季節はいつだって巡っていくもの。ただ、なかなか人はそれを感じ取ることができないだけで、流れは待ってくれるはずもなく、気がついたときには同じ季節がまたやってくる。時の流れを感じ取るために四季があるというのなら、ちょうど四つに分けることができるのはできすぎているようにも思える。桜が咲き、蝉が鳴き、葉が紅に染まり、一面が雪景色になる。それだけで一年を分けることができ、前の季節ごとに自分を振り返ることができる。
ただ、そんな風に四つに分けることができるからこそ、時の流れもより早く感じてしまうの事実だ。もうこんな季節かと思ってみたり、早く次の季節が来ないかと思いを馳せていたりするうちに、望んでいた季節も過ぎ去り、コマ送りのように一年は過ぎていってしまう。そうしてまた、同じように今の自分を次の年に振り返ることがあるのだろうか?
ひんやりとした窓の枠を指でなぞるように撫で、窓越しに月を眺めながら、名雪はそんなことを考えていた。
「あれからもう七年も経つんだね、お母さん」
七年。
口にするだけで、はたしてどれほどの時間の長さだったのか。
忙しく過ごしている人はそれだけ早く時の流れを感じているんだろうか。それとも凝縮されたものとして長く感じているんだろうか。だとしたら、何もない人生だとしたらどう感じるのだろうか。それは、人の数ほど答えのある問いだ。
少なくとも、名雪にとってはこの七年は長く感じられた。何かを追いかけて走り続けるよりは、ずっと同じところで待ち続けているほうが長く感じるものなんだと、名雪は思う。
「そうね、もう七年。早いものね」
ソファーに腰掛けたままの秋子は、持っているコーヒーカップをテーブルに置くと、名雪の問いに一呼吸おいてそう答えた。
早いものね。そうは言ったものの、その言葉の中には二つの感情が入り混じっているように、名雪は感じた。女手一つで自分を育て上げてくれた人だ。時の流れをゆっくりと振り返るような暇は、そうそうなかっただろう。ただ、この家は二人で住むには広すぎる。「祐一がいなくなってから、やっぱり寂しくなっちゃったね」
その名前を聞いて、秋子はゆっくりと瞳を閉じる。そのときに頬に右手をそっと添えるのは、昔から変わらない母の癖だった。
「そうね。祐一さんが居たときは、とてもにぎやかだったものね」
「うん。祐一は意地悪で、いっつも町中引っ張られてたよ」
窓から月を見上げていた名雪は、秋子のほうに振り返って、笑顔でそう答える。
「でもね、祐一はとっても優しかった。とっても優しかったよ」
名雪の言葉は、秋子に対して語りかけるのではなく、彼女自身の過ぎ去った季節に対して語りかけているように聞こえる。その娘の言葉を全て受け止めるかのように、秋子はそうね、とだけ返事をした。
「時の流れは、別れだけを運んでくるわけじゃないわ。新しい出会いだって運んできてくれる。そうでしょう?」
諭すような、秋子の問い。
「うん。だって、もうすぐ祐一に会える。会えるんだよ、お母さん」
また、寒いけれど人のぬくもりを一番感じられる、そんな冬が訪れようとしていた。
Morning Theft
「……詐欺だ」
居候している従兄妹の家のドアを開けて、開口一番祐一は呟いた。両親の海外転勤に反対して従兄妹の家に居候させてもらっているとはいえ、こんな田舎の雪国にまでやってきたのだ。そこに住むことになったのだ。
冬場の異常な寒さに耐えた。その季節の天気予報に傘模様はなく、常に雪だるまが無機質な表情でブラウン管から自分を見つめていた。雪が積れば、冬でも珍しいと思えた日々が懐かしく思える。
朝起きたとしても、ベットから足を出すだけでも勇気がいるような寒気。そのような気候の地域に引っ越してきたはずだった。
なのに、夏場のこの暑さは一体何なのだろう?
最高気温は32℃。これじゃあ元々住んでいた場所と大差ないじゃないか。これがヒートアイランド現象というものなのか?いいや、そんなこと認めない。だって、冬はあんなに寒かったのに、夏場にこんなに暑いんじゃ割に合わないじゃないか。だったらせめて、冬場ももう少し過ごしやすくして欲しかった。
「祐一くん、どうしたの?元気なさそうだよ?」
あゆと二人で歩く商店街。とりあえず二人で出かければ、まずはここにたどり着いてしまう。これも本能のようなものか。とりあえず、この商店街を二人で歩いているときは、理屈抜きで楽しい時間だと祐一も感じることができるし、あゆも同じ気持ちなのだろう。彼女の笑顔も絶えなかった。
祐一は、あゆのことが好きだ。あゆも祐一のことが好きだ。まだ雪が積る季節に確かめ合った気持ちは、今でも変わらない。だから、こうして一緒にいられるだけで、見慣れた商店街だっていつだって新鮮に感じられるのだ。もちろん、そんなことは恥ずかしくて口に出すことはできないが。
祐一の隣を歩くあゆは、大好物のたい焼きを美味しそうに食べている。たい焼きを食べているときのあゆは本当に幸せそのものといったような表情を見せるが、これだけ暑いのによくそんなものをパクパクと食べられるな……と、祐一は呆れ半分で思った。これが甘いものに対する女の子パワーというものなのか?よくわからんぞ。
「お前、よくそんなにたい焼き食えるな。このクソ暑いのに」
「うん。ボク、たい焼き好きだもん」
「答えになってねぇ」
「そうかなぁ?」
そんな風に答えると、また袋から新しいたい焼きを一匹取り出す。蒸し暑い夏の空めがけて泳ぎだしそうなほどホカホカのたい焼きだ。見るだけで汗をかくぞ。
「ボク、たい焼き好きだから」
取り出したたい焼きを手に取ったまま、あゆが口にする。笑顔だったさっきまでと違って、どこか寂しそうな声だった。
「それはさっきも聞いたぞ」
「うん。だからね、たくさん食べたいなー……って。それでね、祐一くんと一緒にいたい。商店街を歩くだけだっていい。喫茶店でお喋りしてるだけだっていい。祐一くんのそばいられたら、ボクはそれで幸せだから」
「あゆ……」
急にそんなことを言われて、なんだか祐一は嬉しいやら恥ずかしいやら、こそばゆい気持ちになった。自分もあゆのことは好きだと……思っている。でも、ここまでストレートに言われるとだな、どう言っていいか、いや、ここは自分も素直に返すことが一番気持ちに応えるわけで……
そんな風にしどろもどろに脳内討議をしている祐一の背中に、予想だにしていなかった一撃が走る。口元から声が漏れても、ずっこける前になんとか踏みとどまった。
そういえば、聞き覚えのある声で自分の名前を呼ばれたような気が……。隣にいたあゆはいきなりの事態に驚きながらも、事態を把握してからは苦笑いを浮かべていた。
「真琴……」
