『ずっと考えていたんだ。
実らなかった恋に意味はあるのかなって。
消えてしまったものは、始めから無かったものと同じなのかなって』
そのフレーズを見つけたのは、偶然だった。偶々、列車の発車まで時間があり、偶々、近くにあった普段は寄りもしないような、よく言えば趣がある、悪く言えば今にも潰れそうな本屋に入り、これまた偶々、巷で噂になっていた本を手にとって読み始めた。極めつけとしては、偶々取ったその本が、最終巻だったことだろうか。ははっ、なんか少し出来すぎてねぇか?
そんな風に思いながら、腹に堪った物を吐き出すように深い溜息を吐いて、本を閉じて元あった棚に戻そうと手を伸ばす。あれ? くそっ、はいんねぇぞ。つか、棚に本入れすぎだろ、これ。悪態アンド悪戦苦闘という悪のコンボを華麗に使いこなしながら、なんとか押し入れると、腕に巻かれた安物の時計へと視線を落とした。決して無理やり入れたため、微妙に折れ曲がった本から視線を外した訳ではない。だけど、その行為はある意味失敗だった。デジタル表示の時計が刻んでいる時刻は、列車出発の10分前ジャストナウ。ここから駅のホームまでは8分。つまりちょうど良い時刻。うーぷす。いや、良い事なんだけどさ。
もう一度、深い溜息。けど、腹に溜まった物は先ほど全て出し切ってしまったようで、胃液を吐き出したような、どこか苦い味がした。口をへの字に曲げながら、下に置いていた鞄を取って、立て付けの悪そうなドアを押し開けた。
外は、まるでオレの心情をあざ笑うかのような空っ風がビュービューと吹いていた。堪らず体を縮こまらせると、コートの裾を立てて歩き出す。ふと、今の自分を昔の──高校時代のオレが見たら、どう思うだろうかなんて考えた。スーツなんぞ来て、コートの裾を立てながら歩く自分。いっちょ前に社会に馴染んだように見えるオレを見て、どう思うだろう。今のオレの気持ちを──どう思うだろう。
鞄の中に入った招待状。足取りは重い。気分は、ダウナー。追い討ちを掛けるように見つけた本のフレーズ。また漏れる溜息。口に充満する苦味。それに嫌気が差したオレは、吐き捨てるように呟いた。
「オレだって……ずっと考えてるよ」
太陽の眺め方
トンネルを抜けると、そこは雪景色だった。なんて感慨を抱くはずは、もちろんなかった。だってオレが今住んでいる所は、故郷から2駅しか離れてないのだ。つまり、トンネルを抜けるまでもなく雪景色。けど見慣れた景色でも、更に見慣れた故郷のものは、やっぱり少しだけ胸を締め付けるものがあった。思えば、どれくらい振りの帰省だろう? オレは、ガタンガタンと揺れて座り心地の悪い席で窓を見ながら、指を一つ一つ折っていく。いち、に、さん……
数え終わると、窓から指へと視線を移す。そこにはゲンコツ一つ。
「……そっか。5年、か」
わかってたはずなのに、思いのほか時が経っていることに驚いた。そんなどこか抜けた自分が可笑しくて、口元を緩める。そのまま、もう一度窓に視線を向けると、不恰好に口を吊り上げた自分の姿が写っていた。唯一のチャームポイントとも言える頭の天辺の癖っ毛も、どこか萎びているように見える。そんな自分の姿を見るのが嫌で、オレは窓の外に広がる変わらぬ町並みを眺めた。
「しっかし、ここらは変わらねぇなー」
窓の縁に頬杖を付きながら呟く。後ろへ後ろへと消えていく故郷の景色は、町を出た、あの日からまったく変わっていないように見えた。それが少し嬉しい。今も変わらず、オレを迎えてくれているようで。けど、それは凄く切ないことのような気もした。町の在り方は、まるで変わるのを頑なに拒んでいるようで。まるで変わるということを忘れてしまったようで。とてもとてもオレに似ているようで。それが凄く切なかった。
オレは、そんな自分から目を背けるために、目を閉じる。故郷まで後、30分弱。瞼の裏側。そこに広がる闇に、あの子の笑っている顔が浮かんで……消えた。
唐突に聞こえてきたキィィィィという甲高い音が、ウトウトとしていたオレの意識を引っ張り起した。どうやら目を瞑ったまま眠ってしまっていたらしい。半覚醒状態のようなボーとした頭を、軽く振りながら窓の外を見ると、田舎町には似つかわしくない綺麗に整備された駅のホームがあった。無駄に駅に金を掛けているところも変わらないらしい。
それを少しだけ見つめた後、天井にある棚から鞄を取って出入り口へと向かった。
「北川くーん!」
列車から出て、一息付いていると、ふいに横から間延びした声が聞こえてきた。そちらに顔を向けると、そこには高校時代から、より一層綺麗になった女性2人。そして高校時代の面影を残しながらも逞しく成長したように見える男性がいた。オレは、照れ笑いを浮かべながら、その3人のほうへと足を動かす。
「北川君。おひさしぶり、だよっ」
「おう、水瀬。久しぶり。髪切ったのか?」
「うん」水瀬ははにかみながら、肩口で切り揃えた髪の先を摘む。「就職先で言われちゃった」
「ま、あの長い髪じゃな。なんてたって、今や水瀬は陸上会期待のホープだし」
「わ、わ。わたし、ホープなんかじゃないよっ」
水瀬は、両手を胸の前でブンブンと、音が聞こえてきそうなほど振る。5年ぶりにあったって言うのに、高校時代から変わっていなかった。まったく、これがもうすぐ20代後半に差し掛かる女性だって言うんだから、ある意味詐欺だ。そういえば、水瀬の母親も年齢不明の綺麗な人だったっけ。なるほど、どうやら水瀬はその遺伝をきっちりと引き受けたようだ。
「謙遜すんなって、この前も優勝したんだろ? えーと、あれだ。えー」
「……全国日本女子陸上選手権でしょ」
ふいに水瀬の隣から聞こえてきた声に、ドンと胸を木槌で打たれたような衝撃を感じた。ゆっくりとした動作で、そちらに視線を向ける。そこには長くウェーブの掛かった手入れの行き届いた髪を揺らして、呆れたようにこちらを見る女性の姿。高校時代から衰えることのない魅力を持った女性がいた。
