「降ってきたな……」
冷たい雨が、ガラス越しにいつしか白く見え始める。まだ道路へ積もるほどではないけれど、アクセルからゆっくりと足を離して減速する。念のため、スタッドレスタイヤに履き替えてきてよかった。この分だと、故郷では雪が積もっているかもしれない。
予定よりは少し遅れるけれど、日が落ちる前には到着できるだろう。これから幾つもの峠を越えなくてはならないのだから、焦っても仕方がない。自覚しない溜息をつきながら窓を開け、腕を伸ばして「先に行け」と合図を出す。隣町からずっと後ろを走ってきた車高の低い車が、いきり立つように猛然と加速して、ハザードランプを点滅させながら走り去っていった。
「速いな」
「そうね……」
「隣に女の子なんか乗せて、よくあんなに飛ばせるよなぁ」
「格好いいところを見せたいのよ」
「なら、追いかけてみようか?」
「どうぞ」
「いや、やめとくよ……」
助手席へ座った彼女に、格好いいところを見せたくない訳じゃない。スリルや危険を楽しめるほど、二人とも若くはないということ。高校を卒業して約6年。何も変わってはいないはずなのに、気がついてみると、お互いに変わってしまった気がする。来年になれば、医者の卵は大学を出て地方の病院へ配属されるのだろう。自分は、車にペイントされた地味なロゴマークの会社で、主任くらいには昇進できるだろうか。
「やっぱり、高速使ったほうが楽だったかな」
「別に急ぐことないわ」
「高いしな……」
「便乗してるあたしには、何も言えないわね」
昔の美坂なら、なんて言い返しただろう。再会したのはほんの数カ月前だった。営業先から帰る途中で、公園のベンチに座る彼女を見た。冬でも雪が降らない街にある人工的な公園。ぬいぐるみの人形を傍らに置いた美坂は、オレを見て「あら?」とだけ呟いた。昔の美坂なら、なんて言ってくれただろう。
美坂にとっては学生最後の帰郷。オレにとっては、正月勤務と引き換えにもらった少し早い年末休暇。考えてみると、今日、一緒に居ることがとても不思議で偶然のような巡り合わせを感じる。
「なあ、初めて会ったのはいつだったかな」
「小学校の頃じゃなかったかしら」
「そうだ、四年のクラス替えで一緒になったんだっけ」
「よく覚えてないわ」
「高校三年の時のことは?」
「覚えてるわよ」
「恥ずかしい告白の記憶なんて、忘れて欲しいんだけどな」
「なら、忘れるわ」
「そんな簡単に忘れられるのか?」
「ええ……」
微笑みかけた顔が、急にぎこちなく強ばる。車は山脈の向こう側へ抜ける長いトンネルへ入った。出口は見えない。走り続けるにつれてどんどん暗さが増すなか、ナトリウム灯のオレンジ色に照らされた横顔が、じっと耐えるように先を見つめている。ぬいぐるみの人形を抱きしめる腕に力を込めながら。
「北川君、音を大きくして」
「え?」
「好きなのよ、この曲……」
そうは思えなかったけど、素直に従ってボリュームを上げる。営業車の安っぽいスピーカーから、安っぽいアイドルグループの歌声が響く。愛、夢、そして希望なんていう単語がちりばめられ、鼓膜をくすぐり、空しく消えた。
高校三年の春、当然のように進路が別れたオレは、最後の最後で美坂にうち明けた。答えは「ごめんなさい」。そのままオレは街を出た。
車はトンネルを抜けて県境の峠を越える。数時間経つと、山間に見慣れた街が姿を現す。窪んだ土地へ這うように手足を伸ばす建物や道路。それはひどく狭苦しい。オレたちが育ったのは、そんな、小さな街だった。半日もあれば、ほとんどの場所を見て回れるだろう。
何もない街だったから、勉強でも、仕事でも、何かをする人は大抵が街を出ていく。オレのように、首都圏の大学からそのまま就職してしまう人も少なくない。
「美坂、水瀬さんの家にでも寄っていくか?」
「今日は平日よ」
「そうか、普通は休みじゃないよな」
「当然じゃない」
「なら、学校にでもいくか?」
「行ってどうするの?」
「なんとなくさ……」
「駅前であたしを降ろしてから行って」
「ちゃんと家まで送っていくよ」
