This is a pen.







/くらき夜、君を

 見上げる月は白く。深い藍色の海の中にぷかぷかと浮かんでいる。
雲はない。
 散りばめられた星達が、何光年もの時を経て微かな輝きを地上に届けていた。
 さわさわと冬の名残をはらみながら吹く風は、風呂上りの火照った体に心地よい。
「祐一」
 自室のベランダの手すりに寄りかかり、ぼんやりとしていた俺の背に聞きなれた声が掛けられた。
 振り返ると、やはり見慣れた従兄妹の少女が俺の部屋のドアから顔をのぞかせていた。
「お風呂から上がったばっかりでしょ?まだ風は冷たいから風邪ひいちゃうよ」
 眠そうな目をこすりながらも、心配そうに名雪は首をかしげた。
「あぁ、そうだな」
 適当に返事をして、また視点を外の世界へと向けた。
 この付近も以前に比べ、だんだんと明るくなってきている気がする。
 その、さらに奥。
 光の届かない闇のカーテンに覆われた先に、小さな丘がある。
 ある、といっても暗い夜の中ではその姿を確認することは不可能だった。
 背後で小さくため息をつく音が聞こえた。
「また、見てるの?」
 呆れや悲しみ、不安、心配。いくつかの感情を含んだ声。
「ん〜、暗くて見えないけど、な」
 名雪は、何を、とは聞かなかった。
 俺が今日だけでなく、時間があるとき度々こんな風に外を眺めていることを彼女は知っている。
「もう、一年も経つんだね……」
「ん?」
「あの子がいなくなってから」
「……あぁ」
 
 一年。
 真琴が夕焼けの空に消えてから、もう一年が過ぎていた。
 当時、高2だった俺は先日高校を卒業し、この町にある大学にも合格し、あとは入学式を待つだけだった。
 ちなみに、これを機に水瀬家を出て一人暮らしをする計画を立ててみたが、俺の料理を代表する家事スキルのなさを理由に、両親はおろか、秋子さんや名雪にまで反対を受け、結局今まで通りこの家から大学に通うことになっていた。
 ふわ、と甘い香りが漂う。
 いつの間にか名雪が俺の隣に立っていた。
 友達より幾分近く恋人よりは遠い二人の距離。
 これが、家族の距離なのかもしれない。
 そんなことを、ぼんやりと考えてみたりする。
 ふぁ、と小さなあくびをしてベランダの手すりにおれと同じように寄りかかり、少し垂れた大きな目で闇の向こうを見詰めていた。
 やさしい表情で名雪はいつの日に思いをはせているのだろうか?
「ほんとはね」
 小さな声。
 しかし、この距離からならちゃんと聞きとれた。
「わたし、最初はあの子のことあんまり好きじゃなかった」
 あはは、と力なく笑い目を伏せた。
 俺は何も言わず、ただ一点を見つめる。
 体が冷えてきたのか、風が冷たく感じた。
「祐一が取られちゃいそうな気がして。そんなのわたしの我が侭でしかないのに、なんだか嫌だな、って思っちゃって。」
 茫洋とした空に、声が溶けていく。
 目を閉じると、真琴がいた日々がパノラマのように過ぎっていく。
 まだ、1年前の出来事なのに、何だかもう何年も前のことのような気がした。

