祐一が綾香に出会ったのは大学に入学した年の春。
 あの日のことはいまでもよく覚えている。大学に入って最初の講義があった日だった。
 少し早く着きすぎたのか、講義の行われる教室の中の学生はまばらだった。
 祐一は窓際の席に着いた。
 同じ学部の学生に知り合いはいなかったので、祐一はひとりのんびりと講義の開始を待った。
 ぼんやりと窓の外を眺めると、校門から校舎までの桜並木を学生が長い列を作って歩いてくるのが見えた。
 県内の文系私立大学。水瀬家から決して通えない距離ではなかったが、祐一は高校を卒業するのと同時に一年半お世話になった叔母の家を出た。正確にはあの街を出た。
 秋子さんや名雪は反対したが、卒業したら街から離れようと、もう随分前から決めていた。
 あの街には悲しみが多すぎる。
 8年前の悲痛な記憶。
 目を閉じれば今でも浮かぶ、紅い夕焼けと赤い血だまり。
 全てを思い出したとき、あゆはあの街から消えていた。毎日のように商店街で会っていたのが嘘のように、何ひとつ残さず、祐一の前からその姿を消していた。
 いくら探しても彼女はもうどこにもいなかった。
 まるで最初から存在していなかったかのように。
 そしてその数日後。
 新聞の片隅に載せられていたわずか数行の、7年間病院で眠り続けていた少女が亡くなったという記事。
 それで全てだった。
 それからは絶望と悲しみの日々。励ましてくれる友人はいたが、それでも祐一の心が晴れることはなかった。
 あゆはきっと俺のことを恨んでいる。長い間、大切なことを忘れてのうのうと生きてきた俺を。
 この苦しみはそんな自分への罰なのだと感じたし、これぐらいの罰だったらいくらでも受けるつもりでいた。そうやって祐一はどんどん塞ぎ込むようになっていった。
 このままではいけないと思い始めたのが、あの街が再び雪に包まれた去年の冬の初め。
 白い雪が街を覆い隠し、たい焼き屋が商店街に店を出すようになったら、あゆもまた祐一の前にひょっこり現れてくれるのではないかという自分勝手な願いも簡単に打ち砕かれた頃。
 いくら待ってもあゆはもういないのだと心のどこかで納得し始め、同時にこの街から出ようと決心した。悲しみを心の隅に追いやり、新たな一歩を踏み出すために。
 大学の近くで部屋を借り、新しいこの街でまた最初から始めるのだと決めたのだ。
 でも、と祐一は窓から雲ひとつない青い空を見つめた。
 本当に忘れることができるのだろうか。
 絶望を。悲しみを。あの赤い色を。もう二度と出会えない、初恋の女の子のことを。
「あの、隣の席いいですか?」
 突然横から声をかけられ、祐一は慌てて教室へと意識を戻した。
 知らない間に教室は随分と賑わってきていた。空いている座席も残り少しだ。
「ああ、どうぞ」
 そう言いながら祐一は声の主に顔を向けた。
 その瞬間、祐一はぎょっとした。
 我が目を疑い、体のバランスを失ってよろめき、危うくその場で倒れそうになった。
「……あゆ?」
「は?」
 祐一の目の前にあゆがいた。
 ―――いや。違う。
 あゆと同じ顔の女性がそこにいた。
 でも、全く同じだ。目も、鼻も、口も、髪も、背の高さも。何もかも。まさに瓜二つだ。
 反応のない祐一に、あゆ似の女性は怪訝そうな顔をした。
「あのー」
 女性が再度呼びかけてきたが、祐一は石のように固まったまま動かない。
 そのとき、教室の前の扉から講義の教員が入ってきた。
 祐一はようやく我に返り、「あ、ごめん」と慌てて長椅子のすみに寄って席をひとつ空けた。
 あゆ似の女性は不思議そうな顔をしながら祐一の隣の席に着いた。
 教室が静まり、教壇に立った講師が何やら話し始めたが、もちろん祐一の耳には何も入ってきやしなかった。
 横目で隣の女性の姿を盗み見て、改めて驚いた。
 だけど、よく見ると少し違う。髪はあゆより細く、少し長い。赤いカチューシャもしていない。薄く塗られた化粧は、恐らくあゆには絶対真似できないだろう芸当だ。
 似ている。似ているけど違う。
 そうだ。あゆのはずがないと、祐一は強引に視線を教壇のハゲ講師へと向けた。
 あゆのはずがない。だって、あゆはもうこの世界にいないのだから。

 結局頭にもノートにも何も残らなかった講義の後。
 あゆ似の女性は松崎綾香と名乗った。
 祐一も自己紹介をすませ、とりあえず講義の前のことを謝った。
「さっきは悪かったな。なんか変な反応しちゃって」
「ああ、いいですよ。ちょとびっくりしたけど。まさか私の顔に何か変なのでもついてました?」
「まさか。友達に顔がすごく似てたからさ」
