着けない。
 しかし目的地には辿り着く。石橋は手付かずのワンカップを鞄にしまい、新幹線を降りる。
 駅前には観光バスが待っている。バスガイドと運転手に簡単な挨拶をする。ナツメウナギのような顔をしている。運転手を見て、石橋はそう思った。


 バス酔いがひどかったのだった。祐一はこの日観て回った寺や神社を全く記憶していなかった。バス酔いがとにかく半端ではなかった。酔う酔わないのレベルをはるかに凌駕していた。それでも吐かなかったのは彼の精神力の賜物である。吐けば楽になるとはわかっていた。しかし男子高校生がバス酔いでげろを吐く、しかもいろは坂などではなく、ただの車道である。ハイウェイ・ヒュプノシスになってもおかしくないような単調な道であった。そんな状況で嘔吐しそうになり、こらえている。それはプライドとの戦いでもあった。そして辛くも勝利した。
 だから彼の視界にその日の宿が入ってきたとき、涙を流して喜びそうになった。実際には流していない。祐一は、涙は毎年二度だけ、ネロと節子にたむけることにしているのである。だから栞と再開したときも瀬戸際で泣かなかったのだった。
 宿泊先はホテルのような旅館のような建物で、ようするに内装はホテルだけれど、外装は旅館、そして温泉があるという、微妙なバランスで組み立てられた非姉歯物件だった。部屋は四人部屋になっていた。祐一と北川は同じだが、斎藤は別の部屋になってしまっていた。修学旅行といえば大部屋で雑魚寝というイメージを抱いていた、というか過去実際そうだった祐一にとっては残念至極であった。
「味気ねえなあ」
 晩飯をつつきながら、祐一はそう呟いた。中央に鍋がでんと置かれ、仲居がつけた炎がゆらゆらと揺れている。
 宴会場かどこかでいっせいに「いただきます」というのが彼のイメージする夕食だったのだが、他に使用している団体客がいるらしく、それぞれの部屋での夕食となっていた。
「ダブルブッキングかよって話だよな」
 北川も同調する。
 実際はその団体客は宿泊はせずに、大広間を貸し切っているだけだった。ホテルで結婚式を挙げるようなものである。だからダブルブッキングではないのである。
 皆でわいわいがやがやと夕食をつつく、そういう光景を望んでいた祐一は、俺も秋子さんと似てきたかなと苦笑する。
 しかしながら、すっかりバス酔いの不愉快さは消えていた。そのことを祐一は実感していない。


 北川が風呂に行っているため無人になっている斎藤の部屋で有料チャンネルを勝手に視聴しているころ、祐一は迷っていた。大浴場からの帰りであった。外観とは裏腹に、何か無駄に入り組んだ旅館だった。カフカの世界に迷い込んだようだった。
 いつの間にか宴会場朱雀の間のすぐ傍まで来ていて、廊下で立ち話をしている仲居二人と目があった。仲居二人はまずいところでも見られたとばかりに、すぐに早足で去って行ってしまった。確かに立ち話をしていたと女将に告げ口でもされたらたまらないだろう。しかし客が困っているのを無視して行ってしまうのはいかがなものか。よほど慌てていたのか、運んでいたのか片付けていたのかわからぬが、お盆を置きっ放しにしていた。
 祐一は基本的にお節介である。このまま廊下に放置して誰かが蹴躓いてもいけない。宴会場をちらっと除いてみたら、怖そうなお兄さん方が宴を催していたので速攻で身を翻し、どこか厨房っぽいところまで持っていこうと、盆を手に取った。小料理とお銚子がぐらついた。結構重かった。「ほお」と声が漏れた。


