たっ たっ たっ たっ たたー♪
 たっ たっ たっ たっ たたー♪
 たっ たっ たっ たっ たたー♪
 たっ たっ たっ たっ たたー♪
 ちゃりらー♪
 沈みかけた夕日をバックに、スパイ大作戦。上り坂を自転車を押しながらゆっくりと進む。奇跡的に怪我がなかったとはいえ、さすがに疲れが残っている。
「なんで栞ちゃん取らないの?」
「好きですから」
「いや好きなのはわかるけど、着信音でしょそれ」
「でも好きなんです」
 ちゃりらー♪
 ちりんちりん。
 着信音にあわせて、自転車の鈴を鳴らしてみる。音はさっぱりあっていないが栞は楽しそうである。
「だから」
「というか、この相手は絶対に切らないから大丈夫なんですよ」
「は?」
「じゃあ、さすがに怖いんでちょっと電話してきますね?」
「おうよー。じゃ、ここで待ってるわ」
 少し北川と距離をとる栞。
 ピッ。
「も」
「逃げたわねっ!!!」
「……えへ」
「えへじゃないわよっ!」
「アンタそのペースで本当に宿題終わると思ってるの!」
「鬼コーチー」
「鬼じゃないわよっ!」
「悪魔ー」
「あんたが宿題手伝ってくれたのんだんじゃないの!」
「てゆーか、叫びすぎですよ、おねーちゃん」
「あんたが叫ばせてるんじゃないのっ!」
「まーまー、落ち着いてください」
 吸って。
 吐いて。
 深呼吸。
 ふー。
 少し落ち着いた口調に戻る香里。
「あんたねー、それはいいけど、そろそろ帰ってきなさいよ? もう7時近いじゃない。日も暮れかかってるし」
「あ、ホントだ」
「お母さんもそろそろ心配しだすわよ?」
「お姉ちゃんも心配してくれるの?」
 ちょっと甘え口調で栞は言う。こういう姿は、実はあまり見せない。
 素直に、こういう栞はかわいらしいと思う。
 ――だまされちゃだめよーっ! 香里ッ!
 自分に活をいれ、口調に力を込め、再び質問に戻る。
「ホントだ、じゃないでしょ。今どこにいるの?」
「――えへ」
「……なんか、猛烈に嫌な予感がするんだけど」
 背筋に冷や汗が。
「ごめんなさいおねーちゃん♪ 私、ちょっと旅行行ってくるね♪」
 ぷち。
 つーっ。つーっ。つーっ。
 栞と北川のはるか遠く、自宅にいる香里は即座にリダイアルしたが、返ってきたのは機械的なメッセージだった。
「現在、お客様のご利用に」
 ぷち。
「栞のどあほおおおおおおおおおおおおおおお!」
 叫び声は、はるか遠くの眠れる祐一まで起こしたとか起こさなかったとか。

 日は落ち、頼りになるのは距離を置いておかれた電灯と、自転車のライトだけになっていた。辺りはすでによく見ることが出来ないけれども、もう完全に見知らぬ土地だ。あまり幅が広くないので、時々自転車が衝突しそうになってとっさに避ける。こぐごとに振動が伝わってきて、お尻が痛い。だだっぴろい田んぼの細長い畦道なのではないだろうか、と栞は推理していた。
 そして、ふと気がつく。
「もう、戻れませんね。時間的に遅すぎます。もちろんこんなところで女の子一人返すなんて言わないですよね?」
「……親御さん、心配しないの?」
「大丈夫です」
「美坂は?」
「ダメだけど、大丈夫です」
「それ、ダメだろ」
「シスコンですから」
「そうだけどさ」
 ため息一つ。
 全面的に自分が悪い、と北川は思う。
 いくら栞が強引だからといって、こっちが強固な意思を持って断れば、ついてこなかっただろう。いい顔を見せようとしたのが悪い。
 帰ったら、美坂と相沢に謝んなきゃな、と思う。
 首をちょっと振って気分転換。ついでに、話題転換。
「しかし、ちょっと、力入れすぎたなぁ。さっきの競争。アレがなきゃまだ帰れたような気がするんだけど」
「マジでしたからね。かなり危なかったですし」
「あれがスーパーの袋じゃなくて、辞書とかだったら死んでたっぽいし」
「残念です」
「おい」
 片手を離して、びし、と額にチョップを入れる北川。この一日で段々役割分担がはっきりしてきたようである。
「ところでさ、さっきのなんの電話だったの?」
