「……お姉ちゃんは、もういません」



「あたしに妹なんていないわ」





1993年 3月27日 13時00分 S県O市 (過去編1)

 見上げればあいにくの曇り空で、吹き抜ける風は3月下旬とは思えないほど冷たかった。去年は既に五分咲きになっていた桜も、今年はまだ硬くつぼみを閉ざしている。
 しかし、真新しいマウンテンバイクにまたがった少年には天候など関係なかった。
 学期の成績が上がったら買ってやるという両親の約束を取り付け、彼はそれを成し遂げたのだ。
 ――今年は自分でも驚くほど勉学に打ち込む時間があった。
 同級生の中に、このタイプの自転車を持っている者は数えるほどしかいない。所持しているだけで一種のヒーローだった。

 力強くペダルを踏み込みながら、彼は大らかな気分になっていた。
 今なら全てを許せる気がする。
 休みになるといつも一緒に遊び回っていた悪友が、今日に限って留守だったこと。
 玄関先へ応対に出た彼の姉を前にして、どうしようもなくドキドキしてしまったこと。
「中学受験のために塾通いを始めた」という理由を聞き、それは裏切り行為だと思ったこと。
 ――余談だが、その悪友の名は沢渡という。

 新品の自転車を自慢する相手は他に思い浮かばなかったが、それでも今日の少年に「家へ引き返す」という選択肢はなかった。
 彼はギアを一段上げ、ペダルを回し続けた。
 特に目的地はない。行ける所まで行ってやろうと思った。
(右折禁止……K市、10km……消火栓……KOBAN……指名手配……)
 青色に輝く信号機の下を通り抜けて。
(西町3‐3‐3……スーパータイエー、P100台……死亡事故発生現場……)
 歪んだまま放置されたガードレールを横目に。
(新装開店……工事中、100m先……50m先……10m先……回り道……)
 太陽が隠れていたせいで少年は意識していなかったが、このとき彼は国道を真っ直ぐ西へ向かっていた。

 そうして、少年は少女に出会った。





1998年12月22日 17時30分 A県A市

「どういうことですか、先生!?」

 最後の外来患者を見送り、「さて休憩を」とカルテを揃え始めた内科医の背中にヒステリックな女性の声が届く。看護婦ならば無作法を注意してやらねばと厳しい顔で振り返ると、診察室の扉を弾き飛ばすように開いた人物は白衣ではなく街外れにある高等学校の制服を身に付けていた。
「どういうこととは、どういう意味かな。み――」
 医師は彼女の苗字を発音しかけたが、途中でふと思い直したように「香里さん」と言い換える。
「とぼけないで下さい。栞のことに決まってるでしょう?」
 美坂栞は医師の担当する入院患者の一人だった。生来の虚弱体質のようで、毎年冬になるとこの病院に入退院を繰り返すようになる。美坂香里は彼女の姉だ。医師の知る限り、栞を見舞いに来る回数の飛び抜けて多いのが香里だった。
 恐らく今も見舞いの帰りなのだろう。入院棟と外来棟の出入り口は別々だが、内部は渡り廊下で繋がっている。

 彼女が取り乱している理由はまるで分からなかったが、医師はとりあえず手近にあった問診用の椅子を勧めることにした。それから再び「香里さん」と呼び掛けた口調はテンポを意図的に落としたもので、いつも患者を落ち着かせるために用いる話し方だった。
「栞さんの経過は順調ですよ。この冬はいつもより暖かいからね。もう少し休めば……うん、今回は年が明ける前に退院できるはずです」
「なっ……だって、それならどうして!」
 将来は故郷の無医村で開業するのが夢だと公言するこの若い医師は、専門である内科以外にも広い見識を持っており、何より周囲を安心させる雰囲気のために人々の信頼が厚かった。香里自身、普段なら「大切な妹を任せるに足る先生」として敬意を払った態度で接していたはずだ。
「どうやら行き違いがあるようですね。詳しく話を聞きましょう」





1993年 3月27日 14時00分 S県K市 (過去編2)

 少年は途方に暮れていた。
 道端をふらふらと歩いていた少女に、うっかり声を掛けてしまったのが運の尽き。
「なぁ、何とか言ってくれよ」
 今なら犬の警官の気持ちがよく分かる。
 端的に言えば、少女は無口だった。「どこへ行くのか」「名前は何と言うのか」――どんな質問を投げ掛けてみても、まるで反応がない。迷惑がられているようでもなく、本当に無反応なのだ。
 辛うじて外見から少年よりも若干年下であることが予想できたが、それさえも定かではない。