なんとなく……、美坂と一緒に街を歩いてみたかった。都会のテンポとはまるで違って、何年も経っているのを感じさせない街並みが、オレの記憶を呼び起こす。車は市街へ入った。並木道が、公園の噴水が、商店街のベンチが、駅前のビル、街灯、バス停、雪の積もった住宅街が、ごく普通のありふれた光景が、懐かしい声でオレに話しかけてくる。自分が高校生だった頃の言葉で。
ルームミラー越しに喫茶店の軒先が視界に入る。店の前の歩道を、もう一人のオレが陽気に歩いていく。制服のポケットに手を突っ込み、口笛を吹きながら隣の女の子に話しかける。”美坂、百花屋に寄っていこうぜ!””いいけど、もちろん誘った北川君の奢りよね?”。二人は、仲良く暖かい店内へ入っていく。
信号待ちの車列の上、歩道橋を往くオレと美坂が居る。車の間を縫うように、美坂を後ろに乗せたオレが自転車で走っていく。そんな、懐かしい街の声が耳にがんがんと響く。
二人は、薄暗くなりつつあるこの街に溶け込んでいた。それに比べて、今の二人はただの傍観者。握っているハンドルが酷く非現実的に思える。1年1年が、それぞれ70マイルの速さで遠ざかっていく。1200CCのディーゼルエンジンがどんなに唸っても追いつかない。
時計の振り子のように、単調なワイパーの音が車内に響く。フロントガラスへ手を伸して、ワイパーブレードが集めた水っぽい塊を掻き落とす。美坂が綺麗なハンカチを差し出してくれたが、オレは、ズボンの裾に指をこすりつけた。本格的に雪が降り始める。都会は遙か彼方にあった。
交通量の多い幹線から、細い路地へ曲がる。あたり一面が真っ白。誰も踏み込んだことのない雪の通りは、結婚式のバージンロードを想像させる。これほど神秘的で美しい景色は他にない。雪を知らない地方からやってくる観光客は目をみはって感嘆する。だけど、ここで暮らした自分には分かっている。覆い隠された下には何も変わらずに残っている。
しんしんと降り続く雪の中、美坂の家に辿り着く。ほとんど日が暮れかけた曇り空。荷物を降ろすのを手伝って一緒に玄関へ向かう。ドアが開かれ、エプロンを付けて箱を抱えたおばさんが迎えてくれた。
「あら香里、一緒の方ってどなた?」
「知ってるでしょ、北川君よ。帰省するっていうから、乗せてきてもらったの」
「おばさん、お久しぶりです」
「それは、どうもありがとう。片づいていなくて申し訳ないですが、北川さん、ちょっと上がっていきませんか」
「大掃除の最中だったんですか?」
「いえ、そろそろ用意をしないと……」
「そうか、もうクリスマスですもんね。ウチの母さんも実家で毎年やってるみたいです」
「え、ええ。夫婦二人でクリスマスなんて変ですけど」
「そんなことないですよ」
「北川君、荷物を二階へ上げるの手伝って」
美坂が、大きなスーツケースを引きずって階段へ向かう。その後ろ姿に向かっておばさんが言った。
「香里、おかえりなさい……」
「うん……」
振り返らずに美坂が答えた。
残った荷物を抱えて後を追うとすると、おばさんに引き留められた。
「遠いところから香里を連れてきてくれて、ご迷惑をお掛けしましたね」
「いえ、自分も帰省する予定だったんで」
「北川さんが誘ってくれたのではないの?」
「えっ? いや、どうだったかなぁ。車で帰る予定だったんで、日が合えば電車代をかけるより一緒に帰ろうって言いましたけど。それって、誘った事になるんでしょうか」
「そうでしたか。でれで……」
「はい?」
「北川さんと香里は、どういう関係なの?」
よく考えれば、実家への帰省に男が付いてくるというのは気になる事だろう。
「ははは、ただの友達です。寂しいですけど」
「本当に?」
「ええ。高校時代に一度”好きだ”って告白したんですけど、あっさり振られました」
「あの子は不器用で意地っ張りですから……」
「そんなことないですよ。まあ、寂しいけどオレとじゃ釣り合いません。わかってます」
「北川さん、あの頃はいろいろとあったのよ……。香里のこと悪く思わないでくださいね」
「え?」
「荷物を片づけ終わりましたら、二人でリビングへいらっしゃい。なにか温かい飲み物を用意しておきますから」