「でもね」
 名雪の少し高くなった声に、そっと目を開けた。
 相変わらず、そこには夜がある。
「でも、わたし真琴のこと嫌いでもなかった。毎日が騒がしくて、でもその騒がしさが妙に心地よくて。わたしとお母さんだけだったらあんなに賑やかじゃなかったから、もしわたしに妹がいたらこんな感じなのかなぁ、って思えてきたんだよ」
「妹、か」
 名雪は抜けているところもあるけれど、しっかりとしているところはあるし、世話好きのようなところもあるので、真琴の姉というのはピッタリのような気がした。
「今ならね、わたし真琴ともっと仲良くできる気がするの。二人で買い物に行ったり、一緒に料理を作ったり。もっと、もっと笑いあえるような気が、するんだよ」
 名雪は笑う。
 少しだけ自重をはらんだ小さな声で。
「でも、もう、遅いよね。真琴は、もう、いなくなっちゃった」
「まだ、戻ってくるかもしれないぞ」
 名雪に、というよりは自分自身に言い聞かせるように。
 意識的に強くこぼした言葉は、夜天に空々しく響いた。
 悔しさに似た苦く、熱いものがこみ上げて、感情のままに言葉が紡がれる。
「たとえば、そうたとえば神様の奇跡が起こったりして、真琴がまた戻ってくる可能性だって、ある、だろ……」
 言葉にして、激しい後悔が襲う。
 自分の耳に届いた、奇跡という言葉のあまりの空虚さに、愕然とした。
 自分の無力さを、突きつけられた気がした。
 自分で言ったことなのにな、と思わず乾いた笑いが漏れそうになった。
 それをどうにか飲みこみ、苦々しく唇をゆがめた。
 名雪はぼんやりと暗幕を見透かしている。
 ――奇跡、か。
 呟きが聞こえた。 
「祐一は」
 本当に名雪の声なのか疑いたくなるような、低く、冷たい声に体が小さく、ふるえた。
「祐一は、奇跡を起こせるの?」
 果たして、それは、本当に質しているつもりだったのか。
 どちらにせよ、俺には答えることはできなかった。
 名雪は、はは、と冷たく笑う。
 そして、答えを待つことなく踵を返した。
 長い髪が、甘い匂いとともに、翻る。
「風邪、ひかないようにね。……おやすみ」
「……おやすみ」
 どうにか答えを返す。
 その声が聞こえていたのかどうかは分からないが、背後でパタンとドアがしまる音がした。
 一人になると再び静かな世界に包まれる。
 じっと、視線だけで闇夜を穿つ。
 闇の先。
 ものみの丘が物言わず、ひっそりと眠っている。
 夜が、明ければ、そこは騒々しさに包まれるだろう。
 そこでは、去年の夏ごろから工事が始まっていた。
 あの丘に、介護施設が建つらしい。
 結構大きな施設らしく、木々はほとんどすべて切られていた。
 大地も削られ、平らかにされていて、無骨な鉄筋が居座っている。
 もう、昔のような緑にあふれた丘は見る影もなかった。
 その有様が頭に浮かび、見えてもいなかったのに俺は眼を伏せた。
 それが、真琴の件にどう関係するのかなんてわかるはずもない。
 ただ、あの工事の終わりが、物語の終止符をも同時に打つのではないか、と漠然と思っている。
 多分、その終わりはハッピーエンドではない。
 俺は結局、ただの無力な人間で。
 奇跡なんて起こせない、起こせるはずもない。

 きっと、神様なんていない。
 世界に運命はなく、圧倒的な現実だけがそこにはある。
「まこと……」
 呟きは、稚拙に震えた。
 静寂を抱いて、夜は横たわる。
 夜明けは、まだ、遠い。





/らせんは、断ち切られる

 不意に立ち止まる。目の端にとまった一本の桜の木。
 まだ若いのか、細い幹と枝を精一杯空に伸ばしている。
 薄桃の蕾をつけて春の到来を今か今かと待ちわびているようだ。
 私の心に浮かぶのは二つの笑顔。
 人に話したところできっと信じてはもらえないだろう、二人のキツネの女の子。
 “あの子”と過ごした日々はとても楽しかった。
 当時まだ幼かったことも、突然の別れも手伝って思い出のほとんどが色あせて、悲しさをもたらすものになっているけれど、それでも楽しかった。幸せだった。
 そう、今は胸を張って言える。
 真琴と過ごした日々も。
 短かったけれど、それでも十分楽しかった。

