――どうしてあなたが生きてるの?
 その声は、暗闇の中にうずくまる栞を執拗に責め立てる。
 ――おかしいと思わない? あたしは死んじゃったのに。何の役にも立たないあなたが生きてるなんて。
 ――止めなさい。
 ――栞が可哀想でしょ?
 両親の取り成しにも、声は止まらない。

 ――あなたが死ねばよかったのよ。

 分かっている。
 姉はこんな台詞を口にする人間ではない。
 だから――これは、栞自身の声。
 彼女は、自分が無価値であるということを知っていた。
 ――まあ、良いわ。どのみち、あなたにはあたしを追いかけるしか能がないんだから。
 それも知っている。
 彼女の前には、いつだって姉の背中があった。
 道標とも呼べるそれは――16歳の誕生日で途切れている。

 ――ねぇ、知ってる? あと一ヶ月なのよね……あたしが死んだ日まで。





1998年12月25日 14時30分 A県A市 (残り38日)

 ――去年のクリスマスの日に、あたしが栞に教えたのよ。



 見舞い品のリンゴの皮を小さなナイフで剥いていた香里の手が、ふと止まった。
「どうしたの?」
 気遣わしげに声を掛けた栞の表情には、言葉通りの心配の色が半分――早くリンゴを食べたい、という催促の色が、もう半分。
 だが、香里の手にしたナイフは止まったままだ。
 俯いた視線を銀色の刃の表面に固定して、ぽつり、と心に溜めていた疑問を吐き出す。
「……ねぇ、どうしてあんなこと言ったの?」
「あんなことって?」
 ベッドの上からそう訊き返す栞は、知らないふりをしているだけなのだろうか、それとも本当に忘れてしまったのだろうか。

(もしも言った本人が忘れてるんだとしたら、あたしのしてることって完全に間抜けよね)
 心の中で苦笑しながら、香里は言葉を続ける。
「『私は次の誕生日まで生きられない』って……」
 数日前にそれを聞いたときは驚いて病室を飛び出してしまったが、医師は「自分の診断ではない」と説明していた――「恐らく精神的に疲れているのだろう」とも。
「ねぇ、栞。困ったことがあるなら、何でもあたしに言ってね? きっと力になってあげるから」
 香里の期待通りなら、ここで栞は「実はあの言葉に深い理由はなかった。心配させてごめんなさい」という意味のことを言って、二人で笑い合えるはずだった。

 ――もう、すっかり元気だよ。明日には退院できるって。
 ――良かった。まぁ、あたしがお見舞いに来てるんだから、早く治るに決まってるけどね。
 ――えへへ。ありがとう、お姉ちゃん。

 しかし、現実の栞は笑顔とは正反対の表情を浮かべて、こう問うたのだ。
「どうして……どうして、そんなに私のことを心配してくれるんですか?」
 予想外の応答に、香里は戸惑いつつも当然の答えを返す。
「どうしてって、心配するのは当たり前でしょ。あたしは栞のお姉ちゃんなんだから。栞の方こそ、どうしてそんなこと訊くの?」
 香里はそう言って微笑んでみせたが、目の前の少女から笑顔は返ってこない。
「わたしの、お姉ちゃんは――」
 二人は長い付き合いになる。「姉」には、「妹」の言葉の続きが何となく分かってしまった。
 けれど――それを遮ることも、耳を塞ぐこともできないのだ。

「……お姉ちゃんは、もういません」



 栞の「姉」になると決めた日から。
 完璧な従姉の代わりになるため、香里は必死に勉強をして、身体も鍛えた。髪型を変えて、話し言葉も彼女を真似て大人びたものに変えた。
 その結果――目標にはまだ僅かに及ばないとはいえ、学業の成績は学年トップを維持できるようになったし、部活動でもそれなりの結果を出すことができている。
 もちろん、本来の自分を半ば殺してまで努力を続けることは苦しかった。しかし、香里を指して栞が「自慢の姉」と公言しているのを耳にしたとき、全てが報われたような気がしたのだ。
 なのに――