踏ん張った体勢のままゆっくりと振り返ると、予想外だったというような表情の居候の顔が見えた。初めは満足そうな笑顔を初めに浮かべていたようだが、自分が踏みとどまった事がおきに召さなかったようで、
「あれ〜、美汐、ちょっと失敗しちゃった」
「そうですね、もう少し角度を上のほうに調節して体当たりすれば、相沢さんを転倒させることも可能だったと思います」
聞き覚えのある声がもう一つ。間違いない、この歳不相応に落ち着き払った声は天野美汐嬢のものだ。友人兼お目付け役となって多少は真琴のお転婆を抑制してくれるかと思えば、一緒になって祐一を転ばせるための分析なんかしている。
「えへへ、失敗失敗」
失敗失敗じゃねぇ!!祐一はイライラを溜め込んだまま振り返る。
「いきなり突っ込んでくるな!!」
「いきなりじゃないと、不意打ちにならないもんね〜!!」
期待とは正反対の答えを返す真琴。それでもひじょ〜に満足そうな笑顔に、祐一は先ほどの突撃以上の反撃の念をこめてゲンコツを一発お見舞いした。祐一の隣にいたあゆが、痛そうと感想を述べる。
「いった〜い!!なにすんのよぅ!!」
「それはこっちの台詞だ!!」
わ〜んと泣きまねをしながら、真琴は美汐の陰に隠れる。
「相沢さん、暴力はいけないことですよ。真琴の自由な感性を無理やりに押さえ込むことはよくありません」
仕方なさそうに言った美汐の後ろでは、顔をのぞかせた真琴が祐一に向かって、あっかんべー……と小ばかにしたような態度をとっている。
「これは暴力ではない、愛のムチだ!!」
「愛のムチ……だ、そうですよ。真琴」
「ちがうもん!!真琴、ムチなんていらないもん!!祐一なんてきら〜い!!」
あう、あう、あう〜っ!!と鳴き声が聞こえてきそうな勢いで、真琴は反論する。まったく、いつになったら落ち着きというものを覚えるんだか……
「真琴さん」
祐一が半ば呆れ果てていると、隣にいたあゆが口を開いた。あゆと真琴は面識はあるが、直接の交流はほとんどない。さっきみたいなタックルを祐一にかましてくるくせに、人見知りはまだまだ直らないようだった。
祐一の予想にたがわず、あゆに声をかけられた真琴は、さっきまでのハイテンションはどこへやら、縮こまった様子で小さく返事をした。
「はい、たい焼き」
ニコニコ顔のあゆが、紙袋の中からたい焼きを一つ取り出して、真琴に差し出す。
「くれるの?」
「うん」
「あ、ありがとう」
さっきよりは明るい声で、真琴はあゆにお礼を言った。多少ぎこちない返事ではあるが、浮かべた笑顔は本物のようだ。
「おいし〜い」
手渡されたたい焼きを一口食べると、その笑顔は満面のものへと変わる。
「おい、あれ餌付けされてないか?」
「真琴の将来が心配ですね……」
その様子を見ながら、祐一と美汐がつぶやく。ふっとささやかな微笑を含めて。
結局みんな知っているのだ。真琴が、ただ素直になれていないというということに。そのことは近くにいる祐一や美汐だけでなく、あゆだって気がついている。少しずつでも、真琴がその壁を取り払おうとしているのを手助けするように、手を差し伸べているように祐一には見えた。
ふと、真琴と一緒にたい焼きを美味しそうに食べているあゆの横顔に、一瞬影が差したようにみえた。気のせいだろうか、祐一にはその後のあゆの笑顔が、まるで強がっているように見えるのは。
その笑顔のまま、あゆが振り返る。
「ごめんね、祐一くん。ボク、ちょっと急に用事を思い出しちゃって」
「あゆ……」
「ごめん、本当にごめんね。またお家に遊びに行くから、今日はボク帰るね」
祐一がどうかしたのかと聞こうとすると、あゆは真琴と美汐に小さく挨拶だけ済ませて駆け出していってしまう。
「あゆのやつ、一体どうしたんだ」
あの、強がったような笑顔。いつも見せる天真爛漫な表情と同じなのに、祐一にはまったく違うものに見えた。一体急に何があったのか、聞き出すべきだったんだろうか?そんな風に悩み始めたころには、あゆの姿は商店街の人ごみにまぎれて見えなくなっていた。
辺りを見回せば、すっかり日は落ちて真っ暗になっていた。日の高い夏日といっても、午後の八時を回れば太陽だって眠くなるものらしい。
「栞ちゃん、快方に向かってるみたいで良かったな」
隣を歩いているクラスメイト、北川潤が、そう声をかけてくる。うん、と短く返事を返す。
病院からの帰り道。長い長い、街頭に照らし出された並木道を二人で歩く。検査入院ということで妹を送っていったのだが、一通り検査の終わったあと、妹の栞と、クラスメイトの北川くんと、何気ない話をしているだけでいつの間にか面会時間は終わりを告げてしまっていた。
『あの子、何のために生まれてきたの……』
あの日、潤に伝えた言葉を思う。
「憶えてる?夜の学校で栞のこと話した日のこと」
「もちろん、忘れるわけないだろ」
「北川くんに話して、あたし、本当によかったと思ってる」
冬の冷え込みも忘れてしまったかのような夏の星空を見上げて、香里が言った。急にそんなことを言われてなんだか照れくさくなってしまった潤は、照れ隠しに笑って頭をかく。
「思いっきり引っ叩かれたけどな」
う……と香里の声。
「あ、あの時は悪かったと思ってるわよ」
反射的というか、あの時は自分も制御がきかなかった。
『あの子、何のために生まれてきたの……』
そう告げられて、潤は一瞬戸惑った。どうして、彼女はこんなことを言うんだろう、と。自分の胸の中で、見ているほうの胸が苦しくなるほど涙を流す香里を見て、すぐに気がついた。
だから、言わなければいけない。言わなければ、取り返しのつかないことになってしまうから。自分はきっと、伝えなかったことを一生後悔しなければいけなくなってしまうから。だから、口にする。
『何のために生まれてきたの、なんて、言うなよ』
その声も、悲しみに満ちていた。
ハッとして見上げた香里の目には、悲しみににじむ潤の顔があった。自分の涙のせいでにじんでいるんじゃない。潤だって、必死に涙を堪えている。
『そんな風に考るなよ。何のために栞ちゃんが生まれたかなんて、オレ達は決められない。栞ちゃん自身が決めるんだ。それなのにこんな事してたら、本当に栞ちゃんの生まれてきた意味を奪っちまうぞ』
そんなことわかってる。だから聞きたくないと香里は声を上げる。でも、潤は言葉を紡ぎ続けた。
『栞ちゃんは言ってたよ。お姉ちゃんはわたしの自慢のお姉ちゃんなんですって。オレにな、聞かせてくれたんだよ。優しいところ、ちょっと澄ましたところ、でも、いつも助けてくれる……美人で頼りになるお姉ちゃんだって。そして、ときどき寂しそうな目で、自分の病気のせいで迷惑をかけてるって。その事だって、笑顔で言ってた』
栞……栞……栞……妹の笑顔が、何度も蘇っては消えていく。その笑顔を本当に消そうとしているのは、他ならぬ自分なのに。