「もうボケたの、北川君?」
「ぼ、ボケてねぇよ。単なるど忘れだよ。ど忘れ!」
「……ボケ始めた人って、始めは皆そう言うのよね」
「久々にあってそれかよ!?」
「ふふっ、冗談よ。久しぶり、北川君」
女性は、オレの言葉を聞いて、にこりと微笑んだ。不覚にも、その魅力的な笑みに見惚れてしまう。
「あ、ああ、久しぶり、美坂。……いや、相沢って言ったほうがいいのかな?」
「も、もう! 気が早いわよ。式は明日なんだから!」
「いや、グッジョブだ。北川!」
顔を真っ赤にしながら、声を張り上げた美坂の隣から、嬉々とした声が聞こえてきた。その声の方へと視線を向ける。そこには、悪戯っ子のような意地の悪い笑みを浮かべて親指を立てている高校時代の悪友。
「ちょ、ちょっと祐一まで何言ってるの!?」
「なんだ、香里。明日から苗字が変わるんだ。今から慣れておいたほうがいいじゃないか」
「そ、そうだけど」
恥ずかしくて堪らないというように、詰め寄ってくる美坂を相沢は飄々といなす。そんな二人の間には、硬く硬く繋がれた手と手。視認できる絆の証があった。グサっとナイフで傷口を抉られたような痛みが胸に走る。
「おーおー、見せつけてくれるじゃんか」
「うん、香里と祐一はラブラブなんだよー。もうこっちが恥ずかしくなるぐらい」
「な、名雪!?」
「……親愛なる従姉妹よ。頼むからラブラブなんて、死語を使わないでくれ」
邪気のまったく感じられない笑みで嬉しそうに言う水瀬に、美坂は顔を赤らめ、相沢は疲れたように項垂れた。そんな二人の言葉に水瀬は、如何にも考えこんでるんだよ、というように目を瞑る。うーんっと少しだけ、唸るように首を傾げた後、パッと目を開けて微笑んだ。
「却下……だよっ」
本当に嬉しそうに言う水瀬。それは、とても水瀬の母親に似ていた。顔立ちも、もちろんあるけど、そうではなく醸し出す雰囲気が、水瀬の母親の持つ優しく穏やかなものに似ていたのだ。ああ、そっか。外面は髪の長さ以外、あまり変わってない水瀬だけど、内面は大きく成長したんだな。あの全てを包み込むような優しさを持った母親と見間違うぐらい。それに比べてオレは……。
「はぁ、この頃名雪の秋子さんのモノマネが、洒落じゃ済まなくなって来てる」
「ああ、逆の意味合いの言葉さえ使いこなせるなんて。北川もそう思わないか?」
気持ちが落ち込みそうになっていたオレは、横合いから聞こえてきた、その嘆息交じりの声に答えるのが遅れてしまう。慌てながらも言葉を返そうと脳を回転させる。
「あ、ああ、そうだな。オレも一瞬、ダブって見えた」
「えへへ、ありがとうだよ。お母さんは、わたしの理想だから、凄く嬉しいよ」
オレ達の言葉を聞いた水瀬は、そう言ってはにかんだ。
「なぁ、そろそろ行こうぜ。何もこんな所で話し込まなくてもいいだろ?」
「あ、そうだね。北川君も列車に揺られて疲れただろうし」
「列車に揺られてって、たった2駅じゃない」
再会した駅のホームで、積もりに積もった話に花を咲かせていたオレ達だったけど、唐突にいった相沢の一言で、とりあえず駅から離れることになった。
無駄に手入れが行き届いた長い階段を下りる。前には手を繋いだまま黙々と階段を下りる美坂と相沢。横には水瀬。順当と言えば、順当の配置。だけど、やっぱり遣る瀬無さは拭えない。
そんな自分に苦笑しながら、ふと視線を隣に向けて見る。そこには穏やかに微笑む水瀬の横顔。
「祐一と香里ってお似合いだね」
オレの視線に気づいたのか、水瀬はそんな言葉を投げかけてきた。言葉が出てこなかった。オレの誇る灰色の脳細胞は、フル回転しすぎて煙を上げている。別に、水瀬の言葉がショックだったわけではない。いや、ショックと言われればショックだけどさ。でも、それ以上に思い出したことがあったのだ。高校時代。今と変わらず微笑んでいた水瀬の笑顔。それは、いつだって相沢に向けられていた。ああ、そうだ。水瀬は相沢のことが好きだったのだ。それを、事ここに至って漸く思い出した。だから、不思議だった。愛した人が自分じゃない人を選び、尚且つそれが親友なのだ。そのどれだけ辛いことか。自分には決して向けられない微笑を、傍で見続けること。それは、きっと体をミキサーに掛けられるような痛みを伴うはずだ。少なくともオレはそうだった。だから逃げたのだ。だけど水瀬は逃げなかった。それどころか今は、傍で二人のことを見守るように微笑んでいる。
「……なぁ、水瀬」
「ん?」
オレの呼びかけに水瀬は、視線だけをこちらに向ける。聞いて見たいと思った。オレには出来ないことを平然とやってのけている、この女性に。のんびりとした雰囲気の裏にどれだけの傷が隠されているのか、見てみたいと思った。そして、オレのこの気持ちも分かち合えるんじゃないかと思った。
「あのさ」
「うん、どうしたの?」
「いや……あの、さ。水瀬は──」
「おーい、二人共、遅いぞー!」
けど、下から聞こえてきた声に、口から出掛かった声は、喉の奥に押し戻された。声のほうに視線を向けてみる。そこには階段の下で、寒さを和らげるように寄り添っている美坂と相沢の姿。
「北川君?」
「ん……いや、なんでもないわ。それより行こうぜ」
そう言って、オレは階段を下りるスピードを上げる。後ろから「……うん」という、どこか含みのある水瀬の声が聞こえてくる。その声を聞きながら、自分の馬鹿さ加減を呪った。気持ちを分かち合える。それはオレのエゴでしかない。水瀬が傷ついていたのだとしたら、その傷を癒し、前を向いて進んでいるのだとするなら、オレの聞こうとしていたことは水瀬の癒えた傷を抉ることでしかない。水瀬に対して──5年経っても変わらず、笑顔で迎えてくれた友人にそんなことできるはずなかった。
だから、オレは後ろから聞こえてきた水瀬の言葉に、振り向かず階段を下りる。でも下で待っている二人の姿を見るのも辛い半端なオレは足下へと視線を落とす。そこにあるのは、田舎町には不釣合いなほど整備された階段。けど、やっぱり年月は過ぎていて、階段には所々汚れや染みが浮き出ていた。