 香里は今、はっきりと悟っていた。
 栞にとっての姉は、昔も今も一人だけ――
 初めから、香里の妹になるつもりなどなかったのだ。

 栞にとって、香里は他人だった。ひょっとすると、無邪気に従姉をしていた頃の方が、仮の姉となった現在よりも近しい存在でいられたのかもしれない。
 ――お姉ちゃんは、もういません。
 こうして重要な話題になると口調が「ですます」調に戻ってしまうのも、その証拠のひとつだ。
(そういうことだったのね……)
「誕生日まで」という宣言に隠された本当の意味を、香里はようやく知った。
 栞の時間は、かの「姉」と同じ日――16歳の誕生日で終わる。それが、「妹」の選んだ未来。
 姉になれなかった少女は、それを追認してやるだけで良い。
 自身の力でどうにかできるかも、という甘い夢をようやく捨て去り、美坂香里は口を開く――
「先生に確認したわ」
「……確認?」

「ええ。栞、あなたは次の誕生日まで生きられない……ふふ、良かったわね、予定通りになって」

 実際のところ、栞の「姉」の話を聞き出した医師は「生きられない」と明言した訳ではなかった。だが、それは単に聞き手の心情を気遣っていただけだ――少なくとも、今の香里にはそう思えた。「後は私に任せておきなさい」と胸を張っていたが、身体の具合が悪い訳でもない患者をどうしようというのだろう。
 もちろん、「心の病」という言葉もあるが――
 既に生きる意義を失っている人間を、無理矢理この世に引き留める――それが「治療」と呼べるのか、香里には分からなかった。

 微かに歪んだ笑みを浮かべたまま、香里は踵を返す。
 彼女には、もはやこの部屋に留まる理由も資格もなかった。





1999年 1月22日 13時00分 A県A市 (残り10日)

 相変わらず人の気配のない中庭で――
「……栞は家で大人しくしてるのか? それとも、もう制服着て普通に登校してるのか?」
 寒さに腕を抱えながら、相沢祐一は尋ねた。
「栞って誰……」
 美坂香里は「何をバカなことを」という表情で、彼の質問を一蹴した。

「あたしに妹なんていないわ」





1999年 1月23日 22時45分 A県A市 (残り 9日)

 祐一に促されて、香里は静かに口を開く。
「……妹のこと」
 深夜の学校。
 欠席していたはずのクラスメートから、突然掛かってきた呼び出しの電話。
 これが真剣な話でないはずがない。
 自然、聞き手である少年の表情も引き締まったものになる。
 青白く明滅する街灯に照らされて、緩やかな曲線を描く髪が彼女の白い頬に複雑な影を落とす。
 ――あたしの、たったひとりの妹のこと。
 しかし――
 少女は香里のたったひとりの妹だったが、少女の「たったひとりの姉」は香里ではなかった。
「相沢君、あたしに言ったよね……あの子のこと、好きだって」
 振り返ってみれば、香里自身は少女に「好き」だと告げたことがない――今になって気付いたところで、もはや手遅れだが。
「あの子、楽しみにしてたのよ。あたしと一緒に、あたしと同じ学校に通って……そして、一緒にお昼ご飯を食べる」

 ――その「あたし」は、本当に「美坂香里」か?

 ずっと避けていた問い掛け。
 それを考え始めると、自分の存在があやふやになってしまう。
 栞の姉は香里ではない。でも、「あたし」は栞の姉だ。
 ――だから、あたしは美坂香里じゃない。
 違う。確かに自分は香里だ。
 ならば、美坂香里はいつから「あたし」になったのだろう。自分のことを「わたし」と呼んでいた頃の彼女はどこへ消えた? 「あたし」のオリジナルは誰?
 そんなことは決まっている。

