私、岡崎汐には母親が居ない。
 しかし、そのこと自体に不満は無い。
 そう、嘘でも詭弁でも言い訳でもなく、本当に不満は無いのだ。
 私は倖せで、健康で、毎日が楽しい。
 朝起きて、パパの食事を作ってあげる事も。学校へ行って友達とお喋りする事も。早苗さんと一緒に新しいパンを開発する事も。アッキーと一緒に野球の練習をする事も。そして家に帰って、パパと一緒にご飯を食べて眠るまでお話する事も。
 全部が全部、私にとって最高に倖せな事で、こんなにも倖せな私が不平不満を言うなんてのは贅沢すぎるのだと思う。
 だけど、ふと……分からなくなる事がある。私は倖せだ。とても倖せなのだ。間違いなく。誰憚る事無く断言できるほどに。
 なのに、それが突然、凄く虚しい事のように思えてしまう事があった。例えばそれは、皆でお墓参りに行った時とか、あるいは時折パパが寂しそうに『だんご』とかいう名前の不可思議なクッションを眺めているのを見つけてしまった時とか。
 最初は、それが何と言う名前の感情なのか分からなかった。寂しさの様でもあり、同時にどうしようもないほどの苛立ちだった。悲しみであり、怒りでもあった。ただ、それを上手く言葉に変換することが出来ず、至極簡単に『嫌な気持ち』と呼んでいた。
 だが、やがて大きくなって、語彙が増えてくれば、その感情をある程度なら言葉にする事が出来るようになった。
 要するに、私は納得がいかないのだ。
 私の代わりに誰かが死んでしまった事が。しかもその誰かというのが、大好きなパパの大好きな人だったのだから、なお更に。
 パパは未だにママの事を思い続けている。ずっとずっと昔から、たぶん、これからだって。ママ以外のママは、パパにはありえないのだろうと思う。同時に、アッキーにとっても、早苗さんにとっても、ママはママ一人だけなのだ。この世に岡崎渚という女性はただ一人だけで、そして―――その人はもう何処にも居ない。
 だから思う。
 私は、もしかしたら、本当ならここに居るべき誰かを蹴落として、存在しているのではないか。
 そんな事はないと自分でも全力で否定しているし、パパに言えばきっと本気で怒って否定してくれるだろう。アッキーにしても早苗さんにしても同じ。みんな、私を本気で愛してくれているから。それが分かるから。
 だけど、私もまたみんなを本気で愛しているから。
 私はパパの事が大好きだから。
 アッキーの事が大好きだから。
 早苗さんの事が大好きだから。

