散弾銃の銃口を空に向け、流れゆく風を全身で感じる。銃の重みを肩で支え、グリップの感触を確かめるようにしっかりと握り直した。
 空を見つめたまま、呼吸を整える。またひとつ風が吹き、私の髪を揺らした。
 構えた姿勢を崩さぬように、銃口と視線をゆっくりと下ろす。
 
「ハッ!」

 マイクに向けて勢いよくコール。それに反応し、地面からクレーが射出された。空を舞うターゲットは二つ。
 私は散弾銃をしっかりと構え、その片方に狙いをつける。高速で飛ぶクレーの軌道を追うように上半身を使って銃口を移動。
 視線は右目から銃身上部のリブを真っ直ぐ走り、フロントサイトを越えてクレーの未来位置を――捉えた。
 トリガーを引いた。シアとハンマーの連結が解除される一瞬を指で感じる。そして大きな銃声と反動を伴い、クロームモリブテン鋼製の銃身から散弾が発射された。
 クレーが空中で破砕。ヒットだ。
 しかし喜ぶ暇はない。もう一つのターゲットに銃を向ける。
 クレーは既に一つ目よりも遠ざかっている。素早く照準し――射撃。
 晴れた空に銃声が響く。


落とせない空はない




「香里。一緒に帰ろう?」

 ホームルーム後、椅子から立ったところで名雪に声を掛けられた。
 相沢君の席を見るともうそこはもぬけのカラ。続けて外を見ると久しぶりに良い天気。春はまだまだ遠いけど、こんな日もたまにはないとつまらない。
 少し考えて、名雪に答える。

「あー、ゴメン。今日はあたし部活」
「そっか。残念。一緒に百花屋行こうと思ったんだけど」
「また今度行きましょう。百花屋は逃げないんだから」
「うん。そうだね」

 いつもの屈託のない笑顔を名雪が見せる。
 やれやれ。誘ってくれるのはありがたいけれどね。あなたには他に誘うべき人がいるんじゃないかしら。
 と声に出さずに思った。

「そう言えば香里。何の部活してるんだっけ? わたし、まだ聞いたことないよ」

 二人一緒に教室を出たところで、名雪が訊いてきた。
 
「んー? 気になる?」
「もちろんだよ。友達だもん」
「そ」

 私は右手を銃の形に。向けられた人差し指に目をしばたたかせる名雪。
 そんな彼女にくすりと笑い、

「秘密よ」

 右手の銃で"Bang!"をした。
 


 部室の鍵を開け、入る。
 中には誰もいない。誰も来ない。何故ならここは、私だけの部室だからだ。ロッカーが一つあるだけの、酷く殺風景な部室。
 鞄を下ろして窓を開け、季節外れの穏やかな風をあびながら背伸びを一つ。そしてくるりと振り返る。
 ようこそ、ここはクレー射撃部。部員は一名。部長は私、美坂香里。
 なーんて。そんなの、ありえない。
 クレー射撃は立派なスポーツだし、散弾銃の所持も、恐らく多くの人が想像するよりかは難しいことではないけれど、それでも一部の例外を含めても18歳以上でなければ認められない。
 現役高校二年生の私では、逆立ちしたって資格がない。
 なのに何故、こんなことをしているかと言えば、それには勿論理由があるのだけど。
 この部室だって勝手に使っているだけだ。この学校自体がまだ開校してからさほど経っていないこともあり、部室の数にはまだ余裕がある。そのうち新たな部や同好会が発足すればこの部屋を占拠されてしまう可能性もあるが、とりあえず今のところはその気配もないし、有効活用させてもらっていると言うワケだ。
 さて。一息ついたところで私は部屋の隅のガンロッカーに手を伸ばす。以前は掃除用具入れだったそのガンロッカーの中には、一丁の銃。でもこれはおもちゃだ。こんなところに本物は置いておけない。そこまで非常識ではないのである。
 私はおもむろにそれを手に取り、窓の外に向けて構える。人影がないことは確認済みだ。別に今は悪いことをしているワケではないけれど、こんなところ人に見られたら……なんだか恥ずかしいものね。
 そして私は銃を構えたまま、地面から飛び上がるクレーをイメージし――――バン! よし、ヒット。なんちゃって。
 ここでできることはこの程度。でもこれが結構大事なのである。
 何度かそれをやって感覚を掴んだところで銃をしまった。
 本番はこれからだ。鞄を手に部室を出て、しっかりと鍵を掛けて、昇降口に向かう。
 
 
 
 頭の中で射撃のイメージを繰り返しながら校門を出たところで、足が止まった。
 下校する大勢の生徒達の中で決して目立たない小さな背中。なのにそれは何よりも明確な存在として、一瞬のうちに私の意識を捉えてしまった。……きっとあの子が、こんな場所で私服なんて着ているせいだ。
 私は立ちつくしたまま、まるで逃げるようにうつむいた。そうして歯噛みする。ああくそう、いったい私は何をしているのだろう。私は何も見ていない。そう、私には妹なんていないのだ。だから私はさっさと歩きだせばいいんだ。なのに……。
 ようやく私が顔を上げたとき、あの子の姿はどこかへと消えていた。
 
 
 
 暫くバスに乗り、街から離れた山の麓に私はやってきた。山一面を白く覆った雪は、今日の日差しにも溶ける気配を見せていない。まるでこれからも永久に溶けることがないかのようだと思った。
 白い息を吐きながら少し歩くと、ほどなく小さな屋敷が見えてくる。木々に囲まれた、世界から切り離されたかのような西洋風の屋敷。
 チャイムを押すとすぐに中から扉が開けられて、その人が私を出迎えてくれた。
 
