夏休みも終わりを告げ、今日から新学期が始まった。久しぶりに会う旧友達は相変わらずだった。相沢は相変わらず馬鹿なことばっかり言うし、名雪は眠そうな目をこすりながら朗らかに挨拶をした。香里は、あの旅に関して、文句を言った後に、「でも、栞、楽しそうだったわ」と付け加えて微かに笑っていた。
そして、北川は屋上でぼんやりと空を見上げている。
たぶん、何かが劇的に変わることはないのだと思う。あの栞が急激に変わったように見えたことさえ、長い間の何かの積み重ねだったのだろう。それはたぶん、元々栞のうちにあったなにかを、呼び起こしたものがあったのだろう。
俺も変わっていくのだろうか。
空を悠々と雲が流れていく。目を離せば、流れていることさえ忘れてしまいそうなほどのゆったりとした流れ。太陽は覆い隠され、雲越しに柔らかな光を放つことしかできない。その中を飛行機がゆっくりと筋を描いていく。
北川は大きく伸びをした。
まぁ、きっと、やれることをやっていくしかないのだろう。急ぐ必要はない。時間は十分にあるし、世界は喜びに満ちている。馬鹿もたくさんいる。ガリガリ君はどこでも売っている。未来も過去も、傍にあるのだ。
屋上のドアがゆっくりと開かれる。寝転がったまま首を後ろに傾けると、美坂 香里がゆっくりとこちらに歩み寄ってきていた。片手を挙げて挨拶をすると、香里は北川の傍にしゃがみこんだ。
「何、してるのよ」
「ぼんやりしてた」
「それはわかるわよ」
「あと、お前を待ってた」
「わかるわよ。あなたに呼び出されたんだから。それで、何の用よ」
「それより、ここ寝転がらないか。空、綺麗だぞ」
香里は空を見上げ、首をかしげる。
「普通じゃない――ッて、何……」
北川は香里の手を引いて、無理やり体勢を崩させた。しりもちをついたままにらみつけいる香里に笑いかける。
「横にならないとわからないって」
「……わかったわよ」
渋々といった様子で香里は北川から少し離れた位置に横になる。
並んで、黙って、空を見る。遠くからは白球の音。飛行機の音。蝉の鳴き声。ふと横を見ると、香里はいつもよりもぼんやりとした顔になっていた。彼女にしては、珍しいと北川は思う。
「確かに、横にならないとわからないわね」
「だろ?」
「別に綺麗じゃないけど、好きよ、こういうのも。いつもあわただしいから」
「慌しいな」
「あなたのせいでもあるのよ?」
「それ言うなら、美坂のせいでもあるだろ」
香里は体を起こすが、何もせずに再び横になる。
「どうした?」
「反論できないな、と思って」
「そっか」
ただただ時間が流れ去っていく。空はその風景をほとんど変えることなく、二人は特別何かを話すわけではなく。ただ、フェンスの向こう側で野球が進行している以外は何も変わらない。
目を閉じる。いろいろなことが頭によぎる。
きっと、この気持ちは昔からあったのだと思う。けれども、それを本格的に認識したのは、やはりあの冬だったのだろう。何事にも冷静に対処できそうな身近な少女が、実はもろく、支えを欲していることを知ったとき。自分は、その支えになりたいと思った。それは、酷く難しいことではあったけれども、彼女の助けになれるのは純粋に嬉しいことだった。
たぶん、そんなに難しい感情ではなかった。傍にいれて嬉しいとか、笑ってくれたら心が軽くなるとか。今、こんなに胸の鼓動が早まっているとか。
だから、そんなに難しく考えることはない。ただ、素直に、シンプルに、なればいいのだ。
――なぁ。俺は、幸せになって、いいんだよな?
空は返事を返さない。けれども、答えもきっとシンプルなのだ。
誰かが笑っていれば、それは嬉しいことなのだ。
「香里」
だから、この傍にいる少女にも、笑っていて欲しいと思う。
「何?」
横たわったまま、顔をこちらに向ける少女。
その手をそっと、握り締める。
「俺、お前のことが好きだ」
雲はゆっくりと流れて、太陽が顔を出す。
感想
home
prev