 有料チャンネルを見ることの空しさを実感した北川はそっと部屋を出た。つけっ放しだった。


「あ、祐一だ」
 旅館の浴衣を着た名雪と香里がタオルや石鹸が入ったケースを持って、ロビーのあたりで佇んでいた。濡れた髪の毛が妙に艶かしく、いかんいかんと祐一は首を振る。
「雨降ってきちゃったんだよ」
 残念そうに名雪が言う。目を凝らすと、回転ドアの向こうに雨の筋が見えた。
 確かに雨の修学旅行というのは気分がいいものではない。ただの旅行であれば話は別である。
「天気予報は? 止むかもしれないだろ」
「そうだけど。でも、何か、テンション下がるっていうか」
 風情という意味では、雨の旅行もなかなか乙なものであるのだけれど、やはり動きたい盛りの高校生にとっては晴天の下で開放的になりたいものなのである。
「止むと思う」
 香里がぽつりと呟く。かの松尾芭蕉が旅をした年月の間にも雨の日は少なからずあったし、やはり一概に雨が悪いとは言えない。
「え?」
「そうなの、香里?」
「止む。絶対止む」
 うんと拳を握って頷く香里はまるで自分で天気をどうにかしようとしているようにも見えた。しかし概ねどうにもならないものなのである。かの松尾芭蕉も雨や雪で何度も足止めを食っているのである。
「止むといいね」
「あれ? そういえば相沢君は何してるの?」
「俺? えっと、あ、何か迷っちゃって」
「祐一、方向音痴だからね」
 かの松尾芭蕉は方向音痴だったのだろうか。『おくのほそ道』に描かれていない、迷いに迷ったかの松尾芭蕉の姿を想像すると少し笑える。
「でも旅館で迷うなんて」
「迷うんだよ祐一は。祐一なんだから」
 よくわからない理由ではあったが、祐一本人も何となく納得してしまっていた。
「じゃあ、祐一、途中まで一緒に戻ろうよ」
「いや、その心配はいらん。こういう地図を作ってみたからだ」
 かの松尾芭蕉は地図を持っていたのだろうか。それともおのれの感覚を信じて歩いたのだろうか。
「わー。無意味」
「無意味っていうな。俺はもう迷わねえ」
「意地張ってないで、行きましょ。湯冷めしちゃうから」
「はい」
 すっと祐一の真横を歩いた香里の身体から甘い果実のような匂いが漂ってきた。
「いい香り」
 思わず口走ってしまった祐一に、振り返った香里は「はあ?」と怪訝な表情を浮かべた。
 彼女に駄洒落は通用しない。


 部屋に戻った斎藤は有料チャンネルがかなりの音量でつけっ放しになっているのを発見した。
 かの松尾芭蕉も旅館で有料チャンネルを見るか否かの二択に精神をすり減らしたのだろうか。