 だからもしかしたら――――

 私は、みんなにとって邪魔者なのかもしれない。



* * *




 そんなこんなで、創立者祭。
 ママにとって一世一代の大イベントの日。
 一般入場が始まってから一時間ほどして、学校の敷地は校舎の中も含めて人で一杯に溢れかえっていた。ここいらでは一番大きなお祭りだし、何より基本的にお祭り好きの住人が多いのだ。
 私たちはそんな人の波から少し離れ、校舎に寄り添うようにして隅っこに居た。
 校門のところで貰ったプログラム表を見ながら、一本五十円のアイスを齧る。ちなみにこれは食後のデザートで、その前にはちょっと焦げてるたこ焼きとお肉の少ない焼きソバを半分こして食べた。
 私にとって、この創立者祭というのは何度も来た事のあるイベントだった。幼い頃からパパやアッキーに連れてきてもらっていたのだ。だから、大体の雰囲気は分かっているし、どちらかと言えば少し飽きてきていたりもする。まだ友達とかと一緒に遊びに来ているのなら良かったのだが、今回はそんなお気楽な気分ではない。
 一方のことみちゃんはというと、「とっても懐かしいの」と酷く楽しげで、三十路を回った大学助教授とは思えないくらいにはしゃぎ回り、熊のきぐるみから赤い風船を貰って恍惚としていた。
 そんな酷く個人的な満足感に浸っていることみちゃんを現実に引き戻すのは気が引けて、私は彼女を放ったらかしにしたまま周囲にキョロキョロと視線を向けていた。
 というのも、つい先ほど目の前を春原のオジさんが通り過ぎたのだ。もちろん、オジさんと言ってもこの時代ではピチピチの高校生なのだけど。
 確かにママは私の時代に生きていないのだから、出会ってしまっても問題ないかもしれない。しかし春原のオジさんとかこの時代のことみちゃんとかキョー先生はそうではない。私の時代にもしっかりと生きていて、何度も会って話をしている。
 そうなると、当然問題となってくるのがタイムパラドックスだ。私の知っている春原のオジさんはこの時代に居る私を知らない。にも拘らずこの時代にやってきた私がオジさんと出会ってしまったら、本来知らなかった事を知ってしまったオジさんの未来になってしまうわけで、そこは私の本来の時空間とは別の時空間になってしまうわけである。
 なんだか、言ってる自分も訳分かんなくなってしまう内容だが、とにもかくにも、私はこの時空間において余計な人との余計な接触は極力避けなければならないということなのだ。浪漫に頼りすぎるのは問題があると思う。
 しかし、だ。これ程の人ごみでは、出会いたくない人との突発的遭遇を避けることはほぼ不可能に近い。
 そんなわけなので、私は変装をする事にした。顔を隠してしまえば、まぁ問題はないだろうという判断。安直と言われようが、これ以外に選択肢はない。
 私は悲しき貧乏人の性でアイスの棒を味がなくなるまでしゃぶり終えると、校門近くの出店で売られていたお面を被った。それは美術部が製作したという怪しげなお面だった。
 一般的に、こういうお面はアニメのヒーローだったりヒロインだったり、そういう世間的に良く知られているキャラクターを模したもののはずなのだが、彼らが製作したのは歴史的な偉人を模したと思われる妙にリアルで奇妙な人面だったり、アフリカとかそこらの部族が祈祷などに使う悪霊のお面だったり、中には何を勘違いしたのかエイリアンやらゾンビーやらバタリアンやらのお面まであった。
 その中で私が買ったのは、一番まともだと思われるキツネ面だった。それで素顔を隠す。いい歳こいてお面をつけるなんて只管恥ずかしかったけれど、背に腹は変えられない。
「というわけですから、ことみちゃんも着けて下さい」
「アイマム、なの」
 訳の分からない敬礼をして、ことみちゃんは嬉々として小面(こおもて)を着けてくれた。これがどんなものであるかは自分で調べてもらうとして、なんだか無性に似合っていて笑える。
「とりあえず、ママの出番までもうあんまり時間が無いんですけど、どうしましょうか? 今のうちに入っておきましょうか?」
「私は行ってみたいところがあるの。汐ちゃんお一人でどうぞ」
「はぁ……行ってみたいところ、ですか?」
 参考までに、と断りを入れて聞く。するとことみちゃんは笑顔で――お面を被ってるから分からないけど――答えた。
「図書館なの」
「図書館? そんな所に、なんか用があるんですか?」
「ヒ・ミ・ツ♪」
「……なんですか、それ」
「教則第14条の1項。聞かれたくない事を聞かれた場合は『秘密だ』と答えるべし。なお、婦女子の場合は可愛らしいポージングの後、『ヒ・ミ・ツ♪』と一文字ごとに区切って言わなければならない」
「とっとと何処へでも行きヤガレ」
 そうして快くことみちゃんを送り出した私は、一人で体育館へと向かう。 
 ともかく、パパとママにとっての大切な思い出である演劇部の公演を見る。見ても見なくてもあまり変わりはないのだろうが、それでも、自分の母親が主役を張る一世一代の舞台だというのなら、見ておいて損はないだろう。
 とりあえずそれを見て、そして出来れば、ママともう一度、今度は二人きりで話す時間が欲しかった。というか、そもそもそれが目的なのだから、何としてもそのチャンスを見つけなければならない。
 どうやって呼び出したらいいものやら、なんて考えつつ、人の流れに逆らって体育館の中に入った。中は思っていたよりも空いていた。というのも、ちょうど演目が終わった所で、席を立つ人がほとんどだったからだ。だから空いている席はいくらでもあったが、その中でも出来る限り端っこの目立たない位置を選んで座る。というのも、本番が始まればともかくとして、演目同士の間の移動時間は煌々と明かりが灯っていて、しかもその中にアッキーと早苗さんの姿を見つけたからだ。お面を被っておいて、正解だった。
 にしても、二人とも若いなぁ。当たり前だけど。娘の晴れ舞台に緊張しているのか不安そうで少し表情が硬い。