それは、どこか表面だけ取り繕って中身がちっとも変わらない、情けない自分に、ひどく似ている気がした。
※ ※
豪華で小洒落た、学校の教室なら2つ、すっぽりと入ってしまうぐらい大きな照明が落とされた室内。フカフカの、まるで絨毯のような床。そんな室内の真ん中、まるで分断するように敷かれた赤い布の上を──未来へと続いているであろうバージンロードを、スポットライトに照らされながら歩いていく相沢と美坂がいた。
その二人の様子をオレは、スポットライトから外れた席に座って見つめていた。新婦である美坂は、本当に幸せそうに。新郎である相沢は、少し照れくさそうに、所々から、まるで津波のように押し寄せる拍手を受けながら、胸を張ってバージンロードを歩いていた。
胸が締め付けられる。まるで心臓を鷲づかみにされたかのように、息が苦しかった。明りから外れた、こんな所で拍手している自分が、嫌だった。美坂の隣にいるのが、自分じゃないのが──嫌だった。なにより、そんな女々しいことを、ここに至って考えて、心から祝福できない自分が嫌だった。オレは、そんな情けない自分を誤魔化すために、強く、手が痛くなるぐらい強く手を打ち鳴らした。
やがて相沢と美坂は、赤い布の先にある壇上まで来ると、そこにあった椅子に座る。そのタイミングを待っていたのか、壇上の横に設置されたマイクに、室内の隅に控えていた水瀬が近づいてくる。ああ、そういえば水瀬が仲人だったか。そんなことを、漸く思い出していた。
「ただいまより、相沢祐一、相沢香里の結婚式を執り行います」
水瀬は、普段では想像もつかないような厳かな声でそう言った。
式は滞りなく進んでいた。定番の(といっても、本当にそうなのかは知らないが)二人の幼少期から今までの成長に始まり、馴れ初めと、時には壇上近くの壁に掛けられたスクリーンに写真を写しながら式は、順調にスケジュールを消化していく。
オレは、そんな式をボーっとした頭で眺めていた。思考が回らない。まるで体はここにあるのに、意識はどこか遠い所から、自分を見つめているような感じだった。けど、そんなオレの心情なんて、当たり前だけど関係なくて、やがて式は最後の締めくくりへと入っていく。
「それでは式の最後に、新婦から皆様に当てたメッセージがあります。どうぞ、静粛にお聞き下さい」
仲人役の水瀬は、少し疲れの見える顔で、それでもこの結婚式を良いものにしようと思っているようで前を、しっかりと見据えている。そんな水瀬の言葉を受けて、新婦である美坂が係りの人からマイクを受け取って、立ち上がった。顔を隣の相沢に向ける。相沢は、そんな美坂の行動がわかっていたのか、同じように美坂のことを見つめると、こくりと頷いた。それを見た美坂は、相沢から視線を外して、まっすぐに前を──式に参列している人たちを見回す。そうして一度、深く深く息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。
「あたしには……妹がいました」
美坂の、悲しみを含んだ声が、室内に響き渡る。
「妹は、病気に罹っていました。医師からは、次の誕生日まで生きられないだろうといわれていました」
そこまで言うと、美坂は一度言葉を切って、顔を伏せた。長い髪のせいで、その表情は隠れてしまっていたけど、オレには今、美坂は何かを悔いているように見えた。やがて美坂は、顔を上げて言葉を続ける。
「あたしは、それが辛くて。そのことから目を背けました。あたしには妹なんて、いない。そう思うことで心を落ち着けようとしたんです。今思えば、ひどい姉だったと思います。ですが、当時のあたしは、それが最善だと信じ込んでいました。ですが、祐一が教えてくれました。そんな考えは間違っていると」
美坂は、視線だけを隣にいる相沢に向ける。その目は、心の底から信頼し、愛しているという感情が、浮かんでいた。
美坂に妹がいた事。それをオレが知ったのは、既に美坂の妹──栞ちゃんが亡くなった後だった。それまで美坂に妹がいるなんて、しかも病気だなんて知らなかった。美坂が、思い悩んでいるなんてことも知らなかった。けど、きっと知る機会なら……力をなれる機会ならあったのだ。だって美坂が、ふいに見せる物憂げで悲しそうな視線を、オレは知っていた。知っていたのに、何もしなかったのだ。相談にも乗らず、ただ表面上の美坂しか見てこなかった。結局、オレは当時、どうしようもないほどガキで、惚れた相手が、そんな悩みを持っているなんて見ようともしてなかった。
「祐一のお陰で、あたしはそれに気づくことができました。もし気づかなければ、あたしは一生、それを悔いたことでしょう。妹は、6年前にその短い命を終えました。今でも、それを思うと塞ぎ込んでしまう時があります。でも、祐一が傍にいてくれました。そして、これからも傍にいてくれると言ってくれました。そんな祐一と、あたしは共に生きようと思います」
そこまで言うと、美坂は天井へと視線を向けた。いや、違う。きっとその視線は、天井を越えて、その向こう側にある空を見ているのだろう。逝ってしまった妹に伝えようとしているのだろう。何故だか、そう思えた。
「長々と、あたしの話に付き合っていただきありがとうございます。どうしても伝えたかった。今日、参列していた皆様に、美坂栞というあたしの妹がいたことを、知っておいてほしかった。……ご清聴、ありがとうございました」
美坂は、マイクを置いて椅子に座る。話を終えた、その表情は、とても晴れやかだった。きっと吹っ切れた訳ではない。美坂にとって吹っ切れる類の、話では決してないだろう。それでも美坂の表情に悲しみはない。それは、きっと相沢がいるからなんだろう。オレは、自分の悪友でもある男を見る。相沢は、一人の頼もしく成長した男性の顔付きをしていた。そんな悪友である、親友の顔が、オレを余計惨めにさせた。
