コンビニでペットボトルの烏龍茶を買ったところで準備はほぼ完了した。
 薄手で動きやすい、でもそれなりにフォーマルなクリーム色のチノパン。上は、シンプルなTシャツ。もしも寒くなったときや、雨が降り出したことも考えてウィンドブレーカーを腰に巻きつけてある。
 リュックの中はできるだけ軽量に。換えのTシャツに靴下、下着。暇つぶし用の本は適当に古本屋で選んだ海外のミステリー小説。非常食代わりにはリッツを用意した。個人的にはあんまり好きじゃないけど。携帯、財布はサイドポケット。
 自転車は中古で一万五千円の、マウンテンバイク。夜用のライトももちろん取り付けてある。北川はビニール袋からアイスを取り出した。
 それにしても。
「暑いな」
 季節は夏。
 あれから、四度目の夏だった。
 北川はかぷり、とアイスをくわえた。ちなみに、ガリガリくん。非常にリーズナブル。この旅行の前には、いつもこれを食べる。
 相変わらずの味だった。
 

風吹さいくりんぐ




 かりかり。
 夏休みは残酷なほどの速さで流れていく。すでに、日めくりカレンダーは破り散らかされ、8月は残り半分になってしまっていた。思いっきり遊べる、はじめてのなつやすみ。
 酷い話だ、と栞は思う。
 かりかり。
 なぜ、夏休みは凄い勢いでなくなっていくのに、宿題はなくなっていかないのだろう。特に数学。
 国語の宿題は読書感想文だった。課題の本を入院中に読んでいたので、楽勝で終わらせることが出来た。しかし、なぜ、高校の教師は、『こころ』なんて本を生徒に読ませるのだろうか。自殺者が二人も出て、しかも恋人を奪う話のどこらへんに高校生に読ませる必要性があるのかをいまいち栞は理解することが出来なかった。悪いことしたら、自殺するくらい反省しましょう、なんてのを教えたいわけじゃないだろうし。
 かりかり。
 社会の宿題は、法廷に行って裁判見て来い、というなんだか渋いもの。これはこれで中々悪くない体験だった。普段では体験することが出来ないような、緊張感に満ちた空気。途中から聞きにいったので、いまいち何をやっているのかを理解できなかったけれども、裁判ドラマがまがいものなのも良くわかった。でも、阿部寛好き。トリックつながりで、仲間由紀恵も好き。おまけに韓国ドラマも好き。
 かりかり。
 それに比べ、この数学の無味乾燥さと来たら、アウシュビッツなみの残虐行為である。ガス室で、ユダヤ人がばたばた倒れていく程である。ご飯もないのだ。そして、信仰心のみが、人間を救うのだ。ハイル数学。数学万歳。
 かりかり。
 ぼき。
「むきゃあっ!」
 シャーペンの芯が折れた。
 やる気も折れた。
 ちゃぶ台に向かって数学を続けていた栞は後ろにばったりと倒れこんだ。目を閉じると、一層聞こえてくる蝉の鳴き声。遠くのグラウンドから響いてくるのは白球をはじく音。窓の外には馬鹿みたいに青い空。
 風鈴が、ちりん、と鳴る。
 凄く、夏っぽい。
 やってられない。
 ふつふつと、そんな思いが栞に沸き起こる。
 そう、やってられないのだ。
 こんなところで、こんな風にして、時間をつぶしていいはずがない。だって、外は夏で、夏はアイスで、アイスは人生で、人生は自由なのだ。Free as a birdと、どこかのマッシュルームヘアの人たちも歌っていたのだ。
 栞はむっくりと体を起こした。
 無言で動きやすい服装に着替え、音を立てないようにドアを開ける。横の部屋のドアの動向をうかがいながら抜き足差し足で階段を降る。靴はベーシックにコンバースの白。
 ガレージの前に置いてある自転車は、退院祝いに買ってもらった一品。体が弱い栞がどこにでもいけるように、と言ってプレゼントしてもらったものだ。青いフレームがちょっと未来的でカッコいい、と栞は気に入っている。一駅先の水族館に行ったときにも一緒に旅をしたかけがえのない相棒である。はねた泥がこびりついているのは友の徴であって、怠惰の証ではないのだ。