 普段の生活よりもはるかに早い時間に消灯せざるをえないのだけれど、たいていの者は眠ろうとしない。布団をかぶって他愛もない会話に花を咲かせたり、他の部屋に忍び込んだり、猛者は女子の部屋が連なる別の階へ向かう。
 しかし祐一には別の目的があって、しきりと廊下の様子を探っていたのだった。
「おい、相沢」
「何だよ」
「どうしたんだよ」
 北川が怪訝に思うのも無理はない。祐一はバスタオルを持っていたのである。
「北川、知ってるか?」
「ああ」
「何をだよ」
「……ごめん。知らない」
「ここの温泉は結構遅くまでやってんだ」
「え、そうなんだ」
「温泉があるのに入らないってのは詐欺だぜ、なあ?」
「まあ、そうだけど……え! 行くの?」
「行こうぜ」
 北川は腕を組んで熟考する。その真剣な顔はやがて緩んでいく。
「いいねえ」
「よし、決まりだ。行くぞ」
 二人は忍者のように行動する。曲がり角では必ず一度静止し、様子を見る。爪先立ちで小走り。バスタオルは浴衣の中に隠してある。運がいいことに、教師に見つかることはなかった。
 浴場の前に来たところで、沈黙を貫いていた祐一が口を開いた。
「北川ちょっと先行っててくれ」
「え? 何で? お前まさかこれドッキリか」
「違う違う。取ってくるものがあるの。すぐ来るから」
「そう? まあ、いいや」
 釈然としないものを感じながらも、北川はおとなしく脱衣所に向かう。温泉は確かに開いていた。夜中まで開いているようだった。幸い、他の客の姿はない。北川はするすると浴衣を脱いで、全裸にタオルという勇ましい格好になった。
 温泉は大浴場とは違い、猿が入っていそうな屋外の温泉を思わせるデザインだった。なかなかいいじゃないかと北川の頬が緩む。身体をしっかりと流してから、湯船に沈んだ。少々熱いが、これくらいが温泉らしくていいなと彼は思う。
 大きな息が出た。タオルを額に置いて、肩までつかっていた。非常に気持ちが良かった。どんな成分が含まれているかは知らぬが、何かいろいろなものが染み込んでくるような按配だった。相沢も早く来ればいいのに。北川はぶくぶくと潜って、顔を出す。すこぶる心地良い。
「生まれたてーのぼーくらの前には」
「お前は綾瀬はるかか」
 祐一がいた。腰をタオルで隠していた。
「万が一綾瀬はるかだったらどうしようって思っちゃったよ」
「相沢、お前、男二人だぜ。隠すこともないだろ」
「いいのいいの。じゃーん」
 と、祐一は後ろ手に持っていたものを北川に見せる。それはお盆だった。数時間前に厨房に届けようとして迷ってしまい、そのままくすねてしまった徳利三本が乗っている。小皿に盛られたお通しもあった。
「あ、相沢さん……それは……!」
「北川さん、これで一杯やりましょう!」
「いやいやいやいや、いいですなあ!」
 とりあえず縁に置き、身体を流してから祐一も湯船に入る。そして一杯、まずは祐一が口に含む。
「うわあ、効くなこりゃ」
「どれどれ」
 北川も一杯。両目をきっとつむって、くうと唸った。お猪口がないため直接口をつけていたが、そんなことはささいなものだ。あっという間に一本目を飲み干してしまった。
「染みるなあ」
「なあ、北川」
「うん?」
「俺こういうの夢だったんだよ。温泉にのんびりつかって酒を飲む」
「おっさんだな」
「いやいいんだよ、おっさんでも。最高じゃない、こういうの。今なら猿にだって酒を振舞うね」
「モンキーにか」
「モンキーにだ」
「お前あれじゃん」
 北川は思いっきり身体を伸ばす。そのたびに温泉の効能が身体の悪いところを退治してくれているような気分になった。
「栞ちゃんと行けばいいじゃん。混浴混浴」
「そうだなあ」
 祐一は二本目の調子をぐいとあおって、飲み干す。湯気の向こうに見えている北川の顔の判別が難しくなっていた。酔っていた。しかしバス酔いとは違い、気分の良い酔いだった。
「それはいいなあ。遠いところに行きてえよ。誰も俺たちを知らないような、そんな遠いところに」
「何じゃそりゃ」
「ほら、あれだよ。旅は長くだらだらしてるほうが楽しいっていう」
「行き先決めずにぶらり旅か」
 二人は声を上げて笑う。まさに裸の付き合いだった。
「お前こそ、香里とどうなんだよ。行きたいだろ」
「行きたいねえ。秘湯巡りとかしたいよ」
 何やらでれでれと身体をくねらせる北川だった。
 と、そのときである。脱衣場のほうから物音がしたのだった。
「あれ? 誰か来たんじゃねえの?」
 北川が目を凝らす。しかし湯煙とすりガラスという二重の壁に阻まれて、脱衣場の様子はうかがい知れない。
 ところが、独り言が聞こえてきたのだった。
「明日は奈良か。あのKASには要注意だな。鹿一匹食いかねんからな」
 石橋だった。ぱちんぱちんという音はおのれの尻でも叩いているのだろう。
 いつ入ってくるともしれぬ石橋を探りながら、北川が言う。
「おい、どうすんだよ」
「そうだなあ」
 目を閉じた祐一は湯船の中で腕組みをする。しかし酔っ払っているために、うまく両腕を組めずにいた。一方の北川も酔っているから、ぱちゃんぱちゃんと水面をたたくだけで何の対処にもならない。
 祐一はぱっと瞳を開いた。
「よし」
「どうした? ナイスアイデアか?」
「こういうときは慌てて動くから悪い方へ悪い方へ話が進むんだよな」
「そうか?」
「いちご100パーセントとかよラブひなとかよ、全部そうだろ」
「あ、言われてみればそうだな!」
「だから、もう、あれだ。ここで石橋を待とう。もうそれでいいじゃないか」
「なるほど。さすが相沢。すげえや」
 ちっともすごくないのである。酒の制で冷静な判断力が失われているだけである。
 はたして石橋は入ってきた。タオルを肩にかけ、大人の体躯を見せびらかすように堂々と闊歩していた。しかし誰かが湯の中にいることに気づくと、慌てて内股になり、胸を両手で隠した。
「いや、そこじゃねえだろ!」
 恥ずかしげに俯いたのは一瞬で、石橋はすぐに「北川か?」と訊ねた。
「いいえ違います。私は温泉の妖精ラドンです」
「それは怪獣だろ。ていうか北川の声じゃねえか。お、相沢もか、お前ら何してんだ」
 ずかずかと歩み寄り、そのたびに股間の散弾銃がぶらぶらと揺れ、北川は「うわあ」と顔をそらす。
 しかし祐一は泰然としたものである。悟りきったように湯の中に座り、石橋が身体を乗り出したところに三本目の銚子をぐっと差し出し、言った。
「おお、石橋じゃねえか。どうだ一杯、あんたも飲むか?」


