俺は登り始める。
長い、長い坂道を。
1:
汐の葬式は密葬で行った。
親族で一晩だけ遺体に付き添い、その後は通夜も葬儀もなく荼毘に付した。
参列者は俺を含めて8人。古河の両親と親父、杏、芳野夫妻、風子。
静かな葬式だった。
嗚咽や、悲嘆の声もない。誰もが押し黙って口をきかなかった。そんな重苦しい沈黙の中、小さな体が灰になるのを見届ける。その後の納骨も、わずかな音もなく過ぎていった。風子でさえ普段からは想像もできないような無表情で口を噤み、最後まで沈黙を破ることはなかった。
そうして式は終わる。
足取りも重く、参列者たちが帰途につく。その最後尾について、のろのろと斎場を後にした。
――これで、終わったのか…
何気なく火葬場の入り口で振り返ると、うっすらと白煙をくゆらせる煙突が目に入った。
じっとそれを見上げていると、不意にタバコが欲しくなる。紫煙なら、煙突から立ち上る煙に重なることも出来るだろう。そんなことを思う。
自販機を見つけたが、結局タバコは買わなかった。空にいるはずの人は、タバコを吸う俺を知らない。それはオッサンの匂いだ。間違えられるのは癪だった。
代わりに、白い吐息を吐き出した。冬の大気に一瞬だけ浮かぶ霞。それはタバコの煙よりも小さく、短く、アッサリと空気に融けて消えていく。
吐息が煙に届くことはなかった。それを見届けて、少し離れてしまった人たちを追う。
相変わらずの沈黙の中、町に戻る。そこでお互いに一言二言、わずかに言葉を交わして、参列者に別れを告げる。
その際、古河の両親に家に来るかと誘われた。けれど、黙って首を横に振る。
脳裏には、渚の死に対して5年越しの涙を見せる早苗さんと、それを傍で見守るオッサンの姿が浮かんでいた。そんな二人にかける言葉はなく、黙って寄り添うには俺は弱すぎた。二人の間に入り込むことは出来ない。
親父からは「また、一緒に暮らすか」と言われた。この町を出る気はないと、これも断った。親父は黙って頷いてくれた。
駅のホームに消える父の背を見て、ふと祖母の言葉を思い出した。
――そして、あなたが手のかからない男の子として育った時、
あの子は、すべてを失っていました。
俺もすべてを失った。
ただ親父と違うのは、俺は「やり終える」前にすべてを失ってしまった。
だから俺は「休む」ことは出来ない。
――そこからはもう…
堕落していくしかなかったのです。
…きっと、その通りなのだろう。
漫然と時を重ね、ただ、生きているだけ。
そして休むことも出来ない俺は、朽ちるまで堕落し続けていくしかない。
父の背が雑踏にまぎれる。
もう、その背中に追いつくことは出来ない。
踵を返す。遺影だけを持って、誰も居ないアパートへと帰った。
一人だけの部屋は、無性に広く感じた。
汐の遺影を棚の上に飾る。
飾り気のない部屋に写真が一つ。今は汐も渚と同じ所にいるのだと思うと、一つだけの遺影が急に寂しいものに感じられた。
押入れの中からアルバムを引き出す。
ページを捲ると、最初の方は渚の写真で埋まっている。写真の中の渚はいつも笑っていた。両親や友達と、時には一人で。そして渚の写真がある最後のページ。俺と一緒に笑っているものが、渚の写っている最後の写真だった。
最後のページの一枚。俺が渚を撮った一枚を抜き出して、それを汐の遺影と並べて飾る。写真立てはなかったので、適当な置物で代用した。
そうして遺影を並べると、いつの間にか二人の死を認めていた自分に気付く。
そのことに愕然としながら、呆けたようにただ遺影を見つめる。
写真の中の二人は笑っていた。渚ははにかんだように微笑んでいる。汐の方は緊張で少しだけ硬くなっていたが、それでも零れるような笑顔を浮かべていた。
――これは俺に向けられた笑みだ。
そんなことに、ようやく気が付いた。
いつの間にか、こうして笑いかけられるのが当たり前になっていて、そのかけがえなさを忘れていた。そんな大事なことは、いつだって後になって気付く。