「いらっしゃい。今日は久々の良い天気だ。来ると思っていたよ」
 
 そう言って微笑んだのは、私のお爺様だ。
 母方の祖父にあたる人で、今はこの屋敷でひとり暮らしている。祖母は私が生まれる前に亡くなったそうだ。
 お爺様の温かく力強い笑顔を見て、ようやく私の気持ちも少し晴れた気がした。
 
「こんにちはお爺様。お元気そうで何よりです」
「はっは。まだまだ心配してもらう歳ではないつもりだよ」

 実際はもうとっくに仕事を定年退職しているのだからそんなこともないはずなのだが、お爺様はその言葉通りに依然として若々しく、生命力に満ち溢れていた。背はすらりと高く、身体つきもがっしりしている。更に鼻筋の通った彫りの深い顔立ちは、無数の皺に覆われてもなお絶対的な魅力を放っており、すっかり白くなった髪と口髭を蓄えたその姿はそのまま外国映画に出てきても全然おかしくないくらいだ。
 私が彼を"おじいちゃん"とかではなく、少し気取って"お爺様"なんて呼んでしまうのは、そんなこの人の纏う雰囲気のために他ならない。

「ん? なんだね、私の顔に何かついているかな?」
「あ、いえ。何でもありません」

 そんなお爺様だからきっと大層もてるだろうに、お爺様は厳格なまでに一人の暮らしを続けていた。その理由を私は冗談交じりに何度か聞いたが、そういう時は決まって曖昧にはぐらかすのだ。
 お爺様には、私の周りにいる他の誰とも違う魅力が確かにある。それは彼が私の決して知ることのできない時代を生きたことによる、おとぎ話のようなわくわくするイメージを私に与えているからかもしれない。
 
「天気が良いとは言え外は寒い。さあ、香里。中にお入り」

 お爺様に招かれて部屋にあがる。暖炉のある暖かな部屋だ。パチパチと薪が音を立てている。
 テーブルの上に一丁のライフルが置かれているのに気がついた。お爺様の銃だ。調整中だったのだろうか、簡単な分解がされていた。
 そう。このお爺様こそ、私の射撃の師であり、その道に引っ張り込んだ張本人でもある。
 彼はかつては警視庁に勤務する警察官だった。その頃から射撃、銃器に精通し、お爺様自身は決して語らないが、数々の特殊な任務をこなしたと聞く。今でもその腕は健在で、奥のお爺様の個室に行けば、大切に保管されている沢山のコレクションを見ることができるだろう。
 そんなお爺様がなぜ、法律上は銃を持つ資格のない私に躊躇いなく銃を持たせてくれるのかと言えば、それは彼がそういう人だからなのだろうとしか私には言えないのである。貸しているだけだし何も問題はない、といつもお爺様は笑って言い、母などは呆れ果てているのか、それとももうそんなお爺様に慣れっこなのか、何も言わない。
 恐らく、こういったところにお爺様の魅力の秘密が隠されているのだろうと私は思っている。実際昔からお爺様は上司部下を問わず信頼が厚く、子供の頃に誕生日プレゼントをくれた知らないおじさんが、実は当時の警視総監だったのよなどと後で母に聞かされた日には、たまげるやら妙に納得してしまうやらで、まったく底の見えない人なのである。
 
「冷えただろう。何か飲むかね?」
「お気遣いありがとうございます。でも、日が沈む前に撃たせて貰いたくて」

 お爺様がニヤリとして、
 
「そう言うだろうと思ってね。既に用意はしてある」

 机に立てかけてあった、見慣れた散弾銃用のハードケースを持ち上げた。私はそれを受け取って、銃の重みをずっしりと感じる。

「流石お爺様。何でもお見通しということですか」
「伊達に君達のお爺様をやってはいないということさ。……さて、私はここでこの銃をいじっている。行って好きなように撃つと良い。ひとりでも大丈夫かな?」
「勿論です」
「うむ。何かあったら呼びなさい」


 屋敷の外に、お爺様の管理する射撃場がある。クレー射撃だけでなく、ライフルによる長距離の標的射撃も可能だ。当然、公式に認定された射撃場であり、今は無人だが、時々お爺様の友人などがやって来てここを利用している。
 ケースを開けると、散弾銃が銃身部と機関部の二つに分解されて仕舞われている。
 まずは取り出し、組み立てから。おもちゃとは比べ物にならない本物の質感に緊張を覚える。
 この銃は上下二連式と言う、銃身が上下に二つ寄り添うように並んだ、クレー射撃では最もメジャーな銃だ。銃身とは金属製の細長い筒状の、弾丸の通り道になる部分で、このタイプの銃はそれぞれの銃身から一発づつ散弾を発射できる。メーカーは拳銃でも有名なベレッタ社。木製ストックの流線的なフォルムと、銃身上部に供えられた迫力あるベンチレーテッドリブが私のお気に入り。
 お爺様に習った通り、薬室が空であることをしっかり確認してから各部の動作チェックを始める。
 それにしても、こんなところを学校の友達が見たら一体何と言うかしら。名雪なんかは呑気に「香里、かっこい〜」なんて言ってくれそうだけれど。でもやっぱり普通の女の子がやることじゃないわよねぇ、などとまるで他人事のように思う。
 よし、チェック完了。こんな作業ももう随分慣れてしまった。
 二つの薬室に一発ずつ実包を装填。射台に立ち、ひとつ深呼吸。
 射台の傍にはマイクが立っている。これに向けてコールすると機械が反応し、ランダムな方向にクレーが射出されるという仕組みだ。
 銃を構え、そのまま私は大きく身体を反らして空を仰いだ。銃口が天を向き、青い空に浮かぶ雲を捉える。そうして私は心を落ち着け、緩やかな風の流れを感じる。それからゆっくりと銃口と視線を落とし、前方に狙いを定める。
 お爺様はこの動作を"空を落とす"と呼んでいる。射撃前の儀式のようなものだ。集中力を高め、目をその時の日光の具合に慣らしたり、遠くを見ることで目の焦点を標的に合わせ易くする等の効果がある……らしい。正直あまり実感できない。まだまだ私のレベルがその域に達していないということだろう。それでもお爺様が銃を構えた時に欠かさないこの動作を、私は昔から見様見真似で続けていた。
 短く息を吸い、