 ――止めろ。考えるな。

「あの子は、医者に次の誕生日までは生きられないだろう、って言われているのよ」
 ――医者の先生に教えたのは、あたしだけどね。
 祐一の驚愕をどこか遠くに感じながら、香里は淡々と言葉を吐き出す。
「でも、最近は体調も少しだけ持ち直していた。だから、次の誕生日は越えられるかもしれない」
「……」
「でも、それだけ。何も変わらないのよ。あの子が、もうすぐ消えてなくなるという事実は」
 栞は――美坂香里のたったひとりの妹は、既に選択してしまったのだ。
 病気や怪我などよりもっと深いところにある、命の意味を。
 少女の時間は、あと一週間で区切りを迎える――そこで生まれ変わることもできるはずなのに、彼女はそれを是としなかったらしい。それほどまでに、彼女にとって「姉」の存在は大きかったのだ。
 だから、たとえ一週間を過ぎてなお生命の火が消えていなかったとしても、それは単に古い時間を引き延ばしているだけ。彼女自身の時間が流れている訳ではない。

「去年のクリスマスの日に、あたしが栞に教えたのよ」
 タイムリミットが近付くにつれて、心は現実の身体をも蝕み始めた。
「経過は順調」という医師の説明に反して、年末の入院は年明けまで長引き――いったん退院したものの、月の半ばを待たずに病院へ舞い戻るはめになった。今だって、無理を通して出歩いているとはいえ、本来ならば「絶対安静」を言い渡されてもおかしくない状況なのだ。
 栞。
 香里の従妹だった少女――「あたし」の妹だった少女。

「だから……あの子のこと避けて」
 震えながら話し続ける自分がいる一方で、それを冷静に観察している自分もいる。今、相沢祐一に縋り付いて泣いているのは、はたして本物の美坂香里なのだろうか。
「妹なんか最初からいなかったらって……」
 ――それとも「あたし」なのだろうか。
 分からない。
 確かなのは、この世界に栞という名のひとりの少女が存在して、彼女の姉を散々振り回した挙げ句、その「姉」のために未来を閉じようとしている、ということだ。
 確かなのは、香里という名の少女がひょんなことから栞の姉の役目を務めることになり、いつの間にか「姉」でない自分がどこにもいなくなっていて――そして結局は「妹」だったはずの少女に全てを否定されてしまった、ということだ。

「……あの子、何のために生まれてきたの」

 ――あたし、何のために生まれてきたの?





1999年 1月28日 13時00分 A県A市 (残り 4日)

 昼休み。
 机の上に頬杖を突いてぼんやりと窓の外を眺めながら、香里はいつか友人と交わした会話を思い出していた。

 ――ねぇ、北川君。あと三日で世界が滅びるとしたら、あなたはどうする?
 ――珍しいな、美坂がそんなこと言うなんて。
 ――知り合いに訊かれたのよ。良いから、真面目に答えて。
 ――美坂ならどうするんだ?
 ――愚問ね。『三日で滅びる』だけじゃ条件が曖昧すぎるわ。世界の状況がどうなっているのか。あたしにできることはあるのか。それによって、最適な行動なんて色々でしょ。臨機応変に対応するしかないわ。
 ――はぁ、美坂らしいな。まぁ、オレは……月並みだけど、「大切な人と一緒に過ごす」ってとこかな。
 ――大切なって……そんな相手、いるの?
 ――うむ、これから探す。

「世界が滅びるとしたら」などと言い出したのは、もちろん栞だ。
 当の栞の答えは、奇しくも北川と同じだった。流行りのドラマの影響だろう、と当時の香里は一笑に付したものだが――
 どうやら、自分は北川に嘘を吐いていたらしい。
(世界が滅びるとしたら……「何もしない」が、あたしの答え)
 もう丸二日、食事を取っていない。
 そのせいで親友に心配されているなんてことはない。
 ただ逃避するために学校へ来ているだけで、授業など聞いていないし、部活動にも出ていない。
 妹と話をすることもない。

 妹なんていない。いない。いない――





1999年 1月29日 16時15分 A県A市 (残り 3日)

 誰もいなくなった放課後の教室を見回して、北川潤は溜め息を吐いた。
 ――結局、今日も声を掛けられなかった。
 彼の友人である美坂香里は、彼の知らない何かのために苦しんでいる。それに気付いていながら、まるで世界の全てを厭うようにしている彼女の壁を破って話し掛ける勇気が出なかった。
 今日こそは、と意気込んでいたのだが(彼は昨日も「今日こそは」と思っていた)、北川が立ち上がる前に彼女は去ってしまった。彼と同じように彼女を案じていたらしい水瀬名雪に、腕を掴まれるようにして連行されてしまったのだ。
(……ま、オレなんかより水瀬さんの方が適任だよな)