 真琴がいなくなってしまったことは私にもショックを少なからず与えたけれど、目まぐるしく変わっていく日々の中でゆっくりと癒されていった。
 いつの間にか、私は少しだけ強くなっていた。
 “あの子”がいなくなって以来、自らの殻にこもって無為な時間をただ過ごしていた私だったけれど、真琴と、相沢さんに会えて変わることができたように思う。
 まだ人と比べたら無愛想で無口の類に入るのだろうけれど。
 以前の私と比べれば、それなりの進歩といえるほど感情を表に出せるようになったし、クラスにも友人が数人だけどできた。
 私は相沢さんと真琴に強さをもらった。
 大切な人との別れに、ちょっとだけ気持ちの整理をつけることができるようになるくらいの、小さな強さ。だけど私にとってそれは救いといえた。
 “あの子”が弱っていく様子に怯え、何もできず逃げた私と違い、相沢さんは最後まで抗い、そして最後は受け入れた。
 結末は、確かに悲しいものなのかもしれない。
 でも、それが全てじゃない。
 悲しいだけじゃない何かが、あったように思う。
 あの子たちが悲しさだけを残していったわけじゃないと、私は信じたい。
 いや、信じている。
 だって、私の胸に宿る温かいけど、どこか切ない仄かな感情は、きっと。
 真琴が私に託してくれたものなのかもしれない、と思うから。
 私の中でチロチロと燃える小さな狐火。
 彼のことを考える度にそれは優しく、けれど少しだけ激しく燃え上がる。
 次第に大きくなって、いつか私を飲み込んでしまうんじゃないかと、不安にさえなってしまう時がある。
 この年で、初恋、なんて。
 恥ずかしすぎて、笑えてしまう。
 はふ、と我ながら変な溜息をついて、桜色の考えを振り払った。
 
 ものみの丘の工事。あそこが変わってしまったら真琴は、きっともう、戻ってこない。
 もとより、ものみの丘があり続けたとして、彼女は帰ってこなかっただろう。
 私の胸の中に託されたものは、淡い灯火だけでないようで、私はそう確信していた。
 だけど、私はそれほどそれを悲しいと思っていなかった。
 勿論真琴ともう会えないのは辛く悲しいことだけど、私は受け入れることができていた。
 真琴と“あの子”は確かに私の中に今でも生きている。
 古臭くて、綺麗ごとかも知れない。
 小説や漫画じゃあるまいしそんな気休め、なんて自分でも時々恥ずかしくなる。
 あまりにも俗っぽく、空想じみて幼稚なその考えを、それでも私は、そう信じて疑わない。
 これはきっと。
 私に降り注いだ奇跡なのだ。
 あの子たちが、私に、奇跡をくれた。
 相沢さんはどうだろうか?
 今も、真琴を待ち続けている相沢さん。
 彼もきっと、この工事が本当の終わりを告げるものだと感じているだろう。
 相沢さんは、それを受け入れることができるだろうか。
 もし、受け入れることができず、いつかの私のようになってしまうのなら―――
 風が吹いた。
 件の丘がある方角から、穏やかになぐ。
 薄桃をつけた枝が手を振っている。
 私の肩先まで延びた髪と戯れる風に、右手で髪を抑えながら、私は眼を細めた。
 私の中から声がした。
 風に乗って私の耳だけを目指して。
「ええ。わかって、いますよ―――真琴」
 私ができること。
 少ないかもしれない。迷惑かも知れない。
 もしかしたら、一つもないのかもしれない。
 でも、少しでもいいから彼の支えになりたい。

 例え、二人は心の中に云々といっても、別れには違いなくて。
 それは、悲しいけれど。辛いけれど。寂しいけれど。
 今は、それに浸っているべきではないはずだから。
 トクンとひときわ大きく胸が鳴り、そっと胸に手を当てる。
 鼓動は優しく、力強く、命を紡ぐ。
 もしかしたら。
 私は、今、微笑えているのかもしれない。
 




/なくした物の大きさに

 昼はあれほど暖かかったのに、夜になるとやはり少し肌寒かった。
 俺は一人、緩やかな坂を登る。
 夜の闇にぼんやりと、それは立っていた。
 緑に富んだものみの丘の姿は、もはや、見る影もない。
 建物を設えたら、緑樹を植えるのだろうが、輝くことに疲れた金属が眠っているだけだった。
 仕方のないことだ、と思う。
 人がよりよい生活を求めれば、どうしても自然を犠牲にしなければならない。
 何かを失わなければ、きっと何も得ることができないのだろうから。
 人も、自然も、町も。
 大なり小なり、全て、変わり続けていく。
 この静かな、雪の降る町も、例外ではない。
 ここに建つ施設を待っている人もいる。
 誰かにとっての不幸も、それがより強く、より多くの人の幸せにつながることならそれは“善いこと”になる。
 きっとこれが、一つの形なのだろう。

