◆木々の声と日々のざわめき
「祐一さん、今日は何の日か知っていますか? 」
あの日から十日ほど経った。あれから栞の口から『香里』という言葉は出ていないが、それでも心配しているかのような素振りは、傍目にも分かった。
「まぁな。いわゆるチョコの日だ」
と、引き締まった、戦った男の貌(かお)を見せ付ける。休日とはいえ、それなりの戦果はあった。と、言っても家主さんや幼馴染さんからだけであったが、それは言わないことにしておこう。それに本当に欲しかった人は、もう……
「わっ、その『俺は勝った』みたいな顔はなんですかっ! 」
「まぁ、言葉どおりだ」
栞に出会ってから、殆どの日の夕方をこの切り株で過ごしていた。そしてそこには必ず、目の前のストールの少女が居たわけだ。
「そうですか……言葉どおり、ですか」
「ん、なんだ、その残念そうな声は? 」
「いえ、なんでもないですよ、何でもっ」
あからさまに動揺する栞を見ながら、もし俺も栞に出会っていなければ、香里と同じような状態で現在もいたのかもしれない、と思っていた。
今の香里は一時期のそれほどではないが、それでも毎日辛そうな表情を浮かべ、話の輪に入ることも、放課後にどこかに遊びに行くこともなかった。
「祐一さん」
「ん、なんだ。改まった声を出して? 」
「その、私のチョコをもらってくれないですか? 」
栞の口から出た言葉に俺は『勿論』と笑顔で返した。
「で、どこにあるんだ、そのチョコは? 」
手ぶらの栞を見て、俺はそんな疑問を投げかけた。余談だが、まさかあのストールの中や、ポケット中から出てくるのかも、と思い直したのは言葉を発した後だった。
「今から買いに行くので、祐一さんも一緒に来てもらえますか? 」
……ずっこけた。
「あの、どうかしたんですか? 」
栞は、さも不思議そうに俺の仕草に疑問を投げかえる。
「い、いやなんでもない。で、どこに買いに行くんだ? 」
あまりのずれっぷりに、いろいろ突っ込むのを通り越して、俺はそんなことを聞いた。
「商店街です」
栞の口はそう紡がれていた。
◆日溜りの街
「これがいいですっ」
栞はそういって、指差した方向には、高そうな包装紙に包まれた、やはり値段も高そうなチョコだった。
「おおっ!? あんな高そうなチョコを俺にくれるのか」
俺もその心意気に年甲斐もなく、喜んでしまう。
「はい、これに決めました! 」
なぜか自信満々な栞。
「では、お願いします! 」
「……え?」
よくわからなっかたので、もう一度聞き返す。
「だから、祐一さんお願いします! 」
少し顔を赤らめて、ぼそぼそとした声でつぶやく栞。
「アノ、ツマリドウイウコトデショウカ? シオリサン? 」
「あの……私、お金を持っていないんですよ」
蚊の鳴くような声。
「…………」
「…………」
あの顔の赤みは羞恥心によって出たものだったらしい。
「どうもすみません」
「いや……そんなに気にしなくてもいいから」
自分で買ったチョコを栞と一緒に食べて商店街を歩いている自分は、どういう風に写っているんだろう?
「でも……」
「まぁ栞の気持ちは分かったから、それで良しということにしておこうぜ」
自分で言っていて恥ずかしいが、こうでも言わないと、このままずっと『でも』を続けられことになりそうだ。
「あゆさんみたいに食い逃げすることもできなかったです」
「えっ!? 」
栞が言った独り言が聞こえてしまい、俺はそんな声を上げていた。
「あっ…その…」
栞は俺に気付かれたのが分かり、見た目にも分かるぐらい慌て出した。
「ど、どうしたんだ。栞? 」
俺もどう返したらいいのか、少し焦ってしまう。
「ごめんなさいっ! 」
するといきなり、栞は頭を下げそう言うと、走って俺の目の前から消えてしまった。
「いったいなにがあったってんだよ」
チョコを片手に栞の消えた先を見つめながら、俺はそんなことを呟いていた。
◆少女の檻
「このっ! どういうことだよ、相沢」
次の日、学校の休み時間に、北川にいきなり首に腕を絡ませられ脇腹に突きを入れられる。
「いてっ! なんのことだよ」
「どうしたの、北川君? 」
そんな俺のやり取りを名雪は不思議そうに訊いてくる。
「いやぁ、昨日さチョコを買い……いや、商店街をぶらついてたらさ、相沢のやつが女の子と一緒に手をつないでチョコを喰ってたんだよ」
誇大表示された北川の話に、名雪が興味津々に訊いてくる。
「えっ!? 北川君、その女の子って……ダッフルコートを着てたりしてなかった? 」
多分、名雪本人は北川にしか聞こえないように話していたつもりなんだろうけど、丸聞こえだった。
「いや、違うよ。なんていうのかな……そう! 確かストールってやつだったけ。あれを巻いていたと思うよ」
カタッ
小さな音が聞こえた。
「ふーーん、そうなんだ」
なにやら複雑そうな声で、名雪はそう返す。
「で、いったいどこであんなかわいい子を誑かしたんだよ」
北川は、なにやら必死にそんなことを問い詰めてくる。
「誰も誑かしてなんかないって! 栞はただ……」
北川につられて、口から出手、しまった! と思ったときには、もう遅かった。
「しおりちゃんって言うのかよ、相沢。今度俺にも……」
ガタンッ!