「あの、おばさん?」
「大きくなりましたね、二人とも……」
誤解されているような気がするけど、あまり待たせては悪いと思って二階へ向かう。廊下を歩きながら、庭へつながる縁側でスイカをご馳走になったことを思い出す。子供の頃……、小学生くらいだったろうか。水瀬さんや、近所の悪ガキたちと押し掛けて、リビングでおやつを食べさせてもらったことも……。
二階へ入るのは初めてだった。手すりのついた階段を上がって、目に付いたドアをノックする。返事がないのでそのままドアを開けた。
「美坂?」
そこに、彼女は、いなかった。灯りの消えた部屋には、小さなタンスやクローゼット、勉強机、細々とした物が置かれていて、本や雑誌を納めた棚が見える。窓のカーテンは開かれており、薄いレース越しに外からの明かりが柔らかく部屋へ差し込んでいる。
「美坂、どこだ?」
もう一度言いながら照明のスイッチを押そうとしたとき、背後から声がした。「北川君、なにしてるのよ」
「えっ?」
「こっちよ」
廊下に、腕を組んだ美坂が立っていた。普段以上に不機嫌そうな顔で手招きをする。
「なあ、この部屋って……」
「ただの空き部屋よ。もともと誰も使ってないわ」
腑に落ちなかったけど、荷物を抱え直して隣に並んだ美坂の部屋へ入る。部屋の中には、ほとんど同じ家具が置かれていた。だけど、さっき感じた殺風景で寂しい雰囲気とは正反対に、引き出しや戸棚が開かれ、床には本や紙の束が散乱している。
「北川君、その鞄はこっちに置いて。それはあっち」
「こんなに散らかして何してるんだ?」
「持っていく物をまとめてるのよ」
「来たばっかりで、そんなに急がなくてもいいじゃないか」
「あたしは、片付けが終わったら帰るわ」
「え?」
「何日もここにいる理由なんて無いでしょ」
「年越し、していかないのかよ」
「北川君もでしょう?」
「それはそうだけど……」
「もともと、帰って来たくはなかったのよね。けど、勤務先へ引っ越す前に、一度ちゃんと片づけて整理しておきたかったの」
いつでも帰って来られるじゃないかと言ったが、美坂が口にした勤務先は、聞いたこともない街だった。いや、街というか村のような所らしく、ここからなら丸一日はかかるという。
「そんな僻地に行かされるなんて、酷い話だな」
「自分から申し出たのよ。学長はとっても喜んでたわ、向こうではすぐにでも来て欲しいって」
「頼りにされてるんだな」
「ええ……」
「そんなに忙しいなら、家の人にお願いすればよかったじゃないか。片づけなんてさ」
「でも、あたしじゃないと判らない物もあるから。棄てていく物とか、ね……」
片づけを少し手伝ってみたけど、あまり役に立っていないし、オレに見られたくないからって部屋を出された。気にするなと言おうとしたけど、”ホント北川君って気が利かないのね”と、目で返された。その通りだ。下着なんかが出てきたら、どうしていいのか分からない。
先に一階へ降りていくと、リビングからおばさんが顔を出す。
「時間がかかりましたね……。あら、香里は?」
「片づけをするんだって、まだやってます」
「仕方のない子ね。じゃあ、北川さんだけ先にどうぞ」
暖かい部屋にはコーヒーの湯気が立ち上り、お菓子を乗せた皿が置かれていた。向かいに座ったおばさんが話しかけてくる。
「ここまで遠かったでしょう?」
「高速使えば楽だったんですけど、ずっと下を走ってきたから4時間くらいかかりました。途中で雪は降ってくるし、車もアレですから」
「お仕事用なの?」
「はい」
「どんなお仕事をされているのかしら」
「えーっと、医療機関向けの薬品とか機材の販売会社で営業やってます。決まった相手先を回るご用聞きみたいなものです」
「わかったわ、それで病院にいる香里とお付き合いが続いていたのね」
「いえ、高校を出てからはお互いに音沙汰無しで、どこに住んでるのかも知りませんでした。つい二、三カ月前に偶然会ったんです」
「そうなの?」
「その時に連絡先を聞いて、何度か一緒に昼を食べましたけど……。おばさん、そんな関係じゃないから安心してください」