※ ※
「ただいまー」
オレは、声を潜めて帰宅の挨拶をすると、家のドアを開けた。
家の中は、全ての照明が落ち、暗闇に包まれている。当然と言えば当然。現在の時刻は、午前0時過ぎ。明日であったものは、とうに今日へと進んでいる。そんな時間に、玄関の照明がついている家のほうが珍しいだろう。それに今日、遅くなることは昨日──というより一昨日、事前に伝えていたので、家族がオレの帰りを待っているなんてことはない。なにより、我が北川家は息子が久しぶりに帰ってきたからといって、特別なことをしようとしないのだ。あくまで自然に、あくまで何もないかのように迎えてくれる。そんな家族の気安さが、気遣いのない優しさが、有り難かった。家を出た今は、心からそう思う。
そんなことを酔いの回った頭で考えながら、靴を脱いで廊下を歩いていく。首に巻かれたネクタイを外しながら、すぐ近くにあったドアを開けて入る。そこは、大きな机と3人分の椅子。そこから少し視線を動かすと、汚れや染みが年季を感じさせるソファとテレビがあった。
「しっかし、配置換えとかしないのかね。家の両親は」
そんな独り言を口にしながら、ずっと前から配置の変わらないリビングを通りすぎて台所へと向かい、そこにあったコップをひとつ取って、蛇口を捻った。コップに水を注いで、それを一気に飲み干す。それで少しだけ、酔いの回った頭がクリアになった。
「ちょい飲みすぎた、かな?」
そんなことを呟きながら、台所の壁に凭れ掛かる。
相沢と美坂の結婚式は滞りなく進み、無事終了した。最後の最後、ブーケを美坂が投げた時、それを水瀬と一緒に参列していた水瀬の母親が取ってしまったりして、どこをとっても、どれを取っても幸せで、楽しそうで、喜びに満ちていた。
それは、式の後の2次会でも一緒だった。高校の友人。相沢と美坂の、それぞれの大学の友人。色々な人が参加してたけど、皆2人を心から祝福していた。そう、皆喜びに満ちていた。オレ一人を除いて。
我ながら女々しい上に、嫌な奴だと思う。親友の、めでたい門出だと言うのに、表面上では笑っているのに、内心では心から祝福することが出来なかった。仕方ないことだと、今でも割り切れないでいる。何もしてこなかったのはオレ自身だと言うのに。
「腹……減ったな」
醜くて浅ましい自分の本性から目を背けるように呟きながら、近くにあった冷蔵庫を開けた。モーターの稼動する低く鈍い音が響く。そのブゥゥゥン、ブゥゥゥンという独特な音を聞きながら、冷蔵庫の中を覗き込む。そこには、ほとんど何もないカラッポの空間。そういえば、あまり買い置きをしない家だったっけ。それが我が家では当たり前のことだと知っているのに、何故だかオレは、苛立ったように冷蔵庫を乱暴に閉めた。まるで八つ当たりのようだった。それに自己嫌悪して溜息を付く。そんなオレの耳に、あの音が響いてきた。
オレは、不思議に思って視線を、横にずらす。そこには、きっちりと扉の閉まった冷蔵庫。けれど、どういう訳か、あの独特の低く鈍い音が聞こえてきていた。オレは、確かめるように閉じている冷蔵庫のドアに触れてみる。ひんやりとした感触が手に伝わってきた。それで、なんとなくわかってしまった。この音は──この低く鈍く耳に反響する音は、きっと今まであったものが無くなった音なんだ。無くしてしまった音なんだ。
そのことに気づいてしまったオレは、冷蔵庫に背中を押し付けながら、その場に蹲る。力ない、今にも泣きだしそうな笑い声が、どこかから聞こえてきた。少しして、それが自分の出した声なんだと気づく。
「ははっ……カラッポになっちまった」
目頭が熱い。ああ、泣くんだなっと、まるで他人事のように思う。けど、表面だけ取り繕って大人になったオレは、こんな時になっても、泣けなかった。ふと、列車に乗る前に見た本のフレーズが頭を掠めた。
『ずっと考えていたんだ。
実らなかった恋に意味はあるのかなって。
消えてしまったものは、始めから無かったものと同じなのかなって』
ああ、結局、あの本の最後はどうなったんだっけ?
思い出せなかった。そりゃ、そうだ。考えるまでもなかった。オレは、そのフレーズを見たと同時に本を閉じたのだ。結末なんて見ていないのだ。分かるはずなんてなかった。
「なぁ、教えてくれよ。答えが出ないんだよ。わからないんだよ。オレのこの気持ちはなかったことになるのかよ?」
自分でも誰に尋ねているのかわからない。気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。けど、もちろん答えてくれる人なんていなくて。惨めで女々しくて、どうしようもないオレの震える声は、暗いリビングの中に消えていった。
※ ※
高校の頃、過ごしていた自室で布団に包まっていたオレは、突然聞こえてきた携帯電話の音に叩き起こされた。無視したい気持ちを抑えながら、枕元に置いた携帯電話を掴む。二日酔いのためか、鈍く動きの悪い頭を軽く振りながら通話ボタンを押した。
「はひ、もしもし」
寝ぼけてくぐもった声を出しながら、ベッド脇に置いてあった時計の針が刺している時刻を見て、驚く。けど、電話口から聞こえてきた声は更に、オレを驚かせた。
『もしもし、北川君。おはようございます、だよ〜』
「はい? 水瀬」
電話の向こうから聞こえてきた、どこか間延びした声に信じられないような声で返す。それもそのはず。現在の時刻は午前5時。カーテンを少し開けて見てみると、まだ太陽も営業を再会してないような時刻なのだ。そんな時間に高校時代、万年ねぼすけの愛称で呼ばれていた水瀬から電話が掛かってきたのだ。これは、夢?
『あ、夢じゃないよ〜』
オレの思っていたことがわかったのか、水瀬はクスクスと笑いながら、そんなことを言ってきた。なんで考えていることがわかったんだろう。母親の影響?
