木々さえも凍りつきそうになる寒さの中、彼は学校へとやってきた。
深い夜の闇に紛れ、男は門を飛び越える。
その手に持つのは木刀。
いつもは持ってくる夜食も今日は無い。
それは彼の内に秘める決意ゆえ。
それは校舎の中で待つ彼女も同じはずである。
彼女と共に今日決着をつけるため。
全てを終わらせるために、彼は校舎の中へと入っていった。
彼女は一人、校舎内の廊下に佇んでいた。
その手には二本の剣。
一つは西洋風の両刃の剣。その刀身は闇夜の中でも僅かな光を反射するほど磨き上げられている。
もう一本はその剣とは対照的に研ぎ澄まされた日本刀。その刀は鞘に収められており、開放の瞬間をいまかいまかと待ちわびているかのようだった。
彼女は感覚を研ぎ澄ませ、辺りを探っている。
彼女が待つのは魔物。
親友に怪我をさせた、憎むべき魔の異形。
闇からいずる瞬間を、窓に背を預けながらただひたすらに待ち続ける。
窓の外では冬特有のどこか湿った風が吹き、月を隠す雲はゆらりゆらりと蠢くように動いている。
雲の切れ目から月明かりが射した。
瞬間。
彼女は跳んだ。
飛び込むように廊下の端から端へと跳ね、そのまま前転の要領で転がり込む。
その瞬間、彼女が元いた場所に一番近い窓ガラスが粉々に砕け散った。
刀はその場に投げ捨て、剣を両手で持ち直す。
体勢も立て直さずに彼女は『魔物』へと切りかかった。
上空から氷の砕けるような音。
相沢祐一は音のした方向を見上げた。
「遅かったか……!?」
一箇所だけ割れた窓ガラス。
今しがた出た月は今はもう隠れてしまい、校舎の下からではその中までは見えない。
だが既に彼女と魔物は出会ってしまったようだ。
「舞……!」
焦りの混じる声で彼女の名を呼び、彼は走り出した。
「ぁぁぁあああああっっ!!!」
咆哮一つ、彼女は魔物との間合いを詰める。
右上段からの袈裟切り。
魔物はそれをいともなくかわし、舞からの距離をとる。
だが彼女はその後退を予想していたかのように、自然な動作でそれを追う。
二段、三段と剣を振るうが、よけられ、そして弾かれた。
連続攻撃が筋肉の限界点で停止し、魔物との間合いがひらく。
舞は剣を構えなおし、魔物を見据えた。
―――ダメ。
その時、舞の耳に声が聞こえた。
月の光が射す。
魔物を包み込むように。
魔物は消え、そこに天使が降り立つ。
月の光に包まれ、背に羽を携えた少女が一人。
「舞!」
声が誰もいない廊下に反響した。
慌てて窓ガラスが割れた場所へ来たものの、既に彼女の姿は無い。
祐一は溜め息を吐きつつも辺りを見回す。
割れた窓ガラスの破片が散らばる場所には大小いくつかの傷があり、ここで舞と魔物の交戦があった事を如実に示している。
そしてよく見ると、その窓の下には何かが落ちていた。
彼はそれを手にとり、正体を確認する。
「刀……?」
それは舞がいつも使っているのとは別の、古い日本刀だった。
もしかしたら舞が自分の為に持ってきてくれたのかもしれない。
それともいつも持っている剣とは違う秘密兵器か何かだろうか?
祐一はそう思いながら、自分の持ってきたチャチな木刀を足元に置いて、その刀を鞘から引き抜いた。
スラリとした刀身。
その姿はまるで独り心折れまいとする舞自身のようであった。
祐一はそんな夢想に苦笑しながらも刀を鞘にしまおうとする。
その時、遠くから声が聞こえた。
「悲鳴……?