 香里のことで思考に没頭したまま歩き出したせいだろう――教室を出たところで、北川は足の先に小さな衝撃を感じた。どうやら何かを蹴り飛ばしてしまったらしい。慌てて床の上を確認すると、壁際に転がる白い布製の財布が視界に入る。周囲に散らばった小銭もろともそれを拾い上げながら、彼は考えた――
 落とし物は職員室か事務室へ届けるのが筋だが、ここは彼の教室の目の前である。持ち主は顔見知りのクラスメートである可能性が高い。わざわざ遺失物扱いにするよりも、直接手渡してやった方が面倒がなくて良いだろう。
 幸い、北川はクラスメートの誰がどの部活動に参加しているのか、といった情報に明るい。この時間ならば――持ち主が帰宅部員でない限り――部活動中の本人へ届けてやることができるはずだ。
「ちょっと失礼」
 誰にともなく小さく呟くと、慎重に財布を開き、拾い集めた小銭を中へ戻してやるついでに持ち主の手掛かりを探す。
 しかし、
「ない……」
 少量の小銭のほかは、千円札が二枚、レシートも二枚。
 所有者の身元を示す定期券や会員証の類は何も入っていなかった。免許証やカードなども見当たらないことから辛うじて持ち主が教師でないことだけは想像できるものの、そもそも男物なのか女物なのかさえ判然としないデザインの財布なのである。
 プライベートな持ち物の内側を覗きすぎるのは良くないことだと思いつつも、北川は折り目の奥のポケットまで引っ繰り返して中を改めてみた。ここまで来ると、もはや一種の意地である。引っ込みが付かなくなってしまったのだ。
 そうして白い財布の最深部から発見されたヒントを手にして、彼は首を傾げた。ヒントといっても、明確に身元の分かるようなものではない。その小さな紙切れの上には、拙い文字で、ただそっけなく一言――

「北川君……?」
「うぇ!?」
 後ろめたいことをしているという自覚があったのだろう。肩越しに聞こえた声に、北川は冷や汗をかきながら振り返り、
「いやっ、これは……覗こうとか、そういうつもりじゃなくて。ただ、誰の財布なのかと……」
 しどろもどろになって弁解を始めた北川を前にして、彼に呼び掛けた人物は「あ」と言ったきり、気まずそうに押し黙ってしまう。
 このときになって、ようやく北川は相手を認識した。
「み、美坂」
「えーと、北川君。それ、まさか中まで見た……みたいね」
「……もしかして、これ、美坂のだったとか?」
 恐る恐る確認した北川に、香里は頷いてみせる。それを見た北川は「見たけど、見てないから!」と意味不明の言葉を吐きながら、慌てて財布の口を閉じて持ち主へ返却する。
「ごめん」
「まあ、別に良いけど……」
 見られて困る物が入っている訳でもないし、と続けながら自分の財布を受け取ろうとして、香里は先ほどと同じように「あ」と漏らして手を止めてしまう。彼女の視線の先には――
「あ、これも」
 右手に掴んだままだった紙切れを、決まり悪そうに差し出す北川。さすがに、一番奥に入っていた秘密まで暴いてしまったのでは「持ち主の手掛かりを探すため」という言い訳にも説得力がない。

 香里は、差し出された手を見つめたまま動かなかった。
「……」
 間が持たなくなって、北川は再び口を開く。
「えーと、美坂さん」
「それ、返して」
 彼女の無愛想な返答を「怒っている」と解釈した北川は、香里の手に紙切れを重ねながら、再び「ごめん」を繰り返す。
 しかし、香里は特に怒りを覚えている訳ではなかったらしい。ただ、呆然としていただけなのだ。北川が5回目の「ごめん」を口にした辺りで我に返り、慌てて「ううん」と首を横に振る。
 しきりに頭を下げる少年と、向かい合って首を振り続ける少女。傍から見れば滑稽な光景だったのに違いない。
 数秒後、ようやく財布と紙切れを手にした香里は、