 目の前の舞台では、下ろされた緞帳の向こうで演技の準備が進められているのだろう。いよいよ、次はママの出番だ。私はまるで娘の発表会を訪れた母親の様にドキドキソワソワしながらその時を待っていた。
『次は、演劇部の発表です』
 アナウンスが流れ、照明が落とされる。
 緞帳が上がり始めるのと同時に、穏やかなBGMが流れ出した。
 スポットライトが焚かれ壇上に立つママを照らし出す。廃墟の中に立つ真っ白な服を着た一人の少女。照明の効果で、背景の書割に雪の影が降り注いでいる。それ以外にセットや視覚効果はない。
 とても寂しい世界。
 すごく悲しい世界。
 けれど全ての願いが詰まった世界。
 そんな世界の中心で、ママは何も喋らなかった。もちろん愛を叫んだりもしない。舞台の真ん中で立ち尽くしたまま、石像のように硬直している。
 最初、それも演技のうちなのだと思った。始まりに間を持たせているだけなのだろう、と。しかし、それが一分、二分と続くうちに、間違いであったことに気づく。
 周りの人たちも気づき始めたようで、静寂に包まれていた館内に小さなざわめきが走る。そのざわめきはやがて大きく広がり、私と、何より壇上のママを包み込んでいく。そして、それが更にママを動けなくしていく。
 なんで――――。
 思わず飛び出そうになる声を必死に抑え込みながら、私はママを見つめる。
 なんで、何もやらないのか。
 演劇部のことはパパから何度も聞いてよく知っていた。パパとママは廃部になっていた演劇部を必死になって再び作り上げた。沢山の努力をして。ただの一度、一生のうちでただ一度だけの、あの壇上に立つために。
 なのに。せっかく自分の夢が叶ったのに。ママは何も喋らない。
 まるで怯えているかのように固まって。
 幼子のように、涙を流し始めた。
 駄目なのかもしれない。出会ったときにも感じていたことだけれど、ここに居るママは、私を生んだママではない。ここに居るのは、どこにでもいる、気の弱い女子高生だ。なら、この時点で私の質問を投げかけたところで、正しい答えは返ってこないだろう。今のママにはきっと、それに答えることができないはずだから。
 どうしてこの時代に来てしまったのだろう。ことみちゃんは偶然だと言っていたけれど、どうせならパパとママが結婚した後、妊娠が確定したくらいだったら良かったのに。そうすれば、ちゃんと正直な気持ちを聞けただろうに。
 私は小さく息を吐いた。
 けれど。
 そんな思いを。
「渚ぁっ!」
 唐突に吹き飛ばされた。
「子供の夢が親の夢なんだよ! 俺達は俺達の夢をお前に託したんだ!」
 ガタンという椅子が激しく揺れる音。それをかき消すように声が響いた。ざわめきに溢れる体育館の中に、その声は何よりもハッキリと通っていた。
 それがアッキーの声であることに直ぐには気づけなかった。何故ならそれは、今まで一度も聞いたことが無いほどに真剣で真摯な声だったから。何時の気が抜けていて、まるで漫才の様に薄っぺらい声は、欠片さえもその印象を残していない。
 何処にも嘘のない、唯一つの真実だけが篭められた声。
 ドキリとする。
 胸を打つ、という言葉では語りきる事の出来ない、力強い声。
 その声に早苗さんの、パパの声が重なった。
 それがどういう事なのか、ほかの誰にも分からない。観客たちはただ、突然響いたその声に、意味は分からぬまま、しかしそこに込められた思いの大きさに圧倒されるだけだ。けれど、なんとなく、私には分かっていた。
『困った事があった時の汐ちゃんと、おんなじ顔してたの』
 ゆっくりとママの顔が上がる。
 声に背中を押されるようにして。
 上がった顔は未だ涙に濡れている。
 けれども。
 演技が始まった。
 誰が見ても分かるくらい、拙い拙い演技だった。
 それでも、涙を流しながら一人舞台に挑むママの姿は、胸を打つものがあった。
 劇自体は短いもので、始まったと思ったらすぐに終わってしまった。舞台の照明が落ち緞帳が下りていく。演劇部の発表が終わったことをアナウンスが告げて、観客席に明かりが灯された。周囲の人々が席を立っていく。
 けれど、私は動けなかった。
 ママが何に悩んでいたのか、その具体的な理由は分からない。けれど、それがことみちゃんの言うとおり、私と同じものであることは確かだった。私と同じ、ママはどうすれば良いのか、それが分からなかったのだ。
 けれど立ち直った。いや、違う。アッキーの言葉で。パパと早苗さんの言葉で。ママは生まれ変わった。壇上でどうすれば良いのか分からず立ちすくむだけだった少女は、立派に劇をやり終えたのだ。 
 だから、この時間だったのだ。それはただの偶然だったのかもしれないけれど。それでも私には、この時間でなければならなかった。これより早くても、遅くても意味が無い。ママになる前の古河渚と、ママになった後の古河渚と、両方を知ることの出来る、その変化を見ることの出来るこの時間でなければならなかった。
 そしてそうだからこそ。
 アッキーと早苗さんから夢を受け継ぎ、それまでの弱い自分を捨て去り、自分自身の力で一つの劇を完成させた彼女だからこそ、私は確かめなければならないのだと思う。ママの口から、しっかりと聞いておかなければならないのだと思う。
 私を産めば彼女は死ぬ。逆に言えば私を産みさえしなければ彼女は死なないかもしれない。詭弁かもしれないけれど、理屈の上ではその可能性を否定しきれない。私さえいなければ、ママは今でもパパと一緒に、倖せな時を過ごしていたかもしれないのだ。
 それでもママは私を産んだ。危険と分かっていて、それでも私を産むことを諦めなかった。夢を、全てを捨て去ってまで、それを選んだ。
 だから、聞かなければならない。
 何故、私を産んだのかという事を。
 だから、確かめなければならない。
 私はいったい、どうすればいいのかを。
 