大きな音。椅子をいきなり引いたときの特有な音だ。
半ば予想はしていたが、間違いなくその音の主は……
「どうしたの、香里? 」
名雪が、今まで亡霊のように席に座っていた香里の突然の反応に、戸惑いながらもそう訊いた。
一番聞かれてはいけない人に聞かれてしまったんだろうな、と俺は思った。しかし心の中で栞に謝る一方で、その香里の反応と、栞が隠していることへの探究心などが表に出てくることをこらえるのに必死だった。
「相沢君」
香里は、名雪に言葉も交さずにまっすぐ俺のほうに来た。
「ん、どうしたんだ美坂? 」
何も分かっていないような感じで、北川が訝しそうにそう尋ねる。
『みさか……美坂、栞。私の名前です』
突然俺の頭に流れ込んできた記憶の断片。それは栞と中庭で会ったとき確かに聞いて、少し疑問に思っていたこと。
つまり、栞は……
「相沢君! 」
「えっ、なんだ香里? そんなものすごい怖い顔で」
いつの間にか詰め寄ってきた、香里の顔は怖かったが、その奥に何か隠されているようにも見える。
「その、栞って言う女の子のこと……大切にしてね」
と、いきなり悲しそうな笑顔をして、そう俺に言うと、また自分の席に座ってしまった。
「えっ、おいっ! 香里、それってどういうことだよ? 」
俺は、その疑問を香里にぶつけてみたが、それきり、香里はまた前のように、塞ぎ込んでしまっていた。
ただそのときの香里の言葉に、自分が出来なかったことを悔やんでいる、そんな風に見えたのは、多分俺の気のせいだったのだろうか?
◆風を待った日
「そうですか……そんなことを」
いつもの場所で、いつもの夕日の中で俺は、その日の出来事を、平謝りしながら栞に話していた。
「ごめん、栞」
「いえ、祐一さんが謝ることなんてないんです。全部私が悪いんですから」
そう言って、優しく俺を諭す栞の表情は、何かを悟ったように、とても晴々としていた。
「栞……ひとつ訊きたいんだけど」
「はい、なんでしょうか? 」
「香里って、もしかして……」
「はい、祐一さんの思ってるとおりだと思います。美坂香里は……私の姉、です」
あの後、実はそうなんじゃないかとは思っていたが、やはりそうだったらしい。
「でも、何で栞も、香里もそのことを隠そうとしているんだ? 」
そう、これが分からない。栞もそうだし香里にいたっては妹がいたことすら訊いたことがなかった。
「祐一さんは奇跡って信じますか? 」
栞とこの場所であったとき、栞が訊いてきた言葉だ。
「私は……奇跡の風みたいなものなんですよ」
「奇跡の風? 」
栞は俺の言葉を待たず、一人夕日に向かいながら語りはじめた。
「奇跡が起きるために集まっている風みたいなものだと思います。私はその風の一つに靡いているんですよ」
「よく分からないんだが……どういうことなんだ? 」
「祐一さん……2月1日って覚えてますか? 」
「えっ? 」
唐突な質問。その答えに栞は何を求めているのかは分からないが、
「ああ……勿論、覚えてるよ」
忘れたくても忘れられない、この場所であったあゆとの別れ。それが2月1日だ。
「私は……その日、死んだんです」
その言葉は、ひどく重く。荒唐無稽だったがそれを冗談として捉えることが、ついには出来なかった。
◆残光
「私はその日までしか生きていられないだろうって、お姉ちゃんに言われたことがあるんです。そしてその日からお姉ちゃんは私を視界にすら入れてくれなくなりました。私はお姉ちゃんに嫌われていると思っていました。だから最期のときもお姉ちゃんの足枷がなくなるなら、それでもいいかなって思っていました」
そう言うと『不謹慎ですけどね』とぺろりと、舌を出していけない子ですよね、とアピールした。
「でも……本当の最後の、瀬戸の際に立ったときに、私は聞こえてしまったんですよ」
「……なんて? 」
「栞、ごめん……あたしは本当は栞が大好きだったの……本当にごめん……って」
「…………そうか」
別れる日が分かって、それでも大切で、それ以上優しくすると別れた後に、どんな悲しみが待っているかを想像した時、香里はその現実から逃げたんだろう。
昔の……そしてこの前までの俺のように。だから痛いほど分かってしまう。
「それで私に与えてくれたこの短い時間の中で、どうにかしてお姉ちゃんに伝えたいことがあったんです」
「……なら、何でもっと早く伝えなかったんだ? 」
そしてその疑問をぶつけたとき、俺はあの時、栞は『今はまだ無理』と言っていたことを思い出す。つまりあの時点の香里に栞が姿を現す、と言うことがどれほどの心的負担になるのか分かったのだろう。
「すまん……」
「いえ……」
「今なら…伝えれるのか? 」