『栞ちゃんは待ってるんだ。美坂のこと、信じて待ってる。二人とも本当にお互いが大切だから……全然、強がる必要なんかないんだ。些細なすれ違いから引き返せなくなってるだけなんだよ』
些細なすれ違い。本当に自分のしてきたことはそれで許されるのだろうか。命の尽きかけている妹を無視して、自分の心を守ることだけを考えて。
『だから美坂、お前は悪くない』
そう言い終わると同時に、乾いた音が雪の降る学校に鳴り響いた。
何で……。
何で、本当に言って欲しかったことを言ってくれるのか。それも、最悪とも最高とも言えるタイミングで。
『あんたに、何が……わかるっていうのよ』
強く言い返すことはできなかった。ただ弱々しく言い返して、逃げるように走って家に帰ったことを、香里は憶えている。
あの時、誰かに背中を押して欲しかったんだ。栞ともう一度話をして、仲のいい姉妹に戻って。ゆっくりと、力強く、それでいて優しく……そんな風に、彼は背中を押してくれたじゃないか。
「ま、でも終わりよければ全てよし……だろ?」
まるで子供のような笑顔を向けて、潤はそう言った。もしかしてすべて計算づくだったのかと香里は思ったが、いやいや、この男にそんな器用なことができるわけがない。
「そうね、今だから、意地を張ってたのが馬鹿みたいって思えるわ」
夏の夜風が、並木道を通り抜ける。
「北川くん、あたしね……誰にもすがっちゃいけないと思ってた。体の弱い栞の姉として、いつだってあの子のことを守ってあげられるようなお姉ちゃんでいたいって、そう思ってたの」
潤の目には、香里の横顔しか見えない。でもその表情は、どこか吹っ切れたような様子に見える。
「あの時、あの子から逃げてしまったのは、あたしの中の気持ちがはちきれてしまったからだと思う。あなたの言ったとおり、栞のことを大切に思いすぎて、あの子の前で涙を流さないように逃げて。栞がいなくなっても平気なふりをし続けて。ホント、馬鹿みたい」
「美坂は真面目だからなぁ」
「あたし、自分で思ってたよりも強い人間じゃなかった。栞が目の前からいなくなりそうになって、初めて気がついたの。あたしには、誰か支えていてくれる人が必要なんだろうって」
「オレなんか、支えてもらってる人ばっかりだぞ。母さんに、親父に、あと妹たちもたまに飯作ってくれたりするなぁ」
そんな風におどけている潤。その様子はいつもどおりなのだが、香里はなんだか恥ずかしくなってきて、潤から顔が見えないようにうつむきながら歩く。
もし……もしも栞がいなくなってしまったとしても、この人が支えてくれたら自分は生きていけただろうか?たとえどんな痛みが自分を襲ったとしても、この人が変わらない笑顔で接してくれたなら、あたしは生きていけただろうか?
時間はかかったかもしれない。でも、きっと彼がいたのならあたしは大丈夫だったと思う。彼じゃなきゃダメなんだと思う。
きっとあの雪の日から、香里の中で潤の存在は大きくなっていったんだろう。慰めるわけでもなく、何も言わずにいるのでもなく、曲がった想いを正してくれた。自分の弱さを気付かせてくれた人だから。
今はまだ好きなんていえない。でも、あなたに支えられてるって、そう伝えることならできる。それだって、小さなきっかけにできる。
「き、北川くん、あたしね」
そう言って真っ赤な顔を隠しもせず潤のいたほうを振り向くと、そこに彼の姿はなかった。あれ?と探してみると、すぐに見つかった。少し先の街路樹の木の根元に座っている女の子だろうか。彼女にどうやら声をかけているらしい。
お人よしなのは知ってたけど、まさか(香里にとっては精一杯の)気持ちを伝えようとしたときに、その性格をフルに発揮してしまうなんて。しかも、相手は女の子。
ムムム、と、まるで彼女の妹のように膨れるが、複雑なジェラシーを特大のため息で吐き出すと香里も彼のそばに駆け寄っていく。
「どうしたの、北川くん」
座り込んでいた少女は、だいたい中学生くらいだろうか。細かい花柄のワンピースを着ている小柄な女の子だ。手は土で汚れており、地面を掘り返したようなあとがそこかしらにある。その少女の横顔は、どこか思いつめているように見えた。
「この子、探し物をしているんだって」
潤の言葉に、少女はうなずいて返す。言葉は発しなかった。
振り向いた彼女と、目が合う。そのとき、香里は不思議な感覚に襲われた。それは、きっと悲しみ。胸の奥底から湧き上がってくる悲しみが、まるで自分の体の中から溢れてくるように胸を焦がす。そう、彼女と自分は赤の他人ではないような、どこかで繋がっているような感覚。何、何なのだろう、この感覚は。栞を失いかけたときとはまた違う、今まで感じたことのない悲しみ。
それと同じ悲しみを、潤もまた感じていた。香里と同じように、その正体はわからないまま。
「もしよければ、手伝うぜ!!」
「あ、あたしも」
半ば反射的に、二人はそう口にしていた。彼女に手を貸すことで、少しでもこの気持ちを癒すことができるような気がして。
「埋まってるものなのか?」
そこらを見渡せば、人の手で地面を掘り返した後が多数見られる。それを見ればそう聞くのは当然のことで、少女も顔を向けずに頷いた。
「目印みたいなのはあるの?」
「……木の下に、埋めたの。ビンに入った天使の人形」
初めて耳にした彼女の声は、まだ幼さを残しているような声だった。二人には、そう聞こえた。
「よし、木の下だな」
といっても、ここは街路樹。木の下など掃いて捨てるほどある。
「あたし、あっちの方探してみるわ」
香里が丁度少女が背を向けているほうを指差す。
「わかった、オレはそっちのほうを探してみる」
そう言って潤が指差したのは、少女が向いているほうの丁度右手。
潤と香里の言葉が交わされている間も、少女は黙々と地面を掘り続けていた。
「絶対見つけてやるから、安心しとけよ」
潤はその半そでのTシャツから覗かせた細腕で、力瘤を作ったふりをする。
「まったく、女の子相手だと調子いいのね」
「そ、そんなんじゃないって。ほっとけないだけだって」
ジト目で睨む香里に、潤が両手を振って否定する。
「と、とにかく、とっとと探そうぜ。このままじゃ深夜になっちゃうぞ」
そうだ、もう時間は夜の八時を回っているんだった。しかも、街頭だけを頼りに探すのは中々難しい作業だ。
「そうね、あたしたちもできるだけ手伝ってあげるから、早く帰れるようにしましょうね」
香里は優しい微笑みで少女にそう声をかける。そんな彼女の表情は、栞に対して向けているような優しい微笑み。
そんな彼女の優しさに反応するように、少女は二人に顔を向ける。
「……ありがとう」
今までの暗い影に包まれていたような少女の姿から、一瞬だけ光が射したように見えた。そんなこぼれるような微笑だったが、潤も香里もそれで満足だった。
