3:
…立て付けの悪い玄関の扉が、きしみながら開く音で目を覚ました。
背中がかすかに傷む。壁に寄りかかったまま、いつの間にか眠りこけていたようだ。部屋には俺の他に人の気配はない。身じろぎすると、肩に掛けてあったコートが滑り落ちた。誰の仕業かは考えるまでもなかった。
舌打ちをして、起き上がる。時計を見ると、日の出間近という時間だった。コートを羽織りながら玄関に向かう。戸を開けると、容赦なく体温を奪う朝一番の冷気に身を竦めた。
外は一面の銀世界で、白い雪を暁の光が蒼く染める。
雪は乾いた粉雪になっていた。
しんしんと、降り積もる。
智代の姿は簡単に見つかった。二階の廊下から、歩き去る後姿を見下ろす。周りが一面の白で埋め尽くされていたためか、彼女はひどくちっぽけに見えた。
智代が何気ない動作で振り返った。俺を見つけると、驚きに目を見開く。
「挨拶もなしっていうのは、どういうことだ」
そう言って、智代を追ってアパートの階段を下りる。追いつくと、彼女はばつの悪そうな顔をして微苦笑を浮かべていた。
「よく眠っていたからな。起こすのも悪いと思って」
「…悪かったな、途中で眠ったりして」
「疲れていたんだ。しょうがないだろう」
「…そうだな」
少しだけ、お互いに言葉をなくす。
やがて、智代は重苦しい沈黙を振り払うように明るい声を上げた。
「折角外に出たんだから、少し歩かないか?」
突然の提案に、少し驚く。
「…こんな時間にか?」
言外に、寒さを訴えた。
「いいじゃないか。久しぶりなんだ。案内してくれ」
こちらが渋っているのに構わず、智代は歩きだす。
なんとなく動けずにいると、数歩先で彼女は振り返った。
「…もっと、思い出を聞かせてくれ」
目をしばたたかせて、智代を見る。彼女の顔には、どこか寂しげな笑みが浮かんでいた。
ふっと吐息が漏れる。白く染まった息は、雪に混じって消える。
「…ああ」
そう言った俺も、やっぱり寂しげに笑っていたんだと思う。
雪の中、二人肩を並べて歩く。
いつか、あの子と歩いた道。
まだ開いていない古河パン、その前の公園、幼稚園の前。
目を閉じずとも、思い出は其処此処に溢れている。
変わってしまう町の中で、それに抗うように思い出を刻み続ける。
忘れまいと、あの日々を語る。
駅の前で、一度きりの旅の思い出を語った。
智代は感想や慰めを言うでもなく、時々相槌を打つだけで、後はただ聞き入っていた。
語り尽くせることではなかった。それなのに、全てを言葉にすることも出来ず、いつか話は終わる。言葉は途切れ、二人雪の降る静寂の中を歩く。
足の向くまま町を歩いていると、不意に5年前の通学路に出た。
学び舎へと続く、長い長い坂道。
――ああ、そうだ。
ふと、思い至る。
忘れたくないこと。それは一つだけじゃなくて…
自然と、言葉がこぼれる。
「…この先にさ。ファミレスが出来たんだ」
「…そうなのか?」
「あぁ。…そこで、渚がバイトしてたんだ…」
ゆっくりと坂道を登る。曲がり角の先、早朝でも煌々と輝く建物が見えてくる。
其処に残る記憶を辿りながら、自然と足はその先の始まりの場所へと向かっていた。
坂の半ば。
校門まで残り200メートル。
桜並木の坂道。そこで立ち止まった。
「…懐かしいな」
それまで聞き役に徹していた智代が、ぽつりと漏らす。
それに頷き返しながら、葉を落とした桜を見上げる。
ほぅ、と智代が白い吐息を漏らす。吐き出される霞は、なぜだかあの日のため息を思い出させた。
7年前、俺はここで立ち尽くしていた。
そして、彼女に出会った。
「――この学校は、好きですか、か」
あの日の記憶が蘇る。
『わたしはとってもとっても好きです。
でも、なにもかも…変わらずにはいられないです。
楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ。
…ぜんぶ、変わらずにはいられないです』
思い出の中の彼女が言った。
『それでも、この場所が好きでいられますか』
「――ああ、私は好きだぞ」
「え?」
驚いて、隣を見る。けれど、そこにいたのは彼女ではなく、あの春に知り合った別の人だった。
智代は横顔に僅かな微笑みを浮かべ、じっと坂を見上げている。
「この坂道も好きだぞ」