「何もマジで殴んなくてもいいじゃないですか。おお、痛え」
 石橋専用の部屋である。正座した祐一は頭のてっぺんをさすっている。北川も隣で正座している。しかし二人とも酔っ払っているため、前後左右にゆらゆらと揺れていた。何だかエンヤっぽかった。
「黙れ黙れ。勝手に温泉入りやがって。入りそびれたじゃねえか」
「じゃあ、見逃してくれればよかったじゃない」
「ああ、そっか。いや、そっかじゃねえよ。それじゃあ教師としての威厳がだな」
「そんなもん最初っからないでしょうに。はっはっは」
「そりゃそうだ、はっはっは。って違えよ、馬鹿野郎」
 石橋は布団の上で胡坐をかいているが、二人は畳の上で正座である。畳の冷たさが脛にこびりついていた。一方の石橋は祐一から取り上げた酒を飲み、つまみを食っていた。
「困ったもんだな、お前らには。ちょっと二年C組の学級目標言ってみろ」
 二人は顔を見合わせて、口を開く。
「エ…エンジョイアンドエキサイティング!」
「魂の自由を! 精神の開放を! うっふーん」
 間。
「…………あれ? そんなんだったっけ?」
 首を傾げる石橋に祐一は「俺、学級目標なんて聞いたことなんですけど」と言い放つ。
「そりゃそうだな。で、北川、何だその魂の何たら」
「そんなことより先生、オレたちもう寝させた方がいいんじゃないんですか?」
「え?」
「もう一時過ぎてますよ。いくら説教でもまずいでしょ」
「言われてみればそうだな。よしお前ら帰ってよし。速やかに寝ろ」
 いいのかよ!
 二人はそう思ったが、あえて口には出さなかった。
「あと、お前ら明日、班行動なしな」
「え?」
「うそ!」
「お前らは終日俺と一緒。以上」
 わかったら帰れ帰れと石橋は銚子をぶらぶらと揺り動かす。
 祐一と北川は言い返そうとも思ったのだけれど、石橋のことだから明日になれば忘れているに違いないと思い直し、部屋を出た。廊下はすっかり暗くなっていた。少し歩いたところで、男連れの仲居とすれ違った。
 一方の石橋は銚子に残った数滴を舐めるように舌を伸ばしていた。そこに仲居と男が入ってくる。
「あ、何ですか? またうちの生徒が? あの野郎ども私の方から……」
「あの先生こちらのお客様がですね、ちょっと話があると……」
「……へ?」
 仲居の後ろに立っていたのは、ぱっと見でもかたぎではないと判断できるくらいの強面の男で、石橋が持っている銚子とテーブルの上に置かれた空の皿などを見て、「それはどこで?」とえらく落ち着いた口調で訊ねてきた。
 小便を漏らしそうなくらいびびっていた石橋だったが、どうにか気持ちを安定させ、「いや、困ったもんですよ。これはうちの生徒がですね、どこかから持ってきたわけですな」と『生徒』の部分をとにかく強調して答えた。
 男は腕を組んで、しばし考えた後、静かな、しかしはっきりとした口調で言った。
「まあ、生徒の責任は教師が取るもんやな」


 翌日、上空は香里の言葉通り晴れ上がり、石橋の顔も腫れ上がっていた。
 祐一がすかさず歩み寄り、声をかける。
「どうした石橋。ひでえ顔だな」
「お前のせいだ馬鹿もん」
 祐一はまた拳骨で殴られ、観光バスでは北川と一緒に強制的に石橋の真後ろに座らされた。
 石橋は一番前の席にいる。通路を挟んで逆側にはバスガイドの女性が座っている。まだ二十代半ばの女性だ。石橋は彼女を見て、『若いって素晴らしい!』と考え、スカートからのぞく生足を見ては鼻の舌を伸ばす。
 一方の祐一ではあるが、結果的に前方の座席に座ったことは吉となった。昨日悩まされたバス酔いを憂鬱に感じていた祐一だったが、プライドを売り飛ばし、エチケット袋とすぐにでも外の風を取り入れられるポジション、最悪北川の手の中に吐けばいいじゃないかという安心感を購入していた。もちろん最後のは冗談だが、もはや嘔吐もやむなしというところまで来ていたのは確かだった。
 酔い止めを誰一人として持っていないのは誤算だった。祐一はもともと酔うほうではないし、むしろ酔ったものをからかって吐かせるという悪癖を持っていたくらいなのだが、何故だかこの修学旅行では酔う側に回ってしまっているのだった。それは彼にとっては由々しき事態だった。
 そんな祐一に、具体的にいえば、背筋をぴんと伸ばし、握り拳を大腿部に鎮座させ、ぐっと唇を噛み締め、ただ前方の一点のみを見据え、凛々しさすら感じさせるくらいの精悍な顔をした祐一に石橋が話しかける。
「おい相沢、何だその顔は。ふざけてるのか」
「……」
 祐一は答えない。彼には石橋の声は届いていないのだ。
 バスがどこへ行くのか、今日のこれからの予定は何か、実存主義における信仰的な自己中心主義の倫理とは何を意味しているのか、無住居涅槃の楽園に俺は辿り着けるのか、ジャック・デリダによる中世ヨーロッパ哲学の脱構築の結果生まれた強烈な批判は結局歴史の自己投影に他ならないのか、そのようなものは彼の頭からこの瞬間は失われていて、ただ目の前に横たわっている嘔吐感の大海原をどう渡ればいいのかという難題に直面していた。
「石橋。相沢は今集中してるんだ。あんた、担任なら見守ってやるくらいの器量はねえのかよ」
「え? 集中?」
「バス酔いとの戦いだ。孤独な戦場だよ」
「……そうか」
 石橋は瞳を閉じる。おれの知らぬところで生徒たちはがんばっているのだなと感極まる。
 北川はいつ何時祐一に変化が起こっても大丈夫なように常に半身で、またビニールシートをいつでも引っ張り出せるように待機している。
 オレにできることなんてないんだ。だから、がんばれよ、相沢。