「よーし、宝探しだ!!オレが一番に見つけるぞ!!」
やたらハイテンションにそう叫びだすと、潤は自分の持ち場へと駆け出していく。まったく、と呆れ顔で香里は潤の背中を眺める。
「ほんと、何なのかしらね」
香里は一人つぶやく。
見ず知らずのはずの女の子のことを知っているような気がして、その子が探し物をしているから、もう夜も更け始めている街路樹を三人で穴掘り。自分で考えてみてもおかしな話だ。
それもこれも、きっとさっき感じてしまった気持ちのせいだろう。身も心も屈服させてしまうような感情。さっき感じたのは、そう、悲しみじゃない。これはきっと、愛しみだ。彼女に不思議な魅力があるからなのか、それはわからない。
そんなことを考えていると、その女の子が香里の視線に気がつく。振り向いた彼女と、目が合った。
「ねえ、あなたとあたしって、どこかで会った事あったかしら?」
胸に突っかかる妙な既視感。
その香里の問いに、少女は首を横に振った。
「おい、あったぞ。これじゃないのか?」
しばらくして、離れたところから潤の声が響く。少女は何よりも先にその方向へ向かって駆け出す。香里もそれに続いた。
先で待っていた潤は、なぜかさっきまで持っていなかった大きなシャベルを持っている。彼の捜索した場所は、掘り返した後がそこらじゅうに見える。これは元に戻しておかないと、まず間違いなく怒られるだろう。
ほら、これだよ。と、潤はまだ埋まったままの小瓶をシャベルで指す。少女は間違いないといった風に、一生懸命にその周りを掘り返す。すると、すぐにその小瓶は彼女の手の中に返った。
「よかったな。宝探しはオレが一位決定だな」
潤は相変わらずの子供じみた笑顔で、少女に言う。少女は小瓶を大事そうに抱えたまま頷いた。小瓶は割れている部分もあり、中の人形はかなり痛んでいるようだった。
「あたしが一番何もしてないから最下位ね……と言いたいけど、この宝探しは北川くんの反則負けね」
「な、なに!?」
「だってほら、道具を使ってるもの。そのシャベル、どこから持ってきたのよ」
「いや、あそこから……」
潤の指差す先には小さな物置小屋のような建物が。おそらくこの街路樹の掃除用具などが仕舞ってあるのだろう。しかし、鍵もかけないとは無用心な。
「だいたい、あたしたち女の子相手に道具を使うなんて、卑怯にもほどがあるわ、ね?」
冗談に同意を求めるように、香里は少女に笑顔を向ける。
「な、み、美坂……ひでぇ」
「じょ、冗談よ。何本気で落ち込んでるのよ、もう!!」
肩を落として落ち込む潤。それを真っ赤になって否定する香里。そんな二人のやり取りが面白くて、少女は小瓶を抱いたまま笑った。それはまさしく、歳相応の女の子の笑顔だった。
それにつられて、潤と香里も笑う。
『本当にあり…がとう。ま…たね、……。』
二人の耳に届く、消え入りそうな少女の声。
その声に二人が振り向くと、もう目の前に少女の姿はなくなっていた。
彼女の立っていたところには、小瓶と中に入った天使の人形だけを残して。
「あれ、あの子どこにいったんだ?」
「うそ……さっきまで目の前にいたのに」
どう考えたって、ほんの一瞬でこれだけ見晴らしのいい場所から消え去ることなんてありえない。たとえ夜の闇の中であっても、だ。
香里は、残された小瓶を拾い上げる。中に入った人形もそのまま。
まるで白昼夢から醒めたように、潤と香里はその場所に立ち尽くしていた。
先日は途中で打ち切りになってしまったデートの続きだ。
あの日から一週間、ずっとあゆのことが頭から離れなかった。芽生えた不安は花を咲かせて、なぜか二度とあゆに会えなくなるんじゃないかと、仕舞いにはそんな不安に駆られるようになってしまっていた。まったく、自分でも重症だと思う。
だから、一週間ぶりに会う今日は、思いっきりあゆと楽しむつもりでいた。行き先はいつもの商店街だが、映画もあるしゲームセンターもある。ちょっとした雑貨屋や、洋服店もあるし、隠れた洋食の名店だって、北川と香里に聞いて、今日の日のために発掘しておいた。デートコースも決めている。準備は万端だ。
まずは映画館に向かう。今流行の恋愛映画を見た。リアリストな部分を持つ祐一にとっては多少陳腐であると感じるような内容ではあったが、あゆはそれなりに楽しんでくれたようだ。
そしてランチタイム。商店街の裏道を入って少し歩いたところにある小洒落た洋食店。ここのビーフシチューは絶品だと香里が言っていた。北川の意見は参考にならんが、香里が言うのだから間違いないだろう。
店内に入ると、休日のランチタイムとあってかほとんど満席状態だ。だが運に恵まれたのか、丁度二人分の最後の空席があった。噂のビーフシチューは、学生のランチにしては多少割高だったが値段以上の味だった。
食事の後は、洋服店を見て回った。あゆに似合いそうな服を探したり、互いにちょっと変な帽子を被ったりした。
夏の太陽は仕事熱心だ。冬の彼とは比べ物にならないほど早く出勤して、毎日残業して帰っていく。そんな太陽ももう退社時間。勤務先を去ろうとする彼の背中は、真っ赤に輝く漢の背中のようにも見えるな。
今日はあゆと一日過ごすことができた。あゆもきっと楽しんでくれてたと思う。人通りもまばらになった商店街を二人で歩きながら、祐一はそう思う。
だから、祐一は聞いてみようと思った。何であの時あんなに悲しそうな顔をしていたのか。悲しそうに笑っていたのか。
聞かなければいけない気がした。
「なぁ、あゆ」
「何、祐一くん」
「この前の日曜日にさ、あゆ、途中で帰っただろ」
その言葉を発したときだった。
また、あゆの顔に悲しみの雫が一滴、零れ落ちる。今日は、その悲しみを隠そうとはしなかった。強がる笑顔も見せないで、ただ俯いて、急にその足を止めた。
「あゆ」
もう一度、彼女の名前を呼ぶ。
振り返ると、あゆは夕日を背にして立ち尽くしていた。
「祐一くん、ボク、話さなくちゃいけないことがあるんだ」
「話さなくちゃいけないことって、なんだよ?」
少し祐一の口調が強くなる。それは怒りではなくて、どちらかといえば恐怖。大切な何かを失いたくないという感情。
「いつか、いつかこのときが来ると思ってた。ボクの力も、もう限界にまで来てるから」
「なんだよ、一体何の話なんだよ!!」
このとき?力?祐一に対しての言葉とは思えないその言葉をいくら噛み砕いてみたって、答えを一人で出せるとは到底思えない。
「探し物がね、見つかったんだよ」
「……探し物?」
うん。弱々しく頷くあゆの声が聞こえた。
あゆの探し物。一体何を探していたのか、祐一には思い当たる節は無い。探し物が見つかったからって、何だって言うんだ?こんなに悲しそうな顔をしなければならないようなことなのか?