「そんな関係って、どんな関係かしら?」
「…………」
「ごめんなさい、からかっている訳じゃないの。それで、あの、向こうで香里は元気にやってるみたい? お付き合いしている男性とかは居そう?」
「そのあたりはオレにもよく分からないんですけど、なんだか、昔の美坂……さんとは違う気がします。ぬいぐるみの人形を置いて公園のベンチでぼーっとしてるなんて、ちょっと想像つきません。初めはただ、似てる人だなぁって思いました。本人がそんな事をするって思えなかったから」
「そう……」
「あと、彼氏とかは特にいないみたいですよ。オレが聞いた話では、ですけど」
「…………」
「お役に立てなくてすいません。あ、そろそろオレ帰ります。長々とおじゃまして、コーヒーまでごちそうさまでした」
「ねえ、北川さん」
「はい?」
「夕食を一緒にどうかしら? 香里が帰ってきたことを電話で知らせたら、お父さんも早めに帰ってくると言いますし。香里を連れてきてくれたお礼をしませんとね」
「いえ、そんな気を遣ってもらっても……」
「なにかご予定があるの?」
「特にないですけど……」
「なら、決まりね」
自分の実家まで車なら10分もかからないのに、おばさんは「そのまま待っていて」と言い残して買物へ出かけていく。「何も用意していなかったものですから」と弁解するけど、そうすると今日、美坂が帰ってくることも知らなかったのだろうか。
午後7時頃になって親父さんが帰宅した。することもないので新聞を読んでいたオレを見て、不審そうな顔をする。慌てて挨拶をして、おばさんからも口添えしてもらって親父さんがようやく頷く。
「香里、ご飯よ!」
おばさんが二階へ向かって声をかける。しばらくして降りてきた香里は、無表情に「どうしたの、これ?」と首を傾げる。目の前には豪勢な料理が所狭しと並べられている。四人がけの食卓から溢れそうなくらいだ。
「それに、北川君まだ居たの?」
「乗せてきてもらったんでしょう、香里」
「電車代の方が安くつきそうね」
「香里、可愛くないこと言うんじゃありません。ほら、突っ立っていないで座りなさい。北川さんもどうぞ」
恐縮しながらキッチンの椅子へ手をかけたとき、美坂が呟いた。
「お母さん、リビングにテーブル出さない?」
「えっ?」
「ここだと狭いし、落ち着かないから……」
「そ、そうね」
親父さんが大きなテーブルを持ってきて、みんなが夕食を囲む。久しぶりに帰ってきたというのに、美坂はほとんど口を利かない。その代わりにオレがおばさんからの質問攻めにされて、親父さんがときどき相づちを打つ。もてなしは嬉しいけど、とても居心地が悪い。
そんな気分を察したのか、おばさんがビールを持ってきて栓を抜いた。あまり飲めないけど、注いでもらって口を付けない訳にはいかない。無理して半分ほど飲むと、今度は親父さんがオレのコップになみなみと注ぐ。「仕事はどうだ?」「なんとかやってます」「向こうの生活は大変か?」「いえ、そうでもないですよ」「田舎のこの街に帰ってくると、ほっとするだろ」「そうですね、そんな気もしますね……」。曖昧に返事をしながら、頭のなかが曖昧になってくる。何杯飲んだろう。数えてみると、目の前に空き瓶が五、六本並んでいた。会話が弾むにつれて、空き瓶が増える。それでも美坂は相変わらず無言。それでも、焼酎は断るべきだった。勇気を出して「なあ、美坂?」と話しかけたとき、視界が歪んだ。
「ちょっと北川君、大丈夫?」
「あはは、少し飲み過ぎたみたいだ。そろそろ定量。帰んなきゃ」
「車、どうするの」
「歩いて帰るよ。一晩置かせてもらっていいですか、おばさん」
「それは構いませんけど……」
「ちょっとトイレお借りしますねー」
「大丈夫?」
「ははは、これくらい大丈夫で……」
笑ってごまかしながら立ち上がると、頭から血の気が引いた。
「で……」
ふらふらと壁を伝って廊下へ出る。手探りでトイレへ入って用を足すが、気弱に”ではない”と自分で思う。酒のせいもあるだろうけど、長時間運転してきた疲れと、先ほどまでの緊張がふっと弛む。
――あれっ?