 ものみの丘がなくなる、という表現は一般には間違っているのかもしれない。
 ただ、姿を変えるだけ。
 でも、ここまで変わってしまったら、俺にとってはなくなったと同義だった。
 もう此処がなくなったら、真琴は帰ってこない。
 根拠なんてない。
 もしかしたら、俺自身がそう考えたいと思っているのかもしれない。
 つまりは。
 ―――もう、待つことに疲れてしまっているのかもしれなかった。
 今日、ここに来たことも、真琴とのことにひとつのけじめをつけたかったからだ。
 すべてはこの丘で始まり、この丘で終わる。
 そして俺は、新しい学校と仲間たちと、新しい生活を始める。
 一つの物語の終わりには、ちょうどいい頃合いに思えた。
 悲しいけれど、何よりも悔しいけれど、もうこれで……。
 


 唐突に。


 
 一陣の風が、強く、吹き付けた。



 むき出しになった大地から砂埃を巻き上げ、俺に絡みつく。



「くっ……」
 すぐにその気まぐれな風はやみ、俺は目をごしごしと吹きながら、かすむ目を開いた。
 はらり、と舞う何かを、涙にぼやける視界にとらえた。
「あ、あれは……」
 反射的に駆けだしていた。
 俺を誘うかのように、ゆらり、ゆらりと踊る一枚の布。
 呆然としながらも、半ば自動的に手を伸ばしつかんだ。
 土埃に塗れて、薄汚れてしまっているそれは。
 以前のような白く美しい姿をすっかり失ってしまっているものの、それは正しく、真琴と過ごした最後の日に使ったベールだった。
「な……ん」
 戸惑いの言葉は、うまく声にならない。
 このベールが風にさらわれて、既に一年が過ぎた。
 その間に工事も行われているし、台風だってきた。
 それが、俺が偶然やってきたときに、偶然俺が気づくような場所へ飛んできた。
 いくつもの偶然が重なって、今俺の手に確かに、ある。
 それはもはや、単に偶然と呼ぶには薄ら寒くなるほどの確率だった。
 これでは、まるで―――
「……奇跡」
 薄ら寒い感覚に背筋がぞっと冷える。
 望んでいたものとは明らかに違うソレ。
 こんなものを、奇跡と呼べというのだろうか。
 もし神様とやらが、本当に存在するのならば。
 一体、俺が何をしたというのだろうか。
 それとも、これで救いを与えたつもりでいるのか。
 これで俺に満足しろというのか。
 こんな薄汚れた布一枚が。

 ―――こんなものが、物語の結末なのだろうか。

 ふっと力が抜け、地面に膝をつく。
 呆然と空を見上げた。
 あの空の向こう側で、神様は俺を見て嘲笑っているのか、慈愛の笑顔を浮かべて同情しているのか。
「あ、あ、あ、―――――――っ!!!!」
 俺の中に渦巻く感情を、全て吐き出すように月に吠えていた。
 その叫びは、言葉とは呼べず。
 俺を見下ろす天に向けた、凶器であった。
 厚く舞い降りた暗闇に放たれた刃は、喉を切り裂きながら。
 しかし、夜を切り裂くことはなかった。
 濃い群青の空の底は見えず、暁の光を窺い知ることは出来ない。
「―――――っぐ、が、ゴホッ、ゴホッ……うぇ…………」
 やがて、焼けつくような咽の痛みと息苦しさに、涎を垂らしながら、無様に息をつく。
 相変わらず、暗澹たる空に、ただ、浮かぶ月。
 矮小な人間の小さな声なんて、全く興味もなさそうに何も言わず、ただ俺を見つめる。
 気がつけば、俺の心をぐるぐる蠢いていた感情は、叫びと成り全て消え去っていた。
 ただ、如何ばかりかの喪失感と虚無感だけが認識できた。
 心の中に、ぽっかりと穴があいたような、感覚。
 人の悩みや、苦しみなんて、この大空に比べればちっぽけなものだ。
 もはや、常套句のようなものとなったその言葉が頭に過った。
 俺の手はこんなにも小さくて。
 手の中にあったはずのキラキラ輝いていたものが、とめどなく零れ落ちていく。
「は、ははは……」
 誰かの、妙に乾いた笑いが、耳に障る。
 何故なのかは、もう、分らないけれど。
 俺は今、もしかしたら泣いているのかも知れなかった。