* * *



 パパとずっと一緒にいるもんだからなかなかタイミングが難しかったけれど、偶然一人離れたところへ声を掛け、少しだけ時間を貰った。人気のない校舎の片隅で、私たちは隣り合わせに座る。
 無用な前置きをしている余裕は無い。時間にも、私の心にも。
 だから私は、単刀直入に聞く。
「もし……渚さんに子供が出来たとして」
「こ、子供ですかっ!?」
「…………」
 何もそんな顔を真っ赤にして慌てふためかなくとも。
 性教育を受けたばっかの小学生か、アンタは。
「もし、子供が出来たとして。でも、渚さんは身体が弱いですよね?」
「は、はい……」
「子供を産むのって凄い体力がいるらしいじゃないですか。渚さんは、それに耐えられるんでしょうか? あ、いや、そうじゃなくて。耐えられない事が確定していたとして、渚さんはそれでも子供を産もうと思いますか?」
「…………」
「子供を産んだら、渚さんは死んじゃうんです。それでも、子供を産みますか? 好きな人とずっと一緒に居るはずだった時間を捨ててまで、たった一人の子供の為に自分を殺す事が出来ますか? 子供なんてまた別の機会に産めばいいのに。もっと元気になってから、安全が確保されてから産めばいいのに――――」
 医師からも、周囲の人間からも止められて。
 命が無いって分かってるのに。
 大好きな誰かと一緒に居る時間を捨ててまで。
「渚さんは子供を――――」
 私を。
「産む事を選びますか?」
「…………」
 沈黙は、長く重く。
 傾き始めた日の光が赤く世界を染める中で、聞こえてくる人々のざわめきが遠い。まるで夢の中に居るかのような、あるいは、額縁の中に閉じ込められてしまったかのような、そんな錯覚。この場所だけ、時が静止している。だから、私は何時までだって待つつもりだった。私はその言葉を聞くためだけに、決してやってくるはずの無い日々を待ち続けたのだから。
 私の理不尽ともとれる質問に、ママは困惑した様子で沈黙していた。当然だろう。簡単に答えられるような問題ではない。また、答えられても困る。今日出会ったばかりの年下の女の子にこんな事を聞かれて、即答できたとしたらそれは嘘か、あるいは何の考えも無いただの戯言だろうから。
 やがて、どれほどの時間が経ったのだろうか。
 ママは口を開いた。
「わたしには、良く、分かりません」
「…………」
「でも、もし、誰か好きな人と一緒になって、その人との間に子供を授かることが出来たら―――それはとても素晴らしいことなんだと思います」
「素晴らしい、こと……?」
「上手く、説明できないんですけど。でも、わたしはその子のことをたくさんたくさん愛して上げたいと思います。わたしは不器用だし、駄目な女の子ですから、出来る事なんてきっと凄く凄く限られていると思いますけど、それでも、わたしはわたしのできる限りの愛情を、その子に注いであげたいと思います」
「でも、それは出来ない」
 私は首を振る。
「子供を産んだら、貴方は死ぬんです。死んじゃうんです。だから、どれ程愛そうと思っていても、愛することは出来ないんです。だって死んでるから。生きていないから。傍に居ないから……!」
 私には母親が居ない。
 私を産んですぐに死んでしまったから。
 だから私はママを知らない。
 その声を知らない。
 ママに愛してもらった記憶なんか一つも無い。
 彼女の願いは決して叶わない。
 私たちの間には一つの絆も存在しない。
 それは私がここに居る時点ですでに決定されてしまっている。
「すみません……」
 興奮して混乱して泣きそうになっている自分に気づき、私は頭を下げた。謝るためと、自分の表情を隠すために。
 そうじゃない。そうじゃない。
 私が言いたい事は―――ママから聞きたい事は、そんなのじゃない。
 私には母親が居ない。
 私を産んですぐに死んでしまったから。
 でも―――そんなのアリなのか?
 誰かを犠牲にして産まれてきて、それでのうのうと倖せになってるなんて、そんなの許されていいのか。まして、それが自分の大好きな人たちにとって、とてもとても大切な人なのだからなお更に。
 例えば皆でお墓参りに行った時とか、あるいはパパが寂しそうに『だんご』とかいう名前の不可思議なクッションを眺めているのを見つけてしまった時とか。その瞬間の悲しげな顔を見るたび、心にナイフを突きたてられたような衝撃を受ける。私ではない誰かを。本来なら私の場所に居るはずだった誰かを見つめている遠い瞳に、無性に泣き出したくなって、無性に腹がたって、様々な感情がミキサーでグチャ混ぜにされて―――だから、私はどうしたら良いのかが分からなくなる。何を言えば良いのか。何をすれば良いのか。