 盗難防止のためにとりつけていた鍵を外して、栞は自転車にまたがった。どこに行こうかな、とぼんやりと考えてみる。とりあえず適当に走れば、ストレスの解消になるだろう。
 抜け出すとき、忘れないよう持ってきたリボン付きの麦わら帽子を深く被る。
 見上げると青い空。眩しい太陽。
 生命の、夏。
「まだ、暑いなぁ」
 目を細めて、つぶやく。
 そして、栞は旅への第一歩をこぎだしたのだった。
 鈴とか鳴らしてみたり。
 ちゃりん♪
 
 とりあえず、猛烈な勢いで坂を下ってみたところで、栞は疲れた。疲れればアイス、というのが栞の法則である。上り坂を自転車を押してのぼるのは中々疲れるけれども、それはそれで、ストレス解消かもしれない。目指すはコンビニであり、つまりはアイスだ。モナカアイスから雪見大福までの様々な選択肢が頭によぎり、頭の中でどれを選ぶかだけで楽しい。
「人生、楽ありゃ、苦もあるさー♪」
 ちょっと音程が狂っているのはご愛嬌。
 そうして、ようやく坂を上がりきると、いとしのコンビニが見えてくる。
 栞はおや?と首をかげてた。駐車上に、見覚えるのある姿。頭には象徴といえるアンテナのような髪が一筋。座り方はなぜかヤンキー座り。フォーマルだかスポーティーだかわからない服装で、そんな座り方をされても困る、と栞は思う。しかも、口にくわえているのはガリガリくんだった。栞は、もちろんガリガリくんも愛するアイス類として受け入れているが、ちょっと高校生には合わない。あれは、スネ毛も薄い短パン少年が騒ぎながら食べるものである、と栞は決め付けている。
 全体的に、凄い違和感だった。実は栞的には、北川は意外とスマートな印象なのである。
「北川さーん?」
「おう?」
 口にガリガリくんをくわえたまま、顔を上げる。太陽をバックに栞は首を傾げてみせる。
「どうしたんですか、こんなところで」
 北川はちょっと苦笑いを浮かべた。
「いや、オレがここにいても変じゃないでしょ?」
「でも、ガリガリくん……」
「ガリガリくんのどこが悪い」 
「そんな主張されましても」
 栞は思わず汗を拭う。中々の気迫だった。
 北川はガリガリくんを持っていない方の手をばたばた、と振った。
「悪い悪い。なんか、みんな馬鹿にするからさ。美坂とか」
「――お姉ちゃんは、ねぇ」
 あの人は、確かにコンビニで売っているアイスは似合わない気がする。似合ったとしても、ハーゲンダッツっぽい。高級志向じゃないけれども、偽者は嫌い、みたいな。
「相沢の野郎も、馬鹿にするし。あんにゃろう」
「あはは」
 北川はちらり、と栞の反応を見て笑う。相沢、という名前が出ると栞の表情はちょっぴり変わる。どことなく安定感のある表情になる。相沢といるときは、いつもそんな顔をしているのかな、と北川は想像してみる。それなら、相沢のバカが惚れるのも無理もないかな、と思う。
「ところで、北川さん、どこか行くんですか?」
「ん? なんで?」
「前、旅行行ったときと服装似てますよ? このカッコイイ自転車だし」
「うーん、だいぶ読まれるようになったなぁ。まだ半年なのに」
「絵描きの目を舐めないでください」
「……」
「あ、ノーコメントは酷いです。最低です」
「ドンマイ」
「そのコメントは逆に残酷です!」
「それはともかく、栞ちゃん、記憶力はいいと思う」
「……照れ」
「口で言われても」
「まぁ、それは置いておいて」
 手で置いておく動作をする栞。そこに手を伸ばして戻そうとする北川の手をブロックするまでが一動作である。
「どこか行くんですか?」
「んー、まぁ」
 言葉を濁す。こういうときにはっきりしないのは、らしくない。
「旅行ですか?」
「そんなもん」
「一人旅?」
「そう」
 歯切れが悪い。
 一人旅、というのを栞はもちろんまだしたことがない。イメージにあるのは、相沢 祐一の帰郷話だけである。曰く、はじめの一時間は楽しいんだ。でも、途中からだんだん辛くなってくる。本も音楽も飽きてくるし、ずっと座席に座ってるのもつらい。まわりは知らない人ばっかりで、景色もそんなに変化があるわけじゃない。何もないか、街ばっかりかどっちかだ。辛いぞ、鈍行で東京まで行くの。