「ハッ」

 マイクに向けてコール。
 同時に二枚のクレーが射出された。構えた銃には二発の装弾。二枚のクレーに対し一発ずつ撃ち、命中した枚数を競うダブルトラップという種目である。一発目を初矢、二発目を二の矢と言う。
 射出されるクレーが一枚だけで、初矢を外しても二の矢を当てれば得点となるトラップよりもシビアなルールと言えるが、私はずっとこのダブルトラップにこだわっていた。
 飛び去るクレーの片方に狙いをつけ、初矢を放つ。銃声。激しい反動を全身で受け止めつつ、空中でクレーが弾けたのを確認した。イメージ通り。
 息つく間もなく次のターゲットを狙う。二の矢を――そこでどうしてか、校門で見たあの子の姿が脳裏に――撃った。
 乾いた銃声だけが空に吸い込まれた。クレーは酷くゆっくりと飛び続け、やがて落下した。



 後片付けを終えた頃には、もうすっかり日が落ちてしまっていた。気温も冷え込んできて、指先が少しかじかむ。
 私が部屋に戻ると、お爺様は温かい紅茶を淹れて待っていてくれた。
 銃を仕舞ったケースをお爺様に返す。
 
「調子はどうだね」

 お爺様が訊いた。私は正直に、
 
「二の矢が全然当たらなくて」

 と答えた。

「銃の調子が悪いのかも。見て頂けませんか」

 そう言ってから、まるでこれでは道具のせいにしているようではないか、と後悔した。納得のいかない結果に苛立っていたのだ。この人の前でこんなことを言ってしまうなんて。ああ、情けない……。
 ふむ、とお爺様が髭を撫でる。咎められることを覚悟して身構えたが、そんなことはなかった。
 
「わかった。後で見ておこう」

 いつもの力強く優しい声でそう言った。その時私は多分みっともない表情をしていたと思う。
 お爺様にうながされ、椅子に腰を下ろして、紅茶を頂く。イギリスから取り寄せた茶葉を使った、なかなかに本格的な紅茶である。これもまた、ここに来た時の楽しみのひとつだ。うん、美味しい。冷えた身体が芯から温まる心地。
 テーブルには、さっき分解されていたライフルが組み立てられて置かれていた。散弾銃よりもスマートなシルエットを持つ、ボルトアクションライフル。その上部にはスコープが取り付けられている。
 こうして見ると、価値のあるビンテージ物のライフルであることが私にもよく分かる。数多の地、数多の人の手を渡って来たことを示すような、黒味を帯びた木製のストック。今は暖炉の火をゆらゆらと映す、深いガンブルーに染め上げられた銃身は、今までどのような景色をその身に映してきたのだろうか。

「その銃に興味があるかね」

 お爺様が私の向かいに腰掛けた。
 
「ええ、その。とても綺麗な銃だなと思って」

 私がそう言うと、お爺様はどうしてか、どこか自嘲するような笑みを浮かべた。そしてまるで懐かしい思い出を回想するようにその銃を見つめて、それを手に取った。
 
「これは、ウィンチェスターM70と言う。その中でもPre'64と呼ばれる、1964年以前に製造された物だ」
「その1964年という年に、何か意味があるのですか?」
「うむ。――当時、このM70は非常に優れた命中精度と信頼性から多くのライフルマンに愛用され、ボルトアクションライフルのスタンダードと呼ばれるまでの地位を築いていた。
 しかし1964年以降、ウィンチェスター社はM70の生産方式を大きく変更してしまう。それまでの職人の手による緻密な加工を廃し、手間のかからない、機械による大量生産へとシフトしたのだ。
 結果、M70はその品質を大きく低下させ、あらゆるユーザから愛想を尽かされてしまう。そしてウィンチェスター社も遂に、かつての信頼を取り戻すことはできなかったのだよ」
「……それで、その1964年以前の高品質の物に、プレミアが付いたと」
「その通り。そして機械技術が発達した現在においても、一部のエンスージアストによりこの銃は神聖視され続けている。懐古主義と言ってしまえばそうなのかも知れないが、それだけの魅力がこの銃に、そしてその歴史に、確かに存在するのだ」