「見付けてくれて、ありがとう」

 注視されて気恥ずかしくなったのか、北川は視線を逸らして「いや、礼を言われるほどのことは」などと呟く。
 このとき彼は香里の方を見ていなかったから、彼女の唇が「財布のこともあるけど――」と小さく動いたことには気付けなかった。
 そう、財布を拾ってくれたことにも感謝しなければならないが――それ以上に、
 ――忘れていた記憶の欠片を見付けてくれて、ありがとう。
 香里は、受け取った紙切れの上に目を落とした。少し黄ばんだ、懐かしい文字が見える。

『おねえちゃん ありがとう』

 どうして、忘れていたのだろう。どうして「姉になれなかった」などと考えてしまったのだろう。
 あのときから――南の街へ迎えに行ったあの日から、栞はずっと香里の妹だったのに。
(……あたしの目は曇ってた)
 栞に拒絶されたことを嘆くあまり、偏った見方しかできなくなっていた。

 香里はこれまで、栞が自ら死を選択したのだと思い込んでいた。かの偉大な姉の亡くなったその日を過ぎて生きる己の価値を、栞は信じられなかったのだと。所詮、香里では彼女の「姉」として不足だったのだと。
 しかし、栞がそうした意図を持って「誕生日まで」と宣言したのだと仮定すると、おかしな点がいくつもある。
 何より、年が明けてから見せた栞の行動や言動は、決して死を見据えた者のそれではなかった。不幸な自分を嘆くでもなく、残された日々を華々しく生きようとするでもなく――
 確かに、淡々とそれまでの日常を繰り返すというのもひとつの選択ではあるだろう。ところが、その一方では積極的に相沢祐一を巻き込み、突発的な非日常を楽しんでいる節もある。しかも、聞けば彼との関係は一週間の期間限定だと言うのだ。
 とはいえ、それだけならば「振る舞い方を決めあぐねている」と解釈することもできる。自分の命に期限を設けてしまったものの、それまでの時間をどのように費やすのかについては何も決めていなかったのだと。

 だが――
 思い返してみれば、香里が死を宣告したとき、栞の顔に現れた感情は紛れもなく「怯え」だった。香里が彼女の前を素通りするたび、栞は「苦しい」とも「哀しい」とも付かない奇妙な表情を浮かべていた。
 自らの意志で死を決意したのならば、わざわざそんなことに動揺する必要などないはずだ。
 そのうえ、彼女は今月の初め――1月8日の夜、残り3週間の期限を前にして、自分の手首に傷を付けた。幸いにして、そのときは大事には至らなかったようだが。
 不自然な物音に気付いた両親が様子を見に行ったとき――栞は左の手首にカッターナイフを押し当てたまま、泣きながら笑っていたらしい。
 真っ暗な部屋の真ん中で。
 高いところにある何かに、赦しを請うような姿勢で。

 もしかすると、彼女自身、自分がなぜ「誕生日までしか生きられない」と確信するに至ったのかを理解していなかったのかもしれない。全くの無意識から死を予感してしまったのかも――
 美坂家に迎え入れられて以来、栞は亡くなった家族について一度も話題に出していない。また――6年前のあの日を除いて――それを連想させるような行動を取ったこともなかった。
 だから、彼女がどの程度まで当時の記憶を残しているのか、正確なところは分からない。香里が知っているのは、事故に遭った前後数日間の出来事は全く覚えていないらしい、ということくらいだ。

 だが、昔のことを覚えているかどうかなど、些細な問題だったのではないか? いずれにしろ、誰かが栞を支えてやらなければならなかった、という点に違いはないのだから――「私は次の誕生日までしか生きられない」という突拍子もない言葉が、本人さえ気付いていない心の深層より発せられた救難信号だったのならば。
(「誰かが支えて」……? 冗談じゃないわ。「あたしが」でしょ。あたしは「お姉ちゃん」なんだから)
 正直なところ、本当の意味で「姉」と慕われているのかどうかということについて、香里はまだ確信を持てない。
 しかし、
(あたしがあの子の姉であるためには……あたし自身にとってあの子が「妹」なら、それで充分)
 一ヶ月前の弱い自分に向かって、香里は「そうでしょ?」と問い掛けた。もちろん、答えが返ってくるはずもなかったが――