「祐一くん、明日話したいことがあるんだ」
「聞きたくない」
「うぐぅ……」
困ったときに発する彼女の口癖だけは変わらない。祐一は俯いて、彼女の表情を見ないようにする。本当の悲しい顔で、彼女がその言葉を口にするところを見たくないから。
「でも、ボク待ってるよ。明日の夕方、約束の場所で」
約束の場所?
初めて聞いた言葉、でも、聞いた瞬間に気がついた。自分はその場所を知っている。いや、憶えている。
色々なこと、今まで気にしてもいなかった空白。そういった記憶が、かけていたパズルのピースを手渡されたかのように流れ込んでくる。どこにはめていけばいいのかわからないピースが、流れては消え、流れては消える。
そう、この記憶はちょうど7年前の冬のこと。流れてくるビジョンはどれも大切にすべき思い出ばかり。なぜ、なぜこんな記憶を忘れてしまったのだろう。忘れたままでいられたのだろう。
その中に出てくるのは一人の少女のことばかり。そう、今だって目の前にいるはずの。
彼女のことを問いただしたくて祐一は顔を上げる。でも、もう目の前に彼女の姿はなかった。
結局、あの女の子はどこに行ったのかわからなかった。せっかく見つけた彼女の探し物も、今は香里の手にある。ガラス製の小瓶に入れられて埋められていた天使の人形。だいぶ古いものらしく、羽が片方取れかけていたり、ところどころ汚れがついていたりと、かなり痛んでいた。
幸い香里は裁縫は得意だったので、数日経った日にその人形を修繕しておくことにした。なにかこの人形には、変な感覚を覚える。このまま放っては置けないような、とにかく見捨てておけないのだ。
机に裁縫道具を広げる。裁縫針に糸を通して、ほつれている部分を縫い付けていく。衣服の部分である簡素な白い布は損傷が激しく、なるべく同じ色の生地を使って総取り換えをすることにした。
三十分もすると、ボロボロで見る影もなかった天使の人形は、元の可愛らしくて小さな姿を取り戻していた。
その頭のてっぺんからは天使のわっかと、キーホルダーとしても使えるように長めの紐の輪が伸びていた。
机に突っ伏し、置かれた人形に顔を向ける。裏表のなさそうな屈託のない笑顔は、まるで心に住み着いてしまった彼のよう。そう思い、ため息がこぼれる。
えい、と人形の頬を人差し指でつついてみる。なんて事の無い、布の感触がした。
ふと部屋のドアをたたく音がする。
「お姉ちゃん、入っていい?」
ドア越しに妹の声が聞こえる。
「ええ、いいわよ」
ドアを開けて、パジャマに着替えた栞が姿をみせる。昨日、検査入院を無事に済ませて帰ってきた。医者も驚くような回復速度だったらしく、この細い身体のどこにこんな力があるのだろうと言っていたらしい。病は気からということわざも、いよいよ真実味を帯びてくるものだ。でも、その医者の言葉はこれ以上ないほど、香里やその家族のことを安心させた。栞が消えてしまうかもしれないという恐怖を、一日でも早く忘れさせてくれるから。
だから、こうして笑顔で話せる。
「栞、学校での調子はどう?特に勉強とか」
「わ、いきなり勉強のこと?」
「あら、学校は勉強しに行くところでしょ」
ちょっと意地悪な口調で香里がそういうと、栞はぷくっと顔を膨らませる。どうやらあまり芳しくないようだ。
「いいもん、別に。美汐さんに教えてもらうから」
ちょっと拗ねたような口調で栞はそう口にする。
美汐さんとは、彼女の一つ上の学年……二年生の天野美汐さんのことだろう。実際は同い年なのだが、栞は病欠でもう一度一年生をやり直しなので、彼女は一つ上の学年に上がってしまっている。
栞は、入学式の日に通学したっきり、高校には通っていなかった。入学式の日に持病が悪化し、それ以降通学を許可される日はなかったから。でも、ちょうど入学式の日に隣に座っていた天野さんはそれを覚えていて、復学した彼女と親しくなったというわけだ。
気持ちがすぐに表情に出る栞と、どちらかといえば大人しめな天野さんとの組み合わせは、見ているとコントのようで中々面白い。栞が勝手にボケて、割と辛らつな天野さんの突込みが飛ぶ。そして、栞はいつものようにこう言うのだ。『そんなこという人、嫌いです』と。
「それに、わたしには頭のいいお姉ちゃんもいるし」
「まったく、調子がいいわね」
満面の笑顔で言った栞。妹に頼ってもらえるのは、満更じゃない。今更ながらそう思う。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
少し間を空けて、栞が口を開く。
「なに?」
「お姉ちゃんって、潤さんのこと、好き?」
「え……?」
トクン、と、心臓の鼓動が聞こえた。
栞が彼に好意を寄せているのは知っている。二人が話しているときの様子を見れば、すぐにわかる。彼と話しているときの栞の笑顔は、家族の誰と会話しているときにも見せたことの無いような笑顔だから。いつだって屈託無く笑顔を見せる栞に、恥じらいの色が差しているのが香里にはわかるから。
そして、今この瞬間の彼女の表情だって、そうだから。
「あたしは……」
なんと答えればいいのだろう。好きだという気持ちはわかってる。でも、言葉を詰まらせてしまう。
「わたしは、潤さんが好き」
香里が答える前に、栞が口を開いた。
「誰も来ないはずの中庭に初めて潤さんが来たとき、ただの偶然だと思ったの。でも、それから何度も昼休みに会いに来てくれて、優しくしてくれて、わたしの願いも叶って、まるでドラマみたいだなって。ううん、きっとドラマの中でだって見れないようなハッピーエンド」
瞳を閉じ、一つ一つ振り返る様に栞は言葉を紡ぐ。
「だからね、わたしはもう十分だよ、お姉ちゃん」
そう笑顔で言った栞の言葉は、なんて健気な言葉なのだろう。誰かを好きになって、大好きな姉と他愛ない話ができて、まだ見ぬ未来を夢見る。そんな当たり前を手に入れられただけで、彼女は満足だといっているのだ。
「栞……」
こらえるはずもなく、香里の瞳から涙が一筋零れ落ちる。もうこれ以上落ちてこないように、香里は袖で涙をぬぐう。
なぜ、こんなにも強いんだろうか。なぜ、こんなにも優しいんだろうか。