 お爺様が天井に向けて、ウィンチェスターM70を構えた。体格の良いお爺様が銃を構える姿は、本当に絵になる。本当にこの人は日本人なのかしら、とすら思った。
 それからゆっくりと構えを解いて、持ってみなさいと私に銃を差し出した。緊張とともにしっかりと受け取る。お爺様と同じように構えようとしたが、やっぱり私ではお爺様のようにはいかない。それでもなんとかストックに頬を付け、スコープを覗いた。
 視界がぼやけて何も見えない。天井が近すぎるのだ。そんなに近くを見るようにはできていない。

「香里。さっき君は、この銃をとても綺麗だと言ったね。それもその筈だ。なにせ、」

 持ち慣れないライフルを構えるのに精一杯で、私はその時のお爺様の表情を見ることはできなかった。
 
「私はこの銃を一度も撃ったことがないのだから。そう、私には、この誇り高い銃を撃つ資格がないのだよ」

 私は銃をお爺様に返す。

「お爺様に資格がないのなら、他の誰にもその資格はありません」

 と私は思ったままに言った。
 勿論私はこの人の歴史の全てを知っているわけではない。大きな間違いを犯したことだってあるかもしれない。それでも、強く信じていた。今私の目の前にいるお爺様は、何ら非の打ち所のない人物であると。
 そんな私に、お爺様はただ薄く笑っただけだった。
 
「さて、もうこんな時間だ。それを飲み終えたら家まで送って行こう」
「……はい」

 もうぬるくなってしまった紅茶を、私はゆっくりと時間をかけて飲んだ。



 ――今日もまた眠れない夜がやってくる。
 隣の部屋からほんの小さな物音が聞こえてくる度に、私の意識は覚醒する。まるで何かに脅えるように。
 布団を深くかぶりなおし、きつく目を閉じる。何も考えるなと自分に言い聞かす。
 絶望的なまでに長い夜。けれどやがて私は気を失うように眠りに落ちる。
 
 

 面白みのないホームルームが終わると、また名雪がやってきた。

「香里。今日こそは、イチゴサンデーだよ」
「意味の通る言葉を話しなさい」
「これから一緒に帰りましょう。そして途中で百花屋に寄りましょう」

 前回断ったこともあり、今回は付き合うことにする。

「やれやれ。誘ってくれるのはありがたいけれどね。あなたには他に誘うべき人がいるんじゃないかしら」

 と私は言った。名雪はただ笑って、教科書を鞄に仕舞う私を急かした。
 予定調和的にいつもの百花屋に行き、名雪がいつもの注文をした。私は日替わりケーキのセットにした。
 待っている間、とりとめのない話題で談笑する。こうして名雪と一緒にいる時間は、私にとってとても安らぐ時間であるように思う。
 やがて注文したものが運ばれてきて、さっそく名雪が一口。

「ん〜。おいしい」
「はいはい良かったわね。いつも同じものばかりで、いい加減飽きないのかしら。このイチゴ娘は」
「……確かに同じイチゴサンデーだけど。日によって少し違うんだよ。香里には分からないだけだよ」
「ほほう。何が違うのかしら」
「うーん、例えば」

 名雪はじっとグラスを見つめて、
 
「今日は少しイチゴソースが多めにかかってるよ。わ、ラッキー」
「へー、そうですか」
「このあいだ来た時はイチゴが大きくて得した気分になったし、その前はクリームが少なめですごく損した気分になったよ」
「……どうでもいいことを覚えてるわねぇ」
 
 名雪は上機嫌で、その色鮮やかなイチゴサンデーを口に運び続けた。人生で最高の瞬間を今まさに味わっているかのような、そんな表情だった。私は行儀悪く頬杖をついて、コーヒーカップを傾ける。

「ねえ名雪」
「うん?」
「相沢君のこと、もういいの?」

 私は唐突にそう言った。なんだか唐突に聞きたくなったのだ。

「んー」

 名雪は、意外にも特に驚く様子もなく、クリームをすくってまた口に運んだ。そしてイチゴサンデーを見つめて、

「これはこれで良かったんだよ」

 と言ってまたスプーンを動かす。
 
「……どういうことか、聞きましょう」

 名雪はカットされたイチゴをよく味わって、飲み込んでから、ようやくスプーンを置いた。

「わたしは確かに祐一のことが好きだったし、祐一にもわたしのことを好きになってもらうためにわたしなりに努力した。でも多分、祐一の目にはそう映らなかったんじゃないかな」

 名雪は今度はウェハースに手を伸ばした。パリッと真ん中で割って、重ねて口に放り込む。サクサクと軽い咀嚼音。
 
「なんて言うかね、わたしたちは近すぎたんだよ。最初からね。他人でも友達でも恋人でもなく、それはもう家族の距離だった。
 近づきすぎると全部がちゃんとは見えなくなってしまうでしょう? 本当に見てほしいところ、そして見なきゃいけないところが、見えなくなってたんだ。
 それに最近ようやく気付いたよ。好きな人ができた祐一の眼差しを見た時に、やっとわたしは冷静になれたのかもしれない。――あ、知ってる? 祐一、恋人ができたみたいなんだよ。自分じゃ言わないけどね」
「……そう」
「わたしもいつの間にか、祐一を家族として見てる。長く一緒にいすぎたせいかもしれない。そして、それで良いかなって思ってる自分がいる」

 名雪の表情はなんとも捉えどころがなかったが、少なくとも何かを責めたり、後悔したりしているようには見えなかった。またスプーンを手に取る。

「きっとね、わたしたちが恋人という関係になるには、少しだけ距離を置く必要があったんだ。
 お互いの気持ちが正しい見え方をする距離に立って、初めて、本当に大切な部分に気づくことができたんじゃないかなって。そう思うよ」