「北川君。あたし、もう行くわ。名雪を待たせてるのよ」

 ぐずぐずしている時間はない。
 失ってしまった一ヶ月間を、早くこの手に取り戻さなければ。



1993年 3月28日  7時30分 A県A市 (過去編6)

 ――栞ちゃんがあたしたちの「家族」になるには、もう少し時間が要るのかもしれない。
 暖かな布団の中で微睡みながら、香里はそう思った。



 黙って家を抜け出した栞を追って、南の街まで遠出したのは昨日のことだ。
 突然の出来事だったから、両親に報せる余裕もなかった。
 全力で駅まで走り、ホームに立つ栞の後ろ姿を発見した香里の目の前で――ちょうどそこへ滑り込んできた列車が栞をさらっていった。
 一本遅れの列車に乗り込んだものの、目的地が分からなければどうしようもない。
 ――可能性のある候補は二ヶ所あった。
 先々月まで栞たち――伯父の家族が住んでいた家か。それとも、彼らを襲った事故の現場か。
 もしも後者だとしたら、事態は深刻かもしれない。「後追い」という不吉な単語が脳裏を過ぎる――
 と、そこまで考えて、栞は後者へ辿り着くための道筋を知らないのではないか、と気付いた。伯父宅の最寄り駅ならば、香里と栞の二人も何度か利用したことがある。しかし、事故の起きた場所はそれとは異なる路線沿いにあった。自家用車に乗せられて移動していた栞には、列車を使ってその場所を訪れる術がないはずだ。
 だから、香里はよく知っている方の駅へ向かった。
 もし、栞が自棄になって「どこでも良いから遠くへ行きたい」などと計画していたのだとしたら、香里にはどうすることもできなかったはずだが――

 はたして、栞は香里の待つその駅に現れた。
 季節外れの粉雪が舞う空の下。
 見知らぬ少年に付き添われて。
 丸一日離れていただけなのに、何年間も別れていたような気がした。
(そうだ、結局、あの男の子にお礼を言ってない……同い年くらいだと思うけど、ひょっとして年下かな)
 栞を抱きしめて再会を喜んでいるうちに、少年はどこかへ消えてしまった。
 もう、二度と会うことはないだろう。
 少年のことを栞に尋ねてみたが、答えはなかった。
 否――実際のところ、答えがないのは少年のことに限らない。香里の家に引き取られて以来、栞は最低限の挨拶を除いて何の言葉も口にしていなかった。「おはよう」「おやすみ」「いただきます」「ごちそうさま」――それが、彼女の一日の全てだ。家出まがいの冒険をした昨日でさえ、それは変わらなかった。
 帰宅の途上、二人並んで列車に揺られた数時間、ひたすら喋っていたのは香里一人だけだった。自分のことながら、よくもめげずに声を掛け続けたものだと思う。
(ちょっとずつ……ね)
 両親は「そのうち慣れるから」と悠長に構えていたが、それに従うつもりはなかった。「今はそっとしておきなさい」という忠告を無視して、頑なな栞の態度を突き崩すために日夜努力している。
 努力の甲斐あって、今の栞が最も心を開いている相手は自分であるという自負もあった。
 元々、香里は栞と年が近いこともあり、亡くなった実姉とは違った意味でよく懐かれていたのだ。その妹のような少女に冷たい視線を向けられることが、何よりも苦しかった。



 事故の後しばらく入院していた栞を美坂家が受け入れたのは、今月の初めのことだ。それはつまり、
 ――栞ちゃん、今日からあたしが本当のお姉ちゃんになってあげるからね。
 軽率な発言をして栞を酷く怖がらせてしまってから、まだ一ヶ月足らずしか経っていないという意味でもある。
 ――焦りは禁物。
 その言葉を口癖にしていたのは亡くなった伯父だったような気がするが、よく覚えていない。
(ううん、ベッドの上で色々考えてたって仕方ないよね)
 もうすぐ8時になる。日曜日の朝とはいえ、そろそろ活動を始めても良い時間だ。
 と――思い切り飛び起きた香里は、視界の隅に違和感を覚えた。
(……?)
 学習机の上に、見慣れない紙片が載っている。昨夜、眠る前には何もなかったはずだ。
 一瞬、母親が書き置きでも残していったのだろうと考えたが、朝早くから出掛ける予定など聞いていない。何か緊急の用事だろうか。まさか、栞が――
 香里の想像は半分当たりであり、もう半分は外れだった。