 北川と石橋のサポートもあり、祐一は戦いに勝利した。奈良の大仏を目の前に、彼は生まれて初めて神仏に感謝した。厳かに手を合わせてみる。
――祐一。相沢祐一よ。
 京都から奈良、一時間強の道程だった。しかし祐一には数時間にも数日にも思えたのである。
――おい、祐一よ。
 ただバス酔いと戦っていたわけではない。昨夜いただいた日本酒の影響も少なからずあった。二日酔いも含んだ戦いだった。つまり連合軍対レジスタンスである。
――おい、おいって言ってんだろ。おい、相沢。お前、大仏を無視するとはいい度胸だな。
 ナチスドイツの一方的な侵略=嘔吐の一方的な侵食であった。
――うわあん。もういいよ、ちくしょう。
 この瞬間、祐一は大仏のお戯れにすら勝てるくらいの強靭な精神力を持っていた。


 しかし精神力、集中力というものは続かないものなのである。
 午後。昼飯後、いわゆる奈良公園に彼らはいた。
 奈良公園周辺の散策と称しての自由時間、祐一と北川は石橋の近くを離れることができなかった。さすがに縄で縛られているわけではなかったが、石橋の爬虫類を思わせる執拗な視線が彼らの背中に張りついていて、逃げ出した瞬間に石橋のべろが二人を巻き込むような気がして、動くに動けない状態だった。石橋をどうにかしてその場に釘付けにすれば、あるいは逃げ出せるのかもしれなかった。
「なあ、相沢」
「何だ、北川」
「俺はなどうにかこの状況を打開したい」
「おお、奇遇だな。オレもそう思ってた」
「竹馬の友よ」
 二人はひしと抱き合い、耳元で作戦をささやきあった。そんな二人を石橋はゲイを見るような、微笑ましい目線で見ていた。


 その頃斎藤は奈良公園の鹿にまたがってみたところだった。
「いやっほーい!」
 直後、管理人に殺されそうになった。


「鹿さん」
「名雪、中学校のときもここに来たの憶えてる?」
 水瀬名雪と美坂香里である。クラスではみ行の女と言われている。
「うん。憶えてるよ」
「あ、そうなんだ」
「え? 香里憶えてないの?」
「あたしは必要なものしか記憶しない主義なの」
「えー。修学旅行の思い出は必要だよ」
 名雪は鹿せんべいを持っている。そのため鹿が次から次へと寄ってくる。
 その勢いときたらたいしたもんだ。
 祐一と北川は先ほどから鹿の動きを観察していた。そしてようやく状況を打開する方法を練りだしたのである。