『北川君? もしもしー』
「……あ、ああ、どうしたんだ、水瀬。こんな朝早くに。ねぼすけの水瀬にしては珍しい」
『もう、わたしだって、いつまでもお寝坊さんじゃないよ』
水瀬は、そんな風に言いながら、また笑う。手垢の付いた例えでいうなら、鈴がなるようにといったところだろうか。
『でね。北川君。これから会えないかな?』
「は? どうして」
『うーん、なんとなく、かな。北川君。明日の早朝、あっちに帰っちゃうんだよね?』
「ああ、うん。この時間より、少し遅いぐらいに。昼から仕事があるからな」
『大変だね』
「しゃあないさ。そんな何日も休めねぇからな。で、それがどうしたんだ?」
『うん。またしばらく会えなくなると思うから、その前にもう一度、会っておこうかなって?』
「ああ、なるほど。でもさ、何もこんな朝早くなくてもいいんじゃないか?」
『それはね。北川君に見せたいものがあるんだよ〜』
水瀬は、先ほどよりも楽しそうにコロコロと笑う。前のが一つの鈴だったとするなら、今回は10個ぐらいの鈴を連ねたような本当に、楽しそうな声だった。
「見せたもの?」
『企業秘密、だよ。それで、大丈夫かな?』
「ああ、まぁ、別にいいけど。それじゃぁ、水瀬の家に行けばいいのか?」
『ううん、わたしが北川君のお家に行くよ。そっちのほうが近いし』
「近い?」
『それも、企業秘密だよ〜』
秘密だらけだった。というより、ああ、そっか。企業秘密って、どこかで聞いたことがあるなと思ったら、水瀬の母親である秋子さんが、よく言っていたんだった。なんか、あまりにも水瀬の使うそれが堂に入りすぎていて、気づかなかった。
「まぁ、いいや。んじゃ待ってるから」
『うん、もう準備終わってるから、30分ぐらいで行けると思うから』
「はいはい。了解」
『うん、じゃぁ……あ、ちょっと待って』
用件が終わって、携帯を耳から話そうとした所で水瀬の、呼び止める声が聞こえてきた。再度、携帯を耳に押し付ける。
「ん、なんだ?」
『動きやすい服に着替えておいてくれると、嬉しいよ〜。それだけ、じゃぁ』
水瀬は、そういい残すと今度こそ、本当に通話を終了させた。オレは、携帯を耳から話して前のほうに持ってくる。ツーツーと鳴っている携帯を凝視する。
「動きやすい服?」
そうして、約束の時間より少し早く、水瀬はオレの家へとやってきた。いつも担任の教師と、競争を繰り広げていた高校の頃が嘘のようだった。
「おはようだよ。北川君」
にこりと笑いながら、挨拶をする水瀬。その額には玉のような汗が、いくつも浮かんでいた。どうやら走ってきたらしい。そのためなのだろうか? 水瀬は、スポーツウェアを着ていた。用意がいいことで。
「ああ、おはよう。走ってきたのか?」
けど、その言葉を、水瀬は聞いていないようで、オレの服装を上から下へとまじまじと見つめていた。それに居心地の悪さを感じて、堪らず声を上げる。
「水瀬?」
「あ、うん、ちょっとランニングしてきたの。北川君も……うん、その服なら大丈夫だね」
「あ、そう」
そう言いながら、自分の服装を見る。動きやすい服と言われたので、寝間着用にと持って来ていたジャージの下にトレーナーを着込んだだけなのだが、どうやらこれでよかったらしい。というか、さっきオレもって、言わなかったか?
「なぁ、もしかしてオレをランニングに誘いに来た?」
「うん、半分はね」
「半分?」
「もう半分は、企業秘密だよっ」
そういうと水瀬は、踵を返して玄関から離れていく。そして、門の所でこちらを振り返ると口を開く。
「ほら、北川君。いこっ!」
「お、おい、水瀬!?」
オレは、いきなり走り出した水瀬を止めるように声を上げる。けど、水瀬は、文句は聞きませんとばかりに、先に先にと走っていく。そのあまりの水瀬の強引さに、違和感を覚えながらも仕方なく後を追いかけた。
もう何分も……何時間も経ったように感じながら、オレは走っていた。水瀬は、容赦なかった。仕事を始めて、運動をしなくなったオレを苛めるように、あちこちへと無軌道に走り続ける。堪らなくなって足を止めると、「ダメだよぉ。ゆっくりでもいいから走らないと」となんて、言いながらオレの後ろに回って背中を押してきた。
「み、水瀬」ハァハァと荒く息を何度も吐き出す。「ちょ、ちょっと、休ま、ないか」
「うん、もう少ししたら休憩にするから、ふぁいと、だよ」
にこりと、極上のスマイル。でも、酸素欠乏、体鉛状態の今のオレには、それが恨めしい。たしかに、大会で優勝するぐらいだから凄いのは知ってたけど、ここまでとは。こっちは息も絶え絶えだってのに、水瀬は額に汗は浮かんでいるものの、涼しい顔で悠々と走っていた。
そうして続いた、ある意味、歳を痛感させる強行軍は、唐突に水瀬が足を止めたことで終わりを迎えた。
「はい、ここで休憩だよー」
そんな水瀬の、のほほんとした声が頭上から聞こえてくる。けど、言葉を返す余裕なんてもちろんない。オレは、膝に手をついて、冷たい空気を何度も吸っては吐く。
しばらく、そうしていると心臓の動悸は激しいものの、なんとか落ち着いてきた。オレは、膝から手を離して、今自分がいる場所を見渡す。そこは、舗装された道路以外まるで文明の進化から置いていかれたような、辺りに民家すらない場所だった。どうやら、ここは商店街や住宅がある所から、少し離れた場所らしい。きっと、交通の面的にも、さしてメリットがなかった場所なんだろう。こういう所が、普通にあるということが、町が田舎たる所以じゃないのだろうか。そんなどうでもいいことを思いながら、オレは深呼吸をする。水瀬は、それを見るとにこりと笑った後、ついっと視線を横に逸らせた。釣られて、そちらに視線を向ける。そこにあるのは、曇った空と、所々に転々とした町の明り。そして、黒く存在感のある山。その山には、まるで空を突き抜けようとするかのような大きな木と、その木を中心に、手を伸ばすように扇形に広がった木々が生えていた。その均等が取れた配置で生えた木々は、精悍さで満ちていた。けど、その木々のどれにも葉はついていない。この時期なら、当たり前のことなんだろうけど、存在感がある大きな木があるせいだろう。どこか物寂しそうな雰囲気で満ちていた。そんな風に思っていると、ふと、隣から嘆息交じりの声が聞こえてきた。
「うーん、残念。やっぱり見えないか〜」
「は?」
「あのね。このぐらいの時間に、太陽が上がるんだけど。ちょうどあの大きな木に重なってね。凄く綺麗なんだよ」
水瀬は、まるで宝物を打ち明ける子供のように、嬉しそうにはにかんだ。それを見て、漸く合点がいった。つまり、水瀬が見せたかったものとは、その景色なのだろう。
「へぇー、知らなかった。それは見てみたかったな」
「うん、北川君にどうしても見せたかったんだ」
「ん、サンキュ」
どういう意図で、水瀬がそう思ってくれたのかはわからないけど、その気持ちは素直に嬉しかった。水瀬は、オレの言葉を聞くと、にこりと笑って山のほうへ視線を向ける。多分、その綺麗な景色を重ね合わせているのだろう。見たことのないオレには、どんなものなのかわからなかったけど、それでも想像してみようと視線を山へと向ける。そうして、二人しばらく、物寂しそうに佇む大きな木を眺めた。
もう、どれだけの時間が過ぎたか、わからなくなってくるぐらいオレ達は黙って、木を眺めていた。その沈黙を破ったのは、水瀬のほうからだった。