『おねえちゃん ありがとう』

 拙い文字で記されたメッセージに、四ツ葉のクローバーとそれに連なる白い花が添えられていた。
 昨日今日採集してきたものではない。今はまだシロツメクサの咲く時期ではないし、その葉と花は既に押し花として丁寧に加工されているのだ。
 恐らく、以前から大切に保管していたものなのだろう。
(あ……)
 ふと、数年前の記憶が甦る。
 南方に住む伯父の家を訪れたこと。
 従妹たちと連れ立って散策に出掛けた道端で、目ざとい栞が4枚の葉を広げたクローバーを発見したこと。
 負けてなるものかと周囲を半時間近くも探し回ったのに、結局、香里には何も見付けられなかったこと。
 彼女を気の毒に思ったのか、従妹が「あげる」と自分の手にしたものを差し出したこと――その気遣いが無性に悔しくて、断固として「いらない!」と拒否したこと。

 ――今日こそは、栞と話すことができるかもしれない。
 香里からの一方通行ではない話を。





1999年 1月29日 16時45分 A県A市 (残り 3日)

 確かに香里は、栞との関係を取り戻そうと決意した。
 しかし――
「あたし、やっぱり帰るわ……」
 その決意から半時間もしないうちに当の栞に出会ってしまったとなると、話は別というもので。
 どうすれば「姉妹」に戻れるのかという課題について、まだ何も考えていない。まずは何と言えば良いのか――それさえ全く分からない。
 帰宅してから、自室で落ち着いて計画を練るつもりだったのだ。計画が完成したら、何度も予行練習をするつもりだった。栞の信頼を裏切っておいて、今さら何の体裁を繕う必要があるのか、と自嘲せざるを得ないが――それでも、この計画に失敗は許されないのである。
 それなのに、
「ここのイチゴサンデーが、すっごくおいしいんだよ」
 名雪に引き連れられて久しぶりに訪れた喫茶店――百花屋には、見知った二人の先客が座っていた。
 店の入り口で名雪と押し問答を繰り広げていたものだから、二人ともすぐに香里の来店を知ったようだ。
 呆然と香里を見つめる栞と、何かを悩むようにしている祐一。
 香里は必死に気付いていないふりをしていたのだが――

「おーいっ、名雪」
 意を決したように、祐一が呼び掛けて。
「あれ?」
 名雪がようやく先客の存在に気付いて。
「良かったら、一緒にどうだ?」
 半ば強引に、四人は相席することになってしまった。
 こうなってしまっては、いくら香里でも無視を決め込む訳にはいかない。案内されるままに席に付き、「偶然」の出会いに表情を輝かせる親友の隣で、「オレンジジュース」と一言だけ呟く。
 香里は考えていた――
 予定よりも大幅に早く栞と相対することになってしまった。だが、ここで出会ってしまった以上、計画を先延ばしにすることはできない。一度でも機会を逃がしてしまえば、後はひたすら気まずくなっていくだけだ。
 どうやって話を切り出すべきだろうか。
 はたして、栞は受け入れてくれるのだろうか――

 苦しそうな表情で考え込む香里の姿を見て、案の定、祐一は何か勘違いをしたようである。
 ――そんな風に、気の毒そうな目で見ないでほしい。
 自分の脳裏に浮かんだ思考に、香里は苦笑した。
(栞に嫌われるのも嫌、相沢君に同情されるのも嫌……そんなに欲張ってたら、答えなんてあるはずないわ)
「可愛い子だよね。祐一にはもったいないよ」
「ほっとけ」
 軽口を投げ合う名雪と祐一に引き寄せられるようにして、ようやく香里は顔を上げた。
「……ほんと、見る目がないわね」
「余計なお世話だ」
 ちょうど香里の方を窺っていた栞と目が合う。反射的に視線を逸らしそうになってしまったが、意識を総動員して「妹」の顔に視線を固定する。