「へえ。もしかしたら彼女ですか」
 祐一は苦笑した。
「そんなんじゃない」
 そう、そんなのじゃない。
 俺にとってあゆは……。



 綾香は地方から来ているらしく、祐一と同じくこの春から大学の近くで一人暮らしをしているという。
 当然、学内に知り合いはおらず、大学で最初に話したのが祐一だったのだという。
 学部内に友人がいなかった祐一とは自然と話す機会が多くなった。
 祐一は最初こそ綾香の顔に戸惑ったものの、綾香の明るく、人懐っこい性格のためか、ふたりはすぐに仲良くなっていった。
 ある日は。
「俺今日はもう帰るから、次の授業の出欠頼む」
「えー。またあ?」
「バイトなんだよ。いま忙しくってさ」
「そんなバイト辞めちゃえばいいのに」
「辞めたら路頭に迷うことになるからそうはいかない」
 またある日は。
「悪いんだけど、明日のレポート見せてくんない?」
「たまには自分でやりなさい」
「来週こそは自分でやるよ」
「その台詞は聞き飽きました」
 そしてまたある日は。
「眠い。眠すぎる」
「学校来て早々に言う台詞とは思えないんだけど」
「実は昨日寝るのが遅かったんだ。悪いけど、講義が終わったら起こしてくれー」
「もう完全にダメ大学生だね」
 そう、もう完全にダメ大学生になっていた。
 学費以外は全て自分で払うというのが祐一の親から出された一人暮らしの条件だった。そのため、ほぼ毎日アルバイトの日々。それでもお金が足りることはなかった。明日のレポートよりも、明日の食事の方がはるかに大きな問題だ。
 入学してから2ヶ月。
 大学の新しい友人も増え始め、ようやく大学生活にも、慣れない一人暮らしにも慣れ始めた頃。
 もう少し時給のいいバイトでも探そうかと、午後の講義の前の教室でアルバイト情報誌をパラパラめくっていると、「何見てるの?」と綾香が横から声をかけてきた。
「新しいバイト?」
 雑誌をめくる手を休めることなく祐一は頷いた。
「時給いいところ探してるんだけど」
 近場で探しているような条件の仕事はなかなか見つからないようだ。
「よかったら私のバイト先、いま募集してるよ」
「ふーん。時給は?」
「ここら辺では結構いい方かな」
 綾香が口にした金額は、いまの祐一のバイトよりも金額が200円ほど高かった。
 祐一はすぐさま飛びついた。
「ここから近いのか?」
「割と近いよ。でも激務だぞー」
「紹介して下さい。是非」
「これからちゃんとレポートを自分でやってこれたら紹介してあげてもいいかな」
 綾香は満面の笑みを浮かべてそう言った。

 綾香に紹介されたバイト先は大学からのんびり歩いて20分ぐらいのところにある洋食屋だった。
 車の往来がほとんどない並木道にひっそりと佇む、レンガ造りのちょっとオシャレな店。車の騒音も、学校のざわめきもここまでは届かない。学校の近くの店はほとんど押さえたつもりでいたが、こんなところにこんな店があるなんて全く知らなかった。ちょっと秘密の場所でも見つけたような気分になる。
 大学が休みの日の正午過ぎ。
 綾香の紹介で店長の簡単な面接を受けた祐一は、よほど人手が足りないのか、その場で一発合格を言い渡された。
「じゃあ来週の土曜日から頼むよ」
 そう言いながら真新しいエプロンを渡される。
「はい、よろしくお願いします」
「期待しているよ」
「はあ」
 面接の中で期待されるようなことを言っただろうか。全く思い当たる節がない。
 店長にお礼を言って店を出ると、店の前で綾香が待ってくれていた。
「おめでとう。バイト受かったでしょ」
「よく分かったな」
「私が店長に超大型有力新人ですって絶賛しておいてあげたから」
 期待の原因はコイツにあるようだ。
「変なプレッシャーがかかるだけなんだけどな」
「期待を裏切らないためにも、頑張って働いてくれたまえ」
「はいはい。ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします、綾香センパイ」
「ふふふ。任せなさい」
 よく晴れた日の昼下がり。静かな住宅街に祐一と綾香の笑い声は楽しそうに響いた。

 そして新しいアルバイト初日の土曜日。
 落ち着いた店の外観とは裏腹に、その厨房は怒涛の忙しさだった。
 オーダーが入る。
 カウンターで客が呼ぶ。
 レンジが鳴る。
 オーブンが焼き上がる。
 フライパンからは火の手が上がる。
 料理を運ぶ。
 テーブルを拭く。
 シルバーを洗う。
 食器も洗う。
 手が滑る。
 皿が割れる。
 店長が怒鳴る。
 鬼のような忙しさの数時間が猛スピードで流れ、最初の休憩時間を迎えたときには祐一はもうフラフラになっていた。
