二日目のサイクリングも好調に進んだ。
 時々お互い勝負をしかけるようにスピードを上げ、それにもう片方が乗って、無駄なやる気を出し合う。途中北川のおごりで買ったコカ=コーラは、過去に飲んだ飲み物の中で一番おいしかったと栞は思った。ライターを忘れたことに気がついて寄ったコンビニでは、二人で思わず立ち読みをした。テレビの取り忘れに気がついた栞の涙は流れるに任せた。北川はビールを購入しようとしたが、栞の生暖かい目にやられてあきらめざるを得なかった。まだ飲んだことはないらしい。
 賑やかな所を離れ、再び静かになった中を走るのは気持ちが良かった。遠くに広がる稜線は緩やかなカーブを描き、その上をぽつりぽつりと雲が流れている。コンクリートの道を少し外れれば、そこには緑が穏やかに息づく。トンボが飛んでいるのを見て、北川は目を細める。栞は自転車を止め、指を伸ばす。ゆっくりと、指に降りる。振り返って、栞が北川に笑いかけると、トンボはそのまま空へ飛んでいく。見上げた空の太陽に思わず目を閉じる。
 静寂。
「なぁ、栞ちゃん」
「なんですか?」
「もしも、あの冬に栞ちゃんが、死んでたとしてさ」
 北川も空を見上げている。
 天国なんて、北川は信じていないけれども、それでも空を見上げることはある。死んだ人の魂はそこにはないけれども、自分の心がそこには映っていると思うから。
「その後、栞ちゃんのことを美坂が忘れて、一人で幸せになったら、どう思う?」
「そんなの、決まってますよ」
「そっか」
「凄く、嬉しいに決まってるじゃないですか」
「え?」
「だって、もしも私が死んだせいで、お姉ちゃんがいつまでも塞ぎ込んでたら、私、ホントに迷惑かけるために生きてたみたいじゃないですか。そんなの嫌ですよ。ちゃちゃっと忘れちゃって、それでおねえちゃんには幸せになってもらいたいです」
「寂しくないの?」
「寂しくないですよ。だって、お姉ちゃんが私のこと忘れられるわけないですから。考えてみてくださいよ。あのシスコンっぷり」
 ――彼女は、忘れようとして、忘れられなくて、涙を流していた。
 冬の街。空には陰気な雲。降り注ぐ雪はどこまでも細やかで、辺りは白に包まれて、世界はこのまま眠りについて二度と目覚めないのではないかと思った。一歩先で泣いている彼女をどうすればよいのかわからなくて、それでも北川はその手を握り締めた。
 思い出して、北川は肯く。
「それもそうだな」
「でしょ? 忘れようとしたって忘れられないならば、忘れちゃった方がいいんですよ」
「なんか、矛盾してないか、それ?」
「あれ、えーっと……」
 指を折ったり開いたりしながら、考え込んでいる栞を見て、思わず北川が笑い出す。栞も、笑い出す。
「たぶん、私が言いたかったのは、毎日頑張りましょう、ってことです」
「単純だな」
「そうですね」
 もう一度、笑う。
 単純なこと、そう言ってしまえばそうなのだけれども、それはきっと、とても大事なことなのだと、栞は思うから。ふと、幻のような情景を思い出す。
 ――彼女は、私の横にそっと立っていた。それは目をつむれば、もう消えてしまいそうなほど穏やかな存在で、私はそれが怖くてじっと見つめていた。
 どこまでも穏やかな口調で彼女は言った。ボクの代わりに、生きて。と。続けて笑う。ここから先は、栞ちゃん次第。幸せになるのも、不幸になるのも、ボクは何も出来ないよ。奇跡なんて、一瞬だけだからね。
 ならば、私なんて見殺しにして、自分を助ければいいのに。そういった私に笑いかけた。だって、栞ちゃんといるときの祐一君って、凄くカッコいいんだもん。ボクといるときなんて、ただからかってばっかりなんだよ? それに、笑ってる顔が、あんなに楽しそうなの、他にないよ。
 だから、栞ちゃんが生きて。元気でね。
 それは、長かった冬の終わりを告げた声。春の兆し。
 栞は、斜め上の空ヘ向け、鈴を鳴らす。軽やかな音が微かに響く。
 この音が空まで届けばいいと栞は思う。空に届いて、天国にいるあの人にまで届いて、それであの人は空から私を見下ろすのだ。落ちそうになってあわてながらも、私の方を見てはじけるような笑顔を見せるのだ。
「ねぇ、北川さん。たぶん、経験によって人は作られるって言うじゃないですか。そうだったら、別に忘れてしまっても、問題はないんですよ。忘れようとして忘れられることとか、自然に忘れちゃうようなことにはきっと意味なんてないから。すべてのものが通り過ぎていっても、そのあとも何かが残ると思うんです。暖かさとか、優しさとか。
 だから、必要のないものは、置いていったとしても、置いていかれた人はうらまないと思うんです。きっと、笑顔で、送り出してくれるんじゃないかと思うんです。それよりも大事なことが、きっとあるだろうから」
「――かも、な。でも、すぐには答えは出せないよ」
「それでいいんですよ」
 それがどんな問いなのかを栞は知らない。けれども、なんとなく予想することはできる。