「いや、特にたいした話題じゃなかったですよ。ちょっと日本経済について語ってきただけです」
「そんなあからさまな嘘言われても」
「ホントはサーティーワンのアイスフレーバーについて語ってました」
「微妙なラインだな」
「もう会場も、フィフティーフィフティーも使えませんよ」
「電話は?」
「おふこーす」
「……じゃあ、嘘。で……」
「…………」
「…………」
 無駄な間。
 額の皺を全力まで寄せてみたけれども、北川からは見えてない。
「…………」
「…………」
「正解ッ!」
「おおっ!」
「いえー!」
「なんかすげー無駄にどきどきしたなぁ。で、賞金は?」
「ガリガリ君で」
「まぁ、たしかに、嬉しいけどさ……」
 苦笑いの表情は、見えなくても浮かんでくる。
「つかさ」
「はい?」
「ホントは美坂だろ、さっきの。着信音変えてたの美坂と相沢だけだったと思うし」
「北川さんも十分記憶力いいじゃないですか」
「ま、ね。で、帰らないことに対して了解はもらえたの?」
「もらえるわけないじゃないですか」
「……だよなぁ」
「です」
「でも、絶対ついてくるのをやめる気はないんだよな?」
「ないです」
「そのみょーなやる気はどこから出てくるわけ?」
「一人だと寂しそうだから、じゃ、ダメですか?」
「ダメ」
 考え込んでいる雰囲気。
「じゃあ、将来自分のおにーちゃんになるべき人のことをもっとよく知るため、とか」
「…………」
「どうしました?」
 ため息二つ目。
「やっぱさ。バレバレ?」
「バレバレっていうか、隠してたんですか?」
「その軽く凹むコメントは勘弁してください。お願いします栞サマ」
「はっきりしてくださいよ。もう」
「うーがー」
「お姉ちゃん、待ってますよ、たぶん」
 自転車のスピードが、ちょっぴり遅くなる。声の聞こえてくる位置も、少し変わる。
「……だよなぁ」
「女のほうから告らせるのって、甲斐性なしだと思いませんか?」
「現代的にはぜんぜんありだと思うけど」
「まぁ、そうですけど。でも、やっぱり女の子って、そういうのに憧れるもんですよ。それにおねーちゃん、たぶん本格的に惚れたのって北川さんがはじめてですよ?」
「あれ? そうなの?」
「そうですよ。あの人なんだかんだ言って、これまで恋愛経験ほとんどないですから。一回付き合ったときも、なんか違う、とか凄いわがままなこと言って相手のこと捨てたんですよ」
「うわ、いた」
「サイテーですよね」
「わりと、ひどいな」
「シスコンで、恋愛音痴で、強がりで、わがままで、恥ずかしがり屋で、自信家で、甘えるのが下手で、料理があんまり得意じゃなくて、その上プールに北川さんを突き落とすような暴力的な女ですよね」
「おいおい、そこまで言うか? ――まぁ、突き落とされたけど」
「でも」
 栞は一旦、言葉を切った。
「でも、北川さんも好きなんでしょ?」
「まー、なぁ……」
「はっきりしましょうよ。ここらへんで。別に、迷うこともないじゃないですか。間違いなく相思相愛ですよ。何のかんの言って、お姉ちゃんいい女ですよ? 胸あるし」
「いや、胸とか言わないでくれ。困る」
「あれは悩殺ですよ」
「若干悔しそうだね」
「ほっといてください」
 数秒して、お互いに笑う。
「でも、ホントいいと思いますよ? 言ってあげてくださいよ」
「――まー、色々あってねー」
「ほかに好きな人がいるとか?」
「いやいや、そーゆーんじゃないけどさ。なんとなくね」
「断られるのが怖いとか?」」
「いや、それもないんだけど……たぶん、前に進むのが怖いんじゃないかな」
「チキンですね」
「確かに」
 しゃこしゃこ、と自転車を漕ぐ音と、自分達の声だけが聞こえてくる。なんだか暗闇の病室の中に戻ったみたいだと、すこし栞は思う。
 思い出すのは、たまたま同年代の子供と同室になったときに夜に交わした内緒話。看護婦さんの悪口や、それぞれの知ってる病院の怪談を語り合って、すごした夜は時間が経つのが異様に早かったことを覚えている。数少ない病院の中の友人との思い出。その友は、いまどうしているだろう。見なくなった人は、訃報を聞かない限りは元気になっているだろう、と勝手に栞は思うことにしていた。そのほうが健康的だ。