/どこにでも、やがてそれは

 鳥のさえずりが聞こえる。
 どうやら私は緊張しているみたいで、開けられた窓から凪ぐ風がやけに心地よい。
 私は、部屋の中央に置かれたテーブルの前に正座して所在なく視線を彷徨わせる。
 殺風景な部屋。
 私の部屋もそうだけど、この部屋はもっと物が少ないように思う。
 男の人の部屋なんて他には知らないけれど、これが普通なのだろうか?
 そこまで考えて、確か以前ここに来た時も同じようなことを考えていたことに気づく。
 やはり、男の人の、それも好意を寄せている人の部屋というものは何度来ても緊張してしまう。
 臭いとかいうことでは決してないけれど、この部屋一帯に部屋の主、相沢さんの匂いが満ちている気がする。
 少しだけ、息を大きく吸ってみたりして……。
「……って、あぅ……」
 何というか。
 私はいま、すっごく恥ずかしいことをしたんじゃなかろうか。
「全く……こんなとこ相沢さんに見られたら……」
 私はこの部屋の窓から飛び降りて死ぬ。
 ……二階の窓から飛び降りたくらいでは、たぶん死ぬ確率は低いだろうけど。
 
 それにしても。
 私が男の人の部屋を訪れるなんて、我ながら大胆というか、なんというか。
 それに、私はもちろん知らなかったけれど、今は相沢さんの叔母さんと従妹の方は外出していて、この家には相沢さんだけだったらしい。
 つまりは、今私たちは二人きりだということだ。
「二人きりって……」
 自分で考えたことだというのに、さらに恥ずかしくなる。
 恥ずかしいけれど。
 何でだろう、頬がゆるんでしまうのを止められなかった。
「あ〜、すまん、すまん。いろいろ探してみたんだが、チョコレートしかなくてさ……って何ニヤけてるんだ?天野」
「っ!い、いえ別に何でも……」
 唐突に部屋のドアをあけ、相沢さんが入ってきた。
 首をかしげながら、ジュースといくつかのチョコレートが乗ったお盆をテーブルに置いて、私の対面に腰をおろした。
 先ほどまで自分がしていたであろうだらしのない顔を想像し、その顔を見られたと思うと、かあっと顔が熱くなった。
 その顔も見られたくないので、慌てて俯いた。
「か、風が……心地よかったもので、つい……」
 実際言い訳なのだけど、言い訳がましい私の言葉に相沢さんは、ああ、と神妙に頷いた。
「まあ、今日はいい天気だしなぁ。なんていったか……小春日和ってやつ?」
「実際の意味は少々違いますが……そうですね、そんな感じです」
 小春日和の本当の意味を説明しようかとも思ったけれど、やめた。
 そんなことをしたら、きっと、おばさんくさいなぁとか言われるに決まっている。
 以前までは特に何ともなかったけれど、最近そう言われると凄く落ち込んでしまうようになっていた。
 日頃から、“今どきの女の子”を意識して行動しているけれど、ほとんど成功せず、かなり頻繁に地が出てしまうので、もう最近は半ば諦めてしまっている。

