「こんなお話、嫌いです!」
栞は読み終えた本をバタン、と閉じた。
春休み。俺は栞とよくいつもいっていた公園でのんびり時を過ごしている。
1月31日――正確に言えば2月1日の夜中に公園で別れてから、栞は奇跡的に病気が治った。
俺は栞と、あの一週間のような日々をすごしている。あの時と違い、期限は無制限。
まるで夢の中に居るように――そういえば以前栞が『今、自分が誰かの夢の中にいると思ったことはありませんか』といっていたが――俺は本当に夢の中に居るかのように幸せだ。
今日は、デートの前に退院プレゼントとして栞に本を買ってきた。
本来なら退院してすぐ渡すべきだったんだろうけど、栞が退院できた、といううれしさでいっぱいで、すっかり忘れていたのだ。
気がついたのは再会して5日後の今朝のことだ。
俺は慌ててプレゼントを探し、いいものをあげられた、と思ったのだが、
「祐一さん、何でこんな本を買ってきたんですか?」
――どうやら栞には気に入られなかったようだ。
「色々話題になっていたから、きっと栞も喜ぶと思ってな。俺も少し読んでみたけど、結構よく出来た話だと思ったし。栞、本とかすきそうだったし」
「確かに好きです。でも、物語の終わりはハッピーエンドだって決まっているんです!祐一さんはそうは思わないんですか?」
栞はそう言うと、ぷい、と顔を横に向ける。確かにこの本、『マヤウルのおくりもの』は、確かにハッピーエンドではない。別れをテーマにした少し寂しいお話である。でも、
「毎回毎回、ハッピーエンドな話ばっかり読んでいて飽きないか?」
そう聞いてみる。俺だったらそんな物語ばっかり読んでいたらすぐに飽きてしまう。俺がそういうと栞はますます怒った顔をして言った。
「飽きないです!だって、私がお話を読むのはハッピーエンドを求めているからですから」
栞はそこで一息つき、
「……私は、どんなに安易なものでも、ご都合主義でも、どんなに陳腐なものであっても――よく出来た悲しいお話よりはハッピーエンドの物語のほうが好きです」
と呟いた。
栞の今までの事情を考えると、流石に少し悪い気がしてきた。
「悪い、栞」
俺が栞に素直に謝る。
「本当に反省していますか?」
「ああ」
俺の言葉に栞は満足して、
「……だったら、罰として、絵のモデルになってください」
といって栞はにっこりと微笑んだ。
正直、栞の絵のモデルは、数時間ほとんど動けないから勘弁して欲しいが……ここは素直に従ってことにした。
栞の絵のモデルの最中、退屈である。――もっとも、この時間もまた幸せであるが。
そういえば、とふと思い出す。
「……そういえば最近、あいつの姿を見ないな」
栞と再会したときも思ったが、本当に最近あいつ――あゆにあっていない。
この街に来たとき、たくさんあっていたのがまるで嘘のように。
「あゆさん、ですか?」
栞がいったん、絵を描く筆を止め、聞いてきた。
「ああ。栞、最近会ったか?」
「いえ、私もあってないです」
「栞も会っていない、か」
まぁあいつのことだから、ひょっこりまた現れるだろう。
ひょっとしたら再会は、あの時と同じように食い逃げの場面かもしれない。――そんな、あいつらしい再会のシーンが簡単に思い浮かんで、俺は心の中で笑った。
――ふと気づくと栞ににらまれていた。
「どうした?栞」
「祐一さん、私とデートしているときに、他の女の子のことを考えるって失礼ですよ、顔がにやけてました」
栞がそういってぶう、とむくれる。俺はその言葉とその様子に思わず笑ってしまう。
「な、なにがおかしいんですか?」
「いや、悪い、でも、女の子ね」
俺がそういうと栞が首をかしげた。
「そりゃ確かにあゆは女の子だけど、あゆをそういうふうに意識したことがないからな、ちょっと可笑しかった」
「……そうなんですか?」
俺の言葉が心底意外だったのか、栞がそう聞き返した。
「……そんなに意外か?」
「え……いえ」
そういって、栞は顔をうつむけ、再び絵を書き始めた。
「これで下書きは完成です」
数時間の時を経て、ようやく、下書きが完成したみたいだ。でも、最初のころに比べれば十分進歩しているだろう。