もっと笑わせてやればよかった。けど、もう二人の笑顔を見ることも出来ない。
何もかも、手遅れだった。
なす術もなく、二人の遺影を前に、それに見入ることしかできなかった。
2:
…どれだけそうしていたのだろう。
誰かがアパートの階段を上る足音に、ふいに意識を現実へと引き戻される。
時計を見ると、とっくに新しい日が始まっている。渚の時と同じように、こうして時間だけは何事もなかったように淡々と過ぎていく。それが悲しいのか、寂しいのか、それとも腹立たしいのかもわからない。ただ漠然と、遣る瀬無さのようなものがこみ上げてくる。
その間にも、足音はカンカンと、時計の秒針よりも少し早いリズムで階段を上ってくる。高い音から、廊下を歩く時の少しだけ低い音へ。そして、それは丁度俺の部屋の前で止まった。
ぼんやりと玄関の方を見た。チャイムは鳴らない。
人の気配はする。けどそいつは何をすることもなく、ただじっとそこに止まっていた。
緩慢な動作で、のろのろと立ち上がる。この寒さの中、長い時間同じ姿勢でいたためか体は凍りついたように固まっていた。動くと、壊れかけのブリキ人形のように、ギギギ、と間接がなっているような気がする。
寝起きのような胡乱な頭のまま、何も考えずに玄関の扉を開けた。その扉も、ギギギ、と軋んだ音をあげる。
「ぁ」
扉を開けきると、そんな戸惑いの声。扉の前で立ち尽くしていた彼女は、驚いたように顔を上げた。
目が合った。お互いにそのまま呆けたように硬直する。
――どうして彼女がココにいるのか。智代の顔をぼんやりと眺めながら、そんなことを思う。けれどそれ以上深く考える気も起きず、ただ彼女の言葉を待つ。
しばしの沈黙。やがて、智代はおずおずと口を開いた。
「…久しぶりだな」
「あぁ、そうだな」
「…」
「…」
また、お互いに口を噤む。
智代は俯いて何も言わない。仕方無しに、こちらから切り出した。
「…それで、今日はどうした?」
「ぁ、その…訃報を聞いて…」
一度顔を上げ、尻すぼみにそう言ってまた顔を伏せる。
その言葉を聞いて、そんなモノもあったかと、今さらながらに思い出した。
智代に知らせた記憶はない。きっと誰かが気を利かせてくれたのだろう。そういえば、親父に連絡したのも俺じゃない。全て他人任せだった。
…5年前と同じだ。それがどうしようもなく腹立たしかった。
「…でも、こんな時間に来るのは非常識だし、また明日にでも出直して…」
「上がれよ」
智代が何か言っていたような気がしたが、それを聞き流して、扉を開けたまま部屋に戻る。
「え?」
「どうぞ」
呆けたような顔をした智代を促す。彼女は暫くためらったが、やがて俯きながらゆっくりと戸をくぐった。
扉が閉められる。外から吹き付ける風は遮られたが、それでも部屋の寒さは変わらなかった。暖房を付けていなかったことに、ようやく気がついた。
案内するまでもないが、智代を遺影の前に引き連れる。
彼女はさっきまで俺の座っていたところに正座すると、まず渚の写真に一礼した。そして汐の遺影に向かって手を合わる。その間に俺はヒーターの電源を入れて、それを智代の方へと押しやった。後は黙って、彼女の後姿を見ていた。
――たしか、智代と汐は5年前のあの日に一度会っていたはずだ。だが、それだけの縁で彼女が何を祈っているのか。ぼんやりとそんなことを考えた。
考えがまとまらないうちに、智代が顔を上げて振り返る。彼女の黙祷が長いのか短いのかはわからなかった。そもそも、時間の感覚なんてない。
彼女は正座のままこちらに向き直り、そして丁寧に頭を下げた。
「…このたびはご愁傷様です」
――そういえば、お悔やみを言われるのは初めてだな。智代の後頭部を見ながら、そんなどうでもいいようなことを思う。
その間に、智代は鞄から香典袋を取り出した。「どうぞ、お供えしてください」と、それを差し出す。
「…いや、そういうの受け取ってないんだ」
仰々しい智代の態度に面食らいながら、ひどい違和感を覚えた。5年前も同じことがあったはずだが、儀礼じみた振る舞いが何故か不快だった。そっけなく、袋をつき返す。
