真琴……もっと早くに、お前のことが好きだって言えりゃ良かったよ。
 たとえお前が「全てを忘れ消え行く存在」と分かってても、お前に言いたかった。叫びたかった。
 けど、その前にお前は消えてしまったもんな。
『後悔先に立たず』か……その言葉がこんなにぴったり当てはまるシチュエーションなんて他にないな。
「天野はこんな思いを知ってしまったのか」丘の上で一人呟く。
 そりゃあんなにもなるわな。
 ……本音は俺もかなりキツイ。簡単に立ち直るはずがない。
 季節はもう夏になったけど。想いは引きずったままだ。もう秋も近い。さすがにここの夏は短い。この丘の風も涼しくなった。
 でも、ここから見下ろせるる街並は半年前と変わらない。それが、また心痛めることだった。……なんか俺そっくりだから。
「なぁ、ぴろ。お前は冬にここで真琴と、にくまん食べた思い出はあるか?」
 家からついて来た猫に話を振ってみる。
 猫は俺と目を合わせて疑問符を浮かべた。その後また俺の足に纏わりつく。
 それを見ていて笑ってしまう。
「そうかお前は忘れたか。まぁいつまでも引きずってるのは俺だけか」
 空を見上げてみる。
 憎らしさがこみ上げてくる程、爽快な青空だった。西の空では夕焼けが始まっている。
気分が爽快ではないから、憎らしくも感じるのか。
 すすきに落としたオレンジの光が濃くなる。もう日が落ちてきている。そこらで遊んでいた子供たちも帰り始めている。俺も用があってここに来た訳でもない。きまぐれでこっちに足が向いただけだ。
「んじゃ、帰るぞぴろ」と、踵を返すと一人の少女が待っていた。
「おう、名雪。どうした。こんなところまで?」少女に声をかける。
「なんか、心配になってね」少女が答えて歩み寄ってくる。
 名雪は俺が無理して明るく振舞っているのを知っているようだから、心配されるのも無理はない。真琴との一件は一部始終知られているし。
 と、俺の足にじゃれてたはずのぴろが名雪の元へ駆ける。奴は女好きだから当然の行動か。別に女でかまってくれるなら、猫でも人間でもどちらでも良いようだ。
名雪はぴろを両手で受け止めようと屈んだところで、自分のアレルギーを思い出し立ち上がる。それから俺物欲しそうに見つめる。
 いや、そんな目で見られても……俺にその体質はどうすることも出来ないのだが。単に羨ましいのか? 猫と普通に接することが出来る俺が。
 名雪は足に絡んできたぴろに顔を綻ばせる。
「あら、ぴろも一緒だったの?」
これくらいの接触は大丈夫だ。風向きにもよるが。
あとは家に帰ったら今着ている服の洗濯だ。そこは厳重にしないと、こいつは一日顔を腫らして過ごすことになる。
「ぴろは祐一が連れてきたの?」「いや、コイツが勝手についてきただけ。ついでに言えばここに来たのも別に目的があった訳でもない。なんとなくだ」
 それを聞いた名雪は何故か安堵する。
「だよね……でも、祐一とぴろがここにいるとね……」
「まぁ場所が場所だしな。でも秋子さんには出かける旨を話して出てきたのだけどな」
 初耳と言わんばかりに名雪が小首を傾げる。
「あれ? わたしが起きた時には祐一がいなかったから」
「そりゃ、昼過ぎに起きるお前には状況が把握出来ないだろうな。で、秋子さんに確認も取らずに俺を探しに出たのか」
 名雪はインターハイを終え、部活を引退した身だから時間があるんだな。
「うん、心配だから」安心した笑顔で言われた。
「そりゃどうも。って名雪……今の俺を見ているのは辛いか?」
 答えづらいことをあえて尋ねてみる。
「え……、う〜ん、そうだね。祐一無理してるから」
 やっぱりコイツはその辺を知っているんだな。
「でも、今の感じはまだまだ続くぜ」「真琴のことがあったから?」端的に、確かめる口調で聞いてくる。
「そうだな……好きな人との死別っていうのかな? それがこんなに厳しいものなんて知らなかったし、構えてもいなかったからな」いや、この結末は教えられてた分まだ楽だったかもしれない。
「でも、俺の場合はみんなが支えてくれてるから大丈夫だろう。名雪や秋子さんが見てくれてるし。だから、そのうち元に戻るから心配するなよ。」
 少し顔を引き締めて続ける。
「それに俺は帰る場所があるしな」
 そこまで言うと、名雪の笑顔がくしゃくしゃになる。そんなに嬉しいか?
「そういうことだから、帰るか。名雪」「うん!」元気な返事だ。
 歩みを進めようとすると足にぴろが纏わりついてきた。
「ん? ぴろは名雪ラブじゃなかったっけ?」「ゆ〜いち!」
 非難の声は無視して足元を見て、驚いた。
 纏わりついていいたのはぴろじゃなく、子狐だった。
「おやまあ、またか」
 俺から離れない子狐を抱きかかえ、自分の目線に持ってくる。
「なんだお前。化狐か? ……どっちでもいいが狐は狐の世界で暮らしていた方が幸せだと思うぞ、俺は」
 狐は返事代わりに俺の顔をその、ふさふさの尻尾で撫でてきた。
「ぶはくしょうい!」「わ!、祐一」
 鼻をくすぐられたので思いっきりくしゃみをしてしまう。
 それにビビったのか子狐は俺の手から逃れ、そのまま逃げていった。ちょっと悔しいがこれでいい。だから名雪に同意を求める。これでいいんだよな、と。
「う〜ん」えらく考え込むヤツだ。「祐一がそう思うなら、それが一番だと思うよ」
「そうか……そうだな」自分に言い聞かせる。
 ぴろは名雪の足にくっついたままだった。
「んじゃ帰るか、名雪、ぴろ」