「書きあがるまで、三日ほど待ってください。ここまで描ければ、あとは一人でも十分完成できますから」
「え、前みたいにして描けば良いじゃないか?」
俺のこの質問に栞はすまなさそうに、
「いえ、祐一さんをびっくりさせたいですから。そのために一人で描きたいですし……」
といった。
少し釈然としないが、栞には栞の考えがあるのだろう。
「わかった」
「ありがとうございます、祐一さん」
「まあ、時間はたっぷりあるんだからな」
そういって、自分を納得させる。俺のその言葉に、栞はほっとして、
「ありがとうございます。では3日後、また、1時にここで待ち合わせしましょう」
それだけをいい、俺たちは別れた。
☆
――夢を、見ている。
雪の上。
雪の上に俺は座っていた。
俺の腕の中には、まったく動かない女の子。
顔は、わからない。
俺は、純白の雪の上で、ただ、その女の子を抱きしめている。
――それはいつのことだっただろう?
☆
翌日。
俺は商店街をぶらぶらと歩いていた。
来年から受験生とはいえ、勉強する気にもなれない。栞とデートしないとなると案外暇である。
――となるとこれくらいしか俺には選択肢がない。それに今朝は変な夢をみたから気分転換をしたかった。
なんだったのだろう、今朝の夢は。
やけに現実感を覚えた夢だった。
明晰夢、というやつだろうか?だが、それとは違うと、俺の中の何かが告げている。
だとすると――過去に実際にあったから、そう思ったのだろうか?
しかし、実際にそんなことがあった覚えはない。
まぁ考えてもしかたないか―――。
たかが夢だし。
そういえば、夢といえばずいぶん前にも変な夢をみたような気がする。――たしか、俺は暗闇の中に居て――
ああ、もうやめやめ、夢について考えるのは。
そう思いながら商店街を見渡す。
そういえば、今日もあゆの姿を見ないな、とふと思う。
ほぼ毎日あっていたのが今思えば異常なのかもしれないが、まったく会わないとなると、本当に寂しいものだ。
――もうこの街にはいないのではないか、とふと思う。
――と、そこまで考えてふと思い出した。
香里が栞のことを自分の妹だということを受け入れた日。あの日の帰り道、そういえばあゆと会った。思えばあの日が最後だった。
そのときのあゆとの会話を思い出す。
『探していた物が見つかったから……ボク、もうこの辺りには来ないと思うんだ……だから……祐一君とも、もうあんまり会えなくなるね……』
『……そう、なのか?』
『ボクは、この街にいる理由がなくなっちゃったから……』
『だったら、今度は俺の方からあゆの街に遊びに行ってやる』
『……祐一君』
『あゆの足で来れるんだから、そんなに遠くないんだろ?』
『……』
『また、嫌っていうくらい会えるさ』
このときから、そういえば本当にあゆと会っていない。
すっかり、忘れていた。
そうだ、あゆは多分どこか遠くにいったのだ。だったら連絡くらいくれればいいのに、とは思うが、こっちの連絡先を知らないのではないか、ということに思い当たる。
だったら、しょうがないかもしれない。
「あ、祐一さん」
突然、呼びかけられ、びっくりする。
声のしたほうをみると、たくさんの荷物を抱えた栞がいた。
「こんなところで何しているんですか?」
「いや、散歩だよ、栞は買い物か?」
「はい、絵の具が切れてしまって……それにお菓子とかも欲しかったですし」
「あんまり間食を取るとふとるぞ」
「わ、そんなこというひと嫌いです」
といって、栞はぷい、と顔を横に向ける。
「はは……、で絵は完成しそうなのか?」
俺がそういうと、栞の顔はちょっと沈み、、
「うーん、難しいかもしれないです……」
「だったら、最初から書き直すのも良いかもしれないぞ」
「いえ、もう少しがんばってみることにします」
「そうか」
「でも祐一さん、珍しいですね、そういうこというなんて」
そういうこと、とは絵のモデルになることだろう。なんだかんだで、モデル中に文句をいったりしているからな。