「ああ、そうか。ごめん、名前を訊くならまず自分からだよな」
 謝罪して、今度は自己紹介に励む少年。
 自分の氏名から始まり、通っている小学校、学年とクラス、好きな食べ物、好きな色、好きな天気、好きなテレビ番組。今日は友達の付き合いが悪かったこと、この小旅行には目的地がないこと、新しい自転車の愛称がまだ決まっていないこと。
 ――「チャーリー」と「流星号」、どっちが良いと思う?
 全て話し終えるまでには十数分を要したが、返ってきた反応は不思議そうな視線だけだった。
(聞いてないのかな、こいつ……うーん、なんで話し掛けちゃったんだろ、俺)
 もしもこの光景を少年の悪友が見ていたなら「ナンパ君が振られた〜」などと囃し立てるに違いないが、少年だって何の理由もなく声を掛けた訳ではないのだ。
 周囲に民家も商店もない国道を独り歩く少女は、明らかに不審だった。恐らく道に迷ってしまったのだろう――基本的にお節介焼きである少年としては、それを放っておくことなどできるはずもなかった。
「もう春休みなのに、ちょっと寒いよなぁ……こういうの、『いじょうきしょう』って言うんだぞ」
 会話の糸口は、まだ見付からない――





1998年12月22日 17時35分 A県A市

「――そんなことを、栞さんが?」
 純粋な疑問から医師は問い返したのだが、その言動は香里の神経を余計に刺激してしまったらしい。
「『そんなこと』って……あの子に教えたのは先生でしょう!? ええ、それが先生のポリシーだってことは知ってます。でもっ……でも、あたしたち家族に何の相談もないなんて」
 ヒステリーに対して軽率に応じてしまったことを、医師は小さく後悔した。逆の見方をすれば、才気ある医師の思慮を奪ってしまうほどに、香里の訴えが想像の及ぶ範囲を逸脱していたとも言える。
 常日頃より高校生とは思えないほどの落ち着きを見せていた香里の豹変に、医師はすっかり戸惑っていた。患者でない人物の憤りを鎮めるというのも意外と厄介な作業なのだな、と場違いな思考が脳裏を掠める。
「待ちなさい。香里さんは勘違いをしています。栞さんの生命に差し迫った危険は……少なくとも、私の知る限りでは何もありません。これは本当のことです。例えば香里さんがまだ高校生だから隠しているとか、そういう意味ではない」
 聞き慣れた穏やかな口調を捨て去った医師の発言に驚いたのか、香里はきょとんと顔を上げる。
「え?」

「つまり――『君の命は次の誕生日まで』と言ったのは私ではありません。いったい、栞さんはそれを誰から聞いた、と?」





1993年 3月27日 15時00分 S県K市 (過去編3)

 奮闘すること1時間あまり。
 努力の甲斐あって、少年は少女からいくつかの情報を引き出すことに成功していた。どうやら少女は単に人見知りが激しいだけで、話し方を知らない訳ではなかったようだ。

 途切れ途切れの説明を繋ぎ合わせて判明したこと――少女は駅の方から歩いてきたらしい。
「駅の近くに住んでるのか?」
 ふるふると小さく首を振る少女。
「え……じゃ、電車で来た? 家はどこ?」
 問いを重ねる少年をじっと見詰め、やがて「分からない」という風に首を傾げる少女。
「まさか、家がない訳じゃないだろ? どっちから来たんだ?」
 今度の質問には、少女は答えることができた。
「北」
「北かぁ……」
 少年は頷いてみせたが、「北」がどちらなのか分からなかった。
(えーと、太陽のある方が南で……)