 なるほど、これならあの高額な時給にも納得がいく。むしろもっと貰ってもいいぐらいだ。
 祐一が休憩室のソファーで完全に伸びていると、どこからかおいしそうなにおいがしてきた。
 振り返ると、綾香が何かの料理を持って休憩室の入り口のところに立っていた。
「はい。おつかれさま」
 そう言って差し出された残り物のエビピラフはとてもとてもおいしかった。

 バイトのあと、家の方向が一緒だったので、祐一と綾香はふたりで帰った。
 緑の多い並木道をのんびりと歩く。最近になってようやく暖かくなってきたような気がするが、それでも夜はまだ少し冷える。頭上には綺麗な三日月が輝いていた。
「にしてもすごい忙しさだったな」
「だから言ったじゃん。激務だって。地元じゃ結構有名な店なんだって。遠くから来るお客さんもいるみたいだよ」
「へえ。通りで。にしてはあんまり学生っぽいヤツいなかったな。学校近いのに」
「恋人同士で来てるひとは結構いるけど、あんまりみんなで騒いだりする店じゃないからね。私たちの大学ではそんなに知られてないって先輩が言ってた」
「あれで学生がコンパなんてしに来たら、俺は過労死するぞ」
「へへへ。相沢君バテバテだったからね」
 そう言う綾香には疲れの跡が全く見えない。
 それに対して祐一は、綾香が言うように全身バテバテだった。
「……全然役に立ててなかったよな、俺」
「んー、そうかなあ。店長は初日であれだけ動ければ上出来だって言ってたよ」
「おだてても何も出ないぞ」
「そんなつもりで言ったんじゃありません。でも料理を作るのはもうちょっと先かな」
「料理は苦手なんだよ」
 その点、綾香は料理がとてもうまかった。
 綾香もこのバイトを始めてからまだ3ヶ月ほどだが、簡単な料理を作るのはもう任されている。休憩のときに食べさせてくれたエビピラフも綾香が作ったものだという。
 顔が同じでも、そこらへんのところはあゆとは違うな。
 そう思ってふと気がついた。
 久しぶりにあゆのことを思い出した。
 白い霧の中から、綾香とは違うあゆの顔が浮かぶ。
 ここ最近忙しかったからかな。
 それとも少しずつ、忘れてきているのだろうか。8年前の悲しみも、1年前の再会の喜びも、そして味わった絶望も。
 こうして忘れるためにあの街を後にし、この街に来た。
 でもそれは果たして良いことなのか悪いことなのか。祐一自身にもよく分からなかった。
「で、どう? 続けられそう?」
 綾香の問いかけに、頭の中のあゆの姿は再び霧の中に消えた。
「ああ。もう少し頑張ってみるよ」
 言いながら祐一は大きく伸びをした。最近ちっとも運動していないから、下手したら明日は筋肉痛になっているかもしれない。
 そんな祐一の心の中を読み取ったように、綾香はいたずらっぽく微笑んだ。
「それじゃあ、これからもよろしくね、相沢君」



 雪国の短い夏の始まり。
 新しいバイトを始めてから1ヶ月が経とうとしていた。
 半月の研修期間を無事乗り切り、めでたく祐一は正式採用となった。
 業務は依然激務だったが、時給が前のバイトより圧倒的によかったので、前ほどバイトに費やす時間は多くはなくなった。例え店が忙しいときでも、店長は仕事よりも学業を優先させてくれるひとだったので、レポートも講義の出席もようやく自分でこなせるようになってきた。
 それと同時に、綾香とはこのところますます仲良くなっていった。
 大学の講義→アルバイトと一日の大半を一緒に過ごすから仲良くなるのも当然だ。アルバイトの後も、家の方向が同じだからふたりで一緒に帰ることが多かった。
 綾香は魅力的な女性だった。
 性格は明るく、祐一との会話もよく馬が合った。頭もいいし、手際もいい。おまけにいまは恋人もいないらしい(でなければ毎日こんなバイトはできない)。
 祐一の中で彼女の存在がだんだん大きくなっていくが、日々感じ取れた。
 そんな綾香に惹かれていくのは当然なのだが、祐一にはどこか釈然としないものがあった。
 それは綾香の顔があゆとそっくりであることや、嫌でも感じてしまう罪の意識や、たまに浮かぶあゆの姿や、記憶に残る新聞の一面や、赤い血や、紅い夕日や。
 そんな色んなものが祐一の邪魔をする。
 もっと苦しめ。もっと苦しめと。
 しかし、そんな呪いの唄も、自分自身から出ているものなのだろ、祐一はなんとなく分かっていた。

 そんなある日。
 予定されていた祐一のグループのゼミが中止になり、講義中の人気のない校内でひとりブラブラと暇を持て余していると、遠くから手を振りながら駆け寄ってくる人影が見えた。