「余計なお世話じゃないわよ。だって、栞は……あたしの妹なんだから」

 今の香里には、その台詞が精一杯だった。
 呆気に取られる栞と祐一を前に、戸惑う名雪を促して席を立つ。
(まあ、あたしらしいと言えば、あたしらしいのかもしれないわね……これで許してもらえるとは思わないけど――)





1999年 1月29日 22時00分 A県A市 (残り 3日)

「なっ、栞?」
「……ごめんなさい、お姉ちゃん」
 胸に縋り付いて泣きじゃくる栞を抱き返しながら、香里は戸惑っていた。
「どうして……謝るのはあたしの方でしょ」



 散々悩みぬいた末、香里が隣室のドアをノックしたのは、その日の夜だった。
「shiori」のプレートを掲げたマスコット人形がふるふると揺れる。
 百花屋での一言だけで全てに決着が付いたなどと、都合の良い結論を出せるはずもない。帰宅してからも、香里は「妹」へ謝罪する方法について頭を捻り続けていた――結局、これといったアイデアは浮かばなかったのだが。
 栞が眠ってしまったら――今日が終わってしまったら手遅れになると思えたから、香里は意を決して栞の部屋の前に立った。
 そして、その木製のドアを叩いた途端。
 内側から扉を開いて姿を現した栞は、香里が何かを言う前に泣き出してしまったのである。

「お姉ちゃんが謝る必要なんてないよ。だって、私が最初に酷いこと言ったんだから」
 鼻をすすり上げながら懺悔する栞。取り乱す栞を前にして、香里は逆に落ち着くことができた。
 ――胸に密着したまま声を出されると、もぞもぞしてこそばゆいわね。
 そうやって他愛ない思考を浮かべる余裕さえ生まれる。
「それなら、酷いことしたのはお互い様でしょ? あたしだけ謝らなくて良いなんてことにはならないわ」
「違うよ。私のは2回目……だから」
「2回目?」
 オウム返しに尋ねる香里。彼女の記憶にある限り、他に「酷いこと」の心当たりはない。
「私がこの家に来た頃。お姉ちゃん、一生懸命になって話し掛けてくれてたのに、私はずっと無視してて……」
 予想外の答えに、香里は咄嗟に返す言葉を見付けられなかった。

「栞……あなた、あの頃のことを覚えてたの?」
 香里は「栞が香里を無視していた頃」という意味で「あの頃」と言ったのだが――
「覚えてるよ。お父さんのこと、お母さんのこと……『お姉ちゃん』のこと。それに……事故のこと」
「じ、事故って……だって」
 記憶がないのではなかったのか――そう問い質しそうになって、香里は慌てて言葉を飲み込む。
「忘れようとしたこともあったけど、やっぱり忘れられなかったから……」
「……そう」



 忘れようとしたけれど――
「妹」なんていない、と思い込もうとしたけれど――

 ――やはり、忘れることなどできなかった。
 ――やはり、自分は「姉」だった。



(同じだったのね……あたしと、栞は)

「でも、お姉ちゃんはお姉ちゃんだったけど、『香里お姉ちゃん』もやっぱり私のお姉ちゃんだったよ。これは本当に本当……あの、上手く言えないけど」
 言葉を探しながら、「懸命に」という形容の似合う表情で話を続ける栞。
「うん、ありがとう。あなたも、あたしの大切な妹だから……大好きな妹だから……ずっと知らん振りしててごめんなさい。本当に、ごめんなさい」
 彼女はまだ「姉」の胸に縋り付いたままだ。いつの間にか、香里は「妹」を抱きしめる腕に力を込めていた。
「!? ぐ、お姉ちゃん、苦し……」
 胸の谷間からもぞもぞと発せられた救難信号が、「ごめんなさい」と謝罪を続ける香里に届くことはなかった。





1999年 2月 1日  0時00分 A県A市 (残り 0日)

 ――そして、時計の針が重なった。







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