「まあ、とにかく――」
 方角について考えるのを諦め、少女の方へ向き直る少年。
「家に帰れよ。駅まで送ってくからさ」
 自然な提案をしたつもりだったが、少女はこれまでにないほど大きく首を振って拒否の意を示す。
「あ……そうか。探し物をしてるんだったよな」
「うん」
 探し物。
 何かを探すためにここへ来たのだと、最初に少女は語っていた。その一言を聞き出すためだけに、少年は信じられないほどの努力を強いられたのだが。
 しかし――
「でも、何を探してるのか分からないんだろ?」
 探す対象が分からないのでは仕方がない。探そうとするだけ徒労だ。
 少年はそう説得しようとしたのだが、
「おねえちゃん」
「は? おねえちゃん……?」
 唐突に示された新たな情報に、しばし戸惑う少年。やがて少女の意図を察して、
「もしかして、姉ちゃんを探してるのか?」
 こくり、と頷く少女。
「探し物って、人探しだったのかよっ。じゃあ、単なる迷子?」
「……!」
 思わず詰問する口調になってしまった少年に恐れをなしたのだろうか、少女は怯えるようにして半歩下がり、少年の顔を見上げて――
「あ、え、おい、泣くなって。あー、ほら、探すの手伝ってやるからさ、な?」
「……ほんと?」
 甘いと知りつつ、少年は力強く「ああ」と答えた。
 どうせ目的もなしに自転車を漕いできたのだ。この少女を助けるために、一日の残り数時間を使ってみるのも悪くはない。

「こうなったら『いちれんたくしょう』だぞ。俺は祐一。相沢祐一だ。よろしくな」
 改めて自己紹介をしながら、右手を差し出す少年。
 少女は恐る恐るその手を握り返して、
「しおり、です」
「ああ、そういえば、名前をまだ聞いてなかったっけ……で、名字は?」
「……」
 何気ない問い掛けに、少女は口を閉ざしてしまう。
 訊いてはいけないことだったのだろうかと、少年が不安になってきた頃、
「……しおり」
「え。名字もしおりってことは……『しおりしおり』? さすがにそれはマズいんじゃ……」
「あ、ちが――ちゅん」
 ――咄嗟の否定は、小さなくしゃみに遮られて。
「なんだ、寒いのか……仕方ないな。これ、貸してやるよ」
 少女の華奢な肩を、青いウィンドブレーカー(プロサッカーチームのロゴ入り)が包んだ。





1998年12月22日 17時40分 A県A市

「そもそも、きっかり『この日』と断定するなんて、今の医学では無理なんですよ。今日明日のことならともかく、何ヶ月も前からなんて」
 ようやく半分ほどの落ち着きを取り戻した香里を前に、医師は普段より少し早口で説明を始めた。
「――確かに、誕生日だとか元日だとか、そういう節目の日まで気力が保つ、という事例がない訳ではありません。しかし、この場合は全く関係のない話です。栞さんは、ただ他の人より少しだけ繊細な身体を持っているというだけで、それ以外は何の問題もないんですからね」
 巧妙に「死」や「病」といった単語を避けた話し方は、数年間の医師生活のうちに意識して身に付けたものだ。患者の心をケアするためには適度な話術も必要なのである。
「だって、あの子がそう言ったんですよ。聞き間違いなんかじゃありません」
 医師に指摘されるまでもなく、元々香里は知っていた――栞の病状がそれほど深刻でないということも、「誕生日まで」という宣告に潜む不自然さも。栞自身の口から聞かされたのでなければ、恐らく一笑に付していたに違いない。
「そう、問題は栞さんがなぜそんなことを言ったのか、ということです。ただの冗談なら、それに越したことはないんですが」
「冗談だなんて、まさか」
 不謹慎な発言を責めるように、香里は向かいに座る相手を軽く睨む。
「まあ、栞さんに限って心配はないと思うんですが……身体的に問題がないなら、精神的なものでしょうね」
「精神……?」
「いや、そんな深刻なものではありませんよ。入院が続いて、ちょっと参っているだけでしょう。それとも、何か別の心配事でもありますか?」
「……」
 緊張を和らげるための軽口のつもりで発された医師の問いに、しかし香里は俯いた姿勢で硬直したまま答えなかった。やがて、辛うじて顔を上げたものの――「先生」と呼び掛けたきり、再び口を閉ざしてしまう。
「……なるほど、心当たりがあるんですね? 差し支えなければ話して下さい。きっと力になれると思います」





1993年 3月27日 16時00分 S県K市 (過去編4)