「いや、栞とデートせずに、こうして一人でいると何もすることがない、ってことがわかってな――それくらいだったら、栞の絵のモデルになったほうがまだ楽しいし」
「わ、祐一さん、すごく恥ずかしいこといっていますよ」
栞はそういって顔を赤らめる。
……栞にそういわれ、俺もずいぶんはずかしいことをいったな、と思う。
「あ、祐一さん、今自分でもはずかしいことをいったな、っておもったでしょ?」
「いや、ソンナコトハナイゾ?」
動揺し、思わず言葉がうわずる。その様子をみて、栞はにっこりと笑い、
「じゃあ、祐一さん、あさって、楽しみにしてくださいね。1時にいつもの公園ですよ」
「ああ、わかってる」
「それじゃあ、祐一さん、またあさってに」
といって、栞は帰っていった。
―――俺もそろそろ、帰るか……。
☆
――夢をみた。
赤い雪の中に、俺がいた。
そして女の子。
――俺はただ、少女に手を握ってやることしか出来ない。
顔は相変わらず、よく見えない。
女の子は、まったく動かない。
俺はただ――そんな女の子をみて、泣いていた――。
ふと見上げると、そこは、たくさんの木があった。
その中でひときわ目立ったのは――、大きな大きな、木――。
☆
――二日続けて、同じ夢をみた。いったいなんなのだろう、この夢は。
超常現象なんて、信じる俺じゃないが二日続けばこれは何かの暗示ではないか、とふと思ってしまう。
まぁ今日も暇だし、夢の場所を探してみるのもいいかもしれない。
そう重いながら朝食を済まし、夢の中に出てきた場所を探すため、外に出る。
――夢にみた場所。思い出せる情報のみでその場所を探すことにする。
――まわりに木があったのだとすると、山の中だろう、そう思いながら探すことにした。
数時間後、その場所をみつけた。
「ここだな……」
夢の中とほとんど変わっていない場所、が目の前にあった。
来てみると、俺は確かにこの場所に来たことがある、ということがわかる。
確かに、どこか懐かしい感じがする。
――だとしたら、夢の中のことは実際にあったことなのだろうか?
しかし、やはり、何も思い出せない。ここであったことが。
「なんなんだろうな……ったく」
胸の中が、ざわめく。
確かにああいうことがあったのだという確信、だけがある。
しかし、あの女の子は誰なのかとかが、いくら思い出そうとしてもやはり思い出せない。
俺は思い出すために何度も何度も、夢の中と変わらない景色を歩いたが――結果はやはり同じだった。
「とりあえず、帰るか」
一時間ほどして、俺はそう結論付けた。もうこれ以上ここにいても意味ないだろうし、そのうちひょっこりと思い出すかもしれないしな。
「祐一さん、こんなところで何をしているんですか?」
――突然の声に驚く。声のしたほうをみると栞がいた。なぜ、栞がこんなところに?
「単なる散歩だよ――栞こそ、どうしてこんなところに?」
「私のことはどうでもいいんです、祐一さんはどうしてこんなところにきたんですか?」
――栞はなおも食い下がる。こんな栞ははじめてみる。
「いや、だからたまたまだって」
俺がそういうと、栞は俺の顔をじっとみつめ―――、しばらくしてから
「そうですか」
といった。
「俺がここにきたら、まずいのか?」
俺がそう聞くと、
「ええ」
ときっぱりと栞が答える。
「祐一さん、もうここにはこないでほしいです」
「何でだ?」
俺は当然の疑問を口にすると、
「えっとですね――、実はここにくると、自分の付き合っている異性と別れる、という伝説があるんです。だから、祐一さんにはココに来てほしくないんですよ」
まるでとって付けたような理由を――いや、実際取って付けているのだろう――を栞はいう。
「そ、そうか」
俺はとりあえずうなづく。
「わかって、くれましたか?」
もう一度、栞は念を押すように言った。
「ああ、もうココにはこない」
「そうですか、よかったです、じゃ、祐一さん、また明日」
「あ、ああ……」
俺がそううなづくと、栞は去っていった。
……なんだったんだろう、さっきの栞は。
いったいどうして栞は俺にここに来られたくないんだ?