平成五十二年 夏

 俺は再びこの丘に立っていた。名雪と一緒に。
名雪はこの俺を生涯の伴侶としてついてきた。また俺も名雪以上に支えてくれる人なんか、いないと思い結婚に至った。
 今思うと、この選択はある意味必然だったようと感じる。
 あれ以来、立ち寄ることのなかった丘の景色に目をやる。
 まだ伸びきらないすすき。青々と木の葉が茂る木々。夏らしい虫たちの声。はしゃぎまわる子供たちの声。
 それらは何も変わらない。
 でも、見渡す街並みは変わった。昔は丘の手前まで住宅はなかった。いや昔は緑だった所が殆ど住宅地と化していた。開発されてないのは、この丘一帯くらいだと今頃気づく。
 仕事の都合で、俺たちはこの街から長い間離れていた。
 今見る景色に一抹の淋しさを覚える。
「すっかり変わってしまったな、名雪」
「ええ。そうですね、お父さん」
 ……いつからだろう?
 俺は名雪を「お母さん」と呼び、名雪は俺のことを「お父さん」と呼ぶようになったのは。
 でも二人の時は努めて「祐一」」と「名雪」と呼び合うようにしているので、名雪を注意する。
「二人の時は昔の口調、呼び方でやろうって話したじゃないか、名雪〜」
「あら、そうでしたね、お父さん」
 ……コイツの天然は変わらない。たまに疲れる。
「だから〜、祐一!」口調を強めて促す。「うん、祐一〜」このマイペースぶりも変わらない。
 ……コイツは分かってボケてるのかと、たまに思う。
「で、こんなトコに連れて来てどうするつもりだ? おかあ…名雪」俺が早速間違えた。
「ん、ここに何かあるのは祐一でしょ?」いきなりの直球だ。そこに名雪の意図が読み取れた。
「……真琴か?」名雪は肯定も否定もせず俯いた。それは肯定の意だ。長年夫婦をやってればその位分かる。
 ……沢渡真琴……
 昔、俺が恋をした、人の姿をした化狐の仮の名前だ。彼女とはこの丘で永遠の別れをしてしまった。だから真琴を……この丘のことを忘れたことはなかった。
名雪もそれを知ってるから、この時期、この機会に「今の俺が真琴をどう思ってるのか」聞きたかったのだろう。女として。
俺をこの場所に連れてこなければ口を開かないと思っての行動だったのだろう。
 真琴のことは結婚以来話題にしていないが、俺の中でどこか彼女を思っているのは確かだ。そういうことは機敏に察知するのも名雪の特性だ。多分、俺限定の技だろう。
 まぁそう考えると、コイツも精神的にはハッピーばかりの人生ではなかったのだろう。
 だから質問の返事代わりに名雪を優しく抱きしめ、軽くキスをしてやる。
「……え、祐一?」呆気にとられたか、混乱したような口調だ。
「今のが答え」「え?」ニブイところはまんまだ。
「今、好きなのは名雪だよ。真琴は……過去のことだ」
「うん。そう言ってもらえると、嬉しいよ」
……想いは、えてして伝わりにくい。だから言葉という触媒を使って想いを伝える。それがとても大切なことだと、真琴に教えてもらった気がする。
――大切なことは言葉で伝えなさい。じゃないと伝わらないものよ、と。
「祐一……恥ずかしいことを平気で言うようになったね」「別に恥ずかしいこともないだろう。お母さんも言うし」「私、名雪だよ〜」また間違えたので不満の声を上げられた。
「あ〜すまん。こんなババア相手だと、名前が出てこないこともあるんだな」
「祐一〜。それってDV」と糾弾された。
「まぁ仕方ないだろ。言葉だけ聞くと美しいが、はたから見たらオッサンとオバサンの乳繰り合いだぜ」
「そうかもしれないけど……雰囲気が」文句が続く。
「そんなもん、この年で求めるな!」一蹴してやった。
 この光景は客観的に見たら「仲の良い熟年夫婦」に見えるだろうか?
 少なくとも、俺は「仲良くやってる」と思う。
名雪はどう思ってるのかな?
 こんな俺とずっと一緒にいるのが幸せなんだかね?
 名雪はよく「幸せだよ〜」とは言うが、ちょっとは不安に思うこともある。
 まぁ不満だらけの熟年夫婦には、こう人目もはばからず抱き合うことも出来ないだろうし、そうしようとも思わないだろう。
 と、足に小さな生き物が纏わりつく。……子狐だ。
 俺は子狐に視線を合わそうとかがみ込む。そこで子狐に顔を舐めまくられた。妙に人懐っこい。
「祐一、面白い〜」一連の流れを見てた名雪の爆笑をかってしまう。その笑い声に嫌味がないので流して、子狐に語りかける。
「ん、君は化け狐かい? まぁどちらでも良いケド。狐なら狐の生活のままでいることが、幸せだよ、多分」
 俺は言うだけ言って立ち上がり名雪と目を合わせる。子狐はまだ足にじゃれついていたが、あえて無視する。
「さて、名雪次はどこ行くんだい?」
 俺たちの旅路は、まだまだ長い。
 歩みを止めている時間はないはずだ。だから早すぎず遅すぎず、仲良く歩いていこうな、名雪。
「お前のことが好きだ」なんて、いつでも叫んでやるからさ。
 俺は死ぬまで叫び続けるさ。
 名雪が好きだ、と。

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