 遊びに出掛ける少年のポケットには、いつも百円玉が2枚だけ入っている。
 考えてみれば、自動販売機のコーラ缶が110円になってから既に1年が過ぎているこの時世、200円というのはキリが良いようでいて実に中途半端な金額なのだが――税込30円の菓子を3つと缶ジュース1本でぴったりなので、十円玉2枚を上乗せして予算を220円に上げようという思考が働いたことは一度もなかった。
 今日はそれが裏目に出たと言える。
「……いいの?」
 手渡された1本きりの缶と少年の顔とを交互に見つめながら、少女は尋ねた。
「遠慮しないで飲めよ。俺はさっき飲んだから、いい」
 少年の答えは、もちろん嘘だ。「いい」という言動に反して、物欲しそうに缶へ向かってしまう視線を止められない。ポケットの中に残った9枚の十円玉(五十円玉は出てこなかった!)の存在が鬱陶しい。
 少女の手にしているのは、250cc入りの黄色い缶だ。能天気な赤文字で「あったか〜い」と書かれたボタンを押すと出てくる、名の知れた缶コーヒーである。「コーヒー」とは名ばかり、少年のクラスでは砂糖の「ほうわすいようえき」だというのが定説になっている代物だ。女の子は甘党だというから、きっと目の前の少女もこの飲み物を好きに違いない――そう予想した末の選択だった。
「……」
「なんだよ、飲まないのか?」
 痺れを切らした少年の問いに、少女は首を振って答える。
「ごめんなさい……開けられない、です」
「あ、そうか。貸してみろ」
 親切にプルタブを開封してやりながら、少年は「今日は変な感じだな」と思った。
 探し物の手伝いを引き受けてみたり、上着を貸してみたり。
 今だって、普段なら「ジュースの缶も開けられないのか、やーい、不器用ー」と囃し立てる場面だったはずだ。ところが、どこか幻のような空気を纏うこの少女が「開けられない」と言うのを耳にしたとき、それは極めて自然なことだと思えたし、そればかりか「気が利かなくて申し訳ない」という気分にまでなったのだ。
 どう考えても、少年の行動は「らしくなかった」。

 しかし――
 缶の中身を一口だけ飲み込んだ少女の漏らした感想は、そんな違和感を吹き飛ばすくらいの衝撃を少年にもたらした。
「にがい……」
「えぇ!?」
 まさか、と少年は耳を疑う。砂糖と香料の味しかしないはずの飲み物のどこに「苦味」を与える要素があるというのだろうか。
(別のコーヒーと間違えた?)
 だが、少女の手中にある缶は「砂糖の飽和水溶液」のそれに相違ない。
 不良品だろうか。それとも――
「一口もらうぞ。ドクブツコンニュウ事件かもしれないからな」
 黄色の缶を横取りして、ぐい、と喉へ流し込む。と、
「うっ、甘!!」
 記憶そのままの味だ。苦味の「に」の字もない。
「……?」
「ほら、絶対に苦くなんかないから。もっと飲んでみろよ」
 少女の手元へ缶を突き返す少年。「俺は嘘を吐かない」と胸を張ってみせてから、ふと気付く。
(あ。もしかして、これって間接キ……ぐはっ)
 つい、友人たちと回し飲みをする感覚で缶を渡してしまったが、相手は気安い同性の友人ではないのだ。
 真っ赤になったり真っ青になったりしながら慌ててふためいてみるものの、「飲んでみろ」と言ってしまった手前、「やっぱり駄目」と取り返すことなどできない。そのうえ、少年の方は既に少女から横取りした缶に口を付けてしまっている。
(どうしよう、どうすればいいんだ?)
 少年の葛藤を余所に、しかし少女は平然として、
 ――こくり。
 と一口だけ缶の中身を嚥下して、少年の方へ缶を差し出す。
「え? え?」
 差し出された缶の意味が分からず、ますます取り乱す少年。
「やっぱり、にがいよ?」
「えっ。あ、そうか、苦い……」
 つまり、「苦いから要らない」ということなのだろう。
 少女の意図を悟り、少年は別の意味で恥ずかしくなってきた。
(うあ……一人で慌ててた俺って間抜け?)