この子には、もっともっと幸せになってもらいたい。今まで自分が傷つけてきた分も、その優しさと強さの分、自分を傷つけてきた分も。
「ごめんね、お姉ちゃん。わたしずるいよね、こんな事言うなんて」
困ったような笑みを浮かべ、栞が言った。
「わたしね、お姉ちゃんが潤さんの事好きこと知ってるよ。姉妹だもん、見てればわかる。潤さんと話してるときのお姉ちゃん、いつもと違うから」
香里は否定しなかった。自分だって同じように気がついたのだ、栞だって同じように気がつくのも当たり前のことだった。
そして、栞は彼の気持ちが自分の姉に傾いていることにも気がついていた。
同じように『好き』でいてくれているのも、自分のと姉のとではニュアンスが違う。潤の自分への笑顔は、香里が自分に向けてくれる笑顔と同質のもの。
「潤さんも、お姉ちゃんと同じ気持ちなんだよ。わたしと話してるときと違うもん。お姉ちゃんのこと、ちゃんと異性としてみてる。わたしの事はほっとけない妹とか……きっとそんな感じじゃないかな」
いっそ、姉目当てで優しくしてくれる様になってくれれば、どんなに楽になれるだろう。どんなに簡単に諦められるだろう。でも、彼はそんなに器用な人間じゃなかった。本当に下心無く、いつでも味方になってくれた。自分の見えているるところでも、見えていないところでも。
香里に幸せになってもらいたい。潤にも幸せになってもらいたい。でも、諦めたくても諦められない。だから、香里に彼のことが好きだと言ってもらいたい。きっと自分に遠慮するところが無くなれば、二人は結ばれるだろうから。
「だから、お姉ちゃんに言って欲しいの。わたし……あれ、おかしいな」
笑顔のままの栞の瞳から涙が頬を伝う。泣かないで笑っているのは得意になったと思ったのに、もうコントロールが効かない。一度流れ出した涙は、何度拭っても止まることは無かった。
そんな栞を包み込むように、香里はやんわりと抱きしめる。普段とは違う、あの時出会った少女に感じたような、愛しみの気持ちを持って。
そして、優しい声で伝える。
「ありがとう。あたし、北川くんのこと、好きよ」
どの位こうしていただろうか。そんなに長くないような気もするし、ずっとこうしていたような気もする。
栞が泣き止んで落ち着くまでは、香里は栞のことを包んでいてあげた。
「もう、大丈夫だよ」
栞の声が聞こえて、香里は頷く。涙は止まっていたものの、涙の後は残っているし、目は真っ赤になり、泣き腫らした跡が残っていた。
「たくさん泣いて、すっきりしました」
顔を上げた栞は笑顔だった。さっきまでの強がったような笑顔ではなくて、晴れ晴れとした笑顔。
「その、栞……ごめんなさい」
謝罪の言葉を述べる姉に対して、栞はムッと膨れる。
「そう、お姉ちゃんのせいだよ。お姉ちゃんがもっとハッキリしてれば、わたしだってこんなに悩まなくたって済んだんだから」
ビシッと人差し指を突き立ててそう宣言する栞。確かに正論、香里は何も言い返すことができない。
「でも、許してあげなくもないです。これからわたしの言うことをきいてくれれば」
そういった栞は、ニコニコとやたら造形的な笑顔を浮かべる。こういうときの栞は、絶対に何か考えている。香里には嫌な予感をひしひしと感じることができる。
「まず一つ、明日アイスを買ってきてください。超カップのバニラ味を20個です」
「20個!?」
「うん。しかも、全部わたしが食べます」
悪戯好きの小悪魔のように、栞は人差し指を唇に当てて言った。
「もう一つあります」
まだあるのか……香里は思わずため息を漏らす。
「2週間以内に潤さんに告白してください」
「ふぇ!?」
香里の口から思わず間抜けな声が吹き出る。言った栞は相も変わらずニコニコ顔だ。
「ねぇ栞、それはちょっといきなりすぎるんじゃ……」
「二週間以内にお姉ちゃんが告白してなかったら……わたしが告白しちゃいます」
こ、この子は……人の痛いところをうまく突いてくる。
「……ええ、いいわ。やってやる、やってやろうじゃない!!」
なぜか物凄い強気な発言で立ち上がる香里。
「わぁ、それでこそお姉ちゃん」
栞はそれをみて、笑顔でパチパチパチと手を叩いた。なんだか策略に乗せられた気がしないでもない。
「ねぇ、お姉ちゃん。最近何かあった?」
唐突に、栞がそんなことを口にする。
「何かって、あたし何か変わったところある?」
「さっきわたしの事抱いていてくれたときにね、なんだか、その……ちょっとお母さんみたいって思って」
「あたしが……お母さん?」
香里は思わず笑ってしまう。完全に気のせいよ。そう言って、香里は栞の頬をぷにぷにとつついてやった。
約束の場所。
ああ、憶えてる。耳にしたのはあの日が初めてのはずだが、その言葉を聞いた瞬間に、祐一はその場所を知っていることに気がついた。
そして、昨日あゆと別れてから。なぜだろう、急に世界が一瞬にして色を失ってしまったように感じる。
そして、太陽に一瞬照らされてしまっただけで、それだけで感光してしまったフィルムのように、もう二度と色鮮やかな世界は返ってこない……そんな事を、恐怖心として感じるのではなく、確定的な未来としてやって来るような気持ちも、同時に芽生えていた。
帰宅して、名雪と会話を交わす。彼女の姿も、表情も、声色も、何一つ朝と変わるところは無い。ただ、今はまるでスポイトで色素を全て抜き出してしまったかのように、彼女の姿が祐一には灰色に見えるのだ。
名雪の姿も、表情も、声色も、何一つ朝と変わるところは無い。ただ、そのどれ一つにも色彩を感じることができない。まるで、彼女の姿を映写機が映し出しているよう。
秋子も、真琴も、夕食も、この世界も、何もかもが祐一には今までと同じように見ることができなくなってしまっていた。
だから、次に日に学校に行かないことも当然のことだった。もはや行っても意味が無い。その意味を見出すことはできない。ただベッドの上で、今までのことを思い返すだけ。名雪も秋子も、彼のことを起こしにこようとはしなかった。
約束の場所。
それは、学校だ。
あゆと祐一の、二人だけの学校。彼女が約束の場所と口にしたとき、水が湧き出るように蘇った記憶。まるで、思い出さないように鍵をかけていた記憶の箱の鍵を外し、開かれたかのよう。