智代は一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐにそれを引っ込めた。
そして俯いて、視線を合わせないまま立ち上がる。
「…じゃあ、私はこれで……夜分遅くに失礼した」
「…あぁ」
そそくさと立ち去ろうとする智代を見ていると、また苦々しさがこみ上げてきた。こんなことも、前に見た光景だ。
どうして彼女はこうもあの時を思い出させるのか。どうして、汐がもう居ないのだということを突きつけるのだろう。
「…っ」
舌打ちがもれる。
…理由なんてわかっていた。
俺が変わってないから、5年前と同じことをしているから、他人の反応も似たようなものになる。同じことが繰り返される。
…それが嫌で、無性に前とは違うことをしたくなる。
そのせいか、玄関に向かう智代の背に、思わず声を掛けた。
「茶、くらい飲んでけよ」
彼女は立ち止まり、驚いた顔をして振り返った。
「…いや、もうこんな時間だし…」
「せめて暖まってからにしろ。そのまま出て行って、風邪でもひかれたら困る」
迷っている様子の智代を無視して、湯を沸かすためにヤカンを火にかける。それを見て、彼女はしばらく逡巡していたが、やがて諦めたように座布団もない畳の上に座りなおした。
それを肩越しに確認して、ヤカンに向き直る。
じっとガスの炎を見つめる。
…苛立ちは消えない。
同じことを繰り返しても、違うことをしても、何をしたって意味なんてない。
何が変わるでもない。
変わってしまったものは、もう戻らない。
――ふと、気付く。
変わってしまったこと――渚の死を認めてしまった俺は、汐の死を認めないわけにはいかない。
だからこうして、平気で遺影なんか飾ったりしている。
けれども、それが辛い。認めてしまうことが悲しい。それを突きつける人に苛立つ。
…それでも、認めてしまった俺には、5年前のような逃げる場所なんてない。
――堕落していくしかない。
また、祖母の言葉が思い出された。
気付くと、ヤカンが盛大な湯気を立てて湯が沸いたことを告げていた。反射的に火を止め、安物の湯呑みに安物の茶を入れる。
「ほら」
「…すまない」
差し出された湯呑みを、智代はおずおずと受け取った。俺が正面に座り込むと、彼女は一瞬だけ口を開きかけたが、すぐにそれを飲み込んだ。そのままお互いに言葉もなく、茶を啜る音だけが狭い部屋に響く。
智代は少しだけ落ち着かない様子だった。急くように茶を飲もうとするが、入れたての熱いお茶は、そんな彼女を嘲笑うかのようにもうもうと湯気を立てている。
それを見るともなしに眺めて、自分も乾いた喉に水分を通す。熱い塊が食道を下っていくのがはっきりとわかった。ほぼ一日ぶりになる突然の異物の侵入に、胃や腸が抗議を上げるように蠕動を繰り返す。そうしてそれらは忘れていた活動を活発に再開する。
…要するに、腹が鳴った。
こうして俺は生きている。体は貪欲に栄養を欲し、休息を求める。そんな当たり前の事実に、5年前に感じたような後ろめたさみたいなモノは浮かんでこなかった。それが悲しく、また遣る瀬無さがこみ上げてくる。
智代を見ると、俺の腹の虫には気付かなかったように一心に茶を啜っている。あるいは本当に気付いてないのかもしれない。
「…俺、今から飯食うけど、おまえもいるか?」
声を掛けると、一心に茶を啜っていた智代は、驚いたように顔を上げた。しばらく口ごもっていたが、やがて黙って首を横に振る。
「そっか」
よくよく考えてみれば、こんな時間に食事もなにもないだろう。自分の間抜けさに呆れながら、冷蔵庫にあるものを適当に取り出す。焼き飯なら出来そうだった。手の込んだものを作る気はさらさらなかったので、丁度いいといえば丁度良かった。
「…手伝おうか?」
中華鍋に刻んだ野菜を放り込んだところで、背後から躊躇いがちな声を掛けられた。
「…え、あぁ…じゃあ、ちゃぶ台を出してくれ」