 誰かと思えば北川だった。
 北川は、学部こそ違うが、祐一と同じ大学に入学した。
 といっても、受ける講義が全然違うので、ここ最近はほとんど会っていない。入学した当初はちょくちょく一緒に昼を食べに行ったりしていたが、お互いそれぞれの学部で友人ができ始めると、そういう機会も減っていった。最後に会ったのはもう2ヶ月ぐらい前だ。
「よ」
「よ。なんだよ、久しぶりだな」
「相沢が歩いてるの見かけてな。講義抜け出してきたんだ」
「ダメ学生だな」
「お前はどうなんだよ。いま講義中だろ」
「一緒にするな。俺はゼミが中止になったんだ」
「昼メシは?」
「まだ」
「じゃあ学食でもいくか」
「おい。お前、講義は」
「出席はもう取ったから大丈夫」
 そう言いながら学食へと歩き出す北川。
 やっていることはどこの学部も同じらしい。

「で?」
 学食で250円の醤油ラーメンをすすりながら、祐一は北川を促した。
「で、って?」
 北川は箸を動かしながら間の抜けた声を出した。
「途中で講義抜け出してきてまで話したいことがあるんじゃないのか」
「お前ってたまにすごく鋭いな」
「香里ほどじゃないけどな」
「ああ、あいつは鋭かったな」
 北川はズルズルと麺をすすり、一息ついたところで箸を置いた。
「なんかさ、変わったよな、お前」
「は?」
「ふっきれたっていうか。明るくなった」
「そうか? 俺は前からこんなんだったと思うけど」
「んー。そうだな。転校してきたときはそんな感じだったかもしれない。俺が変わったって言ったのは高校卒業したときと比べてさ」
「………」
 何が「鋭い」だ。
 コイツのほうがよっぽど鋭い目を持っている。
「水瀬の家なんかには帰ってたりするのか?」
「いや……」
 大学に入ってからは一度も帰っていなかった。電話ですら引っ越した日に一回連絡を入れただけだ。
 もう帰らないつもりであの街を出た。よほどのことがない限り、戻るつもりはなかった。
「たまには連絡ぐらいしてやれよ。前はそんな余裕なかったのかもしれいけど、今ならそれぐらい大丈夫だろ」
「そういうのを余計なお世話って言うんだぞ。覚えておけ」
「お前のお節介焼きがうつったかな。とにかく、水瀬には一回電話してやれよ」
「名雪に?」
 祐一が面倒臭そうに聞き返すと、北川は真剣な顔のまま小さく頷いた。
「水瀬さ、卒業式のときにすげー泣いてただろ」
「………」
「あれさ、俺には相沢と会えなくなるから泣いてるようにしか見えなかった」
「………」
「たぶん待ってるぞ、相沢のこと」
「………」
「水瀬はきっとさ、」
「北川」
 全部を言わせる前に祐一は話を遮った。
「もういいって。言われなくたって分かってる」
 名雪の気持ちにはもうずっと前から気がついていた。それに答えられない自分がいることにも十分過ぎるぐらいに分かっていた。
 分かっていながら何もしなかった。絶望に明け暮れた祐一をそっと支えてくれていたのに、祐一はあえてそんな名雪に冷たく接していた時期もあった。
 お前に何が分かるんだよ。
 何も知らないくせに。
 俺のことはもうほっといてくれ。
 それどころではなかったというのはただの言い訳だ。
 逃げてばっかりだ。名雪からも。あゆからも。
 すっかり伸びきってしまったラーメンを再び食べ始める祐一。
 しばらくの間、ふたりの間に無言が流れたが、先に食べ終わった北川が席を立った。
「俺、先いくな。次ゼミなんだ」
「おお」
 誰かと一緒で世話好き親友にお礼の一言でも言おうかと思ったが、別のことが頭に浮かんだので、祐一はそれをそのまま口に出した。
「そういえば、香里は?」
「何で俺に聞くんだよ」
「お前ら付き合ってるだろ」
「……何で知ってるんだ」
「ふっふっふっ。俺の情報力を舐めたらあかんぜよ」
 北川は小さく溜め息を吐いた。
「まあ、ボチボチ」
「元気じゃないのか」
「実の妹が亡くなって平気なヤツなんていない」
「俺なんかに構ってないで、ちゃんとお前が支えてやれよ」
「うるせーな。言われなくてもそのつもりだ」
 はにかみながらそう言い切った北川がちょっとうらやましかった。

 今週末はバイトも休みだし、時間は取れる。ちゃんと名雪に連絡しないとな。何を話せばいいかなんて全然分からないけど、とりあえず謝っておきたかった。いまさらだけど、お礼も言っておきたかった。少しずつでも前に進まないといけないのだろう。名雪のためにも。祐一自身のためにも。
 実際には週末まで待つ必要などなかった。
 北川と会ったその次の日のバイトの帰り。
 祐一のアパートの前に名雪が立っていたのだから。