―――舞か!?」
祐一は目をつぶって耳を澄ませる。
しかし、次の悲鳴が聞こえる前に。
「そこの人どいてぇぇぇ!!!」
「……ん?」
背中に衝撃。
祐一がそう自覚した瞬間、人を鈍器で殴ったような音と共に祐一は廊下の宙を浮いていた。
硬い床を擦り滑る音が鳴り止むのと、祐一が現状を把握するのは同時だった。
「あ、あゆ……!?」
祐一の背中にぶつかった衝撃の原因は、祐一の背中に抱きついたまま目を回している月宮あゆ、彼女だった。
「うぐぅ〜……」
目を回したままつぶやくあゆ。
「……どうしてお前がここにいるのかは知らんが、とりあえずそこをどいてくれ」
祐一は刀が肌に触れないようにしながらあゆを引き離す。
「……あれ? 祐一くん……?」
抱きついていた人物が祐一とわかり、ホッと安堵の表情を浮かべるあゆ。
だがすぐにその表情は変わり、慌てて体を起こす。
「ご、ごめんね祐一くん!
……ってそれどころじゃないんだったっ!」
あゆは自分が飛んできた方向を見る。
「……生きてたんだな、あゆ。
どこかに行くって言ったきり消えたからのたれ死んだのかと思ってたぞ」
「うぐぅ。ひどいよ祐一くん!
……って言っても、そう思われてる通りなんだけども……」
自分の軽口で暗い表情になったあゆを見て、祐一は首をかしげる。
だが祐一が口を開く前に、あゆが先に口を開いた。
「来た……」
あゆが視線を送る方向から、一歩ずつ足音が聞こえてくる。
コツ。
コツ。
コツン……。
彼女は、足を止めた。
「舞……!
無事か……!?」
剣を携えながら暗闇の中から現われた舞。
その目には冷たい殺気の炎が灯っている。
「祐一。そいつから離れて。
そいつは、魔物」
舞はあゆを睨みながら低い声で言った。
「……へ?
……な、何言ってんだよ舞!
こいつは月宮あゆ! 頭の中と食い逃げの腕は魔物もビックリだが、こんなんでも俺の知り合いだよ!」
祐一の紹介文句に、あゆは祐一を睨みながら「うぐぅ」とうめく。
舞はあゆから視線を離さずに言葉を続ける。
「魔物がそうなった」
舞は祐一の言葉に耳を傾けず、あゆへ向かって地面を蹴る。
あゆはとっさに窓際へと跳び、先ほど祐一が地面に置いた木刀を拾った。
乾いた音が廊下に響く。
あゆが木刀で舞の剣をなぎ払ったのだった。
舞は深追いはせず、後ろへと下がる。
あゆも舞と戦うつもりは無いのか、祐一の隣に駆け寄った。
「な……! え……!?
舞……!? あゆ、なんで、強、おま……?」
舞の剣を防いだあゆを見て、祐一の思考が混乱する。
目の前の少女は間違いなくあゆだろう。
少なくとも彼女の言動は彼が知っている月宮あゆだ。
だが舞が言うにはあゆは魔物で、それを裏付けるかのようにあゆは舞の剣を防いで見せた。
それともあゆは元からこんなに強かったのであろうか?
ただ偶然弾き返しただけなのだろうか?
え、なにこれ? ドッキリ?
様々な疑問が祐一の中で錯綜する。
「……舞、どうなってるんだ?
お前が説明してくれないと俺はどうもできない。
魔物は俺だって倒したいけど、あゆは俺の友達だ」
祐一は真剣な面持ちで舞の目を見つめた。
舞はやっと祐一に視線を移し、その問いに答える。
「魔物が変身した」
舞の端的な説明にあゆは否定の意思を表す。
「うぐぅ。はしょりすぎだよぅ!
ボクの話を聞いてくれてもいいのに!」
あゆは真剣な表情で、舞へ向かって非難の声をあげた。
「……気付いてるんでしょ、魔物はあなた自身だって!