「にしても、天野が家にくるなんて珍しいな。何かあったのか?」 
 相沢さんはチョコレートを一つ手にとり、包装を解かずくるくると回しながら。
 けれど、視線は私のほうをじぃっと見つめてくる。
「え、えと、特に理由はないんですけど……」
 当然聞かれるであろうと予測していながら、答えに戸惑っていると、ふと違和感に気づいた。
「……って、あれ?相沢さん、なんだか声がおか……変わっていませんか?」
 おかしくありませんか?と聞こうとして、何となく言葉を換えた。
 相沢さんの声は、いつもとさほど違うわけではなくて、それはとても小さな違和感だったけれど、何故かすごく気になった。
「…………ん、そんなことないけどな」
 一瞬よりも少し長い間をおいて、相沢さんは言葉を濁した。
 肯定とも否定ともとれるような言葉に違和感が強まった。
 心の中から、声がする。
「で、ですが……」
「そんなことよりも、っと」
 問いただそうとした言葉を遮り、相沢さんは私に向って手に持っていたチョコレートを軽く放った。
「わ、わっ」
 私が半分まぐれで受け取ると、ナイスキャッチと呟いてカラカラと笑う。
 そして、私の思いっきりいぶかしげな視線に肩をすくめた。
「嫌いか?チョコ」
「いいえ、嫌いでは、ありませんが……」
「ああ、饅頭とか煎餅のほうが良かったか?」
 ははは、とわざとらしく笑っている相沢さんをしばらく見つめ、はあっとこちらもわざとらしくため息をついて見せた。
 いいですけど、と口だけで呟き、チョコレートの包装を解いた。
「いただきます」
「おう、どんどん頂いてくれ」
 口の中に入れたチョコレートは、すぐに溶けて広がった。
 ミルクチョコレートの甘たるい味に、脳がしびれるような気がした。
 美味いか?という相沢さんの問いに、頷きだけで答えた。
 チョコレートが口の中いっぱいに広がっているので、口を開きたくなかった。
 私は、お盆に乗っているオレンジ色の液体の入ったグラスを一つとり、一口含むと相沢さんに気づかれないように最大限の注意を払いながら、一通り口の中をゆすいで飲み込んだ。
 その時、こくんと予想以上に大きく喉が鳴り、慌てて顔を伏せて、目だけでちらりと相沢さんを窺ってみたけれど、特に気にした風はなかった。
 その事にほっとして、自分の行儀のいいとはお世辞にも言えない一連の所作に、また顔が熱く燃える。
 全く、自分でも呆れてしまうくらい心の浮き沈みが激しい。
 まさか自分がこんな事になってしまうなんて、ちょっと前まではちっとも思っていなかった。
 少しだけブルーな気分になって、今日何度目かのめ息を小さくついた。
 私のそんな自分でも挙動不審と思えるような様子に対してか、相沢さんは、はは、と短く笑った。
 そして急に立ち上がると、私のそばを通り過ぎ、部屋の窓の前で立ち止まった。
 振り返ってみても、相沢さんの後姿からは表情はうかがえない。 
 そのまま、相沢さんは何も言わず、唯、窓の外を見つめている。
 私も、何となく体を戻し、テーブルの上にあるチョコレートをいじっていた。
 どのくらい時が過ぎたのか。
 何の会話もないまま時は過ぎ、カラン、とグラスに入れられた氷が音をたてた。
 私にはひどく長く感じられた時間の後、
「もう、満開だな」
「え?」
「いや、桜がさ」
「ああ、もう随分暖かくなりましたからね」
 2〜3日程前からこの北の町の桜も大きく開き、ピークを迎えていた。
 私がここに来る前にも、満開の花を眺めることができた。
 柔らかな日差し。
 もう暫くすれば、それは更に厳しさを増し、じりじりと私たちを焼き付けるようになるだろう。
 その頃には、あの丘もさらに姿を変えているはずだ。
「なぁ、天野」
「はい?」
「奇跡って、信じるか?」
「奇跡……」
 唐突な質問に、私は鸚鵡返しにつぶやいた。
 テレビや本の世界でよく耳にするありふれた言葉。
 心の中で、何かが動いた。
 そっと、胸に手をやり、こくりと頷く。
「信じて、ますよ」
 再び沈黙が訪れる。
 今度は私から、それを破った。
「何だか、驚いているみたいですね」
 相沢さんの表情は見えないけれど、何となくそう思った。
「ん……あぁ、そうかもな。天野は現実主義者っぽいから」
「あら、現実主義者でも奇跡を信じていいと思いますよ。……まぁ、さして私は現実主義者のつもりはありませんが」
「んー、何となく天野は信じてないだろうな、と思っていたんだが。……そうか、意外だ」
「盲目に信じているわけではありませんよ。ただ、信じていたいって思っているだけです」
「何故?」
「何故って言われても、困ります。私だって明確な答えは持っていませんし……それに、これは私たちだけのヒミツのような気がしますから」
