私、岡崎汐には母親が居ない。
 私のママは私を産んですぐに死んでしまった。
 だから私はママの声を知らない。子守唄を謡ってもらった事も、優しく慰めてくれた事も、厳しく叱ってくれた事もない。それを、想像できない。顔は写真で見て知っていたけれど、私にとって岡崎渚という女性が母親であるという実感は少しも無い。
 別に、それでも良かったのだ。私にはパパが居たし、アッキーも早苗さんも居た。私の大好きで大切な家族。少しも寂しくなんてない。
 だけど子供って言うのは残酷なもので、例えばちょっとクセっ毛だったりちょっと太っていたり痩せていたり、ちょっと家が貧乏だったりあるいは裕福だったり、父親が禿げていたり―――そして母親が居なかったりしただけで、それをからかいの対象にしてしまう。
 私もそれで何度も苦しめられてきた。幼稚園のお絵かきで。小学校の作文で。母親についての事が出てくるたびに、私は他の子供たちとの待遇の違いを強く意識せざるを得なかった。パパはその度に申し訳なさそうな顔をして、私を慰めてくれた。
 そんなパパに、ママの事を聞いたことは何度かある。アッキーにも早苗さんにも聞いたことがある。だけど、やっぱり私にはママを理解することは出来なかった。ママは遠い存在だった。あるいは、もっともっと詳しく聞いていれば良かったのかも知れないけれど、なんとなくそれは反則な様な気がしたし、少なくともパパにそれ以上を望むのは躊躇われた。
 なぜなら、パパは未だにママの事を思っているから。パパの周りにはことみちゃんやきょー先生みたいに美人の女性が居るというのに、再婚しようとかそういう気配は微塵も感じられない。娘の私だからこそ分かる程度に微かにではあるけれど、二人から好意を向けられているというのに、それに気づかないフリをしている。あるいは、本当に気づいていないだけかもしれないけれど。
 ともかく、パパにとって自分のお嫁さんはママ以外にありえないということなのだろう。
 それが嬉しいか嬉しくないかと言えば、実のところどちらでもない。
 私はママを知らないのだから、パパがそこまで拘る理由を理解できないし、それを嬉しいとは思わない。再婚されてしまったら私の存在があやふやになってしまう――つまり邪魔者になってしまう――ような気がして、ちょっと嫌だけれど、少なくとも相手がことみちゃんやきょー先生であるのならば、その問題は容易に回避できるだろう。
 だから私としては、ママに対する拘り、あるいは執着はほとんどない。私にはママが居ないけれど、それに負けないくらい素敵な人たちが居るのだから、それで構わないのだ。
 そう、それが、私の本音……のはずだった。


* * *



「あの〜、大丈夫ですか?」
 気の弱そうなヘタレた声に、私は目を醒ました。重たい瞼を開けるとボンヤリとした視界の中に痛くなるほどの鮮やかな陽光と、そしてそれを遮る大きな影があるのが分かった。一瞬、寝惚けたように意識が乱れて、どうして自分の家に知らない人が居るのかと不審に思う。
 だけどもちろん、ここは私の家でもなんでもなく、太陽が見えることからも分かるように野外で、私が寝ているのはゴツゴツとしたアスファルトの上であるらしいのだから、知らない人が居ても良いわけである。
 そう―――私はことみちゃんの家の地下にあった怪しげな装置によって、遠い過去へと向かったのだ。こうして、しっかりとした意識と身体の感覚があるということは、幸い、自爆はしなかったらしい。
「あの〜」
 言いようのない幸福感に包まれている私を呼び戻す甘い女性の声。
 どうやら道端に倒れているらしい私を心配して声を掛けてきてくれているらしい。
「すみません。ありがとうござ――――」
 私は「よっ」と一息で上体を起こし、自分でも自信のある可愛らしい笑顔を浮かべて親切な女性にお礼を言おう―――として、その途中で停止してしまった。まるで子猫の様だとよく言われる笑顔が一瞬にして凍りつき、「ざ」の形をした口はボルトで固定されたかのように開かれたまま凝固する。
 それもそのはず。私のそんな反応は、むしろ当然と言えるだろう。
 何故なら目の前にいた女性は―――写真に穴が開くほど見たことのある、私のママだったのだから。
「……あの」
「…………」
「……あの?」
「……………………」
「……あの〜」
「ニギャァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッァァァァァァァァァッ!!」
「えっ? えぇぇっ!?」
「ことみちゃん! ことみちゃん! ことみちゃああああんっ!!」