断片的な記憶が蘇る。
あれはそう、七年前のことだった。祐一がこの雪の降る町に、最後に訪れた年。
そう、この雪の降る町で、祐一は一人の少女に出会った。
出会い方も不思議だった。泣きながら、商店街を歩いていた少女は、涙できっと前が見えなかったのだろう。ただ突っ立っていただけの祐一と衝突した。ある種、運命的な出会いだった。
衝突したせいで、その場に尻餅をつく少女。祐一はそのとき初めて彼女が泣いていることに気が付いたのだが、周りから見ればまるで祐一が彼女を泣かせたかのように映っていた。そう、周囲の視線が突き刺さり、とっさにその女の子の手を引いて逃げ出したんだっけ。
その女の子の名前は……
「あゆあゆ」
苗字も、名前も、あゆ。そういえば、そう冗談を言って初めは泣き止んでもらおうと思ったんだっけ。
なぜ、こんな事を忘れていたんだろう。
なぜ、今になってこんなにも鮮明に思い出せるんだろう。
落ち始めた太陽の光が赤みを増し始める。きっと、その答えを知ることができる。祐一はベッドから地面に降り立つ。
一階に降り、ダイニングに顔を出す。そこには秋子と、名雪と、真琴と、三人で談笑している姿が見える。会話も実に他愛ない内容で、素直に笑顔を見せる真琴も、本当の家族のように見える。
「俺、少し出かけてきます」
話の腰を折ってしまうようだったが、祐一はそう声をかける。
「祐一、どこか行くの?」
「ああ、ちょっとな」
首をかしげる真琴に、祐一は微笑んで返す。
「祐一、行ってらっしゃい」
「祐一さん、気をつけてね」
名雪と秋子は、昨日の朝まで祐一に見せていたような笑顔でそう言った。
「行って来ます」
祐一も、今までと同じような笑顔で返した。
夏になってくる学校は、あの時のように雪は積もっていなかった。代わりに、その周りには雑草が膝丈くらいまで生い茂っていて、雪よりも厄介なんじゃないかと祐一は苦笑した。
学校。そう、約束の場所。二人だけの学校。
7年前の冬、あゆと二人だけで通った学校は、町外れの山にそびえ立つ、その山一番の大木のこと。でも、約束の場所にその大木は昔のようには立っていなかった。根元よりも少し上の部分で切られており、雑草の生い茂った中では埋もれてしまい、知らない人間では見つけることはできないだろう。木の切断面には大きな年輪が刻まれており、以前はどの程度の大木であったかを想像することができる。
祐一は、その大きな学校跡に腰かける。半分以上沈んだ太陽は、真っ赤な夕日を祐一に浴びせ続けている。
それから、祐一はパズルのピースを組み合わせていく。あゆと出会ったときのこと。仲良くなって、何度も一緒に商店街を回ったこと。そして……そうだ、クレーンゲームで取った天使の人形をあゆにプレゼントしたこと。そう、三つの願いを自分が叶えるっていう無茶な約束もしたっけ。たしか、後一個願いが残っていたな。
それで……最後は、ああそうだ。思い出した。あのとき、確か……。
その時、切り株越しに背中に気配を感じた。待っていた、彼女の草を分けて歩む音とともに。
「遅刻だぞ、あゆ」
「もう放課後だよ、祐一くん」
「それもそうか」
立ち上がって振り返る。あゆの姿は、腰の辺りまで伸びきった雑草に隠れている。
「まったく、夏になるとこんなにも雑草が育つんだな」
「ほんとだね。ボク、ここまでくるのに苦労しちゃったよ」
二人で冗談を言って笑いあう。なんだか、それだけでもだいぶ久しぶりなような気がした。
「全部、思い出したよ。あゆ」
そう、全部思い出した。いや、全部気がついた。
この雪の降る町であゆと出会って、昔怪我を治してあげた狐の子と再開して、孤独な少女と一緒に魔物と戦って、不治の病といわれていた少女と出会った。狐の子は人としての生を享受することを許され、孤独だった少女は自分の力を受け入れ強く生きていくことを誓い、不治の病といわれていた少女はその病を克服した。
どれもみな、奇跡の産物だった。
「みんな、俺の観てた夢だったんだな」
「……ごめん、なさい」
あゆは、大粒の涙を拭うこともしない。そう、全てはあゆが祐一に見せていた夢。祐一や、その周囲の人や物を媒介として作り出した、現実世界のカーボンコピー。現実を基にした、悲しくて、楽しい夢。
もう祐一は全て思い出していた。
七年前の冬、祐一が自分の家に帰る日。その最後の日も、二人はこの学校で会う約束をしていた。あゆは決まって夕方になるとこの大木の大枝のところまで上り、そこから町の景色を眺めていた。夕日に照らされた町は、とても綺麗だといって。
そう、最後の日だったからこそ、祐一もあゆと同じ景色を見ておきたかった。高いところが苦手な祐一も、勇気を振り絞ってあゆのいるところまで上り詰める。
二人で並んで見た夕日に照らされる町は、いままで見てきたどんな映画の景色よりも、どんなテレビの景色よりも美しかった。
そして、そんな美しさに二人で見とれていたときに……突風が吹いた。
「あゆ、お前はもう」
「ごめんなさい!!」
まるで泣き叫ぶような声。その後も、あゆの嗚咽だけが残る。
そうだ、わかる。見える。自分が今、どんな状態なのか。そこに見えるはずのない景色が、しっかりと網膜に映し出される。
真っ白なベッドに横たえたからだ。やせ細った腕、足。その腕からは点滴の管や、心電図の配線が、まるで身体の一部であるかのように生えている。自分と同じ顔をした人間は、ただ眠り続けている。これがきっと、七年間の真実なのだろう。俺はきっと、夢をずっと見続けていた、醒めることの無い夢を。
そして、あゆは一緒に木から落ちたあの時……もうこの世から去っていたのだ。自分だけがこうして生き残り、ただ眠り続けている。
「これは、あゆが俺に見せ続けてた夢だったんだな」
沈黙と止まらないあゆの嗚咽が、答えだった。
「あゆ」
優しい声で、祐一はその名前を呼ぶ
「ありがとうな」
そう言って、祐一は強く、強くあゆを抱きしめた。その華奢な身体が壊れてしまわないように。
祐一は心から感謝していた。もう終わってしまっていた自分に、幸せな夢を見せてくれて。そして、傍にいてくれて。
「ボクの力も、もう限界なの。祐一くん」
「俺はお前に会えた。それだけでもう十分だ。だから謝る必要なんて無いんだ」
