「……ちゃん、お姉ちゃん」
　「ん……？」

　目を覚ますと、目の前に栞の顔があった。

　「何かあったの？ 」
　「海が見えるの。凄く綺麗だったから、お姉ちゃんにも見せたくて」
　「海が……綺麗……？」

　……ああ、そうか。この世界でも、空の色は綺麗な青だった。
　それならば海だって青く綺麗なはずだ、と寝ぼけた頭で納得する。
　窓の外を見る。栞の言う通り、とても綺麗な青い景色が目の前に広がっていた。

　「綺麗でしょ？」
　「ええ。本当に……」

　海風が髪を撫でる感覚を楽しんでいる内に、海は少しづつ遠ざかっていった。

　「え……？」

　その時だった。あたしが次に目にした景色に違和感を覚えたのは。

　「どうしたの？」
　「色が……」

　そう。あたしが目にした景色には、眩いばかりの色彩に彩られた世界だった。
　今まで色のない世界にいた所為か、それがとても珍しく思えた。
　目の前では、さもおかしそうに栞が笑っていた。

　「初めて見たよ。お姉ちゃんの寝ぼけた姿」

　からかう様な栞の言葉。
　なんだ。じゃあ、さっきのは夢だったという事か。
　夢だと解ってしまえばあの世界で起こった事全てに説明がついた。
　色のない世界も、突然現れた栞も。
　そして、その全てを何の疑問も抱かずに受け入れたあたしも。
　理路整然とした夢なんて面白くないけれど、あそこまで支離滅裂な夢を自分が見ていたと思うと自然に笑みがこぼれて来た。
　理由は違うのだろうけれど、栞も楽しそうに微笑んでいた。
　こうして二人で笑い合える事が嬉しかった。
　それなのに、何故だろうか。
　この止めどなく楽しいこの瞬間が、やるせないほど悲しく、儚いものに思えてしまうのは。

　「……！！」

　ふと浮かんだ、漠然としすぎた不安のイメージを振り払う。
　心配そうにあたしを見つめる栞に「何でもないから」と薄く笑って取り繕う。

　「……そういえば、一駅くらいには止まったのかしら。この列車」

　露骨過ぎる話題の転換だと自分でも思ったけれど、
　何か言わなければ妙な沈黙があたし達の間に流れていたに違いなかった。
　あたしはそれが嫌だった。

　「ううん、まだどこにも止まってないよ。通り過ぎたりとかはしたけどね」

　栞も同じ気持ちだったのか、先程の事がなかったかのような表情でそう言ってくれた。
　それからは、二人で景色に見入った。
　あたし達の間に会話はなかったけれど、先程畏怖していたような沈黙ではなく、言葉など無くとも、どこか深い所でつながっている。
　自然とそう思える、暖かい時間が流れていた。




　しばらく時間が経った頃、偶然視界に入ったスピーカーから車内放送が聞こえた。
　古めかしいスピーカーから聞こえた雑音交じりの声によると、もうすぐどこかで止まるらしかった。

　「止まったら降りてみない？」
　「そうだね」

　外の景色に少しだけ飽きたらしい栞は、小さく伸びをしてあたしの提案に賛成してくれた。

　それから十分程過ぎた頃、再度放送が流れてから少しづつスピードを緩め、
　やがて列車は走行を停めた。
　それほど多くない荷物の整理をそこそこに、あたし達は外に出た。

　「わあ……」

　駅を出て、目の前に広がる光景に栞は顔を綻ばせた。
　多分、あたしも同じような顔をしているんだろう。
　そのくらい素敵な光景だったから。この、地平線の彼方まで続いているような花畑が。

　「お姉ちゃん、行こうよ」
　「ええ」

　栞があたしの手を引いて先行する。
　その表情はとても楽しそうで、微笑ましかった。
　あたし達がどんなに走っても花畑はその果てが見えなくて、
　このまま何処までも続いているような錯覚まで覚えた。