言ってから、改めて自分のバカさ加減に気付いた。――客をほっぽりだして焼き飯じゃないだろ。
先程から、そんな考え無しの行動ばかりだ。どうもまともに頭が働いていないらしい。けれども、ここで止めるのもおかしい気がしたので、そのまま調理は続けた。
そうしているうちに、白米はほどよい狐色にそまり、香ばしい匂いが立ち込めてくる。習慣的に胡椒を豪快にまぶしていると、色々と刺激されたのか、先ほどより大きく腹の虫が嘶いた。
…そして、それにつられるように、小さな腹の虫が一つ。
軽く後ろに目をやると、腹の虫の主は居心地悪そうに身を縮ませていた。
腹を減らせているヤツを前に自分だけ飯にありつくわけにもいかず、鍋に材料を追加投入する。それまでの物と混ぜて、機械的に手早く仕上げした。それを適当な皿にとりわけて、用意されていたちゃぶ台の上に二人分の飯を乱暴にのせる。
恐縮して、何か言おうとした智代に「いいから食え」とスプーンを振って促した。
ただ無心に焼き飯を掻っ込む。
腹が減ったから飯を食う。客が腹を減らしているからその分も作る。結局自分が何をしたいのかも忘れた。なるほど、考え無しだ。
会話のない食事はひどくあっさりと終わる。先に食べ終わったので、せかせかと匙を動かす智代をぼんやりと眺めた。片時も顔を上げないため、彼女はこちらが見ていることには気付いていない。
皿の中身は、すでに半分以上なくなっている。食べるのは遅いが勢いはそれなりで、量が多いというわけではなさそうだ。無理に詰め込んでいるという様子でもない。
――腹、減ってたのか?
頭に浮かんだことを漫然と考える。
冬の日の未明。突然の訪問。
…もしかすると、彼女は誰かからの連絡を見て、すぐさまこの町まで帰って来たのだろうか。強行軍で小腹がすいたのか、ひょっとしたら夕飯を食べていないのかもしれない。
あまりにも突飛な想像に、内心で頭を振る。いくら実家がこちらにあって、宿には困らないからといって、本当にそうだとしたらひどく馬鹿げた行動だと思う。その結果が、こんな時間の弔問だ。そもそも、彼女がそこまでする理由がない。
――なら、何故こんなタイミングで彼女が此処にいるのか。考えてみると、感謝や迷惑といった問題以前にひどく困惑させられる。
不意に智代が顔を上げる。目が合うと、考えていたことは霧散した。
彼女はどこか恥じ入ったように「ごちそうさま」と礼を言った。それに無意識のうちに頷き返しながら、空の食器を回収するために立ち上がった。
すると、智代の手が俺の手を遮る。
「ごちそうになったんだから、洗物ぐらいは私にやらせてくれ」
そう言って、彼女は強引にこちらの皿まで持って、さっさと流しに立った。
別段断る理由もなかったので、好きにさせることにした。皿洗いは任せて、その隣で洗い終わった皿を拭くことにする。
水の流れる音、タワシでこする音、食器のなる音。そんな雑然とした沈黙。
二人、黙々と作業を続ける。
鍋もあるとはいえ、たった二人分の洗物はものの数分で終わった。智代はそれを終えると、ようやく、といった顔で帰り支度を始める。今度は引きとめようという気も湧かなかったので、黙ってそれを見届ける。
「…じゃあ、またな」
「あぁ」
玄関まで見送ると、智代はひどく無表情な顔で別れを告げる。多分、俺も似たような顔をしていただろう。
戸を開くと、また冷たい風が吹き付けてきた。部屋の暖かい空気に慣れていた体は、その寒さに縮こまる。
「あぁ、道理で静かなわけだな」
智代の言葉につられて外を見る。
地面はうっすらと白い雪に覆われていた。見上げると、雨のように重い雪が、まっさかさまに淵無しの空から落ちてくる。ぼたん雪だ。
「…ちょっと待ってろ」
半身を戸に滑りこませる。玄関に立てかけてあったビニール傘を取ると、訝しげにこちらを見ていた智代にそれを突き出した。
「持ってけよ」
彼女は俺と傘を交互に見比べる。そして降り積もる雪に目をやる。俺もそれを目で追う。