 間違えて日曜日に学校に登校してきてしまった小学生みたいに、祐一は阿呆のようにその場に立ち尽くした。
 名雪が帰宅してきた祐一の姿に気がつくと、小走りで駆け寄ってきた。
「えっと、突然ごめん」
「いや、ごめんっていうか……」
「久しぶり」
「いや、久しぶりっていうか……」
「遅かったね。アルバイト?」
 時間は10時を少し回ったところだった。
「お前、何時からそこで待ってたんだ」
「えっと、ちょっと前から」
「メシは」
「た、食べてきた」
 言ったそばから名雪のお腹がぐうと小さくなった。「ひゃっ」と悲鳴を上げて、名雪の顔は見る見るうちに赤くなっていく。
「………」
「………」
 変な沈黙がふたりの間に流れた。
「俺、メシまだなんだ。こんなところで立ち話もなんだし、近くにファミレスあるから、そこいくか」
「う、うん……」
 まだ顔を赤めたまま、名雪が小さく頷いた。
 アパートの前の砂利道を方向転換して、祐一が歩き出す。ちょっと遅れて名雪も無言のまま歩き出す。
 そこに別の足音が混じった。薄闇の中から小走りで近づいてくるその足音の主は、綾香だった。
「あ、いた。忘れ物だぞ、うりゃ!」
 綾香が丸めて投げたそれは、バイトで使っている祐一のエプロンだった。ああ、そうだ。今日持って帰るつもりでいたのに、休憩室に置きっぱなしにしてしまったのを思い出した。
 しかし綾香の投げたエプロンは祐一の横を通り過ぎ、名雪の顔面に直撃した。
「わっ」
 驚きの声を上げる名雪。
「げっ」
 青ざめる綾香。
 ヒラヒラと落ちるエプロン。それが地面に達する前に綾香はキョトンとする名雪のもとに駆け寄り、猛烈に頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ! 大丈夫でしたか」
「あ、全然大丈夫です。ちょっとビックリしただけだから」
 祐一は苦笑いしながら道に落ちたエプロンを拾った。
「心配するな。コイツはちょっとぐらいのことなら寝て済ませてくれるから」
「……祐一、ひどいこと言ってない?」
「事実だろ」
「うー。違うもん」
「そもそもこんなエプロンが当たったぐらいでケガなんてするわけないし」
 そう言って、律儀にまだ頭を下げている綾香へと目を向けた。
「でも……」
 そう顔を上げた綾香の顔を見て、名雪は再び驚きの声を上げた。
「あゆちゃんっ!?」
「え?」
 今度は綾香がキョトンとする番だった。
 あ。いけね。忘れてた。
「えーと、紹介するな」
 祐一は名雪が混乱で騒ぎ出す前にふたりの間に割って入り、まずは名雪に綾香のことを簡単に紹介した。
 大学で同じ学部であることと、同じバイト先で働いていること。色々と世話になっていること。最後に「あゆと似てるけど、違うひとだからな」とだけ説明しておいた。
「で、こっちは」
 そう言いながら今度は名雪の側に立つ。
 しかし祐一が名雪の紹介をする前に綾香はフライングで質問を投げかけた。
「相沢君の彼女ですか?」
 祐一はちょっとぎょっとしたが、名雪は笑いながら首を横に振り、静かに言った。
「はじめまして。従兄妹の水瀬名雪っていいます」
「へー。相沢君にこんなにきれいな従兄妹がいたなんて。でも全然似てないね」
「ほっとけ」
「さっきは本当にごめんなさい。よろしくね、名雪さん」
「はい。こちらこそ、祐一のことお願いします」
 何かを感じ取ったのか、綾香は静かに微笑んだ。
「なんだよ、お願いしますって」
「えへへ。なんだろうね」
「なんだ、それ」
 祐一と名雪のやりとりをしばらく見ていた綾香は、やげて「それじゃあ、私はこれで」と足を一歩後に下げた。
「なんだ、もう帰るのか」
「うん。もともとエプロン届けにきただけだし」
 ああ、と祐一は思い出したように言った。
「わざわざありがとな」
「いいよ、帰り道だもん。それじゃあね。名雪さんも、バイバイ」
「綾香さんも、おやすみなさい」
 綾香は手を振り、小走りで道の向こうに去って行った。
「いいひとだね」
「そっくりだろ」
「うん。びっくりした」
「性格は全然違うけどな」
「祐一にはもったいないよ」
「だから、どういう意味だって」
「言葉通りの意味だよ」
「香里の台詞をパクるな」
 名雪がふふふと笑う。
 祐一もそれに釣られて小さく笑った。
「さてと。ファミレスいくか」
「うん」
 名雪は笑顔のまま頷いた。


 大学の近くにあるファミリーレストランはこの時間でも結構人が多い。
 といっても、客のほとんどが祐一の大学の学生だ。