　どこか、異世界の一部を切り取ったようなこの広大な花畑で、
　まだ幼かった子供の頃に戻ったように走り回った。

　ああ、そういえば。と、あたしは立ち止まり、一つの事を思い出す。

　あたし達がまだ本当に小さかった頃、二人でここと同じような場所に来た事があった。
　そこでも、花の咲き乱れる異世界に二人して紛れ込んだような、
　そんな思いを子供心に感じたものだった。
　あの頃の花畑に今のあたし達が訪れたら、そこはあたし達の目にどう映るのだろう。
　あの頃とても広大な場所だと思っていた場所も案外狭かったのだな、と思うのだろうか。
　それとも、今のあたし達が見てもあの場所は変わらず、
　途方もなく広くて美しい情景であるのだろうか。
　ここと、同じように。


　――ピシッ


　「……え？」

　何かが聞こえた気がした。
　ガラスか何かに小さなひびが入る時のような音。
　周りを見回してもそんな音を立てる物は見当たらない。

　「………………」

　何だろう。どうしてあたしはこんなにも、こんな事を気にしているのだろう。
　ただ、そういう音が聞こえたというだけの事。
　それだけなのに、どうしてこんなにも不安に……。

　「お姉ちゃん！」
　「っ！」

　突然の栞の声に、意識を現実へと戻される。
　意識をはっきりとさせると、さっきまで随分と遠くの方に居た栞が目の前に居た。
　近付いてくる栞に気づかない程に失念していたのだろうか。

　「もう列車が出発する時間みたいだから、行こ」
　「え、ええ……」

　どこか焦っている様子の栞に促されて歩き出す。
　歩いた道を振り返ると、今まであたし達がいたあの情景が色あせて見えた。
　それがあたしの見間違いだったのか判らないけれど、そこが悲しい風景に見えたのは確かだった。




　「綺麗な所だったね」
　「そうね……」

　あれから、栞はしきりにあの場所の話をしている。
　あたしはと言えば、悪いとは思いつつもそれを半分ほど聞き流してある事を考えていた。
　あの場所で聞いた、不可解なあの音の事を。

　あの音を聞いた瞬間、あの眩いまでに鮮やかな景色がとても希薄な存在になった気がした。
　まるでこの世界に始めから存在していなかったような、瞬きをする間にそれらが全て消えてしまうような気さえした。

　少し記憶を掘り下げてみる。
　あの音が聞こえるまでの時間、あたしは昔の事を思い出していた。
　あの音がなったのは、目の前の景色と思い出の相違について考えた時の事。
　……偶然にしてはタイミングに違和感がなかったように思える。
　今この時も、何かを忘れているような気がするのも、関係が……。

　「……お姉ちゃん……」
　「え……？　あ……」

　思索をめぐらせている中、栞の寂しそうな声に意識を現実へと戻す。
　そして目の前の泣きそうな栞を見て、あたしは心底後悔した。何をやっているんだ、と。
　理由やそこまでの過程はどうあれ、栞を悲しませてしまったのは、他の誰でもないあたし。
　本当に、何をやっているのだろう。栞にはいつだって笑顔でいてほしいと思っているのに。
　……もう、止めにしよう。想像の域を越えない思索をした所で得る物などありはしないのだから。
　その思考を最後に、さっきまでの考えを完全に切り離し、小刻みに震える栞の肩を抱く。
　そして、耳元で小さく「ごめんなさい」と呟いた。

　「…………」

　しばらくの沈黙の後。トン、と栞に軽く突き押される。
　俯いている栞からは表情が読めるはずもなく、あたしは嫌な焦燥感にさらされる。
　栞に嫌われてしまったかも知れない。それだけが頭を回って離れなくなる。

　「し、栞……」

　たまらず、栞の名を呼ぶ。自分の声が震えているのが良くわかった。

　「……クスッ」
　「……え？」

　瞬間、聞こえてくる栞の短い笑い声。
　あたしの間の抜けた声を聞いて、それは更に解りやすくあたしの耳に伝わる物となった。

　「栞、あなたまさか……」
　「ご、ごめんなさい。余りに簡単に引っ掛かってくれたから、つい調子に乗っちゃって……」

　えへへ……。と、さっきの泣き顔が嘘のように屈託なく笑う栞。
　いつもは微笑ましく思うけれど、今だけはその笑顔が凄く憎らしかった。

　「まったく……。心臓に悪いからなるべくしないで欲しいわね」
　「でも、お姉ちゃんだって悪いんだよ？　私の話を聞かないで、考え事して……」
　「う……。ごめんなさい……」