魔物をいくら傷つけてもそれは全部あなた自身に返ってくるって!」
祐一はあゆの言葉をすぐに理解することができなかった。
――魔物が舞自身?
祐一は意見を求めるように舞を見たが、舞は顔を伏せその表情は読み取れない。
廊下に沈黙が広がった。
「……だから、なに」
沈黙を破り、舞が口を開いた。
その声は震えていて、感情が昂ぶっている事が祐一にも理解できた。
「魔物は!」
いつもの舞と違い、叫ぶかのような声をあげる。
「魔物は佐祐理を襲った!
私に、誕生日プレゼントを用意してくれていた佐祐理を!」
彼女の声が真夜中の校舎内に響き渡る。
「私は、許さない……」
倉田佐祐理は頚椎損傷の重症。
いまだ目は覚ましておらず、普通なら重度の後遺症が残るほどの傷だ。
彼女が普通に生活をすることは二度とできない。
「舞! 落ち着け!
魔物を傷つけてもお前自身に返ってくるってことは……!
魔物を倒してもお前が―――!!」
舞は剣を正眼に構える。
「―――お前が死ぬって事なんだろ!!」
「私は」
舞は跳んだ。
「魔物を討つ者だから」
君を守る
刃と刃が切り結ぶ音が校舎内に響く。
あゆに向かって迫る舞の前に、祐一が立ちふさがった。
その手には抜き身の刀。
剣と刀が舞と祐一の前で交差している。
「俺、結構本番には強いんだな……!
正直お前と張り合えるなんて思ってなかったよ……!」
祐一は引きつった笑いを顔に浮かべつつも、全力で舞の剣を押さえつける。
男女の違いはあるとは言え、最近鍛え始めたばかりの祐一と長年の戦闘経験で培われた力を持つ舞とでは、祐一の方が若干劣ってしまう。
「祐一くん!」
このままでは不利と見たあゆが祐一の横から一息に前へ出る。
その勢いを殺さないまま木刀による薙ぎ払い。
舞は祐一よりもそちらの方が脅威と見て、祐一の刀を競り離し後ろへと下がる。
あゆの木刀は届かず、それを見た祐一は声をあげる。
「あゆ! 逃げるぞ!」
祐一はあゆの返事など聞かず、その手を引いて舞がいる方向とは逆の方向へと走り出した。
息を切らしながらも足の動きは緩めず、祐一はあゆへ尋ねる。
「いったい何があったんだ!
お前が魔物で、魔物が舞!?
ワケがわからねぇぞこの!!」
「うぐぅ」
曖昧な返事を返すあゆ。
「うぅんと……簡単に説明しようとしても長くて難しくなるんだけど……」
「なんでもいいから説明しろ!
簡潔丁寧詳しく早めに!」
「ゆ、祐一くん無茶言ってる……」
「無茶でもなんでもいい!」
後ろからは舞が追いかけてきている。
祐一達に時間は無かった。
「えーと、魔物っていうのは舞さんが生み出した、幻想なの」
「……幻想?」
「そう、幻想。
現実には存在しない、彼女の願い。
願いは形をとり、それが魔物となった。
魔物は彼女が望んだ形。彼女は魔物を願い、そして魔物からこの場所を守ることを願った。
この学校は、彼女にとって何よりも大切な場所」
金色の麦畑。
『魔物が来るから2人の大切な遊び場所を守らなきゃいけない』
どこかで聞いた言葉。
それはいったいいつのことだったろうか。
祐一は思いをめぐらせる。
「でも、舞さんは時が経つにつれて自分でもわかってきていた。
それは無意識下だったのかもしれない。
魔物を倒すと自分も死んでしまう。
だけどそれは彼女自身、苦ではなかった。
なぜなら、死ぬことに抵抗はなかったから」
祐一が息を呑む。
「だけどそれは変わっていった。
そのきっかけとなった存在が倉田佐祐理さん、そして相沢祐一。
その存在によって彼女は生きる目的ができた。
だから、自分……つまり、魔物を止めて欲しいと思うようになった」
あゆが、違う。
「今回の佐祐理さんの事件で彼女は魔物を心底消し去りたいと思った。
そして、自分の力を止めて欲しいと願った。
再び彼女の願いを叶える力、現実の事象を自分の幻想に引き寄せる力は効果を発揮した。
その幻想が形を持ったのが、月宮あゆ」
口調、表情、そこから感じられるのはいつものあゆではない。
「舞を、説得して」
彼女のカチューシャからはウサミミが生えていた。
祐一は階段を駆け下りる。
「……ってことは何か?