「ねぇ、知ってる北川君。あの大きな木ね。切り倒されて、もう伸ばさない予定だったんだよ」
「え?」
水瀬の言葉に、驚く。けど言われてみれば、たしかに生まれてから高校卒業まで、ずっとこの町にいたのに、あんな大きな木を見たことはなかった。
「祐一がね。どうしてだかわからないけど、あの木が伸びた所が見たいって言って、掛け合ったらしいの。伸ばさないって取り決めをしたところに」
「相沢が?」
「うん、なんでだかわからないけど、凄く一生懸命に話をして、周りに囲いを作って誰も子供が、無闇に立ち入れないようにするって条件で、OKを貰ったらしいの」
「へぇ。なんで、そんなことしたんだ。あいつ」
「自分でもわからないんだって。ただもう一度、あの木が立った所を見て、謝らないと前に進めないって言ってた」
「謝る?」
「うん、祐一自身も誰にかは、わからないらしいんだけどね」
その言葉を聞いて、オレは呆けたように「へぇ」とだけ返した。たしかに相沢は、奇行に走る面も多かったけど、それだけで、そこまでは、さすがにやらないだろう。多分、相沢にしかわからない、何かのケジメだったんじゃないか。オレには、どうしてかそういう風に思えた。
「あ、そっか。なるほど。水瀬は、その相沢のがんばりの証を見せたかったんだな?」
「ううん、そうじゃないよ」
合点が言ったとばかりに、指を鳴らしながら言ったオレの言葉に、水瀬は力なく頭を振った。
「うん……そうじゃないんだよ。ただ、あの景色があったから、わたしは祐一と香里のことを祝福できるようになったから」
その言葉に胸が、体を突き破りそうなぐらいドクンと跳ねた。水瀬は、こちらを静かに見つめる。オレは、動揺しているのを気づかれまいと、口元を上げて笑顔を作ろうとした。ギギギッと、まるでゼンマイ仕掛けの人形のようにしか動かない頬の筋肉が恨めしい。それでも、いつも通りを演じるために、隣の水瀬に笑いかける。そう、いつも通り。いつものように何も気づいてない振りをして、ヘラヘラと笑うのだ。
「水瀬は、相沢のことが好きだったんだ」
「うん、ずっと前から、ね。そんな祐一が立てた木のおかげなんて、変な気分なんだけどね」
そう言って、水瀬は肩を竦めた。その顔は、とても晴れ晴れとしていた。オレは、そんな水瀬から視線を外すように、前方にある木へと視線を戻した。
「……そか。水瀬は強いんだな。そんなに想っていた相沢のことが、吹っ切れるなんて」
「強くなんかないよ。ホントは凄く凄く辛かった。辛くて苦しくて、祐一と香里の仲を引き裂こうと考えたことだってあるよ」
その水瀬の言葉は、オレを少しだけ驚かせた。いつものほほんとした笑顔の水瀬は、そんなドロドロとした感情とは無縁だと思っていたのだ。でも、少し考えれば当たり前のことなんだろう。誰だって、持って当然の感情なのだ。恋は、ドラマや漫画のように綺麗なものばかりじゃない。むしろ相手を好きになればなるほど、かけ離れていく。独占したい、自分の理想通りでいてほしい、自分の思い通りにしたい。そんな醜い感情が広がっていく。叶わない恋なら尚更だ。それを……オレは知っている。
「でも、そんなことを考える自分が嫌で、許せなくて、気づいたら家を飛び出して当ても無く走ってた。きっと酸素を吐き出すことで、胸の奥にあった黒い感情を追い出したかったんだろうね」
追い出せるわけないのにね、と水瀬は、苦笑する。ああ、そんなわけない。腹の底に堪ったものは、こびり付いて中々、離れてくれないのだ。
「もう、訳がわからないぐらい走って走って、気が付いたらここに来てた。そしたら、ちょうど夜明けでね。太陽が、あの木に隠れるように上ってきたんだ。木には雪が積もってて、白く輝いて、凄く綺麗だったんだよ」
「……へぇ」
しぼり出すように、なんとかそれだけを口に出す。横目でちらりと見ると、水瀬は口元をきゅっと引き締めていた。
「これが答えだよ。駅のホームで、北川君がわたしに尋ねようとした」
水瀬は、そう言うと口元を緩め、穏やかに微笑んだ。その笑顔は、まるで何もかも分かっていて、全てを包み込もうとするような優しさに満ちていた。ああ、とそこで自分の勘違いに気づいた。水瀬は、内面だけが成長した訳ではなかった。きちんと、表面のほうも大人の女性になっていたのだ。だって、今水瀬が浮かべている表情は、結婚式で相沢と美坂を見つめていた、慈愛に満ちた秋子さんの表情、そのものなのだから。
「……気づいてたのか?」
「なんとなく、だけどね」
「そっか……ははっ、気づかれてたか?」
自傷するような、力ない笑い声が口から漏れる。情けないったらなかった。自分の気持ちを気づかれて、それを必死で目を背けようとしていることを知られていただなんて、無様過ぎる。水瀬は、そんなオレの様子を見て、心配そうに眉を下げる。けど、少しして何事か決心したかのような顔つきになり、オレのことをしっかり見つめてきた。
「北川君。きっとわたしが、その時の感情を伝えるのは、凄く簡単だよ。でも、それじゃ何にも解決しないんだよ」
水瀬は、真剣な眼差しでオレを見つめる。それは、初めて水瀬がオレに見せた強い願いを込めた、瞳だった。
「この答えは、きっと本人が見つけないといけない。そうじゃないと何の意味もないんだよ。だから、ね。わたしに出来るのは、ここまで」
最後に、そう締めくくって先ほどまでしていた真剣な眼差しを緩めて、ひまわりのようににこりと水瀬は微笑んだ。その笑顔が、今のオレには眩しくて、温かすぎて目を逸らす。
なぁ、水瀬。そんなこと言わず教えてくれよ。
解決しなくてもいいんだ。楽になりたいんだ。
叶わなかった恋に意味なんてないんだって、言ってくれよ。
無くなってしまったんだって思い知らせてくれよ。
オレは──カラッポになったんだって言ってくれよ。
そんな言葉が、頭の中をぐるぐる、ぐるぐると回る。けど、そんな惨めったらしい言葉は、結局声に出来るわけもなく、オレは腹の底へと飲み込んだ。
※ ※
まだ夜も明け切らない夜。オレは、駅の外にあるベンチに座っていた。気温は、相変わらず低くて凍えそうになるけど、そのほうがよかった。この寒さが、空回る頭を鈍くしてくれていた。この風の痛さが、全てを無くしたんだと教えてくれた。
白い息を吐き出しながら、黒で塗られた空を見る。そこには、まるで抵抗するように輝く星空があった。黒一色なら、おまえも楽だろうにな。そんな風に、頭上に広がる空に話しかけてみる。けれど、空からして見れば、そんなことはないことはわかってる。
星があるから皆、頭上を見上げるのだ。皆、無数にきらめく星に祈るのだ。空は、その全てを包み込んで、これからも皆ががんばれるように星を輝かせ続けているんだろう。そんならしくもないことを考えている自分に、苦笑する。案外、オレは文才があるのかもしれない。しまった。それなら小説家を目指していれば、印税でウハウハだったのにっ! なんて心の中で軽口を叩いてみるけれど、気持ちは晴れなかった。
今頃、相沢と美坂は、どうしているのだろうか。式を行った翌日に新婚旅行へと向かった二人は、どうしてるだろうか。きっと美坂は、相沢の腕に抱かれて、幸せに眠っているんだろう。その様子を想像すると、胸がズキリと痛んだ。痛いのは嫌いだ。だから、もうやめてくれ。もういいだろう。カラッポになったんだから、いいだろう?