　さすがにそれを言われると反論できない。それに関しては全面的にあたしが悪いのだから。

　「罰として、私のためにバニラアイス購入に刑に処します」

　わざとらしく口調を変え、効果音が出そうな位の勢いであたしを指差してそんな事を言う。
　そんな様が何故かたまらなく可笑しかった。

　「……はいはい、買ってくるわよ。売店にでも行けば売ってるかしら？」

　笑ってしまいそうな衝動をすんでの所で押さえ込み、ごまかすように立ち上がる。

　「三つね」
　「……太るわよ」
　「…………二つにしておく」

　栞の発言に再び笑いの衝動がこみ上げてきたけれど、今度も何とか押さえ込んで車両を後にした。
　ほんの一瞬、栞が浮かべたほのかな愁いの表情に気付く事無く。





　「ごちそうさま」

　あれから二十分、栞はあたしが買って来たアイスを平らげて満面の笑みを浮かべていた。
　窓の外を見ると随分と景色が変わっている事に気付く。

　「そういえば、お姉ちゃんは知ってた？」

　次に降りる駅はどんな所だろうと思いを馳せる間も無く栞がこんな事を聞いてきた。

　「何かしら？」
　「えっとね、次に止まる駅の近くで縁日をやってるんだって。それで、一緒にまわりたいなって思ってるんだけど、どうかな？」
　「縁日ね……」

　そういえば。と、久しくそういう催しに出向いていなかった事に気付く。

　「いいわ。一緒にまわりましょ」
　「やった！ お姉ちゃん大好き！！」
　「わ、こら。やめなさいっ」

　勢いよく飛びついて来た栞を軽くたしなめながらも、あたしは幸せを感じていた。
　こんな時を迎えられるとは思っていなかったから、本当に、幸せだった……。



　二度三度、外の景色が変わって開いた窓の外から流れる風の匂いも変わった頃、
　前と同じく、少し古びたスピーカーから車内放送が聞こえてくる。
　間も無く次の駅に着くという旨の放送を証明するかのように、遠くから祭囃子が聞こえてくる。

　「楽しそうね」

　さっきから見ているけれど、本当に栞は楽しそうだった。
　まだ列車が止まってもいないというのに。と、呆れてしまう位に。

　「だって、初めてなんだもん。お姉ちゃんと一緒に縁日まわるの」
　「……そう、だったわね」

　迂闊な事を言ってしまったと後悔する。
　思えばいつもそうだったのではないだろうか。
　近所でお祭りだ、縁日だと周りが賑わっている時に限って、栞はいつも家で寝込んでいた。
　どうしていつも栞ばかりが。等と、見えない何かを本気で恨んだりした事もあった。
　あたしにせよ栞にせよ、あまり思い出すには愉快ではない話だ。

　「……つまらない事を聞いたわね。謝るわ」
　「あ、ううん。気にしないで」

　そう言って栞は笑ってくれたけれど、それはどこか無理をしたような、引きつった笑みに見えた。
　やはり気にしているのかとも思ったけれど、どうもそういう意味合いはないように思える。
　例えるならば、言ってはいけない「何か」を言ってしまったような、そんな含みが感じられる。
　あたしの視線に何かを感じたのか、少し引き気味になりながら勢いよく立ち上がった。

　「お、お姉ちゃん！　列車止まったから早く降りよっ」
　「え？　……あ、そうね」

　何故か慌てた様子を見せる栞に同調するように、あたしも足早に列車を降りた。
　栞の態度もそうだけれど、今まであたし達が座っていた所から例の「音」が聞こえた気がしたのが気になった。