自分のいびきで目が覚める。気が付くとオレは、真っ暗な部屋で寝かされていた。床に布団が敷かれ、目の前に水を入れたコップと薬が置いてある。廊下に転がりながら、美坂がオレの脈をとっていた気がする。なにか飲まされ、誰かに運ばれたような気もする。運ばれながら、おばさんが学級連絡網がどうとか話すのを聞いたような気がする。
水を飲もうと身体をひねる。コップの下に、走り書きのメモが挟んであった。”起きたら飲むこと””北川君の家には、お母さんから連絡したから”。格好悪いな、オレ……。
一気に水を飲み干して部屋の中を見渡す。カーテンが開かれた窓からは、街灯の光を反射したオレンジ色の雪明かりが差し込んでいる。柔らかく、とらえどころのない空も、どんよりとオレンジ色を映している。音もなく雪が降り続いている。
きっとここは、美坂の部屋の隣にある空き部屋なのだろう。空き部屋といいながら絨毯が敷かれ、一通りの家具がそろっているのは不思議だ。初めて入ったときにも感じた疑問。誰かの部屋なのではないだろうか。布団を抜け出し、窓際にある勉強机へ座ってもう一度じっくりと部屋を見渡してみる。
いや、やっぱり誰も使ってはいないのだろう。物は揃っていても、生活感がまるでない。住んでいる人の気配や息吹が全然ない。頭痛の残る頭でそんなことを考えながら、一服しようとポケットから煙草を取り出す。ライターを持ちながら捜すが、灰皿が見あたらない。もしかしてと思って、一番上の引き出しを開けてみた。空っぽ。中には何もなかった。空き部屋なのだから当然といえば当然。それでも、全部の引き出しを開けてみた。
最後の一番下も、予想通り何も入っていなかった。仕方ない、朝まで我慢しよう。そう考えて、くわえていた煙草を箱に戻そうとしたら、手元が狂って転がってしまう。まだ酔いが残っているのもしれない。奥の方へまで入ってしまったので、身体をかがめて机の下に潜り込んだ。ふと見上げると、机の天板に何かが挟んである。なんだろう? 後から付けたようなゴムのバンドで結わえられているそれは、薄い本のようだった。
妙な仕掛けで隠された本を外して手に取った。机の上に載せてページをめくると、薄く色が塗られたパステル画が現れる。本ではなく、スケッチブックだったらしい。最初のページに描かれていたのは、どこかの窓から見た風景。特にきれいな景色でも、変わった構図でもない。いや、待てよ……。スケッチブックを持って立ち上がり、レースのカーテンを捲る。この場所だ。木の大きさや枝振りは違うけど、立っている位置は同じ。建物や遠くに見える山もほとんど変わらない。
ただ、最初のページに描かれた絵は、春の陽気に包まれていた。木々の若葉は萌え、水色の空が楽しげに窓枠からはみ出ている。次のページをめくった。
「へ?」
カーテン、机、窓から見える景色。前のページとほとんど同じ構図の絵だった。草木は緑を増し、強くなってきた陽光が白く反射している。空は青みが強くなり、遠くの山からは昆虫の鳴き声が聞こえてきそう。イメージとしては初夏か。それにしても、どうして同じような絵を何枚も描いたのだろう。不審に思いながらページをめくる。
次は盛夏だった。ぎらぎらと照りつける太陽、ぐったりしたような街並み。入道雲がもくもくと沸き上がっている。次はもう少し季節が移り、風鈴と、蚊取り線香用の瀬戸物が書き込まれていた。秋へ向かって空が高くなっていく。トンボが現れ、木々は紅葉の時期を迎える。丹念に描写された枯葉が次第に落ちてゆき、初雪が街を染める。そして……
今、目にしているように、しんしんと雪が降りはじめる。だけどその冬の絵は未完成だった。外の景色にだけ色が塗られており、他は線が引かれたまま。空白のなかに雪景色が浮かんでいる。夜の雪が静かに舞っていた。このスケッチたちは、いったい何なんだろう。スケッチブックを閉じてひっくり返してみると、裏表紙に名前が書いてあった。”Misaka”。あいつが?