「なあ、石橋」
「何だよ」
「俺も鹿に鹿せんべいあげたいよ。鹿は鹿せんべい食べるもんだろ。鹿が食べないせんべいは、それただの濡れせんべいだもんな」
「いや、濡れせんとは限らないんじゃないか」
「鹿にあげたい。せっかく鹿に囲まれてるのに!」
「わかったわかった。買ってこい。ただし北川はここで待ってろよ」
「え? オレ? 何で」
「うるせえ。お前ら二人で逃げるつもりだろ。そんなことは許さん」
「ちくしょう。バレてたか」
「この石橋を甘く見るなよ。クズどもが」
 不貞腐れたように北川は地面の石ころをける。それを見ながら、祐一は申し訳なさそうに鹿せんべい売りのもとへ向かう。鹿せんべい売りは鶴見辰吾のような顔をしていた。
「十人分くらい」
「え? マジで?」
「えさあげたいんだよ!」
 馬鹿な会話である。祐一も祐一なら鹿せんべい売りも鹿せんべい売りである。鹿せんべい売りは鹿が絶滅する真冬は1/36スケールの奈良の大仏を売っているのであるが、それは余談である。
 無事に鹿せんべいを仕入れた祐一は砕いた欠片をばらまきならが、石橋と北川の元へ戻った。
「北川さん、買ってきましたよ」
「相沢さん、さすが。日本一!」
 祐一に渡された鹿せんべいを砕きながら、北川は周囲を見る。鹿が集まってきていた。祐一がぼろぼろと撒いていた鹿せんべいの破片を食っている。
「よし北川、始めるぞ」
「はいよー」
「え?」
 事情を飲み込めないのは石橋である。何を始めるというのか。その疑問はすぐに解消した。
 北川が石橋自体に砕いた鹿せんべいをふりかけたのである。
 祐一は周囲の鹿を誘うように、鹿せんべいを投げている。
「どんどんどん!」
「石っ橋!」
「どどんがどん!」
「ダメ教師!」
「どんどんどん!」
「石っ橋!」
「どどんどどん!」
「変態教師!」
 あっという間に石橋は鹿に囲まれて、その姿は鹿の群れの中に埋もれた


 つかの間の自由。まさにそのような表現がふさわしい真っ昼間だった。祐一と北川はどうにか石橋から逃げ出したものの、結局すぐに観光バスに戻らないといけないのだった。
「怖かった……鹿が、たくさんの鹿が」
 再び二人は石橋の後ろの席に陣取るはめになったが、石橋はがたがたと震えるばかりで叱りも殴りもしなかった。
「殺されるかと思ったんだ。鹿に、鹿に食い殺されるかと思った。犯されるかと思った!」
「ごめんよ石橋。やりすぎたよ」
「あんなに鹿が怖かったのは初めてだ。もうおれは鹿島アントラーズは応援しないからな」
「反省するよ、石橋」
 北川も流石に気の毒に思ったのか、バスに乗り込んでからずっと、慰め続けている。祐一は祐一で、再び一人ぼっちの合戦が始まっていたのでそれどころではない。吐き気をごまかすために人の想いの不連続性に思考をめぐらせていた。しかしそれが間違いだった。集中力が中途半端に失われたのだった。熱い液体が食道を逆流した。祐一は思った。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ。終わりだ……。


 しかし実際はすっきりしたのだった。ひたすら我慢したあとの放尿のように、すこぶる気持ちの良い嘔吐だった。むしろ積極的に吐くべきであったのではないか、これからが嘔吐の時代がくるのではないか、嘔吐製薬!などとさえ思うようになっていた。隣で北川がもらいゲロをしていた。前で石橋がもらいゲロをしていた。祐一の嘔吐は結果的に同時多発ゲロを生んだ。


 その夜である。明日には帰路に着く。祐一は長いような短いような、ていうかゲロしか残らねーような修学旅行だったなと苦笑しながら玄関口のあたりをぶらついていた。夕飯を食べても、風呂に入っても、何となく胸元にあるゲロの残滓が、ていうか胃液がすっきりと落ちてくれないのだった。
「祐一」
 振り返ると、名雪がいた。昨夜と同じ浴衣を着ている。すすきのかんざしも熱燗徳利の首もないのが残念だった。しかし妙な色っぽさがあった。従姉妹の娘にエロティシズムを感じるのは考えてみればそのときが初めてで、大人になったなあというおっさんくさい感慨があった。
「祐一、何してるの?」
「え? 何か、風に当たってたんだ。気持ち悪くてさ」
「吐いてたもんねえ。祐一バスに弱いんだ」
「タクシーの方がもっと弱いけどな」
「自慢することじゃないよ」
「名雪」
「うん?」
「散歩にでも行かないか。今日の夜は、いい天気だ」
「うん、いいよ」
 と、にっころと、いや違う、にっこりと笑う。
 実際いい天気なのだった。星々の瞬きが見える。二人は玄関にあった下履きを失敬した。祐一は雪駄を、名雪は下駄をそれぞれ履いた。石畳を歩くと、からんころんと涼しげな音がした。
「今日で最後だぜ」
「そうだね。嬉しいよ」
「え? 嬉しいの?」
「うん。だってお母さんに会えるし。わたしね、本当はあんまり来たくなかったんだ」
「……」
「だって、お母さん一人になっちゃうし」
「そうだけど」
 石畳の坂を下る途中に竹で作られた長椅子が置いてあった。試しに腰を下ろしてみると、これが思いのほか頑丈であったので、祐一は手招きをして名雪を座らせた。
 何となく会話が途切れた。
「……祐一は? 祐一は楽しかった」
「楽しかったよ。舞妓さんきれいだし、あと、あ、舞妓さんきれいだったし、ほら、舞妓さんきれいだったもんな」
「何で三回も言うの? あ、でもでも、栞ちゃんと会えなくて寂しいでしょ」
「え? あ……ああ……まあな」
「そっか。そうだよね」
「何だよ、それ」
「何でもない」
 からんと音を立てて、名雪が立ち上がる。すぐに転ぶ。どうやら下駄には慣れていないようだった。
「大丈夫か?」
「え……うん。平気平気」
 浴衣の裾をはたいたとき、白い脛や腿がのぞいた。引き締まってすらりと伸びていて、鹿の足のようだった。