 それはきっと、北川自身が解決するべき問題なのだろう、と栞は思う。天使の起こした奇跡がきっかけでしかなかったように、栞のこの行動もなにかのきっかけにしかならないのだろう。でもそれで十分だと、栞は思う。
 そして、またサイクリングが始まる。
 山を越え、坂を下り、木の下で一休み。風の柔らかな流れを感じながら、ひたすら前に進んでいく。
 栞は、友人の言っていた言葉を思い出す。風には、人の思いが流されているのだと。そうだとしたら、自転車で走るのは、それを一番感じられることなのかもしれない。北川の妹の記憶も、天使の願いも、横にすり抜けながら、一緒にいながら、前に進んでいるのかもしれない。
 そんなことを北川に言ったら、ロマンチックだ、って笑われて、二人はまた追いかけっこをはじめた。ひたすら全力で逃げる北川と、待てーとか叫び声をあげながらそれを追う栞。両方、笑っていた。
 そんな夏の日々。冬を越えて、春を越えて、たどり着いた生命の夏。
 たぶんこれも、忘れられない思い出になる。忘れようとしても、ふとしたときに帰ってくる記憶。そんなものを積み重ねていくことによって、私は私になっていく。偶然が必然に変わっていく。
 いつの日にか過去を振り返って、にっこりと空に笑いかける日が、やってくる。
 そう栞は信じている。
「そろそろ、着くよ」
 振り返って、北川は言った。
 
 夕焼けは、どうしてこんなに昔のことを思い出させるのだろう、と栞は不思議に思う。幼い日に、病院の外から見下ろした風景も、すべてこんな風に茜色に染められていた。吹き上がる噴水の色までがうっすら赤く染まっていたのをとても綺麗だと思った。そのとき、ふと自分はこの病院から二度と出られないのではないか、と感じたのもなんとなく覚えている。
 その閉塞感を、一層強くこの墓場では感じる。等間隔で並べられた墓石も、それにわずかに色合いをつけている草木も、そして自分達も赤く染められている。墓周りの掃除を片付け終わった北川は『夜宮家墓』と書かれた墓石の前にしゃがみこんで、じっと手を合わせていた。
「何を、お祈りしたんですか」
「――なんだろうな。色々。元気かとか、今こっちも頑張ってるよ、とか。あと、ちょっと謝っておいた」
「何をですか?」
「頼りない兄貴でごめんな、って」
 北川は多くは語らないけれども、妹との間にも色々と複雑な関係があったのだろう、と栞は思う。けれども、それは今聞くべきものではない、のだろう。
「私も、祈らせてもらっていいですか?」
「ああ、むしろ、こっちから頼む。この子の冥福祈ってくれる奴、あんまりいないからさ」
 栞は北川の横に座り込んで、手を合わせた。目を閉じると、線香の匂いをより一層強く感じる。
 そのまま栞はじっと、何かを祈り続けていた。夕日に濡れるその姿はあまりにも小柄で、何かの拍子に壊れてしまいそうに、北川には見える。けれども、きっとそれは外見だけのことで、うちには強い何かを秘めているのだろう。この旅を通して、感じたことはそんなことだった。
 ――寂しくないですよ。
 先ほどの栞の言葉を思い出す。自分は妹のことを忘れることを恐れていたのだと思う。時が過ぎれば、記憶は薄らぐ。昔はすぐに思い出せた彼女の笑い顔が、段々輪郭をなくしていく。ぼんやりとしたイメージでしか、思い出せなくなる。だから、儀式のように何度も何度もこの墓を訪れた。
 それは、おそらく間違ってはいないのだろう、と思う。ただ、足りなかっただけだ。そして、足りなかったことは昔からわかっていたことなのだ。ただ、それから目を逸らしてきただけで。
「なぁ、栞ちゃん」
「なんですか?」
「何を、祈ったんだ?」
「北川さんのこととか、です」
「どんなこと?」
「今、あなたのお兄ちゃんには好きな人がいるんですよ、とか」
「おいおい」
「ホントのことじゃないですか」
「まぁ、そうだけどさ。じゃあ、俺も祈るか。この娘も凄くバカな彼氏がいるんですよ、しかも、ばかっぷるですよ、とか」
「ばかっぷるじゃないですよー」
「うそつけ。衆人環視の水族館でキスしたって、昨日の夜言ってたじゃないか」
「あ、それ、秘密って約束したじゃないですか!」
 栞の顔が真っ赤に染まっている。何だかんだ言って、まだそういうところは子供っぽいのが可愛らしい。
 ――なぁ。お前のところに行くのは、ずいぶん先になるだろうけど、それまでは俺、こうやって楽しんでいるわ。だから、見守っててくれ。
 ――もしかしたら、お前のこと思い出すことは減るかもしれない。これまでみたいに休みごとには来なくなるかもしれない。でも俺はお前のことは忘れないし、忘れることなんて、できないから。
 ――じゃあな。
 ぽん、とまだ赤くなっている栞の肩をたたくと、北川は荷物の片づけを始めた。栞も文句を口の中で呟きながら、片づけを手伝う。
 日はさらに沈み、夜になろうとしている。
 墓でも時間は過ぎるんだな、と北川は当たり前のことを思い出していた。



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