どれぐらいそうしていたんだろうか。ふと腕に巻かれた時計を見てみると、列車の発車までもうすぐだった。オレは、座っていたベンチから立ち上がる。冷え切った体は、思うように動いてくれなくて、からくり人形のようにカクカクとした動きだったけど、構わず歩き出した。そうして、駅の階段近くまで来たところで、一度だけ振り返った。そこから見えるのは、5年前とまったく変わらない景色。オレは、それを一瞥した後、階段を上っていった。
駅のホームに来ると、もう既に列車は到着していた。列車は、まるで休憩しているかのように静かに佇んでいる。そんな列車を少しの間眺めた後、オレは近づいていく。そうして、ドアの前まで来ると、そこで足を止める。ああ、とそこで自分が何故、階段を上る前に振り返ったのか、その理由に気づいた。きっと、もうここに帰ってくることはないからだ。たしかに両親がいる街だし、偶には帰ってくることもあるかもしれない。でも、それだけだ。もう前と同じ気持ちで、この街に帰ってくることは無い。もう叶わなかった恋の意味なんて、考えることもない。ちくりと胸が痛んだ。けど、オレはそれに気づかない振りをして、列車の中へと足を踏み込もうと足を上げた。けれど、上げたかけた足は、結局ドアを跨ぐことなく下げることになった。突然、ホームへと現れた水瀬の姿を見たからだ。
水瀬は、息を切らしながら辺りをキョロキョロと見渡していた。けど、程なくしてオレの姿を見つけると、安心したような顔付きをして駆け寄ってきた。
「き、北川君。お、おはよう、だよ」
酸素が足りないんだろう。変なところで言葉を区切りながら、にこりと微笑んだ。その額には、昨日のジョギングの時よりも多く浮かぶ、汗の玉。
「水瀬、どうしたんだよ?」
「もちろん、お見送りに来たんだよ」
当然だよ、と言うように水瀬は、胸を張る。それに「そっか」とだけ答えて、口元を少しだけ緩める。水瀬は、いつも通りだった。きっと、いつも通りを演じてくれようとしているんだ。
昨日、あの何もない道路で言葉を交わした後、オレは水瀬を置いて家へと帰ってしまった。大人の女性になった水瀬を見ていると、ガキのままの自分が浮き彫りになるような気がして、逃げ出すように帰る、とだけ言って走り去ったのだ。だから、いつも通り接してくれる水瀬が嬉しかった。
「北川君。あっちに帰っても、ふぁいとだよ」
「おう、まぁ、適当にやるわ」
「適当じゃダメだよー」
「ははっ、冗談だって」
高校の頃のような掛け合い。本当に、あの頃に戻ったようだった。真面目な水瀬を、からかうオレと相沢。そんなオレ達に、キツイ突っ込みをする美坂。ああ、あの頃に戻りたい。あの頃に戻ってやり直したい。けど、そんなのは漫画やアニメの世界でだけ可能なこと。だから、オレはこの町を離れる。全部、諦められる。もう全て終わったことだからと──。
【まもなく、一番線乗り場、○×行き。発車致します】
しばらくしてホームにあるスピーカーから、そんな言葉が聞こえてきた。オレは、そのアナウンスを聞きながら、手を上げて水瀬に笑いかける。
「あ、じゃぁ、オレそろそろ行くわ」
「……うん」
別れの言葉に、水瀬は辛そうな顔をする。心根が素直で優しい水瀬には、やっぱり別れの瞬間は辛いのかもしれない。オレは、安心しろよっという風に笑って見せる。けど、上手く笑えた自信はなかった。
「んじゃ、な」
オレは、今度こそ列車の中に入ろうとする。けど、一度あることは二度あるということなのか、ふいに水瀬が「待って!」と叫んだ。その、あまり水瀬に似つかわしくない切羽詰った声に、慌てて振り返ると、そこには白い小さな箱があった。
「水瀬?」
「プレゼント、だよ」
そう言って水瀬は、その箱をオレの胸に押し付ける。訳が分からず、その箱を受け取りながら不思議そうに水瀬を見る。そこには、穏やかな笑顔があった。
「ねぇ、北川君?」
「ん?」
「きっと、今、北川君は全部、無くしちゃったように感じてるんだと思う」
ちくりと胸が痛む。その通り過ぎて、言葉が出なかった。
「でもね。それは違うんだよ。失くした訳じゃないんだよ。全部、失くしてないんだよ。それだけは覚えておいて。今は分からなくてもいい。でも、それだけは忘れないで」
その言葉が終わると同時に甲高い笛の音が、聞こえてきた。それを聞いて、オレは慌てながら列車のドアを跨ぐ。振り返って後ろを見ると水瀬は、泣き出しそうに顔を、くしゃっと歪ませた。でもそれは一瞬で、やっぱり笑いながら胸の前で小さく手を振ってくれた。
「じゃぁ、またね」
「あ、ああ」
プシューという空気の抜けるような音が鳴る。ドアが水瀬とオレの間に割って入るように、現れた。水瀬は、それでも手を振り続けていてくれた。
列車が動き出し、水瀬の姿が横へと流れていく。それを呆然と眺めながら、オレは水瀬の言葉の意味を考えていた。
カタンコトンと列車は、一定のリズムを刻みながら進んでいく。そのリズムに体を崩されそうになりながら、なんとか座席へと辿りついた。少し慌てながら座席の背凭れを掴むと、ふぅと人心地つくようにオレは、息を吐く。
座席に座っている人は、ほとんどいなかった。一杯ある座席に、ぽつりぽつりと座っているだけで、ほとんど貸し切り状態に近い。それを不思議に思いながら、ああ、そういえば今日は平日だったと気づく。加えて、早朝ということもある。そりゃ、人が少ないってものだろう。
そう結論付けると、持っていた鞄を座席の隅へ投げ捨てる。そして、その上に水瀬に貰った箱を置いてから腰を下ろす。
来たときと同じように窓へと視線を向ける。窓の外は、相変わらず、まるでオレのように変わることを忘れたような町並広がっている。そんな町並みが緩やかに、後ろへ後ろへと吸い込まれるように流れていく。まるで掃除機のようだな、なんてどうでもいいことを思った。