　「賑わってるわね」

　駅を離れてから歩いて数分。あたし達は予想よりもはるかに規模の大きい縁日を前にしていた。
　さっきから妙に静かだと思っていた栞は目の前の光景に眼を輝かせていた。

　「お姉ちゃん、早く行こっ！」
　「急がなくても屋台は逃げないわよ……って、ちょっと栞！　そんなに走ったら転ぶわよ！」

　あたしの忠告に耳を貸さず、相も変わらず物凄い速さで走る栞を追いかける。
　あの子ってこんなに走るのが速かったのね。と、妙に感慨深い物を感じながら距離を詰める。
　やっとの事で栞の肩をつかんだ時にはお互いちょっと疲れ顔だった。

　「何もしない内から、疲れて、どうするのよ……」
　「ご、ごめんね。ちょっと、はしゃぎすぎちゃった……」

　まだ整っていない息をそのままにして行われる抗議と謝罪。
　その後にたっぷり一分の間を置いて、ようやく息を整える。


　「それじゃあ、見てまわろうかしら？」
　「うん。……あ、お姉ちゃん」

　栞の位置から数歩手前まで歩いた所で栞に呼び止められる。

　「何かしら？」
　「手……、繋いでもいいかな？」
　「手……？」

　見ると、栞は少し顔を赤らめながら胸の辺りで手をまごつかせている。
　そんなしぐさをとても愛しく思いながら、あたしは何も言わずにその手を取った。
　当の栞は少しだけ驚いた表情をした後に、満面の笑みを浮かべてあたしの横に並んだ。

　「行きましょ」
　「うんっ」

　微笑み合い、喧騒の中へと歩き出す。




　初めて二人で来る事が出来た縁日は、本当に楽しかった。


　「お姉ちゃん、ドネルケバブの屋台があるよ。あそこ」
　「ど、ドネルケバブ？！」

　見慣れた屋台の中に、一つだけ異彩を放つ屋台を見つけたり。

　「あれには驚かされたけど、定番の射的もちゃんとあるわけね……」
　「お姉ちゃん、あの真ん中のぬいぐるみが欲しいんだけど……」
　「ふふふ、任せなさい。こういうのは得意なのよ」
　「お、お姉ちゃんがこわい……」

　昔取った杵柄で店主の顔を青ざめさせてみたり。

　「……栞」
　「な、何？　お姉ちゃん」
　「あたし、三回も輪投げに挑戦して一つも輪が通らなかった子を始めて見たわ」
　「え、えぅ〜」

　素晴らしいまでの栞の輪投げテクニックに見惚れてみたり。
　……本当に。本当に楽しかった。

　だけど楽しい事というのは、いつかは終わってしまう物で。
　あたし達もまた、その必然からは逃れる事は出来なかった。

　「そろそろ列車に戻らないといけないんじゃないかしら？」

　それは、何気ない日常のひとかけらの筈だった。
　少なくとも、あたしはその言葉に深い意味を持たせてはいなかった。
　それなのにそれを聞いた栞の表情は、今までに見た事のない位の深い悲しみに彩られていた。

　「もう少し、ここにいられないかな……？」

　表情と同じく、深く沈んだ声。
　何を言えばいいのか判らないまま、あたしが選んでしまった言葉が全ての引き金となってしまった。

　「またいつでも来れるわよ。だから、列車に戻りま……」
　「栞……？」

　瞬間、栞の目から溢れ出る涙。
　拭う間も無くその涙は頬を伝い、零れ落ち、たちどころに地面を湿らせてゆく。

　「どうして……？」

　涙の真意が解らずに、あたしはそう聞いた。

　「「また」なんて、無いの……」

　栞は、未だ涙を止める気配すら見えない弱々しい瞳であたしを見つめながら、ただ一言それだけを告げると、踵を返して逃げるように走り去って行く。

　驚きと困惑が入り混じり、全ての判断が遅れてしまった所為で、もう随分と栞が遠くに見える。
　追いかけなければ。と、思う間にもどんどんと栞が遠くなっていく。
　器用に人の間を抜けて……。

　「……！」

　いや、違う。人の間を抜けているんじゃない。栞はただ真っ直ぐに道を進んでいるだけ。
　進路上にいる人間にぶつかりそうになっても、その体が存在していないかのように栞を通してゆく。
　それだけじゃない。気付けば、あたしもそうだった。