1998年12月22日 17時45分 A県A市

「――あたしには、年の離れた従姉がいました」
 ぽつぽつと話し始めた香里を前に、医師は少なからず困惑した。彼女の話す内容と栞の症状との間に関連があるとは思えなかったからだ。しかし、わざわざ指摘するほどのことでもないと判断して、所々で相づちを打ちながら話の続きを促していった。
 香里よりも五年ばかり早く生を受けたその従姉は、話を聞く限りではおよそ非の打ち所のない完璧な人物だったようだ。学業の成績、身体の能力ともに全国レベルであり――何より、家族、親族、友人、知人を問わずあらゆる年代の人間に信頼されていた、という点で彼女の稀な人柄が知れよう。
 香里と栞は当然のごとく彼女に懐き、隙さえあれば彼女の背中を追いかけていた。特に香里の傾倒ぶりは信奉者と呼んでも差し支えないほどで、今日の香里があるのは彼女を目標に努力を続けてきたからであるとも言える。
 少女時代の香里の悩みといえば、誕生日がその従姉とちょうど一ヶ月だけ異なっているということだった。香里は3月1日生まれ、従姉は2月1日生まれ――これは、栞の誕生日と同一である。傍らで「おねーちゃんと同じたんじょーび!」と喜ぶ栞に少なからず嫉妬を覚えたものだ。

 完璧な従姉の完璧たる所以を示す、こんなエピソードがある。
 栞がまだ小学校で九九を習っていた頃に起きた事件だ。

 盛夏の太陽の下、香里と栞はコンクリートで固められた河岸に並んで座り、せっせと絵描きの真似事をしていた。夏休みの宿題である。二人とも低学年の児童に相応しく、白い画用紙の上に極めて自由奔放な風景画を完成させつつあった。
 ――と、そこへ唐突に風が吹いた。
 単なる自然現象である。もちろん、誰かに責任がある訳ではない。
 しかし――重要なのは、画用紙を吹き飛ばされそうになった栞が慌ててそれを両手で押さえ、結果として、栞がその手に掴んでいたはずの絵筆と絵の具がコンクリートの斜面を転がり落ちていった、という事実だ。
 香里が止めようとする前に、栞は絵描き道具の後を追って河岸を走り降りてしまった。行き着く先は、陽光を照り返して白く輝く水面である。中規模の河川とはいえ、それは小柄な少女が飛び込んで無事に済むほど弱い流れではない。香里は、ただその場で叫び声を上げることしかできなかった。

 取り乱す香里の横をすり抜けるようにして斜面を下っていったのが、二人に付き添って現地を訪れていた件の従姉である。彼女は躊躇なく川へ飛び込むと、溺れかけた栞をあっという間もなく救い出してしまった。
 ところが、鮮やかに救出されたはずの栞はまるで顔を爆発させるように泣き出したまま、なかなか泣き止まなかった。それでいて、水が怖かったのかと尋ねた香里には「違う」と首を振る。栞は、買ってもらったばかりの絵筆とお気に入りの黄色い絵の具を失ってしまったことで泣いていたのである。
 こういったシチュエーションで、並の大人なら「君が無事ならそれで良いんだ」とか「道具はいつでも買えるが命は決して買えない」などと慰めるところだろう。だが、香里の従姉は違った。彼女は得意気に「ふふん」と鼻を動かすと、すっかり濡れてしまったポケットの中から栞の絵筆と絵の具を取り出してみせたのだ。

 ――そのとき栞の浮かべたとびきりの笑顔を、香里は今でもはっきりと覚えている。

 もちろん、十年近く経った今なら分かる――従姉の行動は、必ずしも理想的なものではなかった。ミイラ取りがミイラになる危険性を考えれば、咄嗟に川へ飛び込むという選択は明らかに浅慮である。それに、いくら泳ぎが達者とはいえ、栞を救助する片手間に絵筆と絵の具をも掴み取るなど無謀という他ない。
 しかし、それでも――香里の中に、この記憶が強烈なインパクトを伴なって焼き付いている、ということだけは確かだ。





1993年 3月27日 17時00分 S県K市 (過去編5)

 いったい、春はどこへ逃げてしまったのだろうか――ぞっとするほど冷たい風が二人の頬を撫でる。
 少年の押し歩く青い自転車の車輪が、カラカラと乾いた音を立てる。
 空からは白い粒子が舞い始めていた。
「見付からないな、しおりの姉ちゃん」
「……」
 一時間前には少しだけ打ち解けた雰囲気になっていたが、少女の口は再び重さを増してしまったようだ。
 寒さのせいなら良い、と少年は思う。探し人の見付からない不安を、僅かでも少女が忘れてくれているのなら。
「そうだっ。雪だるま、作ろうぜ。こーんなにでっかいヤツ」
 努めて明るい口調を作り、足元を見つめながら歩く少女に話し掛けてみる。「こーんなに」と言いながら両手を広げてしまったせいで、支えを失った自転車が倒れ掛け、少年は驚いてそれを引き戻し――