一呼吸置いてそう尋ねる。
「はい、もう今しか出来ないと思いますし……」
今しか……その言葉は、つまり栞が存在できるのは、もう短いと、そう言うことなのだろう。
「なんて……伝えるんだ? 」
そんな栞に、言える言葉は俺は持っていない。ただ、栞の言葉を繋げる事しか出来なかった。
「私のこと……忘れてくださいって」
「!? 」
栞の発した言葉、栞の立っている場所。何もかもがあの時と同じような感覚。
「……栞は…本当にそれで……いいのかよ」
そして、あの時と同じ風にし聞けない自分が、本当に情けなかった。
「……って、言うつもりだったんですけど、やめることにしたんですよ」
「…………は? やめる? 」
俺はこのとき、どんな間抜け面をしていたんだろうか。
「はい。実はですね、それはやめた方がいいと、教えてくれた人がいるんですよ」
「……そうか」
「はい、その人には感謝しても感謝しきれないほどです」
栞はそういいながら、にっこりと、そう微笑む。
「じゃあ、今から香里を連れてくる! 」
「えっ! あの祐一さん!? 」
俺はそう思い立つと、栞が引き止める声も無視して、街に向かうために森を駆け下りようとした。
そして、そこでやっと気付くことになった。
広場から少し離れた木の影。
ぱっと見では誰か分からないような、人影がそこに見えた。
「……香里? 」
「え? 」
今日の今日だ。その可能性があることを俺は失念していたんだろう。見れば見るほどその人影は、香里にしか見えない。
そして、俺たちに気付かれたことに気付いたのか、ゆっくりと人影はこちらに向かって歩き出してきた。
「お姉ちゃん……」
栞の口から出た言葉は、まさしくそれが香里であることを決定付けた一言だった。
◆Last regrets
香里は無言のまま、広場の中心まで歩を進めてきた。
「栞……なの? 」
死んだはずの人間が目の前にいる。にわかに信じられない現実。
「……お姉ちゃん」
言う言葉が見つけられなく、ただその一言しか口に出せない栞。
「本当に……栞なの? 」
「…………お姉ちゃん」
そのような言葉が数巡して、二人が抱きしめあい、涙を流すまでそれほどの時間はかからなかった。
「…………」
そんな場所に、俺は必要ないと思い、こっそりとその場所から立ち去ろうとした。
「祐一さん! 」
そんな俺を、強い声(それでも涙ぐんでいるが)に呼びとめられる。
「ん……なんだ? 」
俺はいつもどおりに装う
「今までありがとうございました」
栞は深々とお辞儀をする
「ああ……じゃあ、またな」
また、は無いと心の中で分かっていても、俺はあえて、そう言っていた。
「相沢君!……ありがとう」
それに続くように、香里の言葉。その『ありがとう』が何を意味しているんだろうか?
俺にはわからなかったが『ああ……じゃあ、またな』と、栞と同じ言葉で返す。
それらを一区切り終わらしたところで、俺は栞たちに背中を向けてゆっくりと歩いていった。
背中から聞こえる、歓喜にも似た嗚咽と、言葉の数々……
それはまるで栞が香里に贈る、香里が栞に贈った歌のように聞こえた。
◆pure snows
「……雪…? 」
森の途中で、突然舞い降りてきた雪。俺は空を見上げると、生まれたての雪が一つ、また一つと舞い降りてきた。
「天気予報では、もう雪は終わり……って言ってたのにな」
俺は、そんな言葉を紡ぎながら、もう見えなくなった広場の方に目をやった。
二週間ほどだった栞との会話が一つ、また一つ俺の脳裏を駆け巡ってくる。
「わたし、どうしても叶えたい夢があるんですっ」
「なんだ、その大層な夢ってのは? 」
「卒業生になったお姉ちゃんを、私が在校生として見送るんですよ」
「ぜんぜん大層じゃないじゃないか……」
「わっ、そんなこという人嫌いですよ』
「ははっ、わりぃわりぃ。でも栞、お姉さんって、姉がいるのか? 」
「私、絵だけは得意なんですよ! 」
「ほぅ、それは意外だな」
「意外とはなんですか、意外とは! これでもお姉ちゃんにはうまいってほめられたことがあるんですよ!? 」
『祐一さん……ありがとうございました。とても楽しかったです』
えっ?
突然脳裏に聞こえる声。それは栞の声だった。
『私はいなくなっちゃいますけど、お姉ちゃんと……あゆちゃんに、ありがとうって言っておいてください』
あゆ? どういうことだよ!? おい、栞?
『本当に……ありがとうございます』
それ以降、声は聞こえなくなってしまった。
ただ、これが栞の最後のお別れだということだけは……分かってしまった。
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