降る雪は軽やかとは言えず、ぼたりぼたりと絶え間なく降り積もる。
「雪なら傘はいらないだろう」
曖昧な笑みを浮かべて、智代は傘を付き返す。俺はまた降りやまぬ雪に目をやる。
「…この雪だったら濡れるだろ」
廊下から手を差し出すと、すぐにその手にも雪が積もる。水気の多いそれは、手に触れると体温であっというまに融けて流れた。
「持ってけよ」
再び、傘を突き出す。智代は今度は傘と雪とを交互に眺める。
やがて、彼女はかすかにため息をつくと、弱々しく笑いながらビニール傘を受け取った。
「私の方が、気を遣わせてしまっているな…」
…その言葉が、胸に刺さった。
呆然と立ち尽くす。
唐突に、智代は俺を気遣ってくれていたんだと、そんなことに気付く。
それが、少しだけ煩わしいのと、涙が出てしまうほど悲しかった。
智代は、きっと汐の死を悼んでいるし、悲しんでもくれる。…それでも彼女は第一に、二度も家族を失った俺を心配してくれていた。だから汐と殆ど面識もないのに、こんな時間でも駆けつけてくれたのだろう。
…彼女は、汐ではなく、俺にこそ気を遣っていた。
そんな風に、汐の死は大勢の人にとっては無関係なことで、町はそんなことに関わりなくいつもの朝を迎える。…そんな当たり前のことがどうしようもなく悲しかった。
汐がいないことが当り前だという、そんな現実がどうしようもなく悲しかった。
気付くと、乱暴に智代の腕を引いて、部屋の中に連れ戻していた。
押さえ込むように壁に手をついて、身動きを封じる。
俺は項垂れていて、智代の顔は見れなかったが、その体が強張っているのがわかった。もちろん、開けっ放しの戸から吹き付ける風の寒さのせいではないだろう。
けれど智代の様子なんて関係なく、口から出てきたのは、みっともない涙声だった。
「……汐は、ここで暮らしてたんだ」
「…え」
戸惑ったような声。それも無視した。
視界の端に、きれいにそろえられた小さな靴が入る。それを見ると、口が勝手に動いた。
「…あいつは行儀がいいから、ちゃんと靴をそろえるんだ。俺はこんなだから、それでたまに叱られて…」
「……あぁ」
自分の言葉で次々に思い出が蘇る。
一緒に過ごした時間があった。
毎日を、泣いて、笑って、喜んで…そうして俺たちは暮らしてたんだ。
それは、たった数ヶ月のことだ。一年にも満たない、ほんのわずかな時間。
…それでも汐はここに居た。
汐がいないのは、当り前のことなんかじゃない。
だから、話した。
汐とここで過ごした日々。
有り触れていて、かけがえのない思い出。
――男の子みたいに元気だったこと。女の子らしくないおもちゃが好きだったこと。それでも女の子らしく花は好きだったこと。胡椒を食べられるようになったこと。運動会を楽しみにしていたこと。甲斐性なんて言葉を使うませたところ。
そんなことが、次々に口を出る。
視界が霞む。相変わらず俺は俯いていて、相手のことなんてお構いなしにしゃべり続けるだけだ。
…それでも時折優しい声で相槌がはさまれる。それに促されるように言葉を紡ぐ。
「…あいつ、最後までボタンって言えなくて…それで、ずっとナベって…」
「うん」
「…オッサンが勝つと思うって…でも、俺に勝って欲しいって…」
「うん」
支離滅裂で、嗚咽で声が震えて、話している内容なんて自分でも全然わからなかった。
それでも、話した。
汐がいないのは、当り前じゃないんだと訴える。
汐が渚のことを聞きたがっていたのとは違う。これは単に俺が智代に押し付けているだけだ。
彼女がそれを受け止めてくれるのは、やっぱり俺への気遣いなのかもしれない。それでも、きっと少しは伝えられる。
汐がここに居たこと。
その思い出が、少しでもこの町にあり続けるように。
俺に出来るのは、そんなことしかなくて…
だから、思い出を話し続ける。
…そうして、温かな思い出の中、段々と意識は白んでいった。
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