 その夜は祐一はすぐに眠ってしまった。祐一は昼間の精神的な戦闘のおかげでかなり疲弊していたのだ。しかし北川は再び石橋の部屋にいた。今度は生徒会長の久瀬という強敵が一緒だった。
「北川お前何歳だ」
「十七っす」
「このビデオは何だ」
「十八歳未満お断りのビデオっす」
「北川お前何歳だ」
「十七っす」
「何かおかしいよな」
「そうでありますか。自分はそうは思わないのであります」
「そうか……」
 ことの発端は久瀬が北川の鞄につまずいたという些細な出来事だった。各部屋の様子を教師陣に報告する義務を仰せつかっていて、たまたま祐一北川の部屋にいたのだった。久瀬の足にはかたいものがぶつかったという感触があり、違和感を覚えた久瀬は何の気なしに鞄の中をのぞいてみたのである。すると、青くごわごわとしたビニールの袋が入っていた。
 アダルトビデオだった。
「お前、修学旅行に何持ってきてんだ。少しは隠せ」
「出発の朝、返却するつもりであったのであります」
 実際そうなのだった。レンタルビデオ店は駅前にあるため、ついでに返しておこうと思ったのだった。いくら北川でも好き好んで延滞料を払いたくはない。しかし祐一、栞、斎藤による寸劇が始まっていて、すっかり忘れてしまっていたのだった。
 石橋がビデオの題名を確認する。
「『ディープスロート・アイランド』。これは……洋ものだな」
「ああ。大したことなかった」
「『グラマラス・アナル』。どんなアナルだ、どんな」
「いや。大したことなかった」
「『世界はそれをアナルと呼ぶんだぜ』。どういう状況だ、どういう」
「まあ、大したことなかった」
「『アナライズ・ミー』……お前、アナルばっかじゃねえか。この変態が」
「は! それは普通の映画であります!」
「え? そうなの?」
 と、石橋は座っていた久瀬に聞く。
「そうですね。普通の映画ですよ。デ・ニーロですよ」
「デ・ニーロか」
 なるほどなあ、世界は広いなあ、アナライズって何だろう、アナル化するって意味かなあ、などと考えながら、石橋は最後のビデオを取り出す。
「で、最後は『キャッツ&ドッグス』……? お前、このド変態が! よりによって猫と犬か!」
「だから普通の映画だよ。コメディーだよコメディー」
「え? そうなの?」
 と、スクワットに精を出す久瀬に聞く。
「そうですね。普通の映画ですよ。トビー・マグワイアですよ」
「トビー・マグワイアか」
 誰だそれは、と思ったのだが、当然のように言う久瀬の手前、トビー・マグワイアを知っているふりをした。実際はメジャーリーガーのマグワイアの顔しか浮かばなかった。
「まあ、とにかくだ」
 石橋は北川に向き直る。
「これはしっかり延滞料払って返せ」
「へーい」
「それから、五本も借りるな」
「五本で千円だったんであります」
「安くてもだ、AVを選ぶときの男の集中力はよくて三本分くらいしか持たないんだよ。統計が出てるんだ。お前も男なら、おれみたいに一本に集中しろ。たとえ選択ミスだったとしても、気力でどうにかなるんだよ。五本も借りるのは、店側に踊らされているだけだ」
 いや、説教の論点がずれてるだろと久瀬は思ったが、どうでもよかったので口は挟まなかった。
「石橋は一本しか借りないのか?」
「当たり前だ。その方が当たったとき、嬉しいだろ」
「……オレ、初めて石橋が先生らしく思えてきた」
「……そうか。わかってくれるか」
「ああ。十戒に一つ書き加えて、十一戒にするよ」

 一、ヤハウェが唯一の神であること
二、偶像を作ってはならないこと
三、神の名をいたずらに取り上げてはならないこと
四、安息日を守ること
五、父母を敬うこと
六、殺人をしてはいけないこと
七、姦淫をしてはいけないこと
八、盗んではいけないこと
九、偽証してはいけないこと
十、隣人の家をむさぼってはいけないこと
十一、アダルトビデオを借りるときは魂を込めてただ一本を選ぶこと