 学校のサークル帰りで騒いでいる者が多いが、参考書やノートを大量に広げて難しい顔をしている学生の姿も少なくない。
 祐一と名雪は店の奥の静かな席に座り、適当に注文を取った。
「遅くなるって秋子さんに連絡入れておけよ」
「祐一を待ってる間に電話しておいたよ。明日の朝帰るって。これ以上遅くなると電車ないしね」
「朝までどこにいるんだ?」
「あんまり考えてなかったけど、ここにいようかなって思ってる」
「何なら俺の部屋使ってもいいぞ。俺がここで朝まで過ごすから」
「いいよ。もともと急に押しかけた私が悪いんだし」
 そういえば、まだ名雪が祐一を訪ねて来た理由を聞いていなかった。
 祐一がそれを尋ねる前に、名雪のほうからその理由を話し始めた。
「本当はね、すごく大事なことを言いたくて来たんだよ」
「大事なこと?」
「うん。大事過ぎてきっと祐一が困っちゃうぐらい」
「………」
「でも、今日はもういいかな」
「……なんで」
「さっきね、すごく楽しかった」
「さっきって?」
「祐一と綾香さんと、3人で話してたとき。まるで1年半前みたいだった。私、祐一とくだらないお喋りしているときがすごく好きだったんだね。だから今日はこれで十分だよ」
 そんな名雪の言葉に胸がチクリと痛んだ。
 くだらないお喋りをすることもできなかった1年半。
 先日、北川と交わした会話が甦る。
 余裕がなかったなんてのはやっぱりただの言い訳だ。
「ごめん」
 突然の祐一の謝罪に名雪はちょっと驚いた。
「変なの。なんで祐一が謝るの」
 祐一は苦笑した。
「さあ。なんでだろーな」
 テーブルには注文した品が運ばれてきた。
 ハンバーグ&唐揚げのライスセット。海老ときのこのトマトスパゲティ。シーフードサラダ山盛り。
「食べよっか。私もうお腹ペコペコ」
「ああ、俺も腹減った」
 それから祐一たちはお互いの近況について話し合った。
 大学の講義やサークル、アルバイトのこと。名雪の陸上部のこと。祐一の一人暮らしのこと。秋子さんや、北川と香里のことも。
 それは取り留めのないことばかりだったが、二人はお互いの空白の時間を埋めるかのように話しまくった。
 まるで高校の通学途中のように会話ははずみ、商店街をふたりでブラブラ歩いたときのように笑顔があふれた。
 なんかちょっと、勘違いしていたのかもしれない。
 あの街にあるのは絶望や悲しみだけじゃない。こんなに楽しい思いでもたくさんあったはずなのに。
 時を忘れて、というのはこういうときに使う言葉なのだろう。
 気がつけば店の窓から見える空には白みがかかっていた。もうすぐ始発が走り出す時間だ。
「もう朝だな」
「わっ。本当だ」
「お前、よく眠らずにいられたな」
「さすがにちょっと眠くなってきたかも……」
「今日何か予定あるのか?」
「ううん。祐一は?」
「俺はバイトあるけど、夕方からだから大丈夫。何なら、しばらく俺の部屋で休んでいってもいいぞ」
「大丈夫。そこまで迷惑かけられないよ。でも今日はありがとう。話ができて本当によかった」
「お礼を言うべきなのは本当は俺の方なんだけどな」
 祐一は照れくさそうに「ありがとう」と名雪にお礼を言った。
 結局、始発の時間に合わせて店を出た。
 祐一は名雪を駅まで送り、改札口の前で別れた。
「また来てもいいかな」
 最後に名雪が遠慮がちに聞いた。
「ああ。いつでも来ていいぞ。でも来るときには一言連絡入れろよ。予定空けとくからさ」
 名雪は笑顔で頷いた。
「最後にもうひとつだけいい?」
「ん?」
「祐一、綾香さんのこと好きでしょ」
 祐一はぎょっとした。
「さ、さあ」
「顔赤いよ」
「……お前っ、これだけは言っておくけどな、」
「分かってるよ」
 何をだ。
 尋ねる前に、名雪は改札機を通り過ぎた。始発が出る時間が迫っていた。
「またね、祐一」
 改札の向こうで名雪が大きく手を振る。
 祐一はぎこちなく右手を上げた。
 やれやれと思う。だけど祐一の顔も最後まで笑顔のままだった。
「またな、名雪」



 名雪の突然の訪問から1週間が経った。
 その日は朝から曇り空だった。
 暗く、厚い雲が漂う空を見ると、それだけで気分が滅入りそうだ。
 青い空を、暖かい太陽を、輝く月を、儚い星空を覆い隠す。
 バイトが終わる時間になり、外に出てみても、空は黒い雲に覆われたままだった。天気予報では夜中から雨が降ると言っていたが、見た感じ今すぐにでも降ってきそうだ。遠くからはゴロゴロと微かに雷の鳴る音も聞こえてきた。
 車で来ている先輩は「家まで送っていこうか」と言ってくれたが、先輩の帰る道とは逆方向になってしまうので、丁重に断った。まだ雨が降っているわけでもないし、急いで帰れば家まではなんとか保つだろう。