 よく分からないけどね、と付け足して、口の端にクリームを付けた名雪が照れくさそうに笑った。




 はらはらと雪の舞う日。私はお爺様の屋敷にやって来た。
 早速、銃の入ったハードケースを受け取る。先日見てもらうようにお願いしたものだ。
 
「特におかしなところはなかったよ」

 とお爺様は言った。やっぱり、と思うと同時に沈んだ気持ちになった。
 
「すみません、手間を取らせてしまって」
「なに、構わんさ。だがしかし、少し掃除が足りていないようだ」
「え――」
 
 驚いて、手に持ったケースを見た。
 銃を扱う上で、使用後の掃除は決して欠かしてはならないものだ。火薬から発生したガスにより、銃の内部は想像以上に汚れている。放っておけば錆が発生し、場合によっては銃が使い物にならなくなってしまう。
 まさかそんな基本的なことを怠っていたなんて……お爺様の好意で銃を持たせてもらっているというのに。私は申し訳なさと情けなさとで、まともにお爺様の顔を見られなかった。
 
「申し訳、ありません……」
「私に謝る必要はない。後でしっかり、手入れしてやりなさい」
「……はい」

 私はそれだけ言うので精一杯だった。
 落ち込む私を見かねてか、お爺様が私の頭にぽんと手を乗せた。子供の頃に感じたのと変わらず、それは大きな手だった。
 見上げると、お爺様は私に向けて微笑んだ。

「その銃を初めて見た時のことを覚えているかね?」

 お爺様が唐突に言った。
 私は自然と昔を思い出し――そしてまたうつむいてしまった。
 お爺様が、私の頭をそっとなでる。
 
「……君は、その銃を分解して掃除する私を興味深げに眺めていた。子供特有の未知なるものへの好奇心からくる行動だったのだろう。特に君は何にでも興味を示す子供だった。
 上下二連式散弾銃。寄り添うように並んだ二つの銃身を、その時私は『君達のようだ』と言った。まるで生まれる前からそうであったように、君達はいつも一緒にいて、離れることがなかったからね。
 そして君はこの銃に特別な興味を持った」

 私は何も言えず、銃の入ったケースを抱きしめた。
 お爺様の手が私からそっと離れる。
 
「お茶にしよう。知り合いに美味いカステラを貰ったんだ。手伝ってくれるかね、香里」
「勿論です」


 紅茶を飲みながら、お爺様は昔のことを話してくれた。それは私が初めて聞く、お爺様の奥様――つまり私のお婆様の話だった。お婆様は私が生まれる前に亡くなっているので、最初は知らない人の話を聞いている気分だった。
 
「彼女は生まれつき身体が弱くてね。特に君のお母さんを産んでからは体調を崩してしまって、ずっと病院での生活を続けていた。
 私は仕事が忙しく、滅多に彼女に会いに行かなかった。いや、逃げていたんだ。本当は。日に日に弱っていく彼女を見ていられなくて。何もできない自分に我慢ができなくてね」

 わざと渋めに淹れた紅茶でカステラの甘味を打ち消しながら、私はお爺様の言葉を聞いていた。

「私は自ら望んで危険な仕事にあたり、解放されれば寂しさを紛らわせるために、愛していない女性と時間を共にした。
 彼女が今際の際で苦しんでいる時、私は何をしていたと思う? ……私は、名前も知らない女を抱いていたよ」

 お爺様が私を真っ直ぐに見詰めた。この世界の全ての不条理に挑むかのような真摯な眼差しだった。

「香里。私を軽蔑するかね?」
「いえ……」
「本当に?」
「……少しだけ」
「正直に言ってくれて構わない」

 見詰め合ったまま、お爺様は決して目を逸らさず、私の言葉を待った。
 その時不意に、私達はお互いを通して自分自身を見ているんだと思った。
 だから、私は心に浮かんだ言葉をそのまま口にした。重大な誓いを立てるような気持ちだった。

「最低です」

 お爺様は目を細め、ふっと笑った。私も、笑った。
 お爺様が椅子の背もたれに深く身体を預け、天を仰ぐ。

「当時は今のように便利ではなかったからね。私が彼女の容体を聞き、押っ取り刀で駆けつけた時、とうに彼女の身体は冷たくなっていた。
 彼女はまさに血を吐くような苦しみの中で、ずっと私の名を呼んでいたと言う。彼女の遺体を前にして、私はようやく自らの愚かさを認め、後悔した。何も言わない彼女に縋りつき、何度も詫びながら、私はずっと泣き続けた。
 ……そうして涙を流しながら私は知った。世の中には、どうしようもないことがあるのだと」
 
 お爺様は昔を思い出すように目を閉じ、深く息をついた。
 そして目を開き、私を見たお爺様は、静かに澄んだ海の底のような眼差しをしていた。気の遠くなるような長い時間を、自らの罪と共に生き、そしてそれを確かに自分のものとして受け入れた人の表情だった。
 
「未来への別れ道は、無限ではない。不条理とも言える力によって、突然閉ざされることすらある。どこを見ても光が見つからないこともあるだろう。
 それでも我々は、前に進むしかないのだよ。闇の中で手さぐりで、茨の棘でその身を傷つけながらも、今の自分にとって真に大切なものを追い求めるしかない。
 目を逸らしてはならない。見誤ってはならない。しっかりとそれに焦点を合わせ、それに向けて歩み続けなさい。そしていつか自分の辿ってきた道を振り返った時に、自分の選択に間違いはなかったのだと誇りなさい」
 