「先生!」
「生徒よ!」
 漢たちはわかりあったのだった。


 そして最終日、午前中は京都駅周辺の散策だった。自由行動である。自由行動というからには何をしてもいいのである、犯罪以外は。
 祐一と北川は駅前のベンチに座ってコンビニで買ってきたバターロールを千切っては、フルッフーと近寄ってくる鳩どもに投げ与えていた。数時間をこうして過ごすつもりなのだった。鳩は際限なくやってきた。
「北川」
「どうした、友よ」
「今日は……帰りたくないな」
「……泊まっていくか?」
「何言ってんだ馬鹿者」
 石橋も隣でバターロールを千切っていた。そのスリーショットは旅に疲れた中年三人と表現しても問題はないのではないかと思ってしまうくらいにくたびれていた。
「今日帰るんだよ。お前らにはわからないだろうが、普通が一番なんだよ。帰りゃあわかるさ」
「何言ってんだ。この中で一番普通を求めているのは俺だぜ」
 石橋と北川は顔を見合わせ、やれやれと肩をすくめた。
「何だそのコンビネーションは。腹立つな」
「そろそろ皆戻ってくる頃だ。お前ら、邪魔だからこの鳩どうにかしとけ」
「どうにかって。ていうか、邪魔って」
「オレたちだけじゃないだろ。先生も餌あげてたじゃない」
「うるさいうるさい。お前らでどうにかしろ。中年は疲れてんだよ。はい、がしゃがしゃがしゃがしゃ、今、中年シャッター閉まりました」
 という子供のようなパントマイムをする石橋であった。
「あ、シャッターが!」
「シャッターが閉まってしまった!」
「ちくしょう。逃げやがって」
 そのシャッターが次に開くのは石橋が今夜帰宅してテキーラをあおるまで待たなければならなかった。


 石橋にとって幸いだったのは、帰りの電車では誰もが皆疲れきっていて、もうぐだぐだだったことである。注意も様子見も必要なかった。思わず行きの電車で購入したワンカップに手を伸ばしてしまうところだった。
 最終的には駅で解散ということになる。高校だけあって、電車通学のものもいるからである。簡単な挨拶を行い、解散になった。石橋はようやく大きく息を吐き出した。終わった。明日は休みだ。今日は飲もう。秘蔵のテキーラ、ウオッカを空けてしまおう。そんなしょうもないことを考えていた。
 祐一、北川、斎藤は名雪、香里を誘って、何か食べていこうかと考えていたのだが、名雪はさっさと帰宅してしまい、香里も名雪と一緒にと去ってしまった。
 徐々に駅前から人の姿が消えていく。三人はしゃがみこんで、じゃあ三人で行くべやなどと話し合っていたが、祐一は不意に立ち上がり、「あ」と声を上げた
「……栞」
「迎えに来ちゃいました。祐一さん、帰ろう」
 笑い顔で、でもどこか寂しげな栞がいた。ニットの帽子をかぶり、暖かそうな手袋をはめていた。祐一にはその姿がひどく懐かしいものに思えてならなかった。二、三十年ぶりに会うような、そんな感じだった。
「……ああ。そうだな。じゃあ、北川、斎藤、そういうことで。」
 残された二人はさんざん野次を飛ばしてから、最終的に自己嫌悪に陥った。
 気がつけば暗くなっていて、駅前はほぼ無人になっていた。
「帰ろうぜ」
「斎藤、何か食ってこうぜ」
「エビフィレオ」
「エビフィレオ」
「決まりだ」
「あ、そういえば知ってた?」
「何が?」
「最後授業体育だって言ってただろ?」
「そうだっけ?」
「サッカーらしいよ」
「あ、そうなの」
 会話を重ねるたびに、涼しくなっていくのだった。


 そして年度末、最後の授業=サッカーへの期待感は着替えの段階ですでに膨らんでいたのだった。修学旅行から戻ってきてから、一週間くらいが経過していた。サッカー部ベンチの斎藤は特に気合が入っていた。いいところを見せてやろう、いや誰にというわけでもないけどあの子に、などと少々不純な動機でもあったが。
 着替え終わった彼らは昇降口へ向かう。まだシャツだけだと肌寒い。祐一も斎藤もジャージを羽織っていた。男子は濃紺のジャージだった。北川がいきなり背を向けた。
「おい、北川どこ行くんだよ」
 祐一に北川は笑いながら答える。
「寒いから上着取ってくるわ」
 北川は自分の机がある教室へと向かった。

(この章、了)



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