 その一部始終を、少女は何も言わずに眺めていた。

「あー、ごめん。そうだよな、雪が全然足りないよな。アハハッ、なに浮かれてんだろ、俺」
 目の前で泣かれるのも困るが、やはり何の反応もない方が悲しいのだ、と少年は今さらのように実感する。
「……姉ちゃん、どこにいるんだろうな?」
 そうして、話題は振り出しへ戻ってしまうのだ。

「なぁ、やっぱりもう帰ろうぜ。駅まで送ってくからさ」

 少年の提案に、今度こそ少女は頷いた。



 ――幸福は、二人の目の前にあったのでした。

 少年は『青い鳥』のストーリーを連想した。
(俺がチルチルで、しおりがミチルか……あれ、逆だっけ?)
 点灯したばかりの街灯の下で軽く悩みながら、少年は少しだけ離れた所にいる小さな少女と、それを抱き寄せるもう一人の人物の方へ視線を向けた。
 そう。
 何のことはない、探し人――少女の姉は駅にいたのである。真っ先に駅前の交番へ入って迷子の届けがないことを確認した後、巡査の指示にしたがってその場を動かずにいたらしい。
「しおりちゃん」と名前を呼ぶその人物を前にして、なぜか少女が一瞬だけ哀しそうな表情を浮かべたことが気になったものの、「手助けした甲斐があった」と喜ぶ少年はその疑問をすぐに忘れてしまった。
 最後に一度だけ二人の少女の姿を視界に収めると、少年はくるりとUターンして、すっかり冷たくなってしまった自転車に乗り込む。
(人助けをした後は、そっと立ち去る……それが男の美学というものさ)
 漫画に登場するような台詞を心の中で創作して、満足そうに頷きながらスピードを上げていく。
(……って、あれ、そういえば、ここはどこだろ? ここを真っ直ぐ行って、あの角を右に曲がって……えーと)
 周囲を見回しながら、少年はくしゃみをした。
 寒いような、熱いような、奇妙な感覚。身体が重いような気もするし、軽いような気もする。
 熱があるのかもしれない。この寒さの中、上着を貸したまま出歩いていたのだから、それも当然だろう。

 その後、帰り道の分からなくなった少年が駅前交番の厄介になって両親に酷く叱られ、ついでに風邪をこじらせて高熱に三日三晩うなされた、というのはまた別の話――





1998年12月22日 18時00分 A県A市

「そのお従姉さんは……亡くなってしまったんですね?」
 香里を刺激しないよう、医師は慎重に発言した。質問の形を取っているが、これは単なる確認である。最初から、香里は「いました」と過去形を使っていた。
 静かに「ええ」と頷く香里。
 彼女の話はこれで終わりだろうと判断した医師は、脱線してしまった話題をどのように元へ戻すべきか思案を始める。
 しかし――
 最後に付け足された香里の一言は、全く医師の予想に反しており――また、栞の奇妙な発言と香里の従姉とを繋ぐ糸の存在を理解させるには、充分すぎる意味を持っていた。

「――彼女が、栞の姉です」





────

国道1X号線上で死亡事故 - 毎朝新聞(1993年2月2日・S県版)

1日午後6時15分頃、O市西町3丁目付近の交差点で、大型トラックと乗用車の衝突する事故があった。この事故で、乗用車を運転していたK市に住む会社員(42)と同乗していた妻(41)、長女(16)が頭を強打するなどして即死、後部座席に乗っていた次女(10)は軽傷。県警は業務上過失致死傷の疑いでトラックの運転手(35)を近く書類送検する見込み。

────





「あ、お帰りなさい、栞。今日、外でご飯を食べることになったわよ。誕生日のお祝いだからね」

「よし。じゃあ、出発するぞ。ちゃんとシートベルト締めたか、栞?」



「今日から皆さんのお友達になる、美坂栞ちゃんです。本当は春からこのクラスの一員だったんだけど、ちょっと身体の調子が悪くてお休みしていたの。皆さん、仲良くしてあげましょうね」
「……よろしくおねがいします」

「ねぇねぇ、栞ちゃんってテンコーセーだよね。どっからきたの?」
「あ、南のほう……です」
「へぇ〜、それって、トーキョー?」
「え、あの、ちがうけど、その近く……たぶん」







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