そのとき、廊下に足音が聞こえた。続けて”コンコン”と、小さくノックの音がする。触れてはいけない秘密を見てしまったような気がして、慌てて布団をかぶって寝たふりをする。スケッチブックを抱えながら。
「北川君、起きてる?」
顔に廊下からの明かりを感じる。返事をしないでいると、ドアを開けたまま美坂が部屋へ入ってくる。額にぬくもりを感じた。美坂の手がおでこにあてられているのだろう。そうか、心配して見に来てくれたのか。
手が離れると、今度は髪の毛がオレの顔をくすぐる。薄目を開けると、すぐ目の前に美坂の横顔があって驚く。耳を近づけて呼吸を聞いているようだ。懸命に寝息らしい息づかいをする。しばらくして、ようやく納得したのか美坂の顔が離れた。さすがは医者だ。と、思っていたら、かなり強く頬をつねられた。なんでだ? そんな検査方法があるんだろうか。
部屋を出ていく足音がして目を開けると、ドアが開けっ放し。かなり眩しい。どうして閉めていかないんだと思っていたら、また足音が聞こえてくる。顔を反対側に向けて寝たふりを続ける。”カチャン”と、ドアを閉じる音がした。衣擦れの音も。頭の横に何かが置かれた。そして、布団がめくられる。
えっ、えっ?
オレの背中に美坂の背中があたった。な、な、なんばしよっとですかー。そんな変な方言が頭を駆けめぐる。鼻に感じるシャンプーや化粧品匂いにドキドキする。あたっている背中のそこだけ、妙に熱っぽい。これは、つまり、どいういうこと?
オレがこんなに慌てているのに、数分もしないで美坂は小さな寝息を立てはじめる。振り返ってみると、ぬいぐるみの人形を抱えた美坂は、背を丸めて体を固くしていた。想像していたより華奢な腕を身体に引き付け、何かに耐えるように強い力で瞳を閉ざしている。身体が小刻みに震えていた。
妄想したようなことでは……、ないのだと思う。そうじゃないって分かると、緊張が解けて楽になってくる。今、隣にいるのは子供の頃の美坂なんだと、そう思うことにする。泣き出してしまった美坂を、いや、その頃は”香里”って呼んでいたけど――、手をつないで一緒に家まで帰ってきたなんて事もあった。あの頃は女の子だったし。いや、今でも女の子なんだけど。ちょっと違う。いや、違わないのか? 美坂はオレのことをどう思っているんだろう。オレは美坂のことをどう思っているんだ? 一度振られたのに? おばさんの”気を悪くしないで”という言葉は、どういう意味なんだろう。もう一度、学生時代みたいに美坂と街を歩きたい。みんなで遊びに出かけたり。あの頃は楽しかった。
とりとめのない断片が浮かんでは消えていく。眠りに落ちる前、最後に思う。こんな事を考えるのは、きっと、この街に帰ってきたせいだ……。
目が覚めたら、美坂はいなかった。部屋に差し込む日の光が高い。腕時計を見ると、デジタルの数字が2:00から2:01へ表示を変える。そんなに長く眠っていたのか? 布団から抜け出して、大きな伸びをひとつ。薬の効果か、目覚めは清々しいものだったが、なんて謝ればいいかと悩む。それに、これも渡した方がいいだろう。顔をこすりながら廊下へ出た。
ノックをしてドアを開けると、部屋の中から、冷たい風が勢いよく流れ込んでくる。掃除機のコードを巻きながら美坂が振り返った。
「あら」
「美坂、あのさ……」
「ようやく起きたの、北川君」
「迷惑かけて悪かった、酔いつぶれるなんて初めてだよ」
「別にいいわよ、お父さんも”勧めすぎた”って反省してたし」
「でも、昨日の夜は……」
「そんなに気にするなら、駅まで送ってくれないかしら」
「えっ?」
「帰るから、3時の電車で。やっと片づいたわ」
ベッドの上には大きなスーツケースがひとつ、鞄が数個。部屋の隅に、ひもで縛られた雑誌や書籍、大きく膨らんだゴミ袋がいくつか置かれていた。
「掃除も終わったから、あとは窓を閉めて出発するだけ」
「もちろん送っていくけど……」
「なら、北川君はこっちの荷物を運んでね」
そう言いながら肩に鞄をかけ、スーツケースを持ち上げる。片手にぬいぐるみの人形を抱えて美坂が立ち上がった。