その台詞が、俺の呟きに応えたモノだと気付くのにしばらく掛かった。
「…桜、好きなのか?」
呆けたまま、何の気なしに尋ねる。智代はその問いに、何故だか眉をひそめ、一瞬だけ思案顔になった。
「…好き、というか、好きになったんだな。…特にこの桜はな」
「なんだそりゃ」
「私が守った、思い出の桜だからな」
少し誇らしげに微笑む。今度はこちらが眉をひそめる番だった。
「…守ったって?」
尋ねると、智代は不思議そうにこちらを見返してきた。
「私が生徒会長のとき、この桜の保全運動をしていただろ?」
「…そうだっけ?」
「…おまえ、本当にこの学校のOBか」
智代は少し呆れたような、そんな顔をする。
そう言われてみても、この桜を見て思い出すのは、二人立ち止っていたあの日々のことばかりだ。
思い出の続きが、記憶の片隅から溢れてくる。
――あの時、俺はなんて言ったんだっけ…
『見つければいいだけだろ』
思い出の中の誰かが言った。
『次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ。
あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか? 違うだろ』
――何も知らなかったあの頃、俺はそんな無責任なこと言った。
楽しいことがあった。うれしいことがあった。
けれど、なにもかも変わってしまった。
そして、それはひとつだけの、かけがえのないものだったんだ。
『それでも、この場所が好きでいられますか』
俺は――
「岡崎?」
隣から、気遣うような声。
我に返ると、智代が様子をうかがうようにこちらの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫か?」
「ん、…あぁ」
上の空で返すと、智代はわずかに眉をひそめる。
「大分長いこと歩いたからな…少し休むか?」
「…そうだな。さっきのファミレスでも行くか」
そう言って、二人踵を返す。
この坂の上には、案内するような所はない。どうせ校門の中には入れないのだし、思い出を語ろうにも、演劇部のあった旧校舎はもう無い。
「なにもかも、変わらずにはいられない、か」
思わず、そんな言葉が漏れる。
『それでも、この場所が好きでいられますか』
――彼女は、好きでいられたんだろうか――
ふと、足を止めて、あの日のままの桜を見上げる。
いつか、渚が言っていたはずだ。
最初と同じ、この場所で。
あの時と同じ、桜の舞い散る中で。
あれは、確か――
視界の端で、隣を歩いていた智代が振り返った。
「…どうした?」
「なぁ、この桜って切られるはずだったのか?」
「ああ」
智代は怪訝そうな顔のまま頷いた。
切れれるはずだった桜の木。
けれど、あの時と変わらずにここにある。
俺たちが出会い、そしてこの学校を卒業したこの場所。
「…そっか……ありがとな」
視線を下ろすと、智代の困惑したような顔が目に入る。
「…俺にとっても、思い出の桜なんだ…だから、守ってくれて、ありがとう」
「…そうか。…なら、良かった」
智代が僅かに微笑む。
思い出の場所は、今もここにある。
記憶は鮮やかに蘇る。
「…渚の、卒業式もここでやったな」
「そうだな」
「…桜が切られてたら、ちょっと寂しかったな」
「そうかもな」
「…生徒会長様に感謝だな」
「そう言ってくれるなら、頑張った甲斐があったな」
二人、冬の桜を見上げる。
俺たちは、この桜の下で出会い。
そして、共にこの学校を卒業した。
不意に涙がこぼれそうになる。
そうだ。あの日…
卒業式での、渚の言葉。
『この一年間は、ほんとうにひとりきりでした…』
…俺も、ひとりきりになっちまった。
『それでも…
それでもやっぱり、わたしは…
二度とない、この学校生活を、かけがえなく思います』
…辛いこと、悲しいことが沢山あった。
『一度は嫌いになってしまった学校です…
卒業するのに五年もかかりました…
ひとりで残る学校は寂しかったです』
…なにもかも、変わってしまった。
『でも今は、大好きです』
それでも、渚は「大好きだ」と言った。
それは、次の楽しいこと、うれしいことを見つけたからだけじゃなくて。
『最後には…
がんばれたわたしが、過ごした場所だからです』