お前自信は元々、舞のその『力』の産物だったってことか?」
あゆは祐一と共に階段を下りながら、そのウサミミを左右に揺らした。
「ううん。ボクは正真正銘、『月宮あゆ』。
だけどボクは今、舞さんの力を借りている。
今ボクが言った舞さんの『力』についての知識は、舞さん自身の深層意識。
生きたいと思う、もう一人の『まい』さん」
生きたいと思う舞。
だがそれ以上に彼女は自分自身を許せないでいる。
それを止める為に具現化した舞の深層意識が、今目の前にいるあゆ。
「……とりあえず、あゆ。
今はここから逃げよう。
少し経てば舞だって頭が冷めるだろうし。
人通りの多いところに行けばいくら舞だって……」
祐一がそう言いかけた時、頭上から階段の踊り場に黒い影が降り立った。
剣を持つその姿は、紛れもなく舞。
階段を飛び降り、着地後立ち上がる。
舞にとっては造作もない事。
「……逃がすつもりは無い、ってことか」
祐一は内心焦りつつも顔に無理矢理笑顔を作った。
それは苦笑にしかならなかったが、この状況を諦めるわけにはいかない。
―――舞はなんとしても死なせない。
前と後ろには守る人間。片方がもう片方を殺そうとし、自分は両方を守らなくてはならない。
それが祐一の勝利条件。
「……無茶苦茶だな」
状況を分析し、祐一は溜め息をついた。
だが無茶は承知。無理ではないと信じるしかない。
祐一に残された道は説得。
「……舞。落ち着くんだ。
こいつはあゆだ。魔物じゃない。
もう魔物はいなくなったんだよ。魔物は消滅したんだ」
だが祐一の言葉にも舞は納得せずに、首を左右に振った。
「それは魔物。
今は無害でも、そのうち必ず牙を向く」
あゆを見据えたまま舞は静かにそう言った。
今のあゆは舞の『力』そのもの。魔物と原因は同じ。
あゆの言ってた事が本当だとすれば、舞がもう一度魔物を願えばあゆは魔物と化すということだろう。
「それでも―――!」
祐一が言葉を続ける前に、舞は剣先を祐一に向けた。
「邪魔するなら、祐一でも容赦しない」
剣の切っ先を向けられ、祐一は言葉に詰まる。
舞はそれ以上の言葉は発しない。
無言の威圧。
祐一もそれ以上口をひらけなかった。
沈黙。
それでも祐一は舞を止めるために言葉を紡ごうとする。
だがその言葉が紡がれる前に、舞は足を踏み出した。
一歩で四段を飛ばす脚力。
その推進力はいとも容易く祐一の横をすり抜け、舞を階段の中腹に佇んでいたあゆのもとへと押し上げる。
「はああぁぁぁあ!」
掛け声と共に上段からの切り下ろし。
あゆは呻きつつもそれを木刀で受け止める。
それと同時に小さく響く、何かが軋む音。
祐一は瞬時に最悪の光景を思い浮かべ、舞へと肩からの体当たりをしかけた。
「くっ……!」
舞のバランスは崩れ、不利と思ってかそのまま一跳びで階下へと飛び降りる。
「あゆ、大丈夫か!?」
「ボクは大丈夫だけど……」
その手に持つ木刀には亀裂。
剣は今にも折れてしまいそうになっている。
あと一合でもすればその木刀は使い物にならなくなるだろう。
「あゆ、いったん逃げるぞ」