俺はそんな疑問を抱いたまま、家に帰った。
☆
――また、同じ夢だ。もう、3日連続だ。
俺の腕の中に女の子がいる。
赤い雪の上で女の子を抱きしめている。
場所は今日いったところ。
森の開けた場所。
相変わらず、腕の中にいる女の子の顔はわからない。
――いや、ひょっとしたら思い出したくないのかもしれない。だから俺はこの少女の顔が見えないのかもしれない、とふと思う。
――もし、この夢が実際にあったことの夢であるのなら、この女の子には顔がある。
はっきりとした顔が。
そう思った瞬間、その少女の顔がはっきりとしてきた。
浮かび上がってきた顔は――、幼い顔の――あゆ。
☆
「!!」
俺はベッドから飛び起きる。
今見た夢をもう一度考える。しかしいくら考えても、今の夢の少女はあゆだった。
そんなはずはない、と思う。
だって、あゆは―――、俺と一緒にいたじゃないか。
今の夢が本当だとしたら、俺が今まであっていたあゆはいったいなんだったんだろうか?
ふと、周りを見るとまだ夜中だった。でも俺はいてもたってもいられず、俺は外へ飛び出した。
あの場所を目指して。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
息も絶え絶えながらその場所につく。
昼間の時とは違い、嘘のように記憶がよみがえってきた。
ここで俺が人形をあげたこと。
一つ目の願い事で、あゆと、二人だけの学校をつくったこと。
ここで色々なことをして遊んだこと。
そして――あの事故。
『…祐一…君…』
『喋るな! 今、病院に連れていってやるから!』
『痛いよ…すごく…』
『分かったから、だから喋るな!』
『あはは…落ちちゃったよ…』
『ボク…木登り得意だったのに…』
『でもね、今は全然痛くないよ…』
俺はこのとき、あゆの体を抱え、あゆの手を握ったまま……。だけど、あゆは動かなくて……。
もう、俺の名前を呼んでくれることもなくて……。
俺は……ただ、なくことしかできなかった。
忘れていた。
すっかり忘れていた。
何もかも。
あの事故も。
あゆと、ここで遊んだことも。
あゆのことを好きだったことも。
――あゆ、ごめんな。涙が、あふれてくる。
あゆは、もういなかったんだ。
だったら、俺が見ていたあゆはいったいなんだったんだろう?
奇跡だったとでもいうのだろうか?
――いや、そんなことはどうでもいい。
俺はただ、この現実を、悲しんでいた――。
俺は重い足取りで家に帰り、床についた――。
☆
また、同じ夢だ。
あゆが、いる。俺の腕の中に。
俺は何も出来ないまま―――。
周りには純白の雪。
俺はただ、抱きしめていることしかできなかった――。
☆
目が覚めた。
時計を見るともう10時過ぎ。
俺は憂鬱な思いで下に降りた。今日は久しぶりの栞とのデートなのに、全く気分が晴れない。
「祐一さん、おはようございます」
「――おはようございます、秋子さん」
いつもどおり秋子さんが出迎えてくれる。
食卓には俺の分の食事が並んでいる。
名雪はもう部活にいったらしい。
俺は朝食を食べている最中、ふと思う。
秋子さんはしっているのだろうか?あゆのことを?