 ここに居る私は、いったいどうすればいいの?

 どうすればそんな顔をさせずにすむの?

 どうすればパパたちを倖せに出来るの?

 そう聞く事さえも叶わない。それを聞いても、パパたちは答えないと知っているから。パパたちは、私への愛情のために、私に嘘を吐くのだ。
 けれど、それでは私は、一歩も前に進めない。壇上で立ち竦むしかなかったママと同じように。自分という存在が誰かにとって重荷になっているのではないかという疑念は、嘘によって誤魔化すことは出来ないから。
 だから、私はママに会わなければならなかった。
 会って、そして、聞きたかった。
 知りたかった。
 言って欲しかった。
 本当のことを。

 私はただ―――許(あい)して欲しかった。

 私という存在を。
 自分の命を奪い、自分の居場所を奪い、自分の未来を奪った邪魔者を。
 幸福であっただろうそれからの数十年という月日を奪った私を。
 愛して、許して、そして認めて欲しかった。
 ここに居てもいいのだという事を。
 そうでなければ私は何処へもいけない。何にもなれない。消えることの無い疑念の迷宮の中で彷徨い続けるしかない。
 だから私はことみちゃんを頼り、時の断絶を乗り越えて、この時代へとやってきた。死んだ人には聞けないけれど、生きている人になら聞けるから。この時代に生きているまだ私を生む前のママに、その気持ちを語って欲しかった。
 だけれども、返ってきた答えは、そんな私の想像を超えていた。
「ありがとうございます」
「……え?」
 信じられない―――予想だに出来なかった答えに、思わず顔を上げる。