「ねぇ、北川さん」
「ん?」
「そろそろ、この旅の目的、教えてもらってもいいですか?」
「んー、言ってなかったっけ?」
「言ってないですよ」
「そっか」
「そうです」
 タイヤの音だけが響く。
 蝉も寝静まり、鈴虫の季節にはまだちょっと早い。
 星が綺麗だな、と北川は思う。
 東京からこっちに来て一番驚いたのは、空だった。東京には、確かに空は無かったのだろう。お菓子のトッピングをこぼしたみたいな無造作な星の光。
「綺麗ですね」
 ぽつりと、暗闇から聞こえる声。
「確かに。――ねぇこんな話、知ってる? 星ってさ、すっごく遠くにあるっしょ? 光の速さでも、何十年、何百年、何千年ってかかってしまうくらい。だから、もしかしたら、こうやって輝いている星の中にも、俺たちの目にはわからないけれども、もうホントは無い星があるかもしれない、んだってさ」
「聞いたことあります。すごく、寂しい話ですよね……」
 一回だけ、鈴虫が鳴いた。
 早すぎる産声なのか、遅すぎる断末魔なのか。
 どちらにしても、胸が痛む。
 それっきり、二人はもう一度静まり返る。
 言うなら、今しかない、と本能的に北川は思った。今を逃したら、栞に言うことは出来ないし、つまりは、相沢にも言うことが出来ない。水瀬さんにも。いつまでも、一人で抱え込んでいるべきことではないのだろう。
 仰ぎ見れば、ばらまいたような、星の山。存在証明の出来ない輝き。
「この旅行、さ」
「……はい」
「墓参りなんだ」
 自転車が止まる。
「おじいちゃんですか?」
「違う」
「おばあちゃん」
「違う」
「おかあ、さん?」
「ハズレ」
「誰ですか?」
「俺の、死んだ妹。異母兄妹で、実際にあったことは一回も無いんだけど、文通とかしてたからさ。なんか、忘れられなくて。毎年一回は行くようにしてるんだ」
「初耳です、よ」
「まだ、これ、美坂にしか言ってない。相沢にも、水瀬さんにも、言ってないんだ。だから、学校で知ってるのは栞ちゃんが二人目ってことになる」
「それは、誇っていいんですか?」
「さて、どうだろう?」
 流れ星が、一つ落ちる。願いをかける暇もなく、それは消え去る。
「あんまり人に話すことでもないから」
 今、北川がどんな顔をしているのか。
 栞にはわからない。

 八月の中旬といえば、それはもうかなりの混雑が予想されるべき時期である。北川に罪はない。彼は、ちゃんと自分の分の部屋を予約していたし、栞がついてくるなんて誰も予想することは出来なかっただろうから。
 つまり。個室が二つは無かったわけで。
「……どうする?」
「どうしましょうか……」
 値段相応に狭い部屋に、
 玄関のところでつぶやく二人の前には、まごことなき二人部屋だった。まぁ、ぶっちゃけ安宿なんて来るのはもっぱら大学生で、大学生の二人組みといえば、7割くらいはカップルであるわけで。
 顔を見合わせる。
「これさ」
「はい」
「美坂が知ったら、ヤヴァイな」
「かなり」
 かなりというか、猛烈に、と心の中で付け加える。
 あの美坂 香里嬢のことである。思いっきり北川をぶん殴った後に、屋上に行ってひとりでさめざめと泣き濡れてしまいそうである。
「…………」
「…………」
「秘密、だな」
「同意」
 しゅたっ、とは栞は挙手をした。
 それにこー、栞的には、祐一にばれたとしてもそれなりにやっぱり気まずいわけで。
 あの相沢 祐一のことである。別に、気にしてねーよ、とか口にはしながら、なんか無意味に不機嫌になるのだ。意地悪して、キスとかしてくれないのだ。
「祐一さんにも秘密で」
「同意」
 挙手再び。
「ていうか、そもそも北川さん、大丈夫ですよね?」
「なにが?」
「突然むらむらしてきた結果、私を組み伏せて、あーんなことやこーんなことを」
「した結果、栞ちゃんが泣きながら美坂に電話して、相沢と二人でフクロにされ、噂は学校中に広まり、水瀬さんには「さいてい、だよ」と言われ、俺は荷物をまとめて津軽海峡まで逃げなければいけなくなる、と」