「なあ、美坂?」
「なに?」
「昨日の夜さ……」
「…………」
「え、えーと、部屋でこんなの見つけたんだけど、美坂って意外と絵が上手かったんだな。勝手に見て悪かったけど、ちゃんと返さないとって思って……」
言い訳のような説明をしながら、美坂にスケッチブックを見せる。顔つきが変わった。
「あたしはそんな絵、知らないわ」
「でも、あの部屋に置いてあったんだぞ?」
「……知らない」
「そ、そうか。”Misaka”って名前が入ってたから、オレ、勘違いしたみたいだ」
「…………」
「…………」
「……思い出したわ」
「うん?」
「……そうよ。それ、あたしが描いたのよ」
「なんだ、やっぱり美坂だったのか。こんなに上手いなんて知らなかったぞ。ずっと続けていけばプロみたいな絵も描けるんじゃないか? さすが美坂は多才だな」
「そんなことないわよ」
「充分あるって」
「……そんなことは無理なのよ、もう」
「…………」
「…………」
「そうだよな、うん、美坂には他にやることがあるんだからな。じゃあ、ほら」
「うん、ありがとう……」
なぜか怖々と手を差し出す美坂へスケッチブックを渡す。
「おい、美坂……」
力の抜けた手から、スケッチブックが床に転がり落ちた。
窓から差し込む冬の風が、薄い紙のページをパラパラとめくっていく。春、水色の空が楽しげに歌う。夏、緑の木々がざわざわと語りかける。秋、赤く沈む夕日が山際から告げる。そして、冬……。色をなくした未完の冬。冬、白い雪。ただ、空白のページが続く。美坂は無表情に見下ろしていたが、それでも視線は一点に集中して動かない。
冬。束の間の空白を埋めるように、彼女が話しかける――。
真っ白なページに続いて、鉛筆書きのデッサンが現れる。描かれているのは、様々な、たくさんの美坂。食卓に座る美坂、机に向かう美坂、読書をしている美坂、リビングで居眠りをしている美坂……。ページはどんどん繰られていく。普段着の美坂、パジャマ姿の美坂、制服を着た美坂。優しそうに微笑む美坂、はにかんだ美坂、恥ずかしそうな美坂、すねている美坂、泣いている美坂、無表情な美坂、寂しそうに俯く美坂、見つめ返す美坂……。最後のページには、人形を抱き、ひとつの布団でオレと寝ている美坂。
なんだこれは? こんな所を盗み見されていたなんて、恥ずかしくてたまらない。おまけに絵に描かれるなんて……。え? どうしてだ?
「……っ!」
美坂の顔にも、恥ずかしさと怒りが浮かんでいた。頬の赤みが増して口元が引き締まる。握った拳がわなわなと震え、今すぐにでも罵り声が叫ばれそうだった。オレでも怖いくらいの形相で絵を凝視する。
変化は急激だった。目を見開いた美坂が振り向き、壁越しに隣の部屋を睨み付ける。真っ赤な顔で鋭い視線を向ける。壁の向こうには、オレが一晩泊まったあの空き部屋があった。何か叫ぼうと大きく開かれた口が……、そのまま声にならずに動きを止める。
ぬいぐるみが床を転がった。先ほどよりも大きく見開かれた瞳、怒りが消えてぽかんと開いた口。握りしめられていた腕は、力を無くしてだらりと垂れ下がる。壁を凝視していた美坂が、はっと気づいたように口元を押さえた。そして、崩れるようにそのまま床へ座り込む。細められた瞳から涙が頬を伝う。うつむいて、歯を食いしばり、力いっぱい瞳を閉ざそうとするが、涙は止まらなかった。
嗚咽とすすり泣きが続くなか、美坂は、一生懸命に何かを言おうとしていた。伝えようと、叫ぼうとしていた。だけど、しゃくり上げ、痙攣し、かすれた言葉しか出てこない。必死に叫ぼうとするが言葉にならない。美坂は子供のように首を左右へ激しく振りながら、スケッチブックを拾い上げて胸に抱く。
そして、大声を上げて泣いた。
美坂の隣に座って、子供の頃のように手をつなぐ。それくらいしかできないし、それが今のオレたちには相応しいと思ったから。
電車の出発には間に合いそうもなかった。
「おかえりなさい」
感想
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