祐一は再び一方的にそう言い放ち、あゆの手を握り走り出した。
階段を駆け上り廊下を走り手近な教室に入る。
前後のドアから一番遠い位置に身を寄せる。
真夜中の誰もいない教室は、いつもより一際明るい満月のせいであろう、プラネタリウムのような幻想的な雰囲気をかもし出している。
だがそこで繰り広げられているのは命を賭けた鬼ごっこ。
勝利しても得る物は無いが、敗北すれば少女二人の命が散る。
ゆえに祐一は負けられない。
彼の頭は現状の全てを把握しているわけではない。
舞の心情に始まりあゆの言動、魔物の存在。全てを理解する知識も余裕も無い。
だが彼はそれでよかった。
いろいろ考えるよりも、ただ一つの目的がはっきりしていてわかりやすい。
なんとかして舞を止める。それだけ。
祐一は窓際に座り、あゆも隣に腰を下ろさせた。
「あゆ、これを」
祐一は持っていた日本刀をあゆに手渡した。
「俺が持ってるよりもお前が持っていた方が役に立つ
………悔しいが、お前の方が俺よりも強いからな」
祐一の言葉にあゆは苦笑して、
「わかったよ祐一くん。
でもボクのこの強さは舞さんの強さなんだ」
あゆは日本刀を受け取りつつも説明しだした。
「ボクはさっきも言ったとおり、舞さんの『力』によって生み出された存在。
それまでにかたどっていた舞さんの魔物の力をそのまま受け継いでる。
だから―――」
あゆが言葉を言い終わる前に、月明かりが雲に遮られた。
祐一は、そう思った。
祐一の頭上で窓が割れた。
あゆと、それに一歩遅れて祐一が窓に対して左右へ分かれて跳ねる。
次の瞬間あゆが今までいた場所に剣が刺さる。
月を影に窓から飛び込むその姿。
黒髪をはためかせながら、階下から外をつたってきた舞はそのまま教室の中へと降り立った。
そのまま舞はあゆを追い剣を一閃。
あゆはなんとかその衝撃を横に流すが、舞は間髪を入れず返す刀で切りつける。
体勢が整わないあゆはその身の重心が崩れ、手に持つ刀が弾かれる。
奇襲、先制、短期決戦。
それは戦いの定石にして最上の手段。
黒髪の鬼神はまさにそれをやってのけた。
あゆの持っていた日本刀はガラスが割られた窓枠を越え、宙へと放り出される。
あと一太刀で彼女は切り伏せられる。
そうして舞も鏡に写った虚像のように死を迎えるだろう。
祐一は焦る頭で漠然とそんな事を考えた。
――なら、俺にできるのは一つ。
彼は飛んだ。
ためらいは無い。
日本刀を空中でつかむ。
彼は二人の少女を救わなくてはならない。
すでに視界は教室を見上げる位置。
元より剣の腕で舞に敵うことはない。
精一杯の力をこめて、あゆがいるであろう方向へ日本刀を投げる。
ならばあゆを助ける為に、自分が賭ける物はただ一つ。
体は、重力に引きずられ落ちていく。
―――俺の命ぐらい、安いもんだろ?
あゆは欠片の狂いもなく飛んできた日本刀の柄をつかみ、舞の袈裟切りをそれで受け止めた。
あゆ自身は飛び降りた祐一を見て激しく動揺している。
だが彼の身を犠牲にした行為に答えようとする、彼女の中にいる『まい』がそれを許さない。
「祐一……!