 今はまだお爺様の言葉の全てを自分のものとすることはできなかったけれど、私はしっかりと頷いた。
 お爺様が満足したように微笑み、すっと立ち上がる。奥の部屋に消え、そしてそれを持ってきた。
 ウィンチェスターM70 pre'64 。過ちの歴史を背負い、それでも今なお変わらず確かな性能を誇るだろう、誇り高きライフル。
 
「香里。私には未だ分からない。私には、この銃を撃つ資格があるだろうか?」

 とお爺様は言った。
 
「お爺様に資格がないのなら、他の誰にもその資格はありません」

 と私は思ったままに言った。
 
 
 
 お爺様が"空を落とす"。
 天高く掲げた銃口の先にお爺様が何を見ているのか、今なら少し分かる気がした。
 スコープを覗き、標的を狙う。距離は300メートル。肉眼では米粒ほどにも見えない。
 銃を構えるお爺様の眼差しは鋭く、それだけで標的に穴が開きそうだった。
 私は双眼鏡を持ち、標的を見る。まるで狙撃手と観測手だけれど、私が彼のパートナーになるには、実力も経験も何もかもが違いすぎた。私にはとても読み切れないが、音もなく舞い降りる雪や、ささやかに揺れる芝生が、彼に風の動きを如実に教えてくれているだろう。私はただ黙って弾丸の行方を見守る。
 お爺様がゆっくりと長く息を吐いた。そして、銃声。
 銃弾は音速を遥かに超え、標的に真っ直ぐ吸い込まれて――――あれ?
 
「ふむ……」

 お爺様が構えを解いて、髭を撫でる。
 私と目が合うと、
 
「外れてしまったよ」
 
 ととてもチャーミングな笑顔で言った。
 考えてみれば当然のことだ。初めて撃った銃弾が、狙い通りの所に着弾するわけがない。いつだってスコープの十字の真ん中に当たるわけではないのだ。
 お爺様は銃のレバーを引いて空になった薬莢を排出、次弾を装填した。美しいほどにスムーズな動きだった。
 それから慎重にスコープのノブを回し、着弾点とのズレを修正する。再び銃を構え、撃った。今度は標的の端に当たった。
 そうして一発撃つごとに着弾点を確認、スコープのノブを回し、また次を撃つ。ゼロインと呼ばれる作業だ。本来なら射手による誤差を無くすためレストに固定した状態で行うが、お爺様はその銃の撃ち味を確かめるように、そして楽しむように、自分の手で撃ち続けた。弾がなくなれば、一発一発を噛みしめるようにリロードし、また撃つ。次第に標的の真ん中を捉え始める。
 それを何度も何度も繰り返すお爺様を見て、これはまるで人生の縮図だわ、と私は思った。お爺様の人生の全てが、この場所、この瞬間に、収束されているように思えた。
 やがて納得したようにお爺様は頷いて、最後に、五発立て続けに標的のど真ん中を打ち抜いた。
 
 
 
 帰る準備を整えたところで、お爺様に声をかけられた。
 
「これを持って帰りなさい」

 お土産の魚の干物でも渡すかのような気軽さでそう言って差し出したのは、なんとあの散弾銃のケースだった。
 私は驚いて、はじめそれを受け取ることができなかった。
 だってこれは、明確な銃刀法違反である。銃を所持する場合は自宅にガンロッカーの設置が義務付けられる。当然私の家にはそんなものない。いやいや、それ以前の問題だ。今更かもしれないけれど。
 だけどお爺様はそんな私を笑い飛ばした。
 
「正しき心を持ち、正しき行いをする限りにおいて、法は意味を持たないのだ。そして私は君を信頼しているよ、香里」
「お爺様……」
「それに何より、早く掃除をしてやらないと、本当に使い物にならなくなってしまうぞ? 必要なものは入れておいた。君への宿題だ。次来るまでにしっかりやっておきなさい」

 私はそれを受け取った。
 様々な思いとともに、確かな重みを両手で受け止める。
 
「ああ、そうだ。万が一何か面倒なことになったらまずここに電話しなさい。自分の名前と私の名前を言えば、それで片が付くはずだ」
「……はい」

 どこに繋がっているかは、聞かないでおいた。

 
 
 家に帰るなり私は自分の部屋に駆け込んだ。母に呼ばれたけど無視。中から鍵をかける。
 そして私はそのハードケースをまじまじと見た。イケナイことをしている時特有の興奮を抑えきれず、少し妙な汗をかいている。
 ケースを開けると、それは確かにそこにあった。何の変哲もない普通の部屋の中、その異質さに私は更に鼓動を早くした。
 まずは各部の状態をチェック。確かに汚れている。いつもちゃんとやっていたつもりだったのに、よくよく見れば全然足りていない。特に銃身内部が酷かった。
 まずは機関部からだ。銃を細かなパーツに分解し、一つ一つにガンオイルを吹いて、ウェスでしっかり拭くと、呆れるくらいに真っ黒になった。
 そして銃身。細長いクリーニングロッドに金属のブラシをつけ、それを使ってごしごしと磨く。すぐにブラシが黒くなる。これは骨が折れそうだ。
 長い時間をかけて、私は二つ並んだ銃身を磨き続けた。力いっぱい腕を振って、汗を流して。
 そうして私はお爺様の言葉を思い出した。
 世の中にはどうしようもないことがあると彼は言った。今、私はその意味を理解することができた気がした。
 それは例えば、時間を戻すことはできないとか、亡くなった人を蘇らせることはできないとか、そういう意味ではないのだと思う。
 本当はどうするのが一番正しいのか、自分でちゃんと分かっているはずなのに、そうすることがどうしてもできない。苦しまないために、悩んで、迷って、そしてそれに苦しむ方法を選んでしまう。
 そしてそんな堂々巡りの果てに、私達は結局は大きな傷を負う宿命にあるのだ。
 人の心というものは、なんと複雑なものなのでしょう。そんなある種当たり前のことを、時として痛いほどに思い知る。
 夢とか希望とか奇跡とか、そういう曖昧なものではない、現実という確かな存在の中で、どれだけ手を伸ばしても届かない空のような、自分の力の及ばないそれ。もどかしいほど近くにあるのに、決して思い通りにならない、自分の内にある心。
 それはもう本当に、どうしようもないじゃないか。