 しばらくして、着替えを済ませた綾香が従業員玄関から出てきた。
「悪いね、待たせちゃって」
「いつものことだろ。でも今日は急いで帰ったほうがよさそうだな」
「うわっ。降ってきそうだね」
「帰るか」
「ん」
 いつもの道をいつもより早足で帰った。
 急いでいたからか、二人に口数は少なかった。
 その分、普段は考えないようないろんなことを考えながら歩いた。
 祐一の後ろからピッタリくっついてくる綾香。
 なんかこんなことが前にもあったような気がする。随分昔。あれはいつだっただろうか。
 もう少しで思い出せそうなところで、鼻の上にポツリと水滴が落ちてきた。
「げっ」と声を上げて、祐一の思考は中断された。
「降ってきたな」
「でもまだ小雨だし。これぐらいなら大丈夫だよ」
 なんて言っている間に雨脚は急激に酷くなっていく。
 だけど祐一のアパートはもうすぐそこだ。
 二人は走り出し、アパートの屋根になっているところに駆け込んだ。
 見る見るうちに雨脚が激しくなっていった。バケツをひっくり返したような大雨となり、地面に激しく打ち付ける雨音に混じって雷の鳴る音も遠慮なく響き渡る。屋根の雨どいからは水が滝のように流れた。
「すごい雨になってきたね」
「服濡れた?」
「ちょっと。でもすぐ乾く程度だよ。相沢君は?」
「俺も大丈夫。でも、お前しばらく帰れそうにないぞ」
 ビニール傘ぐらいなら祐一の部屋にあったが、この雨では役に立ちそうにない。
 綾香が土砂降りの天を仰ぐ。「……そうだね」と呟いた。
「部屋入る?」
 綾香はちょっと意外そうな顔をした。
「いいの?」
「綾香がいいなら」
「………」
 しばらく間があった後、綾香は小さく頷いた。

 祐一は部屋の鍵を回し、扉を開けた。
「散らかってるけど」
「いきなりごめんね。それじゃあ、おじゃましまーす」
 遠慮しながら綾香が玄関に上がる。
 そういえば綾香を部屋に上げたのは初めてだ。出会ってもう何ヶ月も経っているのにな。
 とりあえず奥の部屋まで綾香を通し、適当に座らせた。
「何か飲む?」
「何がある?」
「ビール」
「お酒は飲めません」
「あとはお茶か水ぐらいかな。水はミネラルウォーターじゃなくて水道水な」
「お茶でお願いします」
「了解」
 綾香を居間に残して、祐一は台所に戻る。冷蔵庫からペットボトルのお茶を出そうと思って、やっぱりやめた。雨で濡れたんだし、温かいほうがいいだろう。
 部屋に向かって「ちょっと待ってろよ」と声をかけ、祐一はお湯を沸かし始めた。

 沸きたてのお茶を入れたコップをふたつ持って部屋に戻ると、綾香は祐一のベッドの上でスースーと小さな寝息を立てていた。
 なんて無防備なと思ったが、今日の仕事はいつもに増して忙しかった。昨日はレポートを書いていたせいで、あまり寝ていないと昼間に漏らしてもいた。きっと疲れが出たのだろう。
 祐一はコップをテーブルに置き、綾香の眠るベッドにそっと腰かけた。
 名雪の言う通り、祐一はたぶんきっと綾香のことが好きだ。
 それはあゆと顔が似ているとかそういうのではもちろんなくて、綾香の明るい人柄に惹かれたのだと思う。きっとそうなのだと思う。
 祐一はベッドの上に舞う綾香の頭をそっと撫でた。初めて会ったときよりもいくらか伸びた、きれいな髪。細く、やわらかい亜麻色の髪。さっきまで雨に打たれていたとは思えない。なんで男と女とではこんなに違うんだろう。
「……くすぐったい」
 不意に綾香が声を出した。
 頬を布団に沈めたまま、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「寝てたんじゃなかったのかよ」
「寝たふり」
「お前も相当タチ悪いな」
「眠ってる女の子の髪を触るひとに言われたくありません」
「嫌だった?」
「え?」
「髪触られるの、嫌い?」
「……そんなに。……相沢君ならいっかな」
 それだけ言って、綾香は再び瞼を下ろした。
 祐一はそんな綾香を優しく引き寄せた。
 静かに口づけを交わした。
 一度顔を離すと、綾香の瞳はちょっと潤んでいた。
 二人でベッドの上に倒れこむ。
 祐一は綾香の体を抱きしめた。
 力んでいた綾香の体が徐々にほぐれていくのが分かった。
 やわらかい、きゃしゃな体だった。
 頬に触れた綾香の髪がくすぐったい。
 香水の薄い香りがした。
 優しいにおいだ。
 そのままもう一度キスをした。
 今度の綾香はちょっと笑っていた。
「なんだよ」
 そう冗談っぽく祐一も笑いかけるつもりでいた。