「安心しました」
「だろ?」
 笑いながら、北川は荷物を部屋に置く。
「ま、それでも心配なら、俺、ロビーのソファーに夜ひっそり行って寝てもいいけど」
「いいですよ。無理言ってついてこさせてもらってるのこっちなんですから」
「そか。そういってもらえると、嬉しい」
「じゃあ」
「じゃあ?」
「遊びますか!」
「マジかよ」
「いやだって、温泉ですよ温泉旅行ですよ!」
 そうか。と北川は気がつく。
 栞が体が弱いのは昔からのことだった、と北川は聞いている。まともに遊べたのは幼かった頃だけで、あとは入院と退院を繰り返していたと。そうであるならば、もしかしたら健康な状態で温泉旅行なんてしたことがないのかもしれない。
「なにしたい?」
「温泉と卓球とコーヒー牛乳とクレーンゲームとレースゲームと大貧民です!」
「なぜ、大貧民――」
「え? 定番なんじゃないんですか?」
「いやまぁ、そうだけど。二人でやるゲームか、あれ?」
「モノは試しです!」
 結論から言えば。
 二人でも楽しいゲームだった。というか、めちゃくちゃに頭を使うゲームだった。相手が何を持っているのかをこっちが完全に把握しているので、完全な読みあいになる。捨て札をどれだけ記憶できるか、を含めた戦い。
 知恵熱が出始めた後も、栞の妄想どおりにその日は過ぎていった。
 夜も更けているのに、温泉に浸かり、ほぐれた体にコーヒー牛乳を叩き込み、卓球は持ち方をようやく覚えたばかりの栞が魔球とか叫びながら空振りをした。ぜんぜん勝てない勝負に栞はむくれたが、最後はわりとラリーが出来るようになっていた。クレーンゲームでは1500円もかけて不細工なカエルの人形を手に入れ、レースゲームでは先ほどのレースの決着をつけるべく無茶な双方を続け、首を痛めた。再び温泉に入った。浴衣に着替えた。ちょっと栞がかわいいと思って、北川は首を大きく振った。
 夜も遅くなったのに、食事を出してくれたのは単純に栞があまりに楽しそうにしていたからだと思う。確かに、接客する側からしてみれば、これほど嬉しい客もいないだろう。
 そして。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
 けたけた笑いあう食事も終了。
 なんか異常なまでに時間の流れが速かった、と北川は思う。
 指折り数えると、3時間程度は経っているはずなのだけれども、1時間くらいに感じられる。恐ろしきは、美坂の栞である。
「それじゃあ、明日も早いし寝るかか」
「えー」
 歯磨きをしながら不満そうな栞。
「えーじゃないって」
「なんかおふぁなしましょうよー」
 ちょっと泡が飛んでます。
「はいはい。まぁ、ベッド入ってからね」
「うー寝る気ですねー」
「そりゃ、疲れたから」
 ありえないほどに。
 そして、栞が色々と文句を言っているのを尻目に、ベッドに倒れこむ。ふかふかのベッドが気持ちがいい。安宿にしてはいいのを引いたと思う。
「あ」
 栞は手をたたく。どこか胡散臭い動作である。
「ん、どした?」
「ちょっと電話してきます」
「ん? あ、そか。――ごめんな」
「なんで謝るんですか。悪いのは全部私ですよ」
「いや、栞ちゃんじゃなくて、美坂に謝ったつもり」
「なるほど。じゃあ、ちょっと行ってきます」
「おうさー」
 ひらひら、とベッドに沈没している北川が手を振るのを横目に、栞は部屋を出る。廊下の壁に背中を任せながら、携帯電話の電源をつけ、アドレス帳から香里の電話番号を呼び出す。
 発信音は、すぐに途切れた。
「栞っ!?」
「はい、栞です」
「どこいるのよっ」
「えーっと……どこだっけ? とりあえずプチホテルだよ」
「あんたね……」
 香里の説教がはじまる。栞は電話から、少し耳を離した。説教の範囲は、栞の普段の言動から、注意力のなさ、しまいに昔の悪行にまで及んだ。相槌を適度なタイミングで打ちながら、会話の切れ目を探す。
 見つけた。
 香里が息をついた合間に尋ねる。