私は……また……!!」
舞が横目で窓の外を見ながら、剣に力をこめる。
「ああああぁぁぁぁ!!!」
舞の自暴自棄たる叫びに負けないよう、あゆもまた力を振り絞る。
―――負けられない。
だけど祐一くん、その行動は間違ってる。
舞さんを説得できるのは祐一くんだけ。
ボクにはそれを助けることしかできない。
―――でも、それでも。
泣き言なんて言ってられない。
ここであきらめたら、それは祐一くんの努力が無駄になってしまうから。
あゆは一歩舞から後退する。
「てああぁぁ!」
刀の切っ先を正面に向け、声とともに床を蹴り、舞へと上段の突きを放った。
剣先が体を貫く。
羽飾り。
その随分と下、腰の少し上から刃が顔を見せていた。
血が滲む。
あゆの放った突きはブラフ。
彼女の手には既に日本刀は握られておらず、その両手には代わりに舞の剣がしっかりと握られている。
その剣はあゆの腹部を貫通し、背中を突き抜けて血を湛えている。
手の平は裂け、そこから血が滴り落ちる。
だがあゆはその手を放さなかった。
「これでやっと話せるね」
あゆは汗を浮かべながらも笑顔を見せた。
舞の体に激痛が走る。
あゆが受けた傷もまた、舞へと返る。
傷口が痛みを感じる逆順路。
痛覚が傷を作る。
舞の背中からもまた血は滲み出していた。
「ここから落ちたら無事に着地なんてできない……。
佐祐理さんの次は祐一くん……。
あなたは何もせずに死のうって言うの……?」
あゆは舞の目を見据えてそう言った。
「そんなの、勝手すぎるよ。
祐一くんは舞さんが好きだから、大切だからこんな――!」
「私は……私が嫌い」
あゆの言葉をさえぎって舞が口を開く。
「私がいなければ、佐祐理も祐一も傷つかないで済んだ」
その声は震えている。
彼女は全てを理解し、その上で自分が許せないでいる。
「でも、まだ舞さんはやり直せるよ」
あゆは落ち着いて言葉を紡いだ。
「ボクね」
精一杯の笑顔を浮かべる。
「七年前に死んでるんだ」
舞の身体がかたまった。
「幽霊っていうのかな。
よくわからないけど、ボクはもうここにはいられない。
祐一くんの事も好きだし、ずっといたいけど、ダメなんだ」
あゆは静かに、悲しみを堪えながら言葉を続ける。
「だから、舞さん」
あゆの頬に一筋の光が反射する。
「ボクの分まで、生きて」
舞の剣を持つ手から力が抜ける。
後悔の念が舞の頭を占める。
あゆが味わっている痛みを感じる。
それは肉体的なものだけではなく、心の痛みも。
フィードバックしているわけではない。
舞が赤の他人であるにも関わらず、その身を傷つけてまで止めようとするあゆ。
彼女まで傷つけている事を、舞は改めて自覚した。
あゆは優しい笑顔を浮かべる。
彼女の背後を見ながら。
―――あとは、任せたよ。
突然舞の後ろから、その肩に二本の腕が絡みついた。
体重が舞へとかかる。
彼女の耳元で、彼は囁いた。
「……自分のこと、嫌いか」
「…………」
舞は何も答えない。
「俺のこと、嫌いか」
「…………」
舞は何も答えない。
「牛丼、好きか?」
「……嫌いじゃ、ない」
震える舞の言葉に、彼は苦笑する。
「佐祐理さんのこと、好きか?」
「…………好き」
舞の頬に、涙がその軌跡を残した。
「……俺のこと……好きか……?」
「…………」
舞はうつむく。
「…………大、好き……」
その両目から涙があふれ出る。
「舞、俺も好きだ」
優しく言った。
「俺や佐祐理さん、あゆの事を本当に想うなら、さ」
強く、強く後ろから舞を抱きしめる。
「頼むから、死ぬなんて言わないでくれ」
一瞬の。
とても長い沈黙。
舞の嗚咽と共に、彼女の手から剣が放された。
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