 電車の一人旅と自転車の一人旅はぜんぜん違うだろうが、たぶん一つ変わらない点があると思う。要は、一人であること、だ。
「寂しくないですか?」
「んー、まぁ、そこそこ」
 北川は言った。らしくもなく、若干の哀愁の漂った表情だった。同類とみなされている祐一は時折暗い表情をみせることを栞は知っているけれども、北川のそんな表情を見たのは初めてだった。
 ちょっと、ショックだった。
「どこまでですか?」
「ん」
 北川の上げた土地の名前は知らなかったが、訊いてみると、自転車で二日程度でいける距離にあるらしい。
 そのとき、栞の頭の中によぎったのは一つの方程式だった。どうしても、解けなくて、姉に聞いたら呆れ顔で「こんくらい自分で解きなさい」といわれてしまった問題。そんなのがまだ20問ほど、残っている。
 それと旅行を比べてみれば、どちらが魅力的なのかは、言うまでもない。それに、一人旅なんて、寂しそうな響きだ。
「おーい」
「え?」
「突然黙り込んでそんな顔されても困る」
「どんな顔ですか?」
「うーん……憂い顔というか」
「セクシーですか?」
「……」
「ノーコメントは残酷です!」
「ドンマイ」
「そこまで繰り返さなくても!」
 それはさておき。
 動作はリピートなので省略。
「私、一緒に行きますよ」
「は?」
 蝉が、一瞬うるさく鳴いた。そのため聞き間違えたのかだろうか、と北川は思う。
「だから、寂しい北川さんについていって上げます」
 やっぱり違った。
 そんなことは現実には起きないとわかっていたけれども。
 でも、こういうことも、中々ないと思う。
「……いや、つか、うん?」
「宿題やりたくないし」
「それが原因かっ!」
「そーでもないです。たぶん。きっと。うん。めいびー」
「めいびーとか言われましても。つーか、まずいだろ、色々」
「例えば?」
「君のおねーちゃんが、死ぬほど心配するだろ。突然いなくなったら」
「あのシスコンにはそのくらいでちょうどいいんです」
「さりげなく毒吐くな、君……」
「でも事実ですし」
 さらっと言ってのける栞。
「それに、連絡くらい入れますよ。必要になったら。ほら、携帯も持ってきてますから」
 ストラップはピンクのアイスクリームだった。さすが、という言葉を飲み込んで北川は質問を続ける。
「場所は近いとはいっても、それでも二日くらいはずっと自転車こぎっぱなしだから、病み上がりの栞ちゃんには無理でしょ?」
「根性で」
「無茶言うなーっ」
「でも私、根性はありますよ?」
 これまたさらり、と言ってみる栞。
「んな、無茶……」
 あんまりな栞のロジックだが、北川の言葉は尻すぼみだ。
 北川はその栞の根性については、色々なところで見せ付けられているので反論も出来ないのだった。
 アイスの馬鹿食いなどにみせられる食い意地だけでなく、ほかのすべての事柄について彼女は一生懸命である。生き急ぐ、なんて物騒な言葉が頭に浮かんだこともあるほどだ。
 例えば、彼女は決して、学校を休まない。40℃近く熱が出ようとも、学校に行く。親と姉にどれだけ止められようとも、行った先でばったり倒れこみ、一日中保健室で寝てるだけだとしても、行くだけは行く。這ってでも行く。
 二ヶ月前、熱を40℃出した栞は校門までの30メートルで眩暈を起こし倒れこんだ。けれど、立ち上がろうとしても、力が入らないのか膝立ちになったところで再び倒れこんでしまう。
 けれども、彼女はあきらめずに、一歩一歩とゆっくりと前に進もうとした。苦しげな表情で、息も荒くなって、額には汗がつたって、それでも足を止めることはなかった。傍にいた生徒が一瞬助けに行くことを忘れてしまうほどの熱意だったらしい。
 助けに来てくれた生徒に栞はそれまでの苦しげな表情が嘘のように笑って、「雨が降ってなくて良かったよ」そう言って、笑ったという。
 そんな情熱を、様々なところで見せる彼女を、北川は畏怖と尊敬のまなざしで見ていた。たとえそれが、病で失われた年月を悔やむ気持ちからであっても、中々出来るものではない。少なくとも、北川は自分にはとても出来ない、と思う。