　――ミシッ
　――パキッ

　人を通り抜ける度、一歩足を踏み入れる度にあの音が聞こえて来る。
　そして、その音を聞く度に、あたしの中にある物が蘇ってくる。
　それは……。



　「……栞」

　栞を追いかけた先、たどり着いた場所。
　そこから先には道が無かった。
　正確には、道という概念を思わせる物が何も無かった。
　それを前にして、栞はただ呆然と立ち尽くしていた。

　「もう、終わりなんだ……」

　うわ言の様にそう呟いて、あたしの方に向き直る。

　「お姉ちゃんは……どれくらい思い出したの？」
　「…………」

　あたしは答えない。答えたくなかった。
　思い出してしまった記憶があまりにも悲しくて、先にある道無き虚空を見つめていた。

　「この世界の壊れ方を見れば、聞くまでもないかな。」

　静かに視線をあたしから逸らし、一歩、二歩と虚空に近付いて足を止める。


　「ここはね……、死んじゃった私が最期に望んだ世界なの」

　あたしに背を向けたまま、たどたどしく話し出す栞。
　静かな口調で死を語る栞の背中は悲しいほどに儚かった。

　「最初、ここには何も無かったの。でも、お姉ちゃんがここに来た時、色の無い世界が作られたの」

　それはあたしが目を覚ました時、夢だと思った光景の事。
　栞がいなくなってから、あたしの世界から全ての色が消えてしまったかのように見えた。
　唯一つ見上げた空だけが青く見えて、何故だかそれがどうしようもなく悲しかったのを覚えている。
　あの頃のあたしが見た風景と同じだった。

　「その時のお姉ちゃんは、私が死んじゃった事を忘れていたから、嘘の記憶をすりこんだの」


　――ごめんね、お姉ちゃん

　あの時、あたしが眠る前に栞が言った言葉が今になって頭に浮かんできた。


　「嘘の記憶がついた分、違う記憶を私が借りてこの世界に色をつけたけど、お姉ちゃんがそれを取り戻せば、ついた色と一緒に壊れちゃうの」


　思えばそうだった。あの音が聞こえていた時、あたしはいつも何かを思い出していた。
　今なら、その度に見せた栞の悲しそうな表情の理由も理解できる。
　だけど……。

　「じゃあ、この場所が残っているって事は……」
　「そう。お姉ちゃんは、まだ思い出していない事が二つあるの」

　二つ……。

　「その内の一つは、どうしてお姉ちゃんがここに来れたのか。って事」

　栞の言葉が終わるや否や、あたし達の周りの気が枯れ始める。
　それはあたしの記憶が戻った事を証明する事柄だった。

　「ほとんど一瞬で思い出せるのね。記憶を返されたって事なのかしら」

　あたしの思い出した事。
　それは、あたしが倒れた日の事。

　あたしの世界から色が消えて、また数日経った日の事。
　何もかもが虚しく見えて、音すらも曖昧にしか聞こえなくなってしまっていた。
　もはや死人と変わらない日々を送っていたある日、あたしは意識を失った。
　あの日に魂が体から離れ、ここに行き着いたという事だろうか。

　「あの日から記憶が無いって事は……あたしも死んだのかしら」
　「ううん、まだ何とか生きてる。でも……」
　「「！！」」

　一瞬、世界が大きく揺れた。
　あたしは倒れそうになった栞を何とか抱きとめる。

　「もうすぐこの世界も終わる。お姉ちゃんから借りた最後の記憶を返せば……」
　「……栞」

　近付こうとするあたしを栞は止める。

　「だめだよ。このままこの世界にいたら、お姉ちゃんが帰れなくなっちゃうから」

　それは、きっと今頃病院のベッドで眠っているあたしの体がもたないという事なのだろう。

　「時間……無いのね」
　「……うん」
　「……解ったわ。最後の記憶、返してくれる？」
　「うん。……えっと」

　何か言いよどんでいる。顔も少し紅潮している。
　最後の記憶は恥ずかしい物なのだろうかと、少し身構える。

　「お姉ちゃん……祐一さんの事、好きだったんだね」
　「え……。そ、そんな……」
　「そんな事、あるんだよね？」

　そんな事無い。と、言い切る前にそんな事を言われてしまう。

　「祐一さんの胸で泣いてから、祐一さんの事を見てる事が多くなったんだよね？」
　「し、栞……。あなたもしかして……」
　「ごめんね。本当なら見ちゃいけない物だけど、大切な事だから」