そう言って、渚は最後には笑っていた。
7年前、俺は坂の下に立ちつくしてた。
そして、人と出会い、大切なものを見つけた。
大切なもののために、がんばれた日々がある。
――そうして過ごした場所を、俺は好きではいられなくなったんだろうか。
「岡崎?」
滲む視界の先から、また気遣うような声。
それに応えるために搾り出した声は、湧き上がる嗚咽に震えていた。
「…わりぃ…やっぱ俺、坂の上まで行ってみる」
がんばれた日々。それはここから始まった。
あの日、俺たちはこの坂道を登り始めた。
…今はまた立ち止っている。
それでも、7年前とは違う。
がんばれた日々がある。
それを、思い出そう。
こみ上げるものを拭うと、驚いた顔をした智代の顔。
やがて、それは穏やかな微笑みに変わっていく。
「…そうか…じゃあ、ここでお別れだな」
俺が一人で行くつもりなのだと、まるで知っていたような台詞。
それに驚いていると、智代はまた少しだけ微笑む。
「案内、中途半端になっちまったけど…」
「気にするな。また今度、頼んでもいいか?」
「ああ、次はちゃんとやるから」
「うん。期待している」
その笑顔を受け、俺は坂を仰ぎ見る。
「岡崎」
呼び声に振り返る。
智代は坂の下、少しだけ悲しげに微笑んでこちらを見上げていた。
「…確かに、なにもかも変わらずにはいられないのかもしれない。…けどな……」
そこで言葉を切り、真正面からこちらを見据えた。
「ずっと続いていく愛はある、絶対に」
「…」
葉の落ちた桜並木を見上げる。
雪が、桜吹雪のように風に舞っていた。
いつかまた、あの時のように満開の桜が花開くのだろう。
…なにもかも変わっていく。それでも、季節は続いていく。
目を閉じれば、あの春の日の出会い。
一面の花畑での夏の記憶。
今でも、それは鮮やか蘇る。
いつか色あせてしまっても、きっとあの日々の輝きは変わらない。
…だからだろうか。智代の言葉にも、素直にうなずけた。
「……あぁ…そうだな、きっと」
なにもかも変わってしまっても、
それは、ずっと続いていく。
不意に思いつく。
「…なぁ、智代」
「…うん?」
「春にあなったらさ…花見、しようぜ」
「…」
「みんなで…俺と、おまえと、春原と、芽衣ちゃんと、杏と、藤林と、仁科と、杉坂と、幸村のじぃさんと、オッサンと、早苗さんと、公子さんと、美佐枝さんと、…渚の卒業式の、あの時のみんなで集まってさ…花見しようぜ」
いつかまた、あの時のような満開の桜の下で、
失われてしまった人がいても、
あの日々に築いた繋がりは消えることなく、
だから、俺はこの場所を…
「…うん、それはいいな」
「汐の友達なんかも呼んでさ。みんなで、また騒ごうぜ」
「ああ、春になったら、きっと」
頷きを交わす。
最後にそんな約束をして、別れを告げる。
智代は坂を下って行く。俺は坂の上へ。
雪を踏みしめ、一歩、道を往く。
今度は立ち止ることもなく、この道を歩き始める。
始まりは二人だった。
あの日、二人でこの坂を上った。
あの時とは、なにもかも変わってしまった。
もう、あの時のように隣を歩く人はいなくて、
もう、繋いだ手の小さな温もりもなくて、
俺は、ただ一人きりで歩き続ける。
次の楽しいこと、うれしいことは見つからないのかもしれない。
堕落していくしかないのかもしれない。
それでも…
『それでも、この場所が好きでいられますか』
道の先に立ち尽くす彼女の背中の幻を見る。
あの日、あの時、彼女のため息に応えなければこんな悲しみはなかった。
けれど、あの出会いがなければ良かったなんて思わない。
渚に会えて良かった。
汐が生まれて良かった。
二度とないあの日々を、かけがえなく思う。
一度は嫌いになってしまったこの場所。
二度目は絶望を抱くことすらできなかった。
一人で残るのは寂しい。
それでも、最後には、がんばれた俺たちが過ごした場所だから。
人の繋がりは消えず、思い出はここにあり、そして俺はまだこの場所にいるから。
おまえと歩いた道だから。おまえたちと暮らしたこの場所だから。
この場所を好きでいられる。
俺は登り始める。
長い、長い坂道を。
春まであと少し
感想
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