 そこにあったのは――――

「貴女のおかげで決心がつきました。わたしは、その子を産んであげたいと思います。例えわたしが死んでしまったとしても、それでも産んであげたいです。だってそれが、わたしがその子に与えて上げられる精一杯の愛情だと思いますから」
 最初、言っている意味が分からなかった。
「子供と一緒に生きられないのはとっても悲しいです。大好きな人と一緒に、その子の成長を見られないのは苦しいです。ですけど、その分だけお腹の中でいっぱいいっぱい愛してあげたいです。いっぱい声をかけてあげて、いっぱい名前を呼んであげて、いっぱい歌ってあげたいです。何度でも何度でも、大好きですって言ってあげて、その子が産まれてくるのを、大好きな人と一緒に待ちたいです。その子がこの世に生を受けた事実を、産まれてくる未来を、祝福してあげたいです」
 そう言って、ママは笑った。
 そう、そこにあったのはママの笑顔だった。
「考えたら、なんだか涙がでてきてしまいましたっ」
 泣きながら、それでも微笑み続ける。その笑顔は、強くて、そして優しい―――世界中の誰にも負けないくらい、『お母さん』の笑顔だった。
 なんで、そんな顔が出来るのだろう。きっときっと、それはとても辛い選択であるはずなのに。パパと一緒に居られないことは、きっときっと、とても悲しいことであるはずなのに。

 なのに――――『素晴らしいこと』?

 分からない。今ここにいる私には、分からない。その答えを、理解することが出来ない。だから私は、彼女の言葉の嘘を捜す。そうする事で、ママの言葉を否定しようとする。
 だけど、そんなのは全く馬鹿げたことだった。子供じみた駄々だったのだろう。
 不意に、声が聞こえた。
 ママの口から零れ出している声だった。
「だんご、だんご、だんごっ」
 それが歌なのだと、何故か直ぐに気づいた。
 調子外れで意味不明な歌詞。
 伴奏も何も無いから、ある種の呪文のようにさえ聞こえる、それ。

 なのに―――どうしてだろう。

 私は、それが歌なのだと、知っていた。
 気づいたのではなく、思い出した。
 不意に、涙が零れ落ちた。
 身体が震え、心の中に懐かしい思いが溢れ出してくる。
 堪えようも無く。
 意思ではない、身体が反応する。
 ただただ、愛おしさで埋め尽くされていく。

 どうして、
 こんな、
 あぁ、
 でも、
 分かってる。

 きっと、それは。

 その歌も。

 その声も。

 遠い昔に、何処かで聞いた覚えのあるものだったから――――!


* * *



 ママと別れて、私は一人残されていた。だけど、私は独りじゃなかった。見つけてしまった。知ってしまった。いや、思い出してしまった。あるはずがないと思っていた、ママとの絆を。
 ママの言葉に、嘘は一つだって無かった。ママは本当に、言ったとおりに、私を愛してくれたのだ。その証が、今も確かに、この身体の奥底に眠っている。この身体の中に宿っている。 
 ママは嘘偽りなく、私の誕生を、『素晴らしいこと』だと祝福してくれたのだ。
 不意に、影が差す。私はそれが誰であるのか、すぐに分かった。
 だから私は、向こうが何か言うよりも早く、ひとつの疑問を投げかけた。
「もしかしたらって思うんですけど……ママが死んだのは私の所為ですか? 私があんな事を聞いたから、お医者さんに何を言われても、パパ達に何を言われても、産もうとすることを止めなかったんですか?」
「それは違うの」
 ゆっくりと顔を上げる。
 そこに居たのはことみちゃんで、でも、私の知るどんなことみちゃんとも違う、包み込むような温かい瞳をしていた。
「汐ちゃんの聞きたい事は分かっているけれど、でも答えはやはりノーなの。渚ちゃんはとってもとっても強い女の子なの。汐ちゃんが、知っているように」
「…………」
「たとえこの時空間において汐ちゃんと出会っていなかったとしても、答えは変わっていなかったの」
「…………」
「渚ちゃんは必ず汐ちゃんを授かり、そして必ず産んでいた、その未来に変更は無いの」
「…………」
「だから―――汐ちゃんは、汐ちゃんのままで良いの」
「…………」
「汐ちゃんは最初から、ちゃんと誰よりも、許(あい)されていたんだから」
 私は無言のまま立ち上がり、ことみちゃんに抱きついた。
「う、う、う……」
 彼女の胸に顔を埋めて、声を殺す。泣き出すのが恥ずかしくて。でも、止められなくて。その身体に縋り、ただひたすら漏れ出る声と涙を、鮮やかな赤光に照らされないように覆い隠す。
 ことみちゃんはそんな私を優しく抱きしめてくれた。
 何時までも、何時までも。






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