そこまで考えたとき、二ヶ月前、あゆと秋子さんが始めてあったときのことを思い出す。
『…月宮あゆちゃん?』
『ごめんなさい、やっぱりわたしの気のせいですね』
『そんなはずないですものね…』
そういえば、あのときの秋子さんはかなり動揺していた。
普通の人にとっては少しの変化だったのかもしれないが、秋子さんでは別だ。
秋子さんは、しっていたんだ、あゆのことを。
だからあのときあんなにもあせっていたのだ。
俺は本当になにも知らなかったんだ……すべて忘れてしまっていたんだ。
『嫌いになんて……なってない……なれるわけ……ないよ!!』
今俺は栞と一緒に映画を見に来ていた。栞が映画のチケットをもらったらしい。
栞と一緒にいる、というのに、まったく気分が晴れない。
映画の内容はごくありふれた恋愛物。
様々な困難を経た二人が結局は結ばれる、というオードソックスなものだ。
栞をみると必死になってみていた。
栞が本当にこういうのが好きなんだなぁ……、と改めて思う
『あの病室で……雨が上がったときから……晴れた空を見上げたときから……ずっと……ずっと……好きだった……好き……大好き……大好きだよぉ!!』
栞は、感極まったのか、泣いていた。
普段なら、こういう栞を可愛く思うのだろうが、そんな感情はまったくわいてこない。
そういえば、とふと思う。
どうして栞はあの場所に俺が行くことを拒んだのだろう?
「ほんとうによかったですねっ祐一さん」
「ああ……」
「やっぱり物語の基本はハッピーエンドだとおもいませんか?祐一さん」
「ああ……」
俺は適当に栞の話に相槌をうつ。
まだ気持ちの整理が出来ていないのだ。
「祐一さん、なんだか、元気ないですね?あ、ひょっとして、絵が完成しなかったから、怒っているんですか?」
「いや、そんなことはないぞ?」
と俺は応える。そう、確かに栞は今日までに絵を完成させていない。
もちろん、そんなことはまったく問題じゃない。
「怒っているんじゃなくて、よかったです」
と一瞬安心した顔を向けた後、
「明日、必ず持ってきますから。あと少しなんです、本当に。あ、明日もデートしましょうね、待ち合わせ場所、時間ともいつものように」
栞はそれだけをいって、今日は別れた。
俺は栞と別れたあと、考える。
本当に、なんで、あゆのことを忘れてしまったのだろう、と。
もう、後悔しても遅いことではあるがそう思わずにはいられなかった。
☆
――また、夢を見た。また同じ夢。
あゆが、いる。俺の腕の中に。 俺は何も出来ないまま―――。
周りには純白の雪。おれはただ、この雪の上でなくことしか出来な――。
――とここまで考えて違和感を覚える。
だが、その正体はわからない。
ただ、漠然と――この夢は何かがおかしい、という感覚が湧き上がってきた。
俺はふと、違和感の正体に気づいた。
どうして、雪が純白なんだ?今までみた夢の内容を、思いだす。そういえば、一番初めにみた夢も雪は白かったような気がする。
本当なら、血で雪が赤いはずだ。
なのに、どうしてこの雪は白い?
ぐにゃり
――そこまで考えて、突然視界がぐにゃり、とゆがんだ。
空間がゆがんで、あゆが消える。そしてかわりに、違う少女が出てくる。
その、少女の名前は―――俺が一番よく知っている――、
☆
「――どういう、ことだ?」
今見た夢が信じられない。
彼女がこんな夢に出てくるはずがないのだ。
だって、彼女は――。
しかしこの夢も現実にあったことだと、俺の脳がつげていた。お前が忘れていただけだ、と。
俺はその事実を認める。
――すると、次から次へと、いろいろなことが思い出されてきた――。
「おはようございます、秋子さん」
「おはようございます、祐一さん」
「……大丈夫ですか?祐一さん、なんだか元気がありませんが」
「いえ、そんなことはないですよ」
「無理……なさらないでくださいね」
「はい……」
俺はそれだけをいい、食事を始める。
秋子さんは、このことを知っているのだろうか?