 私はようやく掃除を終えると、分解されたその銃を組み立て始めた。それ一つ見るだけでは何の意味があるのか分からないようなパーツたちを、慎重に組み立ててゆく。時間のかかる作業だ。だがそれは少しずつ、機関部としての確かな形を、銃としての役割を取り戻してゆく。
 

 玄関のドアが開く音が聞こえた。ただいまと、小さな声が聞こえる。
 私は、その金属の塊を手に、部屋を出た。
 
 
 
 
「――お姉ちゃん」

 私の姿を見た時に、栞はいったい何を思っただろうか。
 自分に向けて真っ直ぐに、散弾銃の銃身を構える姉を見た瞬間に。
 
「……栞。あたし、考えたのよ。色々なことを」

 部屋へと続く二階の廊下で、栞に向けて狙いを付けたまま、私は言った。
 驚いた表情で立ち尽くしていた栞は、意外にもすぐに落ち着きを取り戻したようだった。

「ねえ栞。あたしはずっと、あなたから目を逸らしていた。見ないようにしてた。
 どうせあたしの前からいなくなってしまうなら、最初から妹なんていなかったんだって、そう思おうとしていた。
 ……でもダメだった。あたしには、あなたを忘れることなんてできっこなかったのよ」
 
 栞が涙をこらえるように自分を抱きしめた。
 私は、その固く冷たい金属を握りしめ、たんたんと、栞に向けて言った。
 
「――だから、いっそあたしが殺してあげる。あなたを、この手で。
 忘れることができないのなら、背負ってあげる。病気なんて納得のいかないものであなたを失うくらいなら、自分の手であなたを天国に送ってあげるわ」
 
 栞は、呆然としているようだった。
 私は続けて言う。

「知っているでしょう。これはおもちゃじゃない。紛れもない本物よ」

 私の言った言葉が理解できないように、私と二つ並んだ銃口をかわるがわる見て、そして……涙を溜めた瞳で微笑んだ。
 まるで銃なんて存在しないかのように、こちらに向かって足を踏み出した。
 
「動かないで。動くと撃つわ」

 栞がくすりと笑う。その頬に涙がひとすじ流れ落ちた。
 
「言ってることがおかしいよ。私を殺すんじゃなかったの?」
「……本当に、撃つわ」

 絞り出すように私は言った。
 
「それでも、いいのかも、しれないね……」

 栞はすっかり涙声になって、何度も鼻をすすりながら、そう言った。

「お姉ちゃんに無視されるより、忘れられるより、こうして真っ直ぐ見詰めてくれるのなら……その方が、寂しくはないもの」

 私は何もできず、一歩一歩近づいてくる栞をただ見ていた。目を逸らすことなく、栞だけを見ていた。
 栞は、銃口に触れるような位置でようやく立ち止まった。
 そうして見つめあう私達。涙を流しながら……ああ、なんだ。私も泣いているじゃないか。涙が頬を伝い、銃身を滑り落ちていった。
 
「分かってたよ。お姉ちゃんの気持ち」

 栞はもう涙をぽろぽろこぼして、それなのに必死で笑顔を作ろうとして、なんて顔をしてるのよこの子はと私は思った。

「ごめんね、お姉ちゃん。
 ……本当に、私なんて、最初からいなかったら、よかったのにね」

 それは、私自信が望んでいたことだ。目の前の現実から目を逸らすための、いびつな心の結晶。
 でも今、そう栞に言われて、改めて、私は思った。叫びだしたいくらいに思った。
 ――そんなわけ、あるはずないじゃない!
 
「栞っ」

 その意味のない金属を放り捨て、私は栞を抱きしめた。栞もその小さな身体全てで私に縋りついてくる。そしてすぐに一緒にわんわん泣き始めた。
 今までお互いに我慢していた様々なものを思い切り吐き出すように、遠慮も何もなく泣いた。栞が大声で泣くから、私はもっと大きな声で泣いた。そうしたら栞がまた大きな声を上げて泣いた。
 階下から慌てて両親が駆けつけてきた。二人は抱きあって泣き叫ぶ私達を見て、ワケも分からずおろおろしていた。
 そして父がそれを見つける。床に転がる散弾銃の銃身。銃に疎い父には、最初それが何なのか分からないようだった。
 なにせそれは、銃身"だけ"だったのだから。知らない人が見れば一見鉄のパイプか何かにしか見えないそれ。そう。最初から、栞を撃つことなんてできるわけなかったのだ。
 ただ、それを通して、見詰めなければならなかった。ずっと本当に大切なものから目を逸らしていた自分を変えるために。
 やがて私と栞は笑い始めた。どうしようもなく涙が止まらないまま、でも、心から私達は笑い合った。