「祐一君」
 そう自分を呼ぶ綾香を見て、あゆの顔が浮かんだ。
 あゆの姿が目の前の綾香の姿と重なる。
 一度だけあゆと肌を重ねたあの夜が今日の夜と重なる。
 深い森の中、祐一の後にくっついてくるあゆがさっきの綾香と重なる。
 血の赤が綾香の亜麻色の髪と重なる。
 とっさに祐一は自分と綾香の体を引き離した。
 今度こそ本当に驚いた綾香の顔が祐一の1メートルもしない先にある。驚きと悲しみと困惑が複雑に入り混じった顔。
 そんな顔をいつまでも見ていられるはずがなく、祐一はとっさに視線を逸らした。
 息がつまる。
 胸が苦しい。
 酸欠になったみたいに祐一は小刻みに息切れした。
「どうしたの」
「……ごめん」
 どうにかこう口の中から言葉を絞り出した。
 一言一言、祐一はたどたどしく話し始めた。
 北川にも名雪にもきちんと話したことのない、綾香に似た女の子の、悲しい思い出。
 なんでこんなことを話しているんだろう。
 ほんの少し前に好きだと思った女の子に、なんだって俺はこんなカッコ悪いことを話しているんだ。
 だけど止まらない。8年前と1年前にあったことを、感じたことを、ありのままに吐き出した。話している途中で無償に自分が惨めになり、なんか泣けてきた。
 結局はあれだ。
 なんだかんだ言いながら、俺は綾香をあゆに重ねて見ていたんだ。
 そんなふうな結論に至ったのは、祐一が月宮あゆについての思い出を一通り話した後だった。
 綾香を見ながら、いつもその影にいるあゆを追っていた。
 綾香を通してあゆを見ていた。
 偽りだ。全部、作り物だ。
 綾香への思いも、取り戻したと思っていた明るさも。
 相変わらず最低なことをやっている。
 半年前から何も変わっちゃいない。俺はあの街から、ふたりの学校から一歩も前に進んじゃいなかった。
 時間はとっくに深夜を回っていた。
 外の雨はいつの間にか止んでいた。雷鳴もいまは随分と遠くから聞こえる。テーブルの上に置かれたお茶はとっくに冷たくなっていた。
 しばらくの間、沈黙があった。
 やがて綾香がゆっくりと立ち上がった。
「帰るね」
「……ああ」
 もちろんそれを引き止めるつもりはなかった。
「雨宿りさせてくれて、ありがと」
 玄関に向かう綾香の姿は見ずに、祐一は「ああ」と力なく返事をした。
「今日、バイトは?」
「行く。でも……、また別の仕事探す」
 綾香はもうこの部屋に来ることはないだろう。
 祐一もまたあの店を訪ねることは二度とないだろう。
 もしかしたらもう話すこともなくなるかもしれない。学校が一緒だろうと、顔を合わさないでいるのはそれほど難しいことじゃない。
 きっとこの部屋の扉が開き、閉ざされたときにはブッツリとふたりを結ぶ紐は切れてしまう。そしてもう二度と、交じり合うことはない。1年前のあゆと同じように。そんな気がした。
 再び沈黙が訪れた。
 時計の秒針が時を刻む音だけがやけに大きく耳に響いた。
 祐一は紐が切れるのを静かに待った。
 ところが、待てども待てども扉が開く音が聞こえてこなかった。
 不審に思って祐一が顔を上げると、綾香はまだ部屋の入り口の前で立っていた。
 腕を組み、何やら難しい顔をして考え込んでいる。
「……何してんだよ」
「それは困る」
「あ?」
「今バイトを辞められるのは、非常に困る」
「ああ?」
「あのお店が人手足りないの知ってるでしょ。せっかく育ってきた優良な新人を失うのは店にとってこの上もない痛手だわ」
 祐一はあっけにとられた。
「あのな、そういう問題じゃ……」
「それに、いまの話聞いてもそんなに嫌いにならなかったっていうか」
 綾香は組んだ腕を解いて、続けた。
「ううん。やっぱりちょっと嫌いになったかな。でもそれ以上に、やっぱり好きみたい」
 今度こそ本当にあっけにとられて、祐一は言葉を失った。
「恨んでいると思う?」
「え?」
「月宮……、あゆさんはあなたのことを恨んでいると思う?」
 あたりまえだ―――。そう言おうとして口を開いたが、なぜか言葉が出てこなかった。
 そんな祐一の反応に綾香は満足したように頷いた。
「そんなわけないよね」
 綾香は照れ隠しのように微笑み、「逃げんなよ」と言った。
「それじゃあ、またね、祐一君」
 玄関の扉が開き、バタンと閉まる。
 紐の切れる音はどこからも聞こえてこなかった。
 部屋に再び静寂が訪れる。
 しかし、祐一の心に残ったのは過去の亡霊ではなく、生身の女の子の明るい声だった。

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