「お姉ちゃん、ところで」
「なによ」
「北川さんのこと、好き?」
 クロスカウンターみたいな一撃に、香里の声が上ずる。
「なななななななな」
「納豆?」
「違うわよっ!」
 納豆でも困る。
「実は、北川さんと一緒にいるの。もちろん、違う部屋だけど」
「はぁ?」
「元々、北川さんが一人で旅行に行く、というから無理やりついていかせて貰ったんだよ。目的地は、ここからわりと近く。たぶん、明日にはたどり着いて、明々後日の夕方くらいには家につけると思う。」
「どういうことなの?」
「ねぇ、お姉ちゃん。北川さんって、どんな人だと思う?」
「はぐらかしてるの?」
「ううん。ずっと前からね、北川さんのこと、わかんないな、って思ってたの。前、お姉ちゃん話してくれたよね? 私のこと、久しぶりに私だって認めてくれたとき、北川さんと祐一さんが凄く助けになってくれたって」
 電話越しに、息を呑む音が聞こえる。
 思い出すだけで凍えるようなあの冬。
 だからこそ、それを暖めてくれたぬくもりを、栞は覚えている。たぶん、自分の命が助かったと知ったときよりも、あの瞬間の方が嬉しかった。その事実を忘れても、その温かみを忘れることは決してないと思う。
「お姉ちゃんの話を聞いてると、私、あの頃の祐一さんを思い出したの。凄く熱心で、真剣で、迷っちゃうくらい弱いけど、一回信じると凄く強かった。お姉ちゃんを何度も何度も励ましたって、お姉ちゃんが無視しても、泣いても、ぶっても、それでも北川さんがあきらめなかったって、そう聞いて、北川さんって、きっと凄い格好いい人なんだろうな、って思ってたの。でも、実際に会ってみると」
「そうね」
 香里の笑いが聞こえてくる。表情が浮かんでくるようだ。あきれたような顔だけれども、目だけ妙に暖かい。
 その表情を見てああ、お姉ちゃんはこの人のことが好きなんだな、と栞は気がついたのだ。
「うん。祐一さんそっくり。すっごく面白くて、冗談ばっかり言って、ばかなことばっかりしてて。だから、ますますわかんなくなっちゃった。北川さんって、どんな人なのか。私ね。多分、お礼を言いたいんだ。北川さんに。お礼だけじゃホントは足りなくて、何か力になりたいんだと思う」
「栞?」
「ごめんね。よくわかんないよね」
「……ううん。わかるわ」
 心が温かくなった。
 この妹を、誰かに誇ってやりたい。
「ごめんね。お姉ちゃん。迷惑ばっかりかけて」
「ううん、いいのよ」
「北川さん、墓参りに行くらしいの」
「……妹さんの?」
「うん」
「なんだかね。それ聞いて、お姉ちゃんのこと思い出したの。もしも、あの時私が死んでたらお姉ちゃんどうなってたんだろう、って」
「いやなこと、言わないでよ」
「……ごめんね。でもきっと、北川さんは、そんな気分なんじゃないかと思うんだ」
「あたしも、そう思う」
「そうなんだ」
「うん……」
「……私、頑張るね」
「なにをよ」
「うん、頑張る」
「なにを、よ」
 少し、笑いながら香里は言う。
 ちょっと膨れて栞は言い返す。
「よくわかんないけど、がんばるのっ」
 たぶん、それは元気になるための決められた儀式のようなものなのだ、と香里は思う。あの冬から、栞は決して涙を見せない。いつも元気に笑っている。あの冬の前とは、まったく別人になってしまったかのようにも見える。でもそれは、ただ昔よりも優しくなろうとしてるだけなのだろう。
「それじゃあね、お姉ちゃん。おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
「お母さんと、お父さんによろしくね」
「うんうん」
「じゃあ」
「おやすみ」
 電話が切れる。
 香里は、ため息をついた。
 ため息が凍りついた。
「あ」
 そういえば、本当は栞を怒るつもりで……。
「まぁ、いいか」
 代わりにあたしが謝られればいいのよね、とつぶやいて、香里は肩をすくめる。
「ホントに面倒ばっかりかける子ね」
 つぶやく口元には、穏やかな笑みが浮かんでいる。



home  prev  next