「ホントに無茶ですか?」
 無言で北川は黙り込んだ。
「でしょ?」
 ふふん、と誇らしげな顔をしてみせる栞。
 一つ間違いなくいえるのは、ここでこの娘を止めようとしても不可能だ、ということだった。
 事情をしっかりと話せば、あるいは栞を止めることが出来るかもしれない。けれども、今はあまり話したくなかった。
 だって。
「まぁ、途中まで一緒に来てもいいよ。根をあげるまで」
「なにを! 負けませんよっ!」
 ぱあっ、と輝く笑顔で栞が笑う。
 この笑顔を、曇らせたくなかったから。

 こうして、二人旅は始まった。二人はそれぞれの自転車に乗り、コンビニに背を向ける。
 いつもよりもすこし無口で自転車を先に進める北川と、きょろきょろとあたりを見渡し「わぁ」とか「おー」とか意味のない歓声を漏らしながら前へと進んでいく栞。傍から見ていると、そもそも一緒に旅をしているのかすら怪しい二人組みである。
 風景は流れていく。
 いつも見ている景色を栞はすり抜けていく。春には桜が満開に咲いていた並木道、昨日もアイスクリームを食べた商店街、祐一と二人で遊んだ水族館――どれも、大切な大切な記憶の宿る場所。雪が降り積もっていても、柔らかな風が流れていても、蝉の声の下にあっても、栞はそれら場所を愛している。一つ大きく息を吸い込むだけで、そのときの暖かい思い出がよみがえっていく。それらは、通り過ぎてしまった思いだけれども、同時に自分のうちに確かにある暖かさであると栞は思う。あの桜は確かに散ってしまったものだけれども、でも、ここにあるのだ。
 なんか不思議、と小さくつぶやいて笑う。その頬を、柔らかな日差しと優しい風が静かに撫でて行く。なんて気持ちいいサイクリングなんだろう、と思うと自然とさらに笑いが深くなる。
 そうしていると、自然に先行する北川の後姿が目に映った。暖かさにうつろう思考が、そちらの方向へ向いていく。
 前遊んでいるときに、祐一が、親友と評される北川のことについて言った言葉が思い出された。
 馬鹿だけど、馬鹿じゃない。
 それを聞いて、栞は言い返した。
 それって、祐一さんのことじゃないですか。
 笑って、やっぱり似てるのかもな。と栞の恋人ははじめは嫌そうに、途中からくすぐったそうに笑った。
 今となっては祐一は、いい意味での馬鹿そのものであるように、栞には見える。けれども、栞はあの冬の祐一を覚えている。逃げ出すことを恐れるような真剣さ。感謝と同時に、その純粋さがいつか自らを傷つけるのではないかと怖くなってしまうような、そんな強さ。
 そして、その理由も、栞は知っている。祐一自身も、まだ知らない理由を。
 栞は首を振って、胸に生まれた感情をねじ伏せる。
 いい天気、と栞は呟いてみた。そう言ってみると、いい天気なのが実感できる。気分もだんだん明るくなってくる。あの冬から生まれ変わった美坂 栞にはネガティブという言葉が全くに合わなくなってしまったのだ。あきれるほどのポジティブシンキングで行くべしと、天に浮かぶ太陽と、新商品タイヤキアイスに熱く誓ったのである。
 そして、栞はスピードをあげた。
「きっ、たが、わ、さーんっ」
「なに、うわっ! ちかっ、てか、はやっ」
「ふふふー」
 無駄な笑い声もわりと大きめに。
「勝負しましょうーっ!」
「なんのだーっ!」
「あの丘まで競争です」
「丘とかないし」
「一回言ってみたかったんですっ! とにかく競争です。この夏鍛えに鍛えたこのフトモモ、北川さんなんかに負けませんよっ。いざ尋常に勝負ッ」
「体力ないくせに無理言うなー」
「それでも三年のアホ巨頭の片割れですかーっ」
 言いながら栞は全力でペダルを踏み込む。腿を上げる力でさえスピードにするような力の入れようで、だんだん北川を引き離していく。
 何のかんの言っても、背中に哀愁を漂わせても、北川はアホ巨頭だった。勝負を仕掛けられると、負けられないのだ。男の意地だった。
「ぬおーっ」