 春がきて、私は一つ年をとった。年をとったと言う言葉を、なんだかとても素敵なもののように感じられる季節。
 誕生日のプレゼントとして、私はお爺様から正式にあの散弾銃を譲り受けた。とは言っても、今までと変わらずいつもはお爺様の家に保管されているのだけれど。
 ため息をひとつ。本当に自由に触ることができるようになるのは、一体いつのことかしら。

 いい天気の日だった。冬にはあんなに深く積もっていた雪もすっかり溶けて、緑色の木々がそよそよ揺れている。そして当然、私の手には銃が握られている。
 銃を持ったままで一度大きく背伸び。おっとっと、銃の重さで体制が崩れた。まだまだ私の身体は成長途中なのである。きっと。いや絶対。
 射台に立ち、いつもの儀式。空に向けて銃を構える。私は暫くまばたきするのも忘れ、空を見つめ続けた。青い空の遠く遠く、この目に映らない何かを見詰めたくて。
 そして、その空をゆっくりと――落とす。地上の色が私の視界を埋める。ゆっくりと息を吸い、

「ハッ!!」

 気迫を込めてコール。射出される二つのクレー。
 初矢。放たれた弾丸は私のイメージ通りに飛び、空中でクレーを粉々にした。
 そして二の矢。もう迷いはなかった。収束する意識が描く真っ直ぐな射線をそのまま辿り、私の放った弾丸が、青い空に小さな花を咲かせた。
 構えを解き、私はふっと笑って、もう一度青い空を見上げた。何かの終わりと、そして始まりを感じさせる、ゆるやかな風が吹いていた――








「わー! お姉ちゃん、格好いいです!」

 と後ろから素っ頓狂な声が飛んできた。
 ああ、台無しじゃないかと思った。折角完璧に決まった後の、あの恍惚とした余韻を楽しんでいたのに。
 しかもそれだけじゃなく、余計な声が届いてくる。
 
「おーおー、おっかねえなあ。香里さん? 頼むからそんなもの持ち出すのはこの場所だけにしといてくれよ。こんな姉貴がいたんじゃあ、恐ろしくって栞をデートにも誘えねえぜ全くよぉ」
「あら相沢君。今ここで栞のためにあなたを赤い絵の具一年分に変えてあげてもいいのよ?」
「やめとけって。そんなもん、すぐに黒くなっちゃって使い物にならなくなるから」
 
 薄く笑みを浮かべて銃口を向ける。良い子は、いやむしろ悪い人は、決して人に銃口を向けてはいけません。大変危険です。たとえ弾が入っていなくても相手の人に大変なプレッシャーを与えます。
 でも可愛い妹にまとわりつく悪い虫になら問答無用で可。

「いやいやタンマタンマッ。自分だけ鉄砲なんて卑怯だぜ香里。ここはお互い栞を狙うハンターとして正々堂々とだなぁ」
「ちょっと、一緒にしてんじゃないわよ。あなたはそのうち栞にこっぴどく振られるかもしれないけどね、あたし達には決して断ち切れない絆があるんだから」
「なにぃ。姉妹だからっていい気になるなよ。俺達にだってな、そういう肉親の絆っぽいものがあるんだよ。なんて言うかこう、肉体的な? 今夜だけは僕のものだよみたいな?」
「……分かった。認めるわ。あんたは立派なハンターよ。そう、愛のハンター。その熱い心とズボンに隠された銃は、確かにあたしのこの銃と互角以上に戦う力があるでしょう。だからあたし、遠慮しない。全力を持ってあなたのハートに答えてあげる。さあ、覚悟しなさい」
「何それいつの間にそんな話になってんの!? ってか愛のハンターって何!? 最強の武器持って勝手に人をライバルに仕立てて一方的な喧嘩売るのやめてくんない怖いんですけどマジでっ」
「男なら黙って覚悟決めなさーい!」

 そんなあたしたちの馬鹿なやりとりを、栞はくすくすと楽しそうに笑いながら眺めていた。
 手には大きなスケッチブック。銃を構える私を描いているのだ。どうせ恐らく今回も、その絵の私は大きなヤマイモをかついでいるに違いないのだけれど。
 ボタンを押して銃を折り曲げると、空になった薬莢が二つ、ポンと飛び出してくる。私はそれを空中でキャッチ。そのまま相沢君に向けて投げつける。
 
「ぃだだっ」
 
 ふ。命中。
 私は新しい弾をとり、銃に装填する。
 そしてまた、空に向けて構えるのだ。
 何事もないように雲が流れていく。手を伸ばしても届かないそれに、私は銃の狙いを定めた。
 そして思う。漠然と、でも妙な確信じみたものをもって。
 今ここにある全ても、誰かのどうしようもない何かによって生み出された結果であるのかもしれないな、と。

 背後からは栞の声援と、相沢君の悪態が聞こえてくる。
 私は空に向けていた銃を下ろした。目を閉じ、風になびく髪をおさえる。
 もう空を見上げる必要はないんだと思った。だって、すぐそこにあるのだから。私が見つめるべきものは、求めていたものは、まるで空から落ちてきたみたいに、この手の届くところにある。
 この大地の上で、私は私の大切なものを、決して逃がさないようにしようと心に誓った。

 ――やがて青空に、二つの銃声が響き渡る。
 

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