 慌てて周囲を見回す。一足先に意識を取り戻していたらしく、私のすぐ隣に居たことみちゃんは、自分の名前を連呼された事に対して少しも驚いた様子もなく、ゆっくりと首を傾げる。
「どうかし――――――――たの?」
 ノンビリと答えようとすることみちゃんの言葉を最後まで待つことなく、無理やり『彼女』の耳の届かない所まで引っ張っていって、私はその白くて細い首筋――主に頚動脈の辺り――を締め上げながら言った。
「いきなり遭っちゃってるじゃないですかっ!!」
「ぞれがどうがぢだの???」
「こういうのって遭っちゃったりするとマズイんじゃないんですか!? ほら、タイムパラドックスとか!! 元の時間に戻ったら私が生まれてなかったりとか、ママが別の人に入れ替わってたりとか、春原のオジさんが何故かお金持ちになってたりとか!! そういうのあるんじゃないんですかぁぁぁっ!!」
「だいじょぶぶだの。もんだぎだいど……」
 顔面をどす黒い紫色に変えながらも、口調は変えないことみちゃん。天然の人は凄い、と純粋に感心してしまえる。
 いったい何時まで続けていられるのだろうかとそれを見続けていたい衝動に駆られたが、いい加減ことみちゃんが白目を剥き始めたので手を離した。
 むせる事もなく、形状記憶合金並みの素早さで平常な顔つきへ戻ることみちゃん。
「全く問題ないの」
「どうしてそう言いきれるんです? それも浪漫ですか?」
 胡散臭げな気持ちになりながら言う。しかしことみちゃんは首を振った。
「違うの。渚ちゃんは汐ちゃんの生きている時空間に影響を与えるファクタ足りえないからなの」
「……は?」
「汐ちゃんと渚ちゃんが同時に存在する時間は極々僅かなの。だから、ここで汐ちゃんと渚ちゃんが出会ったところで、渚ちゃんが汐ちゃんに与えられる影響はほぼゼロに等しいの」
「…………」
 そう―――そうだ。私がママを知らないように、ママも私を知らない。私たちは、事実上出会っていないのも同然。私たちの間には、僅かばかりの絆も存在していないのだ。
 だから、ママという要素は私の人生に一切の影響を与えていない。逆に言えば、私たちが過去に出会っていたとしても、そしてその関係がどんなものであったとしても、何の問題も無いということだ。少なくとも、ママがパパと出会って私を産むという事実さえあればそれで良いわけなのである。
「つまり、問題ない、と?」
「そうなの」
「はぁ……そういう事なら先に言っておいてくださいよ。危うくことみちゃんを絞め殺しちゃうところだったじゃないですか」
「とっても苦しかったの。でも、ちょっと気持ちよかったの」
「…………」
 なにやら危ない方向へ進んでしまいそうになっていることみちゃんを、とりあえず今のところは放置することにして、私は困惑した様子の――当然といえば当然なんだけど――ママ(高校生Ver)に向き直った。
 いきなりの接近遭遇で混乱していたため、じっくりと見ていなかったのだが、やはり間違いようもなくママだ。私のもう一人の遺伝子提供者であり、そしてパパの想い人。自分の写真と見比べて分かっていた事だけれど、本当によく似ていると思う。尤も、性格は正反対らしいけれど。
「えっと、あの……」
 さて、何を言うべきなのか。確かに私はママに会いたかったわけで、会って話をしたかったわけで、そういう意味ではこの状況は目的が達成されたと言っても過言ではないのかもしれない。
 しかし、あまりにもその状況が唐突に出現したものだから、私はどのようにそれを切り出せばいいのか分からなくなってしまった。
 それに、ここにはことみちゃんも居るし、他の人が通る可能性も十分にある。これから聞かなければならない質問と、その答えは、出来ることならば誰にも邪魔されない静かな場所で、じっくりと時間をかけて聞きたかった。
 そんな私の態度を微妙に勘違いしたらしく、ママは「あっ」と声を上げて頭を下げた。
「わたしの名前は古川渚です。どうぞ、よろしくお願いします」
「あ、ご丁寧に。こちらこそよろしくです」
 ママに釣られて、私もペコリとお辞儀をする。何と言うか、とても変な気分だ。自分の母親に対してこんな挨拶をする娘というのは、きっと世界中探しても私一人だけだろう。
「私の名前は――――」
 一瞬躊躇い、偽名を使うことにする。
「アイザック・アシモフです」
「えっ、でも日本人……」
「アッシーと呼んでください」
「それだと一部の女性にとってとても便利な男性になってしまうような……」
 まだるっこしいツッコミ――いや、本人には突っ込んでいる自覚すらないのかもしれないが――だった。
 続いて、隣のことみちゃんがさも当然のように言う。
「一ノ瀬ことみなの」
「っっっ!!?」
 本名かよ! 私の努力に気づけよっ!!