 横で北川が急にスピードアップする。それを見て、栞もまた足に鞭打ちスピードを上げようとする。
 たぶん、面子が悪かった。
 ひたすら熱意が燃え盛る栞と、負けず嫌いの北川。
 全力を出せばすぐに勝負がつくと北川は思ったのだけれども、いささか甘かった。栞は姑息かつ巧みなコース取りで北川が前に出るのを妨害しようとする。接触するわけにはいかない北川はそれを避けようとする。さらに、カーブは必ず内側で。どこで学んだのかわからないレーステクニックを駆使して、栞は勝負にかけた。北川は体力をいかし、負けじと追いすがる。じりじりと続く心理的な攻防戦。栞は前後を油断なく見返し、リードを守りつづける。その地味ながらも精神的な疲労を生む心理戦は、20分の長きに渡った。
 せせらぎの上をまたぐ橋も。
 古き良き田舎の畦道も。
 緑生い茂る森も。
 二人の目には入ることなく、勝負は続く。北川は栞の走行テクに舌を巻いた。一体どこで身に着けただろうか。とても、半年前には補助輪をつけていた少女と同一人物だとは信じられない。
「くそ」
 言葉と一緒に唾を吐き捨てる。
 このままリードを守られるか、と唇をきつくかみ締めた北川の前に、現れたのは地平線のごとくの、道の切れ目。にぃ、と北川の唇が吊り上る。
 長い長い、下り坂、だ。
 地獄までも落ちていくかのような深い深い急角度。そこにむかって二人は、最後の全力疾走を始めた。こうなれば、妨害もなにもない。栞も、北川も、ただただスピードを上げることだけにすべての意識と体力と気力を叩き込む。
 こうなると、勝負は筋力の問題ではなくなる。ただ、どちらがスピードを恐れないか、という勝負。どこまで早くなろうと、ペダルを漕ぐ足がほとんど意味を成さなくなろうと、カーブがきつかろうと、ブレーキを踏まない。そして、二人はその勝負において完全に猛者であった。どちらもノーブレーキであるどころか、無意味であることを知りながら、壊さんばかりの勢いで、ペダルを踏みつける。
 全力だった。
 そこには男も女も関係なく、ただ勝負に己のすべてをかける二人がいた。
 栞が、微かに遅れた。根性があろうと、やはり根本的な筋力、そして体格には大きな差がある。ここぞとばかりに前傾姿勢で全体重をかけきる北川に比べると加速においてやや劣るのはいなめない。そして、この場においてはさすがに前に出るのを邪魔するテクニックを使用することは出来ない。単純に、危険すぎるからだ。
 坂は残り少ない。そして、その先に見えるのはこれまたあきれるほどの上り坂である。根性ならば、そして勝負にかける執念であるならば、栞は北川に負ける気は全くしない。けれども、体力・筋力に対しては、くやしながら白旗を揚げざるをえないのが現状である。このゴールのない戦いも、恐らく坂において大差がつき、そこで勝敗が決してしまうのだろう。
 ならば、ならばこそ、この坂では負けたくないッ!
「くきゃーっ!」
 栞は意味不明の叫び声を上げ、猛烈にペダルを漕ぎ出した。すると、なんという奇跡だろうか。縮まっていったはずの距離がだんだんとまたひらいていく。
「うおおおおおっ!」
 負けじ、と北川も叫び返す。そして、ペダルが猛回転を始める。体が前に飛び出しそうなほどの前傾姿勢。魂尽きるごとくの叫び。
 たぶん、この二人が気合を入れすぎたのが悪いんだと思う。
 横を歩いていた無害そうな主婦Aは魂が乗り切った叫び声に振り返った。振り返ると、全力のジェットコースターもかくやというような勢いで落ちてくる二つの自転車。顔も、その、ちょっと書けない感じに。思わず、ビニール袋を投げて、飛びのく主婦A。
 ぺちゃ。
「くーきーゃーーーーーっ!!」
「うががががががごごごぎぁぁ!!」
 さすがにこの勢いだとアスパラガスやネギといった青物でも十分な殺傷物になるらしく。そして、物理学的に言えば、力学的エネルギーは逆ベクトルのエネルギーを与えられないと止められないわけで。俗に言う慣性の法則。
 歓声にあらず。
「くーきー!」
「うひょーっ!」

 怪我が無かったのは、奇跡だと思う。



home  next