結局、水瀬の言った言葉の意味はわからなかった。いや、何が言いたいのかはわかる。けど、それだけだ。全部、失くしてないだなんて、そんな風に割り切ることなんかできない。女々しくて、惨めったらしいオレに出来るわけなんかない。だから、オレは逃げるように、この街を離れる。横へ横へと景色が吸い込まれていく列車に、オレの思い出も吸い込まれていけばいいと思った。変わらない町にいた、変われないオレの思い出なんて吸い込まれて、無くなってしまえばいいと思った。
しばらく、そうしてボーと窓を眺めていたオレの目に、あるものが飛び込んできた。それは、まだ米粒ぐらいの大きさでしかなかったけど、きっとあの山だろう。列車の進行方向の先の先に小さく映る、水瀬に教えてもらった、あの山があった。何故そんな小さな物がわかったのか。その答えは簡単だった。山の背には目を覚ました太陽が昇り、あの大きな木を照らしていたからだ。そういえば、水瀬があの木に太陽が重なる時を絶賛していたっけなんて思いながら、窓の縁に頬杖を付く。あと少しで、ちょうど座席が、山の真正面にくる所だった。正直、あまり興味はなかった。綺麗な景色なんて、今はどうでもよかった。けど、太陽を背にして、どっしりと存在する山を真正面に見たとき、言葉を失った。
大きな木を中心に、まるで手を伸ばすように伸びた小さな木々の群れが、太陽の光を受けて一組の形を模していた。木の枝が、骨組みを作り、その骨組みに太陽が形を与えているそれは──。
それは、まるで天使の羽のようだった。
どうしてだろう。天使の羽の中心部。例えるなら人の形を担当している大きな木が、にこりと笑っている少女の姿に見えた。けど、それは一瞬で、すぐその景色は、後ろへと吸い込まれていった。オレは、慌てて座席から立ち上がると、列車の進んでいる方向とは逆に走り出す。前に進んでいる列車の中で後方に走り出したため、まるで進んでいないような錯覚を覚えながらも視線を窓へと固定したまま、足を動かす。まるで吸い込まれてしまった物を取り戻そうとするかのように。けど、その行動も長くは続かなかった。
程なくして列車の端にたどり着いてしまったオレは、息を乱しながら小さな窓の外を覗いた。変わらず佇む山を、見つめるために。この目に焼き付けるために。ふと、ストンと心の中に何かが落ちてきたように感じた。つっかえていた物が取れたような気がした。
やがて山が完全に見えなくなると、ふぅっと息を吐き出してから座席へと向かう。そこで、漸く水瀬に貰った箱のことを思い出したオレは、座席に座りながら箱を手に取って蓋を開けた。そこには、着物姿の美坂と水瀬、そしてスーツを着た相沢とオレが写っている写真が一枚入っていた。
「これ、卒業式に撮ったやつじゃん」
そう呟きながら、写真を持ち上げる。懐かしいなと思った。それから、水瀬ってホントお節介だよなーと苦笑を漏らす。ふと、手に持った写真に水滴が落ちる。その水滴がなんなのか、初めはわからなかったけど少しして、それはオレが流した涙なのだと気づいた。
何も──なくしてなんかいなかった。オレはカラッポになんかなっていなかったんだ。たしかに、オレは失恋した。だけど、そうじゃない。オレは恋を失ってなんかいない。だって、オレの中には美坂と過ごした記憶が残っている。こんなにも鮮明に思い出せる。なら、失ってなんかいない。初めからなかったものと、同じなんかじゃない。
いつか、その想いも色あせてくるのかもしれない。でも、オレの心には残り続ける。あの山のように。オレの心にも大きな木が伸びて、あの天使の羽のように輝き続けるんだ。変わらないものは、いつか変わってしまっても残り続けるんだ。
「ははっ、なんだ。簡単なことじゃん」
そう呟いたオレの心は、この5年間の中で一番晴れやかだった。今なら、言える気がした。いつか置いてきてしまった言葉を伝えられる気がした。
オレは、ズボンのポケットから携帯電話を取り出すと電話帳から美坂の名前を呼び出す。通話ボタンを押す寸前、早朝だし迷惑かなっと思ったけど、構わず押す。こんな時ぐらい、大目に見てもらおう。何しろ今日は、オレの再出発……。ホントの意味での再出発なのだから。
耳に当てた携帯から、電子音が数秒響く。中々、出ない。でも構わず、鳴らし続けた。
やがて、携帯から『はい』という眠そうな声が聞こえてくる。
「よう、美坂、おはよ」
『おはようって、北川君。今何時だかわかってる』
向こうから聞こえてくる、美坂の不機嫌そうな声。それに頬を緩める。ふと前を見ると、列車はもうそろそろトンネルに、差し掛かろうとしている。
「悪い悪い。ちょっと伝えたいことがあってさ」
『へ? 何を?』
「結婚おめでとう」
『は? 何よ。今更』
「まぁ、こっちにも色々あるんだよ。でさ」
やっと心から、おめでとうを言えた。まずは、それに満足。さぁ、後は置き去りにしてきた言葉を伝えよう。忘れ物を届けよう。トンネルは、もうすぐ目の前。間に合うだろうか? まぁ、間にあわなかったら、それはそれでいいや。どの道、置き去りにして埃の堪った言葉だ。どの道、オレの中にずっとずっと残り続ける言葉だ。だから、まぁ、戯言ということで。
『なに?』
「知ってたか? オレさ、おまえのこと──」
言葉を発しながら、オレは、ここに来る前に見た本を全巻揃えよう、なんて思っていた。
『ずっと考えていたんだ。
実らなかった恋に意味はあるのかなって。
消えてしまったものは、始めから無かったものと同じなのかなって』
ある。意味なら、ある。初めからなかったものと同じなんかじゃない。
実らなかった恋だって、0になるわけじゃない。
だって、オレの中には美坂と過ごした日々があるんだから。
美坂の笑顔を思い出せるんだから。
続いていく日々の中で、きっと何時でも──何年経っても思い出せる様に。
その記憶は天使の羽のように輝いているんだから──。
感想
home