1999年 3月27日 15時00分 S県K市 (エピローグ)

 少年と少女が初めて出会ったあのときから、ちょうど6年を経たこの日。同じ土曜日。
 美坂香里と相沢祐一は、二人並んでK駅のホームに降り立った。
 空が雪雲に覆われていないせいだろう――久しぶりに眺める風景は、記憶よりもずっと眩しい。
 新しく整備された花壇とベンチに囲まれて窮屈そうに建っている駅前交番の壁の白は、前より幾分くすんでしまったように見える。
「あれ、あんなところに花屋なんてあったっけ?」
「知らないわよ。あたしの地元じゃないし」
 祐一の素朴な問いに、素っ気なく返答する香里。
「俺も別に地元って訳じゃないけど……それより、一度見たモノは忘れないんじゃなかったのか、香里は?」
「人の揚げ足を取る男って、ちょっとせせこましいと思うわ、あたしは」
 普段から決して愛想の良い方ではない彼女だが、今日は特に機嫌のバランスが悪いようだ。
「ひょっとして、まだ怒ってるのか?」

「なによ、怒るって、あたしが? まさか。6年前のことなんか気にしたって仕方ないでしょ。栞に口を利いてもらえなくてあたしがあんなに苦労してたのに、初対面の男の子とは仲良く会話してたことが分かって『姉』の面目まる潰れだなんて、そんなこと考えてるはずないじゃない?」
 一息に言い切って、わざとらしい笑みを祐一へ向ける香里。取り付く島もないとはこのことだろう。
 祐一は溜め息を吐くしかなかった。
「……そうやってプレッシャーを掛けるのは止めてくれ。俺だって、あのときはそんなに打ち解けてた訳じゃないし……それに、ほら、家族より他人の方が気楽ってこともあるだろ?」



 事の始まりは、今朝――
『相沢君、今からちょっと出られない?』
 予告なく掛かってきた呼び出しの電話に、祐一は眠たい目をこすりながら深い考えもなく応じた。
 ――まさか、自分の実家のある地方までの遠征だとは思わなかった。
「何しに行くんだよ、これ」
 特急列車に揺られながら、祐一は抗議の意を表明してみたのだが、
「6年前の今日のこと、覚えてる?」
 香里は逆に質問を返してくる。
「……答えになってないぞ。覚えてるけどな」
「へぇ、意外。相沢君のことだから、てっきり忘れてると思った」
 心の底から感心した、という口調で――実際、感心していたのだが――香里は頷く。
「栞に怒られたんだよ。『忘れるなんて酷いです』って。それで思い出した」
 決まり悪そうに頭を掻く祐一。
 それを見て、小さな恋人の尻に敷かれる彼の様子を想像したのだろうか、香里は堪えきれないという風に吹き出した。
「なっ、失礼だな。笑うなんて」
「ごめんなさい、違うのよ。そうじゃなくて……っ」
 言いかけて、顔を背けて口を押さえ「くっくっ」ともう一笑いする香里。
「おい……」

「だから、違うんだってば。それ、騙されてるわよ、栞に」
 ようやく表情を抑えてそう弁解した香里に、祐一は首を横に振って、
「騙され? ……いや、6年前、俺は確かにここで栞に会ったぞ。で、この駅へ迎えに来てたのが香里だったんだろ?」
「それはそうなんだけど。つまりね、『酷いです』が嘘なのよ」
 勘の悪い友人に向かって、根気良く説明を続ける香里。
「どういうことだ?」
「栞だって忘れてたのよ、相沢君のこと」
 そう――
 いっそ忘れてしまった方が良いような酷い記憶を捨てなかった代わり、栞は自分を道案内してくれた親切な少年の存在をすっかり忘れていたのである。
「『忘れてた』って……実際、栞は覚えてたじゃないか」
 分からない、という表情の祐一に、香里は種明かしをする。
「忘れてたから、あたしが教えてあげたのよ。あの子の誕生日の3日前。あたしたちが姉妹に戻れた、あの日の夜にね」
「変じゃないか、それ。6年前のあのとき、俺と香里は一度も話してないし……そもそも10mくらいは離れてただろ?」
 座席から身を乗り出して問い詰める祐一を避けるようにして、香里は窓の外を流れ去る風景へ視線を向けた。

「……あたし、視力と記憶力には自信があるのよ。一度でも見た人の顔は忘れないわ」



「そろそろ帰ってくる頃じゃない?」
 フラワーショップの店先から駅前広場を覗き込みつつ、香里が呟く。
「お、もうそんな時間か。ちょっと待ってくれ、買ってくるから」
 選んでいた商品の中からひとつを掴み上げ、店の奥にあるレジの方へ走る祐一。

 ――6年前は、中途半端で終わっちゃったから。

 あのときと同じように、今日、栞は列車に飛び乗って南へ向かった。香里は、やはり一本遅れの列車で追跡した。
「姉」を探す旅。
 以前と違うのは、それが無断外出ではないということ。列車やバスの運行事情を調べて、しっかりと目的地――栞の家族が眠っている場所――までの行程を決めてあること。それから――
 小さなフラワーポットを抱えた相沢祐一が、「こちら側」で待っているということ。

 誕生日を迎えると同時に病院へ運ばれた栞が退院するまで、鉢植えを贈る訳にはいかなかった。何度か病室へ切り花を持っていったこともあるが、すぐに枯れてしまうので本当は気が乗らなかったのだ。
 ――ま、地味なヤツだけど。栞も俺も「バラの花束」ってガラじゃないからな。
「それ、相沢君にしては可愛い選択ね。まだつぼみも出てないみたいだけど……プリムローズ?」
 早速、祐一の新しい荷物を品定めする香里。
「いや、ニホンなんとか……そういや、名前なんて見てなかったな。店の人が『もうすぐ咲く』って言うから」
 店内に戻って正確な品種を確認してこようか、と祐一が踵を返しかけたところで、

「あ、栞が着いたわよ。ほら、相沢君も急ぎなさい」

 走り出した香里の後を追って、祐一も早足になる。
 バスロータリーの向こう岸でそれに気付いた栞が、手を振りながら駆け寄ってくる。



 新生した美坂栞の前に――もう、姉の幻影はない。





FIN





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桜草(プリムラ/プリムローズ)

在来種は白や赤の花を開き、「日本桜草」名で流通している。西洋種の花弁は淡い黄色。埼玉県(旧)浦和市の自生地は特別天然記念物に指定されており、同県の県花でもある。

科 名 サクラソウ科サクラソウ属
開花期 4〜5月
誕生花 2月1日
花言葉 若い時代と悲しみ、あこがれ、希望、初恋、etc.






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