いや、しらないはずがない。
あゆのときのように7年前ではなく、これはつい最近のことだ。
勘違いもなにもないだろう。
もし、俺が今どんな体験をしているか、知ったら、秋子さんはどういう顔をするだろう、とふと思った。
そういえば、秋子さんはあゆのことについて、どう思っているのだろうか。
やはり今も勘違いしたままだろうか。
まぁ俺が無理にいうこともない……
とそこまで思ったところで1月のある日のことを思い出した。
そういえば、以前、一度、何か秋子さんから7年前のことについてたずねられた気がする。
たしか、あれは……。
『7年前の冬に、この街で何があったか…ご存じですか?』
『…いえ、何も知りませんけど』
『そう』
『何が…あったんですか?』
『大したことではないですよ』
『……』
『木が―――』
「え?」
俺は思わず口に出していた。
「祐一さん?」
秋子さんが俺の様子をおかしいと思ったのかたずねてくる。
「すみません、秋子さん、俺、出かけてきます」
「え――あ――」
俺は最後まで秋子さんの言葉を聞くことなく、飛び出していた。
行き先は、もちろん、あそこだ。
俺がその場所――あゆと、昔遊んだ場所――にいくと、栞がいた。
まるで、俺がくるのをわかっていたみたいに。
「祐一さん、この場所にはもう来ないでほしい、って言ったじゃないですか?私と別れてもいいんですか?」
「そういう栞もなんで、こんなところにいるんだ?俺と別れたいのか?」
「……たしかに、そうですね」
――というと、栞は立ち上がる。
「栞、お前は一体――?」
俺がそういうと。、栞があきらめたように言った。
「――そこまで、思い出したんですね」
「――ああ」
あの1月31日の日。
栞は、絵を書いている間に倒れたのだ。
無理もない――体が弱いのに一日中外にいたのだ。
しかも、あんな薄着で夜中まで。
これで倒れないほうが逆に不思議である。
俺は近くの人に救急車を呼んでもらい、俺は栞のそばにいたんだ。俺はただ、なくことしか出来なかった――。そこから先の、記憶は、ない。
でも間違いなく、栞は倒れたのだ、あの公園で。
「私は今、あゆさんと、同じ状態です――あゆさんの変わりに、私は今、この場所にいるんです」
と栞は言った。
「1月31日。あゆさんが、『ボクの変わりに祐一くんのそばにいてあげて』といっていました。だから私はこの場所にいるんです――あゆさんと同じく、いつこの現象が終わるとも知れません――だから思い出してほしくなかったですし、いえなかったんです」
――栞はなおも言葉を続ける。
「祐一さん」
といって、栞は絵を取り出した。俺と栞が仲良く笑っている絵。
今の状況を考えれば、なんて、悲しい絵なんだろう、とふと思った。
「私は――もう、この瞬間にも消えるかもしれません」
俺はそこまで聞いて一つ、栞にたずねた。
「なぁ、栞?」
「はい?」
「――どうして、嘘をつくんだ?」
「え?」
瞬間、栞の顔がこわばる。
「どういう、ことですか?」
「お前は消えないんだろ?」
「――どうして、そう思うんですか?」
「だって、これは――」
そこまで言って俺は次の言葉をいうのをためらう。
「夢の中、なんだろ?」
俺がそういった瞬間、栞の顔が明らかに変わった。
「どうして、そう思うんですか?」
栞の声が震えている。
「俺、覚えていないんだ。あの日、栞が倒れてから再会までの記憶が」
「ショックで忘れているだけじゃないんですか?」
「――あと、もう一つおかしいことがある」
俺はそういうと、一本の木を指差した。あゆが登っていた、あの木だ。
「その木だよ」
「この木がどうかしたんですか?」
「栞、7年前の冬、この街で一本の木が切られたのを知っているか?」
俺がそういうと、栞がしまった、という顔をする。
「そうだ、この木がおそらく切られたんだ。子供が落ちて危ないからって木を切ることは多いからな。だが、その木が、なんで、今もこの場所にたっているんだ?」
栞はうなだれている。
「なぁ、栞――」
栞は黙っている、何も言わず。
「これは夢、なんだろ?」
俺がそういった瞬間―――、世界が壊れた。
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