だんだんと、視界が端のほうからガラスのように砕けていくのが見える。あゆの息遣いも荒く、今日のこのときまで必死にこの夢を維持し続けてきたのだろう。
「そういえば、まだ願いがもう一つ残ってたな」
抱きしめたまま、ふと見たあゆの手に握られていたのは、あの日プレゼントした天使の人形。
「ボク、もう願い事なんて無いよ。こうして祐一くんと夢の中でも過ごすことができた。それでもう十分だよ」
「それでいいのか、あゆの願いはもうないのか?」
ガラス細工のような世界は壊れ、縮小していく。
声を押し殺して泣いていたあゆも、声を上げて祐一に泣きつく。
「もっと、もっと祐一くんと一緒にいたい。もっと笑っていたい。こんな形でお別れなんて、したくない!!したくなよ!!」
「あゆ……っ!!」
祐一も、同じ気持ちだった。祐一も、もう涙を堪えようとはしなかった。
抱きしめているあゆと、口付けを交わす。ただ儚く散っていくこの世界で、二人の絆だけは永遠に残るように。強く、抱きしめあいながら。
真っ暗な世界に落ちていく中、祐一の声が聞こえる。
『あゆ』
『祐一くん、ボク達、また会えるかな?』
『あえるさ、きっと』
『うん』
だから、またな。あゆ
もう、あれから七年が経つ。名雪が高校三年生に上がった春。病室で昏睡状態が続いていた祐一が、ついに息を引き取った日から。植物状態で生きながらえてきた彼の容態が突然急変したらしく、目覚めることなくそのまま行ってしまった。
名雪も覚悟はしていた。きっと目覚めてくれるという希望と、医者の宣告したようにもう目を覚ますことはないという絶望の狭間で、このような結果が訪れるであろうことも。
七年前の冬、祐一が彼の家に帰る前。名雪は彼に自分の気持ちを伝えようとした。大好きだよ、と。小さな雪ウサギを作って、彼が帰ってくることを、家でずっと待っていた。でも、もう伝えることはできなかった。
その七年の間に名雪も新しい恋をした。大学で会った、同い年の、ちょっと意地悪で、でも優しくて、そばにいると安心できる人。
いや、新しい恋とは違う。名雪もそれに気がついている。
たしかに彼はいい人だ。自分も、彼のことを好きだと思っている。でも自分は、今でもまだ彼の背中を追っているのだ。もう戻ってこないから、だから祐一の影を、きっと彼に重ね合わせているのだ。そのことが、罪悪感として名雪の胸に降り積もるときもあった。
だから、名雪は彼の不器用なプロポーズを受けることにした。本当の彼自身を愛する。そして、また祐一を愛するために。
「うん。だって、もうすぐ祐一に会える。会えるんだよ、お母さん」
そういって、名雪は大きくなったおなかを優しく撫でる。彼女の中には新しい命が宿っていた。もう七ヶ月。診断では男の子だと出ている。
愛するという形は違うけれど、名雪は自分の持てる愛情の全てでこの子を育んであげたいと強く思う。自分の母がそうしてくれたように。
マタニティウェアのポケットに入れていた携帯電話が鳴る。着信に表示されているのは、親友の名前。名雪はリビングの端まで来ると、携帯電話を取った。
『名雪、もうこっちに帰ってきた?』
「うん。ついさっきついたところだよ」
聞き慣れた親友の声が、携帯電話越しに聞こえる。名雪は夫の仕事の都合で春から東京で暮らしていたのだが、年末ということで名雪は故郷の雪国に帰ってきていた。
彼女の夫は今日急に入った仕事でまだ東京にいるが、翌日にはこちらに着く予定になっている。
『どう、赤ちゃんの調子は』
「うん、元気だよ。よくお腹の中で動いてる」
『名前は決めてあるの?』
「うん」
名雪は落ち着きのある声で頷く。
「診断では男の子ってでてるから、やっぱり祐一がいいかなって。もちろん、彼にもちゃんと相談してあるよ」
名雪はお腹の子の名前を決めるとき、全て包み隠さず話した。小さな頃好きだった従兄妹の男の子のこと。その子は、結局目を覚ますことなくこの世から去ってしまったこと。だから、今度は母親として彼を愛してあげたいと。かれは、仕方ないなと冗談交じりに言いながらも、それを快諾してくれた。
「で、香里のほうはどうなの?」
『あたしは元気よ。潤も。でも栞が一番元気ね。あれじゃ昔死にかけてたなんて言っても、きっと誰も信じないわ。今日も、天野さんと仲良く二人でお出かけよ』
電話越しの彼女は、いつものように笑顔なのだろう。
「うー、そうじゃなくて、赤ちゃんのこと」
香里が名雪をからかい、名雪が困ったように返す。このやり取りは、今でも変わらない。
『ふふ……うん、こっちも順調よ』
栞との約束どおり、あの後2週間以内に潤に香里は告白した。でも、その告白のかっこ悪いことといったら。今でもその話をされると香里は頭が痛くなる。誰もいない放課後の教室に潤を呼び出して伝えるだけだった。なのに目の前に彼が現れるとしり込みしてしまい、恥ずかしさのあまり顔は真っ赤になり、ぼそぼそとよく聞き取れないような声で呟くばかり。当然、順には伝わらない。結局『あたしはあなたが好きなの!!』と叫んでしまったのだが、声は裏返っている上に、所々噛んでしまっていたらしい。盗み聞きしていた栞に可愛かったと言われてしまった。でも、二人とも同じ気持ちだったと知って嬉しかった。
そのまま順調に交際を続けて、ちょうど去年の夏に晴れて結婚した。二人とも地元から通える大学に進学し、そのまま地元で就職した。そして、ちょうど名雪が妊娠した頃に、香里も同じように子供を授かっていた。
まるで運命のような偶然。それを二人は喜び合った。
「たしか、女の子だったよね」
『ええ、そうよ。医者の診断が間違えてなければだけど』
「名前はもう決めたの」
『もう決めたわ。ううん、ずっと前から決まってたの。女の子だったら、付けてあげたい名前。どうしてかしらね、あたしも潤も、まるでテレパシーみたいに同じ名前が出てきたのよ。不思議なことってあるものね』
「わ、それって……運命だね」
名雪の言葉に、携帯電話から香里の笑い声が返ってくる。
『名雪ったら、まるで栞みたいなこと言うのね』
「で、なんていう名前なの?」
『名前はね……』
祐一くん、ボク達、また会えるかな?
あえるさ、きっと
感想
home