「一ノ瀬……ことみ、さん? 何処かで聞いたことあるような……」
「他人の空似です」慌てて言い訳する。
「でも、名前……」
「同姓同名です」
「ひらがな三つでことみちゃんなの」
 頼むからアンタは黙っとれ。
 場が混乱して仕方が無い。
 うーん。しっかし、初対面のあからさまに怪しげな私たちに対してもこの反応。話には聞いていたけれど、それ以上にマイルドな人格だなぁ。
 確かに、パパやアッキーの話を聞く限り、ママはノンビリとした人だったらしい事は想像がついていたし、何よりママのママである早苗さんがアレなのだから、ホンワカふんわりなのは頷ける話だ。
 ただし、早苗さんとは違い、随分と弱弱しい印象だけれど。当然といえば当然か、なにせこの時点では、ママはただの女子高生なのだから。でもだとしたら困ったことだ。ただの女子高生では、困る。
「それで、どうしてこんな場所に倒れていたんですか? 何か身体の具合でも良くないのでしょうか?」
「いえ、ご心配なく。ばっちり健康体です」
 これでもかつては重病人で、病院のベッドで生死の境を彷徨った経験もある私だが、幸いにして病は根治し、今は町内会の野球チームの一番打者として活躍しているくらいなのである。
 っていうか、むしろ心配されるべきは私ではなくママの方なのではないのか?
 今現在のママは元気そうだった。少なくとも見掛けはごく普通の女子高生である。しかしこの時点ですでに一年留年していて、この後も更に一年間、留年する事になる。そして最終的には、死に至る。
「そうですか。それなら良いんですけど……」
 ぜんぜん良くないけどね、と心の中で呟く。
 だが、そこから会話が続かなくなってしまった。重たい沈黙が降りる。何となく、喧嘩したカップルのような気まずい空気だなと思ったけれど、それを打開する方策は思い浮かばなかった。
 やがて、思い出したように、そして逃げるように、ママが言う。
「あの、すみません。わたし、そろそろ行かないと……」
「え? あ、そうなんですか……すみません」
 現在時刻は分からないけれど、この道を通っているということは、これから学校なのだろう。それでは、なんて言って立ち去っていくママ。そんなママの背中が視界から消えるのを待っていたかのように、ことみちゃんが口を開く。
「渚ちゃん……少し落ち込んでいる様子だったの」
「そうですか?」
 別に、普通に思えたけれど。いや、もちろん、何がママの普通なのか私には分からないわけで、そういう意味ではことみちゃんの指摘の方が信頼性が高いのかもしれないが。
「自分のことは、自分じゃ分からないの」
「はぁ?」
「困った事があった時の汐ちゃんと、おんなじ顔してたの」
「…………」
 反論しようとして、しかし何とコメントすれば良いのか分からず、結局私は無言でママの立ち去っていた方を見つめた。
「さて……」気分を切り替えるように一拍入れて。「ママが居るってことは、ここが過去の世界である事に間違いないわけなんですけど、具体的な日時は分かるんですか?」
「5月11日。創立者祭当日なの」
 創立者祭……。
 そういえば、ママは演劇部の部長だったそうだ。部活動と呼べるほどのものではなかった、というのがパパの証言だったけれど、ともかくその演劇部はこの年の創立者祭に参加し、体育館でママが一人劇を披露したらしい。
「でも、どうして? どうして、この日なんですか?」
「それは、汐ちゃんが自分で気づかなきゃいけない事なの」
 ことみちゃんはまるで幼い子供を諭すように優しく、だけど同時に神託を下す巫女のように重々しく言った。
「この時間には汐ちゃんにとってとても大切なものがあるから。汐ちゃんはそれを見つけださなきゃいけないの。汐ちゃん一人の力で」
「……ことみちゃん」
 普段とは別人のように真面目な口調のことみちゃんは、その姿だけ見れば大学の先生らしかった。人に物事を教える者、というよりは自らの研究に人生の全てを捧げた真理の探求者のような貫禄がある。
 だけどそれは――私にとっても彼女にとっても残念なことに――ことみちゃんの普段の姿というか本性を知らない事を前提にした印象であり、当然私には全く通用しないのであった。
「で、本音は?」
「ただの偶然、誤差の範囲内なの」
「そんな事だろうと思ってました」
 呆れる気にさえならず頷き、私は坂の上に見える校舎を眺めた。
 ため息一つ。
「それじゃあ、その偶然に感謝しつつ……とりあえず、私たちもお祭りに参加しましょうか」






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