「は?何だそれ。私“たち”?」
「ええ、そうです」
「ん?ん?」
 私の答えになっていない答えに相沢さんが混乱したように唸る。
 私は、ちょっとだけ笑みを含んだ声で
「相沢さんは、信じていないのですか?」
「俺は……」
 相沢さんは、それだけ言って口ごもる。
 また沈黙が続くかと思われたけど、すぐに答えは返ってきた。
「どう、だろう……な。わからなくなった」
「わからなくなった、ですか」
「ああ、もうわからなくなってしまった。まだ1年しかたっていないのにな」
 苦笑交じりの声。
 少しだけ、声が震えていた気がしたけれど、気付かないふりをして。
「待つことに疲れましたか?」
 私の意地悪な言葉に、相沢さんは苦笑した。
 くるくるとチョコレートを回す。
「普通はさ、もう会えないような人の事は、忘れなくちゃいけないんだろうな。もちろん全てを忘れるわけじゃない。ただ、ある程度のけじめをつけて、もう過去のことだと割り切らないといけない。冷たいかもしれないけど、これが普通なんだよな」
「……そう、ですね」
 過るのは、少し前までの自分の姿。
 過去に囚われ、一歩も歩こうとしなかった。
 けれど、残酷な時間の波にさらわれ、溺れながらも無理やり泳がされる。
 気がつけば、自分だけが時間の流れに取り残されて、ぽつんと真っ暗な海を漂っていた。
「けじめ、つけつもりなんだがなぁ」
 相沢さんは疲れたようにぼやいた。
「天野の言う通り、待つのはもう疲れたんだ。でも、まだ……諦めきれていない自分もいる。心のどこかで、まだ性懲りもなく奇跡を信じているのかもな」
「……どのみち、相沢さんには待つことしかできません」
「はは、その通りだけど、改めて言われるとキツイなぁ」
「……すみません」
「いや、天野は悪くないさ。……きっと誰も彼も悪くない」
 三度訪れる沈黙。
 重く、暗い幕が私たちの間に降りる。
 場違いな風が、無邪気に私をなでる。
 私は、手にあるチョコレートの包装を解き、目をつむって口の中に入れた。
 甘い。
 甘い。
 甘い。
 だから、きっと。
「突然ですけれど」
 ―――これは、チョコレートが余りにも甘すぎるせい。
「私、相沢さんのこと、好きです」
「……は」
「好き、です」
 何か言いかけた相沢さんを遮って、想いを告げた。
 背中合わせの告白。
 自分が男の人に告白するだけでも吃驚なのに、まさかこんな形になるなんて。
 きっと、神様でさえ予想できなかったに違いない。
「好きって、天野……」
「理由、ですか?」
「いや、あー、まぁ、それもあるが……」
「私と相沢さんは同じような経験をしています。他人に聞かせても到底信じてくれないだろう経験をした2人が出会った。なんだか運命を感じませんか?」
「運命って……」
「ふふ、少し似合いませんかね。私には」
 私は、漸く相沢さんを振り返る。
 丁度相沢さんもこちらを見ていた。
 顔が赤い。
 照れてくれているのだろうか。
 ぱくぱくと口を動かしているけれど、私のほうまで声は届いてきていない。
 対して、私は何だか奇妙なくらい落ち着いていた。
 ただ、鼓動だけは、大きく脈打っている。
 心が灼かれて、焦げていく。
 もう私は、止まれない。
 私の意志だけじゃない、何かが私の口を動かしている。
「私と、一緒に、待ちませんか?」
 それは、多分、意味のない提案。
 何年、何十年待ち続けても叶うことのない願い。
 呪いにも似た、祈り。
「天野……」
「美汐、でいいですよ」
「でも、俺は……」
「返事は、何時でもかまいません。今は美汐と、そう呼んでくれれば、それで。わがままかも知れません、意地が悪いかも知れません。でも、呼んでほしいです。……お願いします」
「……美、汐」
「―――はい」
 言い終わってから、微量の後悔が押し寄せてきたけれど、相沢さんは私の名前を呼んでくれた。
 喜びというよりも、安堵に近い心地。
 私は、ほおを緩めて、応えた。
「―――っ!」
 相沢さんは、何故かさらに顔を赤く染めて、私に背を向けた。
耳が真っ赤になっているのを見つけてなんだか嬉しくなる。
「もう、春だな」
「……ええ、そうですね」
 誤魔化すように言う相沢さんに笑いを噛み殺しながら応える。
 あと数日で短い休みが終わり、私は高校3年に、相沢さんは大学生になる。
 季節が廻る。
 秋に散った葉が再び萌えて、やがて散ると知りながらも花が咲く。
 私の中で、はしゃぐ様な声がする。
「真琴、春が来たぞ。お前が望んだ、春が、来たぞ」
 呟きは風にさらわれて、桃色の花びらとともに、きっとあの場所まで届けばいい。
 私は、またひとつチョコレートを口に含んだ。



感想  home