　一瞬見せた、からかうような笑みをすぐに消して、あたしを真っ直ぐに見つめる栞。

　「祐一さんはとても強くて、だからこそとても弱い人だから。
誰かが支えてあげないと、自分の強さに潰されちゃう人だから……」

　その先の言葉が出てこない。
　何かを言いよどむ様に俯きながら、瞳をゆっくりと泳がせた後、意を決したような表情で栞が発したのは予想通りの言葉。

　「お姉ちゃんが、祐一さんの支えになってくれないかな？」
　「……それは…………」

　言葉の先を言おうとして、それをどう予測したのか栞が詰め寄ってくる。

　「身勝手なお願いだって事は解ってるけど、二人には幸せになってほしいから、だから……」
　「……違うわよ、栞」
　「え……？」

　早々とまくし立てる栞をなだめて、あたしなりの答えを指し示す。

　「自惚れかもしれないけど、あたしだって相沢君の支えになれたらいいなって、思ってるわ」
　「それなら……！」
　「でもね、あたしだけがそう思ってもだめなのよ。相沢君の必要な人が誰なのかは判らないもの」
　「う……」

　あたしの言い分に言葉を失ってしまう栞。
　そんな栞の頭を軽く撫でて、あたしはこう言った。

　「だけど、やるだけの事はやってみるつもりだから、見守っていてくれないかしら」

　それを聞いて、栞は少しだけ安心した様子を見せてくれた。

　「うん……。今はその言葉だけで十分だよ」


　――ピシッ、パキンッ！


　音が聞こえた。今度のは明確に何かが割れる音だった。

　「もうすぐ、この世界は無くなるのね？」
　「……うん。後五分くらいで、みんな……」
　「そう……」

　ほんの一瞬、沈黙が二人の間を通り抜ける。

　「……お姉ちゃん」

　沈黙の歩みを止めたのは栞だった。

　「……ん？」
　「これで本当に最後だから、お姉ちゃんに渡したい物があるの。受け取ってくれるかな？」
　「言うまでも無いわ。受け取るに決まってるじゃない」
　「よかった。じゃあ、ちょっと待ってね」

　そう言って、ごそごそとポケットをあさる。
　間も無くして、ポケットから何かを取り出した。
　小さな、光の粒だった。

　「それは……？」
　「これは、私がお姉ちゃんの幸せを願う心。これがあれば、きっとお姉ちゃんは幸せになれるよ」

　栞がそう言った途端に、光の粒はふわりと舞うように浮かんで、あたしの掌の中に消えていった。

　「……ありがとう」
　「……うん」
　「お返しにもならないけど、最後に……」
　「え……？　おねえちゃ……」

　あたしは最後まで言葉を紡がずに、少し強めに栞を抱き締めた。

　「ごめんなさい……」

　それは、謝罪の言葉。
　あなたの事を拒絶してごめんなさい。
　あなたを好きだという事を、言葉に出来なくてごめんなさい。
　あなたが生きている内に、こうして抱き締められなくて、ごめんなさい。
　もう何も言えない。涙で視界がかすむ。抱き締める指が震えている。

　「だめだよ、お姉ちゃん……」
　「…………」
　「「ごめんなさい」は、だめだよ……」

　栞も泣いていた。声も、その華奢な体も、全てが震えていた。

　「私は、お姉ちゃんが大好きだから。お姉ちゃんの妹に生まれてこれて、幸せだったから……」

　世界が崩れてゆく、もう一分も持たないだろう。
　最後に、伝えたい。その一言を。

　「あたしも……栞の姉になれて、……幸せだった……！」

　瞬間、崩れた世界から眩い光が漏れ出した。
　その光に呑み込まれていくあたしと栞。


　――ありがとう。お姉ちゃん


　最後に聞こえた栞